燕王(えんおう)の兵を起したる建文元年七月より、恵帝(けいてい)の国を遜(ゆず)りたる建文四年六月までは、烽烟(ほうえん)剣光(けんこう)の史(し)にして、今一々之(これ)を記するに懶(ものう)し。其(その)詳(しょう)を知らんとするものは、明史(みんし)及び明朝紀事本末(みんちょうきじほんまつ)等(ら)に就きて考うべし。今たゞ其概略(がいりゃく)と燕王恵帝の性格風(ふうぼう)を知る可(べ)きものとを記せん。燕王もと智勇天縦(ちゆうてんしょう)、且(かつ)夙(つと)に征戦に習う。洪武(こうぶ)二十三年、太祖(たいそ)の命を奉じ、諸王と共に元族(げんぞく)を漠北(ばくほく)に征す。秦王(しんおう)晋王(しんおう)は怯(きょ)にして敢(あえ)て進まず、王将軍傅友徳(ふゆうとく)等を率いて北出し、都山(いとさん)に至り、其将乃児不花(ナルプファ)を擒(とりこ)にして還(かえ)る。太祖大(おおい)[#「大(おおい)」は底本では「大(おおい)い」]に喜び、此(これ)より後屡(しばしば)諸将を帥(ひき)いて出征せしむるに、毎次功ありて、威名大(おおい)に振(ふる)う。王既に兵を知り戦(たたかい)に慣(な)る。加うるに道衍(どうえん)ありて、機密に参し、張玉(ちょうぎょく)、朱能(しゅのう)、丘福(きゅうふく)ありて爪牙(そうが)と為(な)る。丘福は謀画(ぼうかく)の才張玉に及ばずと雖(いえど)も、樸直(ぼくちょく)猛勇、深く敵陣に入りて敢戦死闘し、戦(たたかい)終って功を献ずるや必ず人に後(おく)る。古(いにしえ)の大樹(たいじゅ)将軍の風あり。燕王をして、丘将軍の功は我之(これ)を知る、と歎美(たんび)せしむるに至る。故に王の功臣を賞するに及びて、福其(その)首(しゅ)たり、淇国公(きこくこう)に封(ほう)ぜらる。其(その)他(た)将士の鷙悍※雄(しかんごうゆう)[#「敖/馬」、UCS-9A41、297-4]の者も、亦(また)甚(はなは)だ少(すくな)からず。燕王の大事を挙ぐるも、蓋(けだ)し胸算(きょうさん)あるなり。燕王の張(ちょうへい)謝貴(しゃき)を斬(き)って反を敢(あえ)てするや、郭資(かくし)を留(とど)めて北平(ほくへい)を守らしめ、直(ただち)に師を出(いだ)して通州(つうしゅう)を取り、先(ま)ず薊州(けいしゅう)を定めずんば、後顧の患(うれい)あらんと云(い)える張玉の言を用い、玉をして之を略せしめ、次(つい)で夜襲して遵化(じゅんか)を降(くだ)す。此(これ)皆開平(かいへい)の東北の地なり。時に余(よてん)居庸関(きょようかん)を守る。王曰く、居庸は険隘(けんあい)にして、北平の咽喉(いんこう)也、敵此(ここ)に拠(よ)るは、是(こ)れ我が背(はい)を拊(う)つなり、急に取らざる可からずと。乃(すなわ)ち徐安(じょあん)、鐘祥(しょうしょう)等(ら)をして(てん)を撃(う)って、懐来(かいらい)に走らしむ。宗忠(そうちゅう)懐来(かいらい)に在(あ)り 兵三万と号す。諸将之を撃つを難(かた)んず。王曰く、彼衆(おお)く、我寡(すくな)し、然(しか)れども彼新(あらた)に集まる、其心未(いま)だ一ならず、之を撃たば必(かな)らず破れんと。精兵八千を率い、甲(こう)を捲(ま)き道を倍して進み、遂(つい)に戦って克(か)ち、忠ととを獲(え)て之を斬る。こゝに於(おい)て諸州燕に降(くだ)る者多く、永平(えいへい)、欒州(らんしゅう)また燕に帰す。大寧(たいねい)の都指揮(としき)卜万(ぼくばん)、松亭関(しょうていかん)を出(い)で、沙河(さが)に駐(とど)まり、遵化を攻めんとす。兵十万と号し、勢(いきおい)やゝ振う。燕王反間(はんかん)を放ち、万の部将陳亨(ちんこう)、劉貞(りゅうてい)をして万を縛し獄に下さしむ。 帝黄子澄の言を用い、長興侯(ちょうこうこう)耿炳文(こうへいぶん)を大将軍とし、李堅(りけん)、寧忠(ねいちゅう)を副(そ)えて北伐せしめ、又安陸侯(あんりくこう)呉傑(ごけつ)、江陰侯(こういんこう)呉高(ごこう)、都督(ととく)都指揮(としき)盛庸(せいよう)、潘忠(はんちゅう)、楊松(ようしょう)、顧成(こせい)、徐凱(じょがい)、李文(りぶん)、陳暉(ちんき)、平安(へいあん)等(ら)に命じ、諸道並び進みて、直(ただち)に北平を擣(つ)かしむ。