然(しか)りと雖(いえど)も、太祖の遺詔、考う可(べ)きも亦(また)多し。皇太孫允(いんぶん)、天下心を帰す、宜(よろ)しく大位に登るべし、と云(い)えるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、当(まさ)に大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、或(あるい)は皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年少(わか)く勇(ゆう)乏しき、自ら謙譲して諸王の中(うち)の材雄に略大なる者に位を遜(ゆず)らんことを欲する者ありしが如(ごと)きをも猜(すい)せしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。明(みん)の世を治むる、纔(わずか)に三十一年、元(げん)の裔(えい)猶(なお)未(いま)だ滅びず、中国に在るもの無しと雖(いえど)も、漠北(ばくほく)に、塞西(さいせい)に、辺南(へんなん)に、元の同種の広大の地域を有して踞(ばんきょ)するもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に興和(こうわ)に寇(あだ)するあり。国外の情(じょう)是(かく)の如し。而(しこう)して域内の事、また英主の世を御せんことを幸(さいわい)とせずんばあらず。仁明孝友は固(もと)より尚(たっと)ぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、或(あるい)は恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐(ほゆう)し、以(もっ)て吾(わ)が民を福(さいわい)せよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるを懼(おそ)るゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る耶(か)、非(ひ)耶(か)。諸王は国中に臨(なげ)きて京(けい)に至るを得る無かれ、と云えるは、何ぞや。諸王の其(その)封国(ほうこく)を空(むな)しゅうして奸※(かんごう)[#「敖/馬」、UCS-9A41、268-4]の乗ずるところとならんことを虞(おそ)るというも、諸王の臣、豈(あに)一時を托(たく)するに足る者無からんや。子の父の葬(そう)に趨(はし)るは、おのずから是(こ)れ情なり、是れ理なり、礼にあらず道にあらずと為(な)さんや。諸王をして葬に会せざらしむる詔(みことのり)は、果して是れ太祖の言に出(い)づるか。太祖にして此(この)詔を遺(のこ)すとせば、太祖ひそかに其(そ)の斥(しりぞ)けて聴かざりし葉居升(しょうきょしょう)の言の、諸王衆を擁して入朝し、甚(はなはだ)しければ則(すなわ)ち間(かん)に縁(よ)りて起(た)たんに、之(これ)を防ぐも及ぶ無き也(なり)、と云えるを思えるにあらざる無きを得んや。嗚呼(ああ)子にして父の葬に会するを得ず、父の意(い)なりと謂(い)うと雖も、子よりして論ずれば、父の子を待つも亦(また)疎(そ)にして薄きの憾(うらみ)無くんばあらざらんとす。詔或は時勢に中(あた)らん、而(しか)も実に人情に遠いかな。凡(およ)そ施為(しい)命令謀図言義を論ぜず、其の人情に遠きこと甚(はなはだ)しきものは、意は善なるも、理は正しきも、計(けい)は中(あた)るも、見(けん)は徹するも、必らず弊に坐(ざ)し凶を招くものなり。太祖の詔、可なることは則(すなわ)ち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年高(こう)皇后の崩ずるや、奏(しん)王晋(しん)王燕(えん)王等皆国に在り、然(しか)れども諸王喪(も)に奔(はし)りて京(けい)に至り、礼を卒(お)えて還れり。太祖の崩ぜると、其后(きさき)の崩ぜると、天下の情勢に関すること異なりと雖も、母の喪には奔りて従うを得て、父の葬には入りて会するを得ざらしむ。此(これ)も亦人を強いて人情に遠きを為(な)さしむるものなり。太祖の詔、まことに人情に遠し。豈(あに)弊を生じ凶を致す無からんや。果して事端(じたん)は先(ま)ずこゝに発したり。崩を聞いて諸王は京に入らんとし、燕王は将(まさ)に淮安(わいあん)に至らんとせるに当りて、斉泰(せいたい)は帝に言(もう)し、人をして(ちょく)を賚(もた)らして国に還(かえ)らしめぬ。燕王を首(はじめ)として諸王は皆悦(よろこ)ばず。これ尚書(しょうしょ)斉泰(せいたい)の疎間(そかん)するなりと謂(い)いぬ。建文帝は位に即(つ)きて劈頭(へきとう)第一に諸王をして悦ばざらしめぬ。諸王は帝の叔父(しゅくふ)なり、尊族なり、封土(ほうど)を有し、兵馬民財を有せる也。諸王にして悦ばざるときは、宗家の枝柯(しか)、皇室の藩屏(はんぺい)たるも何かあらん。嗚呼(ああ)、これ罪斉泰にあるか、建文帝にあるか、抑(そも)又遺詔にあるか、諸王にあるか、之(これ)を知らざる也。又飜(ひるがえ)って思うに、太祖の遺詔に、果して諸王の入臨を止(とど)むるの語ありしや否や。