時に帝諸将士を誡(いまし)めたまわく、昔(むかし)蕭繹(しょうえき)、兵を挙げて京(けい)に入らんとす、而(しか)も其(その)下(しも)に令して曰く、一門の内(うち)自ら兵威を極むるは、不祥の極なりと。今爾(なんじ)将士、燕王と対塁するも、務めて此(この)意(い)を体して、朕(ちん)をして叔父(しゅくふ)を殺すの名あらしむるなかれと。(蕭繹(しょうえき)は梁(りょう)の孝元(こうげん)皇帝なり。今梁書(りょうしょ)を按(あん)ずるに、此事を載せず。蓋(けだ)し元帝兵を挙げて賊を誅(ちゅう)し京(けい)に入らんことを図る。時に河東(かとう)王誉(おうよ)、帝に従わず、却(かえ)って帝の子方(ほう)等(ら)を殺す。帝鮑泉(ほうせん)を遣(や)りて之を討たしめ、又王(おう)僧弁(そうべん)をして代って将たらしむ。帝は高祖武帝(ぶてい)の第七子にして、誉(よ)は武帝の長子にして文選(もんぜん)の撰者(せんじゃ)たる昭明太子(しょうめいたいし)統(とう)の第二子なり。一門の語、誉を征するの時に当りて発するか。)建文帝の仁柔(じんじゅう)の性、宋襄(そうじょう)に近きものありというべし。それ燕王は叔父たりと雖(いえど)も、既に爵を削られて庶人たり、庶人にして兇器(きょうき)を弄(ろう)し王師に抗す、其罪本(もと)より誅戮(ちゅうりく)に当る。然(しか)るに是(かく)の如(ごと)きの令を出征の将士に下す。これ適(たまたま)以(もっ)て軍旅の鋭(えい)を殺(そ)ぎ、貔貅(ひきゅう)の胆(たん)を小にするに過ぎざるのみ、智(ち)なりという可(べ)からず。燕王と戦うに及びて、官軍時に或(あるい)は勝つあるも、此(この)令あるを以(もっ)て、飛箭(ひせん)長槍(ちょうそう)、燕王を殪(たお)すに至らず。然りと雖も、小人の過(あやまち)や刻薄(こくはく)、長者の過(あやまち)や寛厚(かんこう)、帝の過を観(み)て帝の人となりを知るべし。 八月耿炳文(こうへいぶん)等(ら)兵三十万を率いて真定(しんてい)に至り、徐凱(じょがい)は兵十万を率いて河間(かかん)に駐(とど)まる。炳文は老将にして、太祖創業の功臣なり。かつて張士誠(ちょうしせい)に当りて、長興(ちょうこう)を守ること十年、大小数十戦、戦って勝たざる無く、終(つい)に士誠をして志を逞(たくま)しくする能(あた)わざらしめしを以て、太祖の功臣を榜列(ほうれつ)するや、炳文を以て大将軍徐達(じょたつ)に付(ふ)して一等となす。後又、北は塞(さい)を出でゝ元の遺族を破り、南は雲南(うんなん)を征して蛮を平らげ、或(あるい)は陝西(せんせい)に、或は蜀(しょく)に、旗幟(きし)の向う所、毎(つね)に功を成す。特(こと)に洪武(こうぶ)の末に至っては、元勲宿将多く凋落(ちょうらく)せるを以て、炳文は朝廷の重んずるところたり。今大兵を率いて北伐す、時に年六十五。樹(き)老いて材愈(いよいよ)堅く、将老いて軍益々(ますます)固し。然れども不幸にして先鋒(せんぽう)楊松、燕王の為(ため)に不意を襲われて雄県(ゆうけん)に死し、潘忠(はんちゅう)到(いた)り援(すく)わんとして月漾橋(げつようきょう)の伏兵に執(とら)えられ、部将張保(ちょうほ)敵に降りて其の利用するところとなり、遂に沱河(こだか)の北岸に於(おい)て、燕王及び張玉、朱能、譚淵(たんえん)、馬雲(ばうん)等(ら)の為に大(おおい)に敗れて、李堅(りけん)、※忠(ねいちゅう)[#「宀/必/冉」、UCS-5BD7、300-11]、顧成(こせい)、劉燧(りゅうすい)を失うに至れり。ただ炳文の陣に熟せる、大敗して而(しか)も潰(つい)えず、真定城(しんていじょう)に入りて門を闔(と)じて堅く守る。燕兵勝(かち)に乗じて城を囲む三日、下す能(あた)わず。燕王も炳文が老将にして破り易(やす)からざるを知り、囲(い)を解いて還(かえ)る。 炳文の一敗は猶(なお)復すべし、帝炳文の敗を聞いて怒りて用いず、黄子澄(こうしちょう)の言によりて、李景隆(りけいりゅう)を大将軍とし、斧鉞(ふえつ)を賜(たま)わって炳文に代らしめたもうに至って、大事ほとんど去りぬ。景隆は袴(がんこ)の子弟、趙括(ちょうかつ)の流(りゅう)なればなり。