或(あるい)は疑う、太祖の人情に通じ、世故(せいこ)に熟せる、まさに是(かく)の如きの詔を遺(のこ)さゞるべし。若(も)し太祖に果して登遐(とうか)の日に際して諸王の葬に会するを欲せざらば、平生無事従容の日、又は諸王の京を退きて封に就(つ)くの時に於(おい)て、親しく諸王に意を諭すべきなり。然らば諸王も亦(また)発駕奔喪(はつがほんそう)の際に於て、半途にして擁遏(ようかつ)せらるゝの不快事に会う無く、各(おのおの)其(その)封に於て哭臨(こくりん)して、他を責むるが如きこと無かるべきのみ。太祖の智にして事此(ここ)に出(い)でず、詔を遺して諸王の情を屈するは解す可(べ)からず。人の情屈すれば則(すなわ)ち悦ばず、悦ばざれば則ち怨(うらみ)を懐(いだ)き他を責むるに至る。怨を懐き他を責むるに至れば、事無きを欲するも得べからず。太祖の人情に通ぜる何ぞ之(これ)を知るの明(めい)無からん。故に曰(いわ)く、太祖の遺詔に、諸王の入臨を止(とど)むる者は、太祖の為すところにあらず、疑うらくは斉泰黄子澄(こうしちょう)の輩の仮託するところならんと。斉泰の輩、もとより諸王の帝に利あらざらんことを恐る、詔を矯(た)むるの事も、世其例に乏しからず、是(かく)の如きの事、未だ必ずしも無きを保(ほ)せず。然れども是(こ)れ推測の言のみ。真(しん)耶(か)、偽(ぎ)耶(か)、太祖の失か、失にあらざるか、斉泰の為(い)か、為にあらざる耶(か)、将又(はたまた)斉泰、遺詔に托して諸王の入京会葬を遏(とど)めざる能(あた)わざるの勢の存せしか、非耶(か)。建文永楽の間(かん)、史に曲筆多し、今新(あらた)に史徴を得るあるにあらざれば、疑(うたがい)を存せんのみ、確(たしか)に知る能(あた)わざる也。 太祖の崩ぜるは閏(うるう)五月なり、諸王の入京(にゅうけい)を遏(とど)められて悦(よろこ)ばずして帰れるの後、六月に至って戸部侍郎(こぶじろう)卓敬(たくけい)というもの、密疏(みっそ)を上(たてまつ)る。卓敬字(あざな)は惟恭(いきょう)、書を読んで十行倶(とも)に下ると云(い)われし頴悟聡敏(えいごそうびん)の士、天文地理より律暦兵刑に至るまで究(きわ)めざること無く、後に成祖(せいそ)をして、国家士(し)を養うこと三十年、唯(ただ)一卓敬を得たりと歎(たん)ぜしめしほどの英才なり。直慷慨(こうちょくこうがい)にして、避くるところ無し。嘗(かつ)て制度未(いま)だ備わらずして諸王の服乗(ふくじょう)も太子に擬せるを見、太祖に直言して、嫡庶(ちゃくしょ)相(あい)乱(みだ)り、尊卑序無くんば、何を以(もっ)て天下に令せんや、と説き、太祖をして、爾(なんじ)の言(げん)是(ぜ)なり、と曰(い)わしめたり。其(そ)の人となり知る可(べ)きなり。敬の密疏は、宗藩(そうはん)を裁抑(さいよく)して、禍根を除かんとなり。されども、帝は敬の疏を受けたまいしのみにて、報じたまわず、事竟(つい)に寝(や)みぬ。敬の言、蓋(けだ)し故無くして発せず、必らず窃(ひそか)に聞くところありしなり。二十余年前の葉居升(しょうきょしょう)が言は、是(ここ)に於(おい)て其(その)中(あた)れるを示さんとし、七国の難は今将(まさ)に発せんとす。燕(えん)王、周(しゅう)王、斉(せい)王、湘(しょう)王、代(だい)王、岷(みん)王等、秘信相通じ、密使互(たがい)に動き、穏やかならぬ流言ありて、朝(ちょう)に聞えたり。諸王と帝との間、帝は其(そ)の未(いま)だ位に即(つ)かざりしより諸王を忌憚(きたん)し、諸王は其の未だ位に即かざるに当って儲君(ちょくん)を侮り、叔父(しゅくふ)の尊を挟(さしば)んで不遜(ふそん)の事多かりしなり。入京会葬を止(とど)むるの事、遺詔に出(い)づと云うと雖(いえど)も、諸王、責(せめ)を讒臣(ざんしん)に托(たく)して、而(しこう)して其の奸悪(かんあく)を除(のぞ)かんと云い、香(こう)を孝陵(こうりょう)に進めて、而して吾が誠実を致さんと云うに至っては、蓋(けだ)し辞柄(じへい)無きにあらず。諸王は合同の勢あり、帝は孤立の状あり。嗚呼(ああ)、諸王も疑い、帝も疑う、相疑うや何ぞ離(かいり)せざらん。帝も戒め、諸王も戒む、相戒むるや何ぞ疎隔(そかく)せざらん。疎隔し、離す、而して帝の為(ため)に密(ひそか)に図るものあり、諸王の為に私(ひそか)に謀るものあり、況(いわ)んや藩王を以(もっ)て天子たらんとするものあり、王を以て皇となさんとするものあるに於(おい)てをや。事遂(つい)に決裂せずんば止(や)まざるものある也。 帝の為(ため)に密(ひそか)に図る者をば誰(たれ)となす。曰(いわ)く、黄子澄(こうしちょう)となし、斉泰(せいたい)となす。子澄は既に記しぬ。斉泰は水(りっすい)の人、洪武十七年より漸(ようや)く世に出(い)づ。建文帝位(くらい)に即きたもうに及び、子澄と与(とも)に帝の信頼するところとなりて、国政に参す。諸王の入京会葬を遏(とど)めたる時の如き、諸王は皆謂(おも)えらく、泰皇考(たいこうこう)の詔を矯(た)めて骨肉を間(へだ)つと。泰の諸王の憎むところとなれる、知るべし。 諸王の為に私(ひそか)に謀る者を誰となす。曰く、諸王の雄(ゆう)を燕王となす。燕王の傅(ふ)に、僧道衍(どうえん)あり。道衍は僧たりと雖(いえど)[#ルビの「いえど」は底本では「いえども」]も、灰心滅智(かいしんめっち)の羅漢(らかん)にあらずして、却(かえ)って是(こ)れ好謀善算の人なり。