趙括を挙げて廉頗(れんぱ)に代う。建文帝の位を保つ能わざる、兵戦上には実に此(これ)に本づく。炳文の子(えい)[#「」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-7]」]は、帝の父懿文(いぶん)太子の長女江都公主(こうとこうしゅ)を妻とす、(えい)[#「」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-7]」]父の復(また)用いられざるを憤ること甚(はなはだ)しかりしという。又[#「」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-8]」]の弟※(けん)[#「王+獻」、UCS-74DB、301-7]、遼東(りょうとう)の鎮守(ちんじゅ)呉高(ごこう)、都指揮使(としきし)楊文(ようぶん)と与(とも)に兵を率いて永平(えいへい)を囲み、東より北平を動かさんとしたりという。二子の護国の意の誠なるも知るべし。それ勝敗は兵家の常なり。蘇東坡(そとうば)が所謂(いわゆる)善(よ)く奕(えき)する者も日に勝って日に敗(やぶ)るゝものなり。然るに一敗の故を以て、老将を退け、驕児(きょうじ)を挙ぐ。燕王手を拍(う)って笑って、李九江(りきゅうこう)は膏梁(こうりょう)の豎子(じゅし)のみ、未だ嘗(かつ)て兵に習い陣を見ず、輙(すなわ)ち予(あた)うるに五十万の衆を以てす、是(これ)自ら之(これ)を坑(あな)にする也(なり)、と云えるもの、酷語といえども当らずんばあらず。炳文を召して回(かえ)らしめたる、まことに歎(たん)ずべし。 景隆小字(しょうじ)は九江(きゅうこう)、勲業あるにあらずして、大将軍となれる者は何ぞや。黄子澄、斉泰の薦(すす)むるに因(よ)るも、又別に所以(ゆえ)有るなり。景隆は李文忠(りぶんちゅう)の子にして、文忠は太祖の姉の子にして且つ太祖の子となりしものなり。之に加うるに文忠は器量沈厚、学を好み経(けい)を治め、其(そ)の家居するや恂々(じゅんじゅん)として儒者の如く、而(しか)も甲を(ぬ)き馬に騎(の)り槊(ほこ)を横たえて陣に臨むや、(たくれい)風発、大敵に遇(あ)いて益(ますます)壮(さかん)に、年十九より軍に従いて数々(しばしば)偉功を立て、創業の元勲として太祖の愛重(あいちょう)[#「愛重」は底本では「受重」]するところとなれるのみならず、西安(せいあん)に水道を設けては人を利し、応天(おうてん)に田租を減じては民を恵(めぐ)み、誅戮(ちゅうりく)を少(すくな)くすることを勧め、宦官(かんがん)を盛(さか)[#ルビの「さか」は底本では「さかん」]んにすることを諫(いさ)め、洪武十五年、太祖日本懐良王(かねながおう)の書に激して之を討たんとせるを止(とど)め、(懐良王、明史(みんし)に良懐に作るは蓋(けだ)し誤(あやまり)也。懐良王は、後醍醐(ごだいご)帝の皇子、延元(えんげん)三年、征西大将軍に任じ、筑紫(つくし)を鎮撫(ちんぶ)す。菊池武光(きくちたけみつ)等(ら)之(これ)に従い、興国(こうこく)より正平(しょうへい)に及び、勢威大(おおい)に張る。明の太祖の辺海毎(つね)に和寇(わこう)に擾(みだ)さるゝを怒りて洪武十四年、日本を征せんとするを以(もっ)て威嚇(いかく)するや、王答うるに書を以てす。其(その)略に曰く、乾坤(けんこん)は浩蕩(こうとう)たり、一主の独権にあらず、宇宙は寛洪(かんこう)なり、諸邦を作(な)して以て分守す。蓋(けだ)し天下は天下の天下にして、一人の天下にあらざる也(なり)。吾(われ)聞く、天朝戦(たたかい)を興(おこ)すの策ありと、小邦亦(また)敵を禦(ふせ)ぐの図(と)あり。豈(あに)肯(あえ)て途(みち)に跪(ひざまず)いて之を奉ぜんや。之に順(したが)うも未(いま)だ其生(せい)を必せず、之に逆(さから)うも未だ其死を必せず、相(あい)逢(あ)う賀蘭山前(がらんさんぜん)、聊(いささか)以(もっ)て博戯(はくぎ)せん、吾何をか懼(おそ)れんやと。太祖書を得て慍(いか)ること甚だしく、真(しん)に兵を加えんとするの意を起したるなり。洪武十四年は我が南朝弘和(こうわ)元年に当る。