洪武二十八年、初めて諸王の封国に就(つ)く時、道衍躬(み)ずから薦(すす)めて燕王の傅(ふ)とならんとし、謂(い)って曰く、大王(だいおう)臣をして侍するを得せしめたまわば、一白帽(いちはくぼう)を奉りて大王がために戴(いただ)かしめんと。王上(おうじょう)に白(はく)を冠すれば、其(その)文(ぶん)は皇なり、儲位(ちょい)明らかに定まりて、太祖未だ崩ぜざるの時だに、是(かく)の如(ごと)きの怪僧ありて、燕王が為に白帽を奉らんとし、而(しこう)して燕王是(かく)の如きの怪僧を延(ひ)いて帷※(いばく)[#「巾+莫」、UCS-5E59、274-11]の中に居(お)く。燕王の心胸もとより清からず、道衍の瓜甲(そうこう)も毒ありというべし。道衍燕邸(えんてい)に至るに及んで袁(えんこう)を王に薦む。袁は字(あざな)は廷玉(ていぎょく)、(きん)の人にして、此(これ)亦(また)一種の異人なり。嘗(かつ)て海外に遊んで、人を相(そう)するの術を別古崖(べつこがい)というものに受く。仰いで皎日(こうじつ)を視(み)て、目尽(ことごと)く眩(げん)して後、赤豆(せきとう)黒豆(こくとう)を暗室中に布(し)いて之を弁(べん)じ、又五色の縷(いと)を窓外に懸け、月に映じて其(その)色を別って訛(あやま)つこと無く、然(しか)して後に人を相す。其法は夜中を以て両炬(りょうきょ)を燃(もや)し、人の形状気色(きしょく)を視(み)て、参するに生年月日(げつじつ)を以てするに、百に一謬(びょう)無く、元末より既に名を天下に馳(は)せたり。其の道衍(どうえん)と識(し)るに及びたるは、道衍が嵩山寺(すうざんじ)に在りし時にあり。袁(えんこう)道衍が相をつく/″\と観(み)て、是(こ)れ何ぞ異僧なるや、目は三角あり、形は病虎(びょうこ)の如し。性必(かな)らず殺を嗜(たしな)まん。劉秉忠(りゅうへいちゅう)の流(りゅう)なりと。劉秉忠は学(がく)内外を兼ね、識(しき)三才を綜(す)ぶ、釈氏(しゃくし)より起(おこ)って元主を助け、九州を混一(こんいつ)し、四海を併合す。元の天下を得る、もとより其の兵力に頼(よ)ると雖も、成功の速疾なるもの、劉の揮※(きかく)[#「てへん+霍」、UCS-6509、275-10]の宜(よろ)しきを得るに因(よ)るもの亦(また)鮮(すくな)からず。秉忠は実に奇偉卓犖(きいたくらく)の僧なり。道衍秉忠の流なりとなさる、まさに是れ癢処(ようしょ)に爬着(はちゃく)するもの。是れより二人、友とし善(よ)し。道衍の(こう)を燕王に薦むるに当りてや、燕王先(ま)ず使者をして(こう)と与(とも)に酒肆(しゅし)に飲ましめ、王みずから衛士の儀表堂々たるもの九人に雑(まじ)わり、おのれ亦(また)衛士の服を服し、弓矢(きゅうし)を執(と)りて肆中(しちゅう)に飲む。一見して即(すなわ)ち趨(はし)って燕王の前に拝して曰(いわ)く、殿下何ぞ身を軽んじて此(ここ)に至りたまえると。燕王等笑って曰く、吾輩(わがはい)皆護衛の士なりと。頭(こうべ)を掉(ふ)って是(ぜ)とせず。こゝに於て王起(た)って入り、を宮中に延(ひ)きて詳(つばら)に相(そう)せしむ。諦視(ていし)すること良(やや)久しゅうして曰(いわ)く、殿下は龍行虎歩(りゅうこうこほ)したまい、日角(にっかく)天を挿(さしはさ)む、まことに異日太平の天子にておわします。御年(おんとし)四十にして、御鬚(おんひげ)臍(へそ)を過(す)ぎさせたもうに及ばせたまわば、大宝位(たいほうい)に登らせたまわんこと疑(うたがい)あるべからず、と白(もう)す。又燕府(えんふ)の将校官属を相せしめたもうに、一々指点して曰く、某(ぼう)は公(こう)たるべし、某は侯(こう)たるべし、某は将軍たるべし、某は貴官たるべしと。燕王語(ことば)の洩(も)れんことを慮(はか)り、陽(うわべ)に斥(しりぞ)けて通州(つうしゅう)に至らしめ、舟路(しゅうろ)密(ひそか)に召して邸(てい)に入る。道衍は北平(ほくへい)の慶寿寺(けいじゅじ)に在り、は燕府(えんふ)に在り、燕王と三人、時々人を屏(しりぞ)けて語る。知らず其の語るところのもの何ぞや。は柳荘居士(りゅうそうこじ)と号す。時に年蓋(けだ)し七十に近し。抑(そも)亦(また)何の欲するところあって燕王に勧めて反せしめしや。其子忠徹(ちゅうてつ)の伝うるところの柳荘相法、今に至って猶(なお)存し、風鑑(ふうかん)の津梁(しんりょう)たり。と永楽帝と答問するところの永楽百問の中(うち)、帝鬚(ていしゅ)の事を記す。相法三巻、信ぜざるものは、目して陋書(ろうしょ)となすと雖も、尽(ことごと)く斥(しりぞ)く可(べ)からざるものあるに似たり。忠徹も家学を伝えて、当時に信ぜらる。其の著(あら)わすところ、今古識鑑(ここんしきかん)八巻ありて、明志(みんし)採録す。予(よ)未だ寓目(ぐうもく)せずと雖も、蓋(けだ)し藻鑑(そうかん)の道を説く也。と忠徹と、偕(とも)に明史方伎伝(ほうぎでん)に見ゆ。の燕王に見(まみ)ゆるや、鬚(ひげ)長じて臍(へそ)を過(す)ぎなば宝位に登らんという。燕王笑って曰く、吾(わ)が年将(まさ)に四旬ならんとす、鬚豈(あに)能(よ)く復(また)長ぜんやと。道衍こゝに於て金忠(きんちゅう)というものを薦(すす)む。金忠も亦(きん)の人なり、少(わか)くして書を読み易(えき)に通ず。卒伍(そつご)に編せらるゝに及び、卜(ぼく)を北平(ほくへい)に売る。卜多く奇中して、市人伝えて以て神(しん)となす。燕王忠をして卜せしむ。忠卜して卦(け)を得て、貴きこと言う可からずという。燕王の意漸(ようや)くにして固(かた)し。忠後(のち)に仕えて兵部尚書(ひょうぶしょうしょ)を以て太子(たいし)監国(かんこく)に補せらるゝに至る。明史巻百五十に伝あり。蓋し亦一異人なり。 帝の側(かたえ)には黄子澄(こうしちょう)斉泰(せいたい)あり、諸藩を削奪(さくだつ)するの意、いかでこれ無くして已(や)まん。燕王(えんおう)の傍(かたえ)には僧道衍(どうえん)袁(えんこう)あり、秘謀を醸(うんじょう)するの事、いかでこれ無くして已まん。二者の間、既に是(かく)の如(ごと)し、風声鶴唳(ふうせいかくれい)、人相(あい)驚かんと欲し、剣光火影(かえい)、世漸(ようや)く将(まさ)に乱れんとす。諸王不穏の流言、朝(ちょう)に聞ゆること頻(しきり)なれば、一日帝は子澄を召したまいて、先生、疇昔(ちゅうせき)の東角門(とうかくもん)の言を憶(おぼ)えたもうや、と仰(おお)す。子澄直ちに対(こた)えて、敢(あえ)て忘れもうさずと白(もう)す。東角門の言は、即(すなわ)ち子澄七国(しちこく)の故事を論ぜるの語なり。子澄退いて斉泰(せいたい)と議す。泰曰(いわ)く、燕(えん)は重兵(ちょうへい)を握り、且(かつ)素(もと)より大志あり、当(まさ)に先(ま)ず之(これ)を削るべしと。子澄が曰く、然(しか)らず、燕は予(あらかじ)め備うること久しければ、卒(にわか)に図り難し。宜(よろ)しく先ず周(しゅう)を取り、燕の手足(しゅそく)を剪(き)り、而(しこう)して後燕図るべしと。乃(すなわ)ち曹国公(そうこくこう)李景隆(りけいりゅう)に命じ、兵を調して猝(にわか)に河南に至り、周王※(しゅく)[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]及び其(そ)の世子(せいし)妃嬪(ひひん)を執(とら)え、爵を削りて庶人(しょじん)となし、之(これ)を雲南(うんなん)に遷(うつ)しぬ。※(ゆうどう)[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]は燕王の同母弟なるを以(もっ)て、帝もかねて之を疑い憚(はばか)り、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]も亦(また)異謀あり、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-4]の長史(ちょうし)王翰(おうかん)というもの、数々諫(いさ)めたれど納(い)れず、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-5]の次子(じし)汝南(じょなん)王有※[#「火+動」、279-5]の変を告ぐるに及び、此(この)事(こと)あり。実に洪武三十一年八月にして、太祖崩じて後、幾干月(いくばくげつ)を距(さ)らざる也。冬十一月、代王(だいおう)桂(けい)暴虐(ぼうぎゃく)民を苦(くるし)むるを以て、蜀(しょく)に入りて蜀王と共に居らしむ。 諸藩漸(ようや)く削奪せられんとするの明らかなるや、十二月に至りて、前軍(ぜんぐん)都督府断事(ととくふだんじ)高巍(こうぎ)書を上(たてまつ)りて政を論ず。巍は遼州(りょうしゅう)の人、気節を尚(たっと)び、文章を能(よ)くす、材器偉ならずと雖(いえど)も、性質実に惟(これ)美(び)、母の蕭氏(しょうし)に事(つか)えて孝を以て称せられ、洪武十七年旌表(せいひょう)せらる。其(そ)の立言正平(せいへい)なるを以て太祖の嘉納するところとなりし又(また)是(これ)一個の好人物なり。時に事に当る者、子澄、泰の輩より以下、皆諸王を削るを議す。独り巍(ぎ)と御史(ぎょし)韓郁(かんいく)とは説を異にす。巍の言に曰(いわ)く、我が高皇帝、三代の公(こう)に法(のっと)り、秦(えいしん)の陋(ろう)を洗い、諸王を分封(ぶんぽう)して、四裔(しえい)に藩屏(はんぺい)たらしめたまえり。然(しか)れども之(これ)を古制に比すれば封境過大にして、諸王又率(おおむ)ね驕逸(きょういつ)不法なり。削らざれば則(すなわ)ち朝廷の紀綱立たず。之を削れば親(しん)を親(したし)むの恩を傷(やぶ)る。賈誼(かぎ)曰く、天下の治安を欲(ほっ)するは、衆(おお)く諸侯を建てゝ其(その)力を少(すくな)くするに若(し)くは無しと。臣愚(しんぐ)謂(おも)えらく、今宜(よろ)しく其(その)意(い)を師とすべし、晁錯(ちょうさく)が削奪の策を施す勿(なか)れ、主父偃(しゅほえん)が推恩の令(れい)に効(なら)うべし。西北諸王の子弟は、東南に分封し、東南諸王の子弟は、西北に分封し、其地を小にし、其城を大にし、以て其力を分たば、藩王の権(けん)は、削らずして弱からん。臣又願わくは陛下益々(ますます)親親(しんしん)の礼を隆(さか)んにし、歳時(さいじ)伏臘(ふくろう)、使問(しもん)絶えず、賢者は詔を下して褒賞(ほうしょう)し、不法者は初犯は之を宥(ゆる)し、再犯は之を赦(ゆる)し、三犯(ぱん)改めざれば、則ち太廟(たいびょう)に告げて、地を削り、之を廃処せんに、豈(あに)服順せざる者あらんやと。