時に王既に今川了俊(いまがわりょうしゅん)の為に圧迫せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を後村上帝(ごむらかみてい)[#「後村上帝」は底本では「御村上帝」]の皇子良成(ながなり)王に譲り、筑後(ちくご)矢部(やべ)に閑居し、読経礼仏を事として、兵政の務(つとめ)をば執りたまわず、年代齟齬(そご)[#「齟齬」は底本では「齬齟」]するに似たり。然れども王と明(みん)との交渉は夙(つと)に正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。此(この)事(こと)我が国に史料全く欠け、大日本史(だいにほんし)も亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の浮譚(ふだん)にあらず。)一個(いっか)優秀の風格、多く得(う)可(べ)からざるの人なり。洪武十七年、疾(やまい)を得て死するや、太祖親しく文を為(つく)りて祭(まつり)を致し、岐陽王(きようおう)に追封し、武靖(ぶせい)と諡(おくりな)し、太廟(たいびょう)に配享(はいきょう)したり。景隆は是(かく)の如き人の長子にして、其父の蓋世(がいせい)の武勲と、帝室の親眷(しんけん)との関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍を統(す)ぶるには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀(びもくそしゅう)、雍容都雅(ようようとが)、顧盻偉然(こべんいぜん)、卒爾(そつじ)に之を望めば大人物の如くなりしかば、屡(しばしば)出(い)でゝ軍を湖広(ここう)陝西(せんせい)河南(かなん)に練り、左軍都督府事(さぐんととくふじ)となりたるほかには、為(な)すところも無く、其(その)功としては周王(しゅうおう)を執(とら)えしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮(こひ)にして羊質(ようしつ)、所謂(いわゆる)治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を※(ふ)[#「足へん+諜のつくり」、UCS-8E40、305-1]み剣を揮(ふる)いて進み、創(きず)を裹(つつ)み歯を切(くいしば)って闘(たたか)うが如き経験は、未(いま)だ曾(かつ)て積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実に其(その)真を得たりしなり。 李景隆は大兵を率いて燕王を伐(う)たんと北上す。帝は猶(なお)北方憂うるに足らずとして意(こころ)を文治に専らにし、儒臣方孝孺(ほうこうじゅ)等(ら)と周官の法度(ほうど)を討論して日を送る、此(この)間(かん)に於て監察御史(かんさつぎょし)韓郁(かんいく)(韓郁或(あるい)は康郁(こういく)に作る)というもの時事を憂いて疏(そ)を上(たてまつ)りぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の豎儒(じゅじゅ)となし、諸王は太祖の遺体なり、孝康(こうこう)の手足(しゅそく)なりとなし、之(これ)を待つことの厚からずして、周王湘(しょう)王代(だい)王斉(せい)王をして不幸ならしめたるは、朝廷の為(ため)に計る者の過(あやまち)にして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりと為(な)し、諺(ことわざ)に曰(いわ)く、親者(しんしゃ)之を割(さ)けども断たず、疎者(そしゃ)之を続(つ)げども堅(かた)からずと、是(これ)殊(こと)に理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財を糜(び)し兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王を釈(ゆる)し、湘王を封(ほう)じ、周王を京師(けいし)に還(かえ)し、諸王世子(せいし)をして書を持し燕に勧め、干戈(かんか)を罷(や)め、親戚(しんせき)を敦(あつ)うしたまえ、然らずんば臣愚(ぐ)おもえらく十年を待たずして必ず噬臍(ぜいせい)の悔(くい)あらん、というに在(あ)り。