帝之(これ)を然(さ)なりとは聞召(きこしめ)したりけれど、勢(いきおい)既に定まりて、削奪の議を取る者のみ充満(みちみ)ちたりければ、高巍(こうぎ)の説も用いられて已(や)みぬ。 建文元年二月、諸王に詔(みことの)りして、文武の吏士(りし)を節制し、官制を更定(こうてい)するを得ざらしむ。此(こ)も諸藩を抑うるの一なりけり。夏四月西平侯(せいへいこう)沐晟(もくせい)、岷王(びんおう)梗(こう)の不法の事を奏す。よって其の護衛を削り、其の指揮宗麟(そうりん)を誅(ちゅう)し、王を廃して庶人となす。又湘王(しょうおう)柏(はく)偽(いつわ)りて鈔(しょう)を造り、及び擅(ほしいまま)に人を殺すを以て、勅(ちょく)を降(くだ)して之を責め、兵を遣(や)って執(とら)えしむ。湘王もと膂力(りょりょく)ありて気を負う。曰く、吾(われ)聞く、前代の大臣の吏に下さるゝや、多く自ら引決すと。身は高皇帝の子にして、南面して王となる、豈(あに)能(よ)く僕隷(ぼくれい)の手に辱(はずか)しめられて生活を求めんやと。遂(つい)に宮(きゅう)を闔(と)じて自ら焚死(ふんし)す。斉王(せいおう)榑(ふ)もまた人の告ぐるところとなり、廃せられて庶人となり、代王桂(けい)もまた終(つい)に廃せられて庶人となり、大同(だいどう)に幽せらる。 燕王は初(はじめ)より朝野の注目せるところとなり、且(かつ)は威望材力も群を抜けるなり、又其(そ)の終(つい)に天子たるべきを期するものも有るなり、又私(ひそか)に異人術士を養い、勇士勁卒(けいそつ)をも蓄(たくわ)え居(お)れるなり、人も疑い、己(おのれ)も危ぶみ、朝廷と燕と竟(つい)に両立する能(あた)わざらんとするの勢あり。されば三十一年の秋、周王※(しゅく)[#「木+肅」、UCS-6A5A、282-3]の執(とら)えらるゝを見て、燕王は遂に壮士(そうし)を簡(えら)みて護衛となし、極めて警戒を厳にしたり。されども斉泰黄子澄に在りては、もとより燕王を容(ゆる)す能わず。たま/\北辺に寇警(こうけい)ありしを機とし、防辺を名となし、燕藩の護衛の兵を調して塞(さい)を出(い)でしめ、其の羽翼(うよく)を去りて、其の咽喉(いんこう)を扼(やく)せんとし、乃(すなわ)ち工部侍郎(こうぶじろう)張(ちょうへい)をもて北平左布政使(ほくへいさふせいし)となし、謝貴(しゃき)を以(もっ)て都指揮使(としきし)となし、燕王の動静を察せしめ、巍国公(ぎこくこう)徐輝祖(じょきそ)、曹国公(そうこくそう)李景隆(りけいりゅう)をして、謀(はかりごと)を協(あわ)せて燕を図(はか)らしむ。 建文元年正月、燕王長史(ちょうし)葛誠(かつせい)をして入って事を奏せしむ。誠(せい)、帝の為(ため)に具(つぶさ)に燕邸(えんてい)の実を告ぐ。こゝに於(おい)て誠を遣(や)りて燕に還(かえ)らしめ、内応を為(な)さしむ。燕王覚(さと)って之に備うるあり。二月に至り、燕王入覲(にゅうきん)す。皇道(こうどう)を行きて入り、陛に登りて拝せざる等、不敬の事ありしかば、監察御史(かんさつぎょし)曾鳳韶(そうほうしょう)これを劾(がい)せしが、帝曰く、至親(ししん)問う勿(なか)れと。戸部侍郎(こぶじろう)卓敬(たくけい)、先に書を上(たてまつ)って藩を抑え禍(わざわい)を防がんことを言う。復(また)密奏して曰く、燕王は智慮人に過ぐ、而して其の拠る所の北平(ほくへい)は、形勝の地にして、士馬(しば)精強に、金(きん)元(げん)の由って興るところなり、今宜(よろ)しく封(ほう)を南昌(なんしょう)に徒(うつ)したもうべし。然(しか)らば則(すなわ)ち万一の変あるも控制(こうせい)し易(やす)しと、帝敬(けい)に対(こた)えたまわく、燕王は骨肉至親なり、何ぞ此(これ)に及ぶことあらんやと。敬曰く、隋(ずい)文揚広(ぶんようこう)は父子にあらずやと。敬の言実に然り。揚広は子を以てだに父を弑(しい)す。燕王の傲慢(ごうまん)なる、何をか為(な)さゞらん。敬の言、敦厚(とんこう)を欠き、帝の意、醇正(じゅんせい)に近しと雖(いえど)も、世相の険悪にして、人情の陰毒なる、悲(かなし)む可(べ)きかな、敬の言却(かえ)って実に切なり。然れども帝黙然たること良(やや)久しくして曰く、卿(けい)休せよと。三月に至って燕王国に還(かえ)る。都御史(とぎょし)暴昭(ぼうしょう)、燕邸(えんてい)の事を密偵して奏するあり。北平の按察使(あんさつし)僉事(せんじ)の湯宗(とうそう)、按察使(あんさつし)陳瑛(ちんえい)が燕の金(こがね)を受けて燕の為に謀ることを劾(がい)するあり。よって瑛(えい)を逮捕し、都督宗忠(そうちゅう)をして兵三万を率(ひき)い、及び燕王府の護衛の精鋭を忠の麾下(きか)に隷(れい)し、開平(かいへい)に屯(とん)して、名を辺に備うるに藉(か)り、都督の耿※(こうけん)[#「王+獻」、UCS-74DB、284-4]に命じて兵を山海関(さんかいかん)に練り、徐凱(じょがい)をして兵を臨清(りんせい)に練り、密(ひそか)に張(ちょうへい)謝貴(しゃき)に勅して、厳に北平(ほくへい)の動揺を監視しせしむ。燕王此の勢を視(み)、国に帰れるより疾(やまい)に托(たく)して出でず、之(これ)を久しゅうして遂に疾(やまい)篤(あつ)しと称し、以て一時の視聴を避(さ)けんとせり。されども水あるところ湿気無き能(あた)わず、火あるところは燥気(そうき)無き能わず、六月に至りて燕山の護衛百戸倪諒(げいりょう)というもの変を上(たてまつ)り、燕の官校于(かんこうう)諒周鐸(りょうしゅうたく)等(ら)の陰事を告げゝれば、二人は逮(とら)えられて京(けい)に至り、罪明らかにして誅(ちゅう)せられぬ。こゝに於て事(こと)燕王に及ばざる能わず、詔(みことのり)ありて燕王を責む。燕王弁疏(べんそ)する能わざるところありけん、佯(いつわ)りて狂となり、号呼疾走して、市中の民家に酒食(しゅし)を奪い、乱語妄言、人を驚かして省みず、或(あるい)は土壌に臥(ふ)して、時を経(ふ)れど覚めず、全く常を失えるものゝ如(ごと)し。張(ちょうへい)謝貴(しゃき)の二人、入りて疾(やまい)を問うに、時まさに盛夏に属するに、王は爐(ろ)を囲み、身を顫(ふる)わせて、寒きこと甚(はななだ)しと曰(い)い、宮中をさえ杖(つえ)つきて行く。されば燕王まことに狂したりと謂(おも)う者もあり、朝廷も稍(やや)これを信ぜんとするに至りけるが、葛誠(かつせい)ひそかにと貴とに告げて、燕王の狂は、一時の急を緩(ゆる)くして、後日の計(けい)に便にせんまでの詐(いつわり)に過ぎず、本(もと)より恙無(つつがな)きのみ、と知らせたり。たま/\燕王の護衛百戸の庸(とうよう)というもの、闕(けつ)に詣(いた)り事を奏したりけるを、斉泰請(こ)いて執(とら)えて鞠問(きくもん)しけるに、王が将(まさ)に兵を挙げんとするの状をば逐一に白(もう)したり。 待設(まちもう)けたる斉泰は、たゞちに符を発し使(し)を遣わし、往(ゆ)いて燕府の官属を逮捕せしめ、密(ひそか)に謝貴(しゃき)張(ちょうへい)をして、燕府に在りて内応を約せる長史(ちょうし)葛誠(かつせい)、指揮(しき)盧振(ろしん)と気脈を通ぜしめ、北平都指揮(としき)張信(ちょうしん)というものゝ、燕王の信任するところとなるを利し、密勅を下して、急に燕王を執(とら)えしむ。信(しん)は命を受けて憂懼(ゆうく)為(な)すところを知らず、情誼(じょうぎ)を思えば燕王に負(そむ)くに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずる能(あた)わず、進退両難にして、行止(こうし)ともに艱(かた)く、左思右慮(さしゆうりょ)、心終(つい)に決する能わねば、苦悶(くもん)の色は面にもあらわれたり。信が母疑いて、何事のあればにや、汝(なんじ)の深憂太息することよ、と詰(なじ)り問う。信是非に及ばず、事の始末を告ぐれば、母大(おおい)に驚いて曰く、不可なり、汝が父の興(こう)、毎(つね)に言えり王気(おうき)燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝の能(よ)く擒(とりこ)にするところにあらざるなり、燕王に負(そむ)いて家を滅することなかれと。信愈々(いよいよ)惑(まど)いて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信遂(つい)に怒って曰く、何ぞ太甚(はなはだ)しきやと。乃(すなわち)ち意を決して燕邸に造(いた)る。造ること三たびすれども、燕王疑いて而して辞し、入ることを得ず。信婦人の車に乗じ、径(ただ)ちに門に至りて見(まみ)ゆることを求め、ようやく召入(めしい)れらる。されども燕王猶(なお)疾(やまい)を装いて言(ものい)わず。信曰く、殿下爾(しか)したもう無かれ、まことに事あらば当(まさ)に臣に告げたもうべし、殿下もし情(じょう)を以て臣に語りたまわずば、上命あり、当(まさ)に執(とら)われに就きたもうべし、如(も)し意あらば臣に諱(い)みたもう勿(なか)れと。燕王信の誠(まこと)あるを見、席を下りて信を拝して曰く、我が一家を生かすものは子(し)なりと。信つぶさに朝廷の燕を図るの状を告ぐ。形勢は急転直下せり。事態は既に決裂せり。燕王は道衍(どうえん)を召して、将(まさ)に大事を挙(あ)げんとす。 天耶(か)、時(とき)耶、燕王の胸中颶母(ばいぼ)まさに動いて、黒雲(こくうん)飛ばんと欲し、張玉(ちょうぎょく)、朱能(しゅのう)等(ら)の猛将梟雄(きょうゆう)、眼底紫電閃(ひらめ)いて、雷火発せんとす。燕府(えんぷ)を挙(こぞ)って殺気陰森(いんしん)たるに際し、天も亦(また)応ぜるか、時抑(そも)至れるか、風(ひょうふう)暴雨卒然として大(おおい)に起りぬ。蓬々(ほうほう)として始まり、号々として怒り、奔騰狂転せる風は、沛然(はいぜん)として至り、澎然(ほうぜん)として瀉(そそ)ぎ、猛打乱撃するの雨と伴(とも)なって、乾坤(けんこん)を震撼(しんかん)し、樹石(じゅせき)を動盪(どうとう)しぬ。燕王の宮殿堅牢(けんろう)ならざるにあらざるも、風雨の力大にして、高閣の簷瓦(えんが)吹かれて空(くう)に飄(ひるがえ)り、然(かくぜん)として地に堕(お)ちて粉砕したり。大事を挙げんとするに臨みて、これ何の兆(ちょう)ぞ。さすがの燕王も心に之を悪(にく)みて色懌(よろこ)ばず、風声雨声、竹折るゝ声、樹(き)裂くる声、物凄(ものすさま)じき天地を睥睨(へいげい)して、惨として隻語無く、王の左右もまた粛(しゅく)として言(ものい)わず。