其の論、彝倫(いりん)を敦(あつ)くし、動乱を鎮(しず)めんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時既(すで)に去り、勢(いきおい)既に成るの後に於て、此(この)言あるも、嗚呼(ああ)亦晩(おそ)かりしなり。帝遂(つい)に用いたまわず。 景隆の炳文(へいぶん)に代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五敗兆(はいちょう)を具せるを指摘し、我之(これ)を擒(とりこ)にせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、北平(ほくへい)を世子(せいし)に守らしめ、東に出でゝ、遼東(りょうとう)の江陰侯(こういんこう)呉高(ごこう)を永平より逐(お)い、転じて大寧(たいねい)に至りて之を抜き、寧(ねい)王を擁して関(かん)に入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師を帥(ひき)いて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の李譲(りじょう)、梁明(りょうめい)等(ら)、世子(せいし)を奉じて防守甚だ力(つと)むと雖(いえど)も、景隆が軍衆(おお)くして、将も亦(また)雄傑なきにあらず、都督(ととく)瞿能(くのう)の如き、張掖門(ちょうえきもん)に殺入して大(おおい)に威勇を奮い、城殆(ほとん)ど破る。而(しか)も景隆の器(き)の小なる、能の功を成すを喜ばず、大軍の至るを俟(ま)ちて倶(とも)に進めと令し、機に乗じて突至せず。是(ここ)に於て守る者便(べん)を得、連夜水を汲(く)みて城壁に灌(そそ)げば、天寒くして忽(たちま)ち氷結し、明日に至れば復(また)登ることを得ざるが如きことありき。燕王は予(あらかじ)め景隆を吾が堅城の下に致して之を殱(つく)さんことを期せしに、景隆既に(やごろ)に入り来(きた)りぬ、何ぞ箭(や)を放たざらんや。大寧より還(かえ)りて会州(かいしゅう)に至り、五軍を立てゝ、張玉を中軍に、朱能を左軍に、李彬(りひん)を右軍(ゆうぐん)に、徐忠(じょちゅう)を前軍に、降将房寛(ぼうかん)を後軍に将たらしめ、漸(ようや)く南下して京軍(けいぐん)と相対したり。十一月、京軍の先鋒(せんぽう)陳暉(ちんき)、河を渡りて東す。燕王兵を率いて至り、河水の渡り難きを見て黙祷(もくとう)して曰く、天若(も)し予を助けんには、河水氷結せよと。夜に至って氷果(はた)して合す。燕の師勇躍して進み、暉(き)の軍を敗る。景隆の兵動く。燕王左右軍を放って夾撃(きょうげき)し、遂に連(しき)りに其七営を破って景隆の営に逼(せま)る。張玉等(ら)も陣を列(つら)ねて進むや、城中も亦(また)兵を出して、内外交(こもごも)攻む。景隆支うる能(あた)わずして遁(のが)れ、諸軍も亦粮(かて)を棄(す)てゝ奔(はし)る。燕の諸将是(ここ)に於て頓首(とんしゅ)して王の神算及ぶ可(べ)からずと賀す。王曰(いわ)く、偶中(ぐうちゅう)のみ、諸君の言えるところは皆万全の策なりしなりと。前には断じて後には謙(けん)す。燕王が英雄の心を攬(と)るも巧(たくみ)なりというべし。 景隆が大軍功無くして、退いて徳州(とくしゅう)に屯す。黄子澄其(その)敗(はい)を奏せざるを以(もっ)て、十二月に至って却(かえ)って景隆に太子(たいし)太師(たいし)を加う。燕王は南軍をして苦寒に際して奔命に疲れしめんが為に、師を出して広昌(こうしょう)を攻めて之を降す。 前に疏(そ)を上(たてまつり)りて、諸藩を削るを諫(いさ)めたる高巍(こうぎ)は、言用いられず、事遂(つい)に発して天下動乱に至りたるを慨(なげ)き、書を上(たてまつり)りて、臣願わくは燕に使(つかい)して言うところあらんと請い、許されて燕に至り、書を燕王に上(たてまつり)りたり。