時に道衍(どうえん)少しも驚かず、あな喜ばしの祥兆(しょうちょう)や、と白(もう)す。本(もと)より此(こ)の異僧道衍は、死生禍福の岐(ちまた)に惑うが如き未達(みだつ)の者にはあらず、膽(きも)に毛も生(お)いたるべき不敵の逸物(いちもつ)なれば、さきに燕王を勧めて事を起さしめんとしける時、燕王、彼は天子なり、民心の彼に向うを奈何(いかん)、とありけるに、昂然(こうぜん)として答えて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云いけるほどの豪傑なり。されども風雨簷瓦(えんが)を堕(おと)す。時に取っての祥(さが)とも覚えられぬを、あな喜ばしの祥兆といえるは、余りに強言(きょうげん)に聞えければ、燕王も堪(こら)えかねて、和尚(おしょう)何というぞや、いずくにか祥兆たるを得る、と口を突いてそゞろぎ罵(ののし)る。道衍騒がず、殿下聞(きこ)しめさずや、飛龍天に在れば、従うに風雨を以(もっ)てすと申す、瓦(かわら)墜(お)ちて砕けぬ、これ黄屋(こうおく)に易(かわ)るべきのみ、と泰然として対(こた)えければ、王も頓(とみ)に眉(まゆ)を開いて悦(よろこ)び、衆将も皆どよめき立って勇みぬ。彼(かの)邦(くに)の制、天子の屋(おく)は、葺(ふ)くに黄瓦(こうが)を以てす、旧瓦は用無し、まさに黄なるに易(かわ)るべし、といえる道衍が一語は、時に取っての活人剣、燕王宮中の士気をして、勃然(ぼつぜん)凛然(りんぜん)、糾々然(きゅうきゅうぜん)、直(ただち)にまさに天下を呑(の)まんとするの勢(いきおい)をなさしめぬ。 燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入って衛(まも)らしめぬ。矢石(しせき)未(いま)だ交(まじわ)るに至らざるも、刀鎗(とうそう)既に互(たがい)に鳴る。都指揮使謝貴(しゃき)は七衛(しちえい)の兵、并(なら)びに屯田(とんでん)の軍士を率いて王城を囲み、木柵(ぼくさく)を以て端礼門(たんれいもん)等の路(みち)を断ちぬ。朝廷よりは燕王の爵を削るの詔(みことのり)、及び王府の官属を逮(とら)うべきの詔至りぬ。秋七月布政使(ふせいし)張(ちょうへい)、謝貴(しゃき)と与(とも)に士卒を督して皆(みな)甲せしめ、燕府を囲んで、朝命により逮捕せらるべき王府の官属を交付せんことを求む。一言(げん)の支吾(しご)あらんには、巌石(がんせき)鶏卵(けいらん)を圧するの勢を以て臨まんとするの状を為(な)し、貴(へいき)の軍の殺気の迸(はし)るところ、箭(や)をば放って府内に達するものすら有りたり。燕王謀って曰く、吾が兵は甚だ寡(すくな)く、彼の軍は甚だ多し、奈何(いかに)せんと。朱能進んで曰く、先(ま)ず張謝貴を除かば、余(よ)は能(よ)く為す無き也と。王曰く、よし、貴(へいき)を擒(とりこ)にせんと。壬申(じんしん)の日、王、疾(やまい)癒(い)えぬと称し、東殿(とうでん)に出で、官僚の賀を受け、人をしてと貴とを召さしむ。二人応ぜず。復(また)内官を遣(つかわ)して、逮(とら)わるべき者を交付するを装う。二人乃(すなわ)ち至る。衛士甚だ衆(おお)かりしも、門者呵(か)して之(これ)を止(とど)め、と貴とのみを入る。と貴との入るや、燕王は杖(つえ)を曳(ひ)いて坐(ざ)し、宴を賜い酒を行(や)り宝盤に瓜(うり)を盛って出(いだ)す。王曰く、たま/\新瓜(しんか)を進むる者あり、卿(けい)等(ら)と之を嘗(こころ)みんと。自ら一瓜(か)を手にしけるが、忽(たちまち)にして色を作(な)して詈(ののし)って曰く、今世間の小民だに、兄弟宗族(けいていそうぞく)、尚(なお)相(あい)互(たがい)に恤(あわれ)ぶ、身は天子の親属たり、而(しか)も旦夕(たんせき)に其命(めい)を安んずること無し、県官の我を待つこと此(かく)の如し、天下何事か為す可(べ)からざらんや、と奮然として瓜を地に擲(なげう)てば、護衛の軍士皆激怒して、前(すす)んでと貴とを擒(とら)え、かねて朝廷に内通せる葛誠(かつせい)盧振(ろしん)等(ら)を殿下に取って押(おさ)えたり。王こゝに於(おい)て杖を投じて起(た)って曰く、我何ぞ病まん、奸臣(かんしん)に迫らるゝ耳(のみ)、とて遂に貴等を斬(き)る。貴等の将士、二人が時を移して還(かえ)らざるを見、始(はじめ)は疑い、後(のち)は覚(さと)りて、各(おのおの)散じ去る。王城を囲める者も、首脳已(すで)に無くなりて、手足(しゅそく)力無く、其兵おのずから潰(つい)えたり。張(ちょうへい)が部下北平都指揮(ほくへいとしき)の彭二(ほうじ)、憤慨已(や)む能(あた)わず、馬を躍らして大(おおい)に市中に呼(よば)わって曰く、燕王反せり、我に従って朝廷の為に力を尽すものは賞あらんと。兵千余人を得て端礼門(たんれいもん)に殺到す。燕王の勇卒来興(ほうらいこう)、丁勝(ていしょう)の二人、彭二を殺しければ、其兵も亦(また)散じぬ。此(この)勢(いきおい)に乗ぜよやと、張玉、朱能等、いずれも塞北(さいほく)に転戦して元兵(げんぺい)と相(あい)馳駆(ちく)し、千軍万馬の間に老い来(きた)れる者なれば、兵を率いて夜に乗じて突いて出で、黎明(れいめい)に至るまでに九つの門の其八を奪い、たゞ一つ下らざりし西直門(せいちょくもん)をも、好言を以て守者を散ぜしめぬ。