其(その)略に曰く、太祖(たいそ)[#「太祖」は底本では「大祖」]升遐(しょうか)したまいて意(おも)わざりき大王と朝廷と隙(げき)あらんとは。臣おもえらく干戈(かんか)を動かすは和解に若(し)かずと。願わくは死を度外に置きて、親しく大王に見(まみ)えん。昔周公流言を聞きては、即(すなわ)ち位を避けて東に居(い)たまいき。若(も)し大王能(よ)く首計(しゅけい)の者を斬(き)りたまい、護衛の兵を解き、子孫を質(しち)にし、骨肉猜忌(さいき)の疑(うたがい)を釈(と)き、残賊離間の口を塞(ふさ)ぎたまわば、周公と隆(さか)んなることを比すべきにあらずや。然(しか)るを慮(おもんばかり)こゝに及ばせたまわで、甲兵を興し彊宇(きょうう)を襲いたもう。されば事に任ずる者、口に藉(し)くことを得て、殿下文臣を誅(ちゅう)することを仮りて実は漢の呉(ご)王の七国に倡(とな)えて晁錯(ちょうさく)を誅せんとしゝに効(なら)わんと欲したもうと申す。今大王北平に拠(よ)りて数群を取りたもうと雖(いえど)も、数月(すうげつ)以来にして、尚(なお)爾(さつじ)たる一隅の地を出(い)づる能わず、較(くら)ぶるに天下を以てすれば、十五にして未だ其(その)一(いつ)をも有したまわず。大王の将士も、亦疲れずといわんや。それ大王の統(す)べたもう将士も、大約三十万には過ぎざらん。大王と天子と、義は則(すなわ)ち君臣たり、親(しん)は則ち骨肉たるも、尚(なお)離れ間(へだ)たりたもう、三十万の異姓の士、など必ずしも終身困迫して殿下の為に死し申すべきや。巍(ぎ)が念(おもい)こゝに至るごとに大王の為に流涕(りゅうてい)せずんばあらざる也。願わくは大王臣が言(ことば)を信じ、上表(じょうひょう)謝罪し、甲を按(お)き兵を休めたまわば、朝廷も必ず寛宥(かんゆう)あり、天人共に悦(よろこ)びて、太祖在天の霊も亦(また)安んじたまわん。(もし)迷(まよい)を執りて回(かえ)らず、小勝を恃(たの)み、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、為(な)す可からざるの悖事(はいじ)を僥倖(ぎょうこう)するを敢(あえ)てしたまわば、臣大王の為に言(もう)すべきところを知らざる也(なり)。況(いわ)んや、大喪の期未だ終らざるに、無辜(むこ)の民驚きを受く。仁を求め国を護(まも)るの義と、逕庭(けいてい)あるも亦(また)甚(はなはだ)し。大王に朝廷を粛清するの誠意おわすとも、天下に嫡統を簒奪(さんだつ)するの批議無きにあらじ。もし幸(さいわい)にして大王敗れたまわずして功成りたまわば、後世の公論、大王を如何(いかん)の人と謂(い)い申すべきや。巍は白髪の書生、蜉蝣(ふゆう)の微命(びめい)、もとより死を畏(おそ)れず。洪武十七年、太祖高皇帝の御恩(ぎょおん)を蒙(こうむ)りて、臣が孝行を旌(あらわ)したもうを辱(かたじけな)くす。巍既(すで)に孝子たる、当(まさ)に忠臣たるべし。孝に死し忠に死するは巍の至願也。巍幸にして天下の為に死し、太祖在天の霊に見(まみ)ゆるを得ば、巍も亦以て愧(はじ)無かるべし。巍至誠至心、直語して諱(い)まず、尊厳を冒涜(ぼうとく)す、死を賜うも悔(くい)無し、願わくは大王今に於て再思したまえ。と憚(はばか)るところ無く白(もう)しける。されど燕王答えたまわねば、数次(しばしば)書を上(たてまつ)りけるが、皆効(かい)無かりけり。 巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王の此(これ)に対して如何(いかん)の感を為せるを。たゞ燕王既に兵を起し戦(たたかい)を開く、巍の言(ことば)善(よ)しと雖も、大河既に決す、一葦(いちい)の支え難きが如し。しかも巍の誠を尽し志を致す、其意と其言(げん)と、忠孝敦厚(とんこう)の人たるに負(そむ)かず。数百歳の後、猶(なお)読む者をして愴然(そうぜん)として感ずるあらしむ。魏と韓郁(かんいく)とは、建文の時に於て、人情の純、道理の正(まさ)に拠りて、言(げん)を為せる者也。
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