北平既に全く燕王の手に落ちしかば、都指揮使の余(よてん)は、走って居庸関(きょようかん)を守り、馬宣(ばせん)は東して薊州(けいしゅう)に走り、宋忠(そうちゅう)は開平(かいへい)より兵三万を率いて居庸関に至りしが、敢(あえ)て進まずして、退いて懐来(かいらい)を保ちたり。 煙は旺(さか)んにして火は遂に熾(も)えたり、剣(けん)は抜かれて血は既に流されたり。燕王は堂々として旗を進め馬を出しぬ。天子の正朔(せいさく)を奉ぜず、敢(あえ)て建文の年号を去って、洪武三十二年と称し、道衍(どうえん)を帷幄(いあく)の謀師とし、金忠(きんちゅう)を紀善(きぜん)として機密に参ぜしめ、張玉、朱能、丘福(きゅうふく)を都指揮僉事(せんじ)とし、張部下にして内通せる李友直(りゆうちょく)を布政司(ふせいし)参議(さんぎ)と為(な)し、乃(すなわ)ち令を下して諭して曰く、予は太祖高皇帝の子なり、今奸臣(かんしん)の為に謀害せらる。祖訓に云(い)わく、朝(ちょう)に正臣無く、内に奸逆(かんぎゃく)あれば、必ず兵を挙げて誅討(ちゅうとう)し、以(もっ)て君側の悪を清めよと。こゝに爾(なんじ)将士を率いて之を誅せんとす。罪人既に得ば、周公の成王(せいおう)を輔(たす)くるに法(のっ)とらん。爾(なんじ)等(ら)それ予が心を体せよと。一面には是(かく)の如くに将士に宣言し、又一面には書を帝に上(たてまつ)りて曰く、皇考太祖高皇帝、百戦して天下を定め、帝業を成し、之を万世に伝えんとして、諸子を封建したまい、宗社を鞏固(きょうこ)にして、盤石の計を為(な)したまえり。然(しか)るに奸臣(かんしん)斉泰(せいたい)黄子澄(こうしちょう)、禍心を包蔵し、※(しゅく)[#「木+肅」、UCS-6A5A、292-11]、榑(ふ)、栢(はく)、桂(けい)、(べん)の五弟、数年ならずして、並びに削奪(さくだつ)せられぬ、栢(はく)や尤(もっとも)憫(あわれ)むべし、闔室(こうしつ)みずから焚(や)く、聖仁上(かみ)に在り、胡(なん)ぞ寧(なん)ぞ此(これ)に忍ばん。蓋(けだし)陛下の心に非ず、実に奸臣の為(な)す所ならん。心尚(なお)未(いま)だ足らずとし、又以て臣に加う。臣藩(はん)を燕に守ること二十余年、寅(つつし)み畏(おそ)れて小心にし、法を奉じ分(ぶん)に循(したが)う。誠に君臣の大分(たいぶん)、骨肉の至親なるを以て、恒(つね)に思いて慎(つつしみ)を加う。而(しか)るに奸臣跋扈(ばっこ)し、禍を無辜(むこ)に加え、臣が事を奏するの人を執(とら)えて、※楚(すいそ)[#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5][#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5]楚」は底本では「※[#「竹かんむり/「垂」の「ノ」の下に「一」を加える」、293-5]楚」]。 刺※(ししつ)[#「執/糸」、UCS-7E36、293-5]し、備(つぶ)さに苦毒を極め、迫りて臣不軌(ふき)を謀ると言わしめ、遂に宋忠、謝貴、張等を北平城の内外に分ち、甲馬は街衢(がいく)に馳突(ちとつ)し、鉦鼓(しょうこ)は遠邇(えんじ)に喧鞠(けんきく)し、臣が府を囲み守る。已(すで)にして護衛の人、貴(きへい)を執(とら)え、始めて奸臣欺詐(ぎさ)の謀を知りぬ。窃(ひそか)に念(おも)うに臣の孝康(こうこう)皇帝に於(お)けるは、同父母兄弟なり、今陛下に事(つか)うるは天に事うるが如きなり。譬(たと)えば大樹を伐(き)るに、先ず附枝(ふし)を剪(き)るが如し、親藩既に滅びなば、朝廷孤立し、奸臣志を得んには、社稷(しゃしょく)危(あやう)からん。臣伏(ふ)して祖訓を覩(み)るに云(い)えることあり、朝(ちょう)に正臣無く、内に奸悪あらば、則(すなわ)ち親王兵を訓して命を待ち、天子密(ひそ)かに諸王に詔(みことのり)し、鎮兵を統領して之を討平せしむと。臣謹んで俯伏(ふふく)して命を俟(ま)つ、と言辞を飾り、情理を綺(いろ)えてぞ奏しける。道衍少(わか)きより学を好み詩を工(たくみ)にし、高啓(こうけい)と友とし善(よ)く、宋濂(そうれん)にも推奨(すいしょう)され、逃虚子集(とうきょししゅう)十巻を世に留めしほどの文才あるものなれば、道衍や筆を執りけん、或(あるい)は又金忠の輩や詞(ことば)を綴(つづ)りけん、いずれにせよ、柔を外にして剛を懐(いだ)き、己(おのれ)を護(まも)りて人を責むる、いと力ある文字なり。卒然として此(この)書(しょ)のみを読めば、王に理ありて帝に理なく、帝に情(じょう)無くして王に情あるが如く、祖霊も民意も、帝を去り王に就く可(べ)きを覚ゆ。されども擅(ほしいまま)に謝張を殺し、妄(みだり)に年号を去る、何ぞ法を奉ずると云わんや。後苑(こうえん)に軍器を作り、密室に機謀を錬る、これ分(ぶん)に循(したが)うにあらず。君側の奸を掃(はら)わんとすと云うと雖(いえど)も、詔無くして兵を起し、威を恣(ほしいまま)にして地を掠(かす)む。其(その)辞(じ)は則(すなわ)ち可なるも、其実は則ち非なり。飜って思うに斉泰黄子澄の輩の、必ず諸王を削奪せんとするも、亦(また)理に於て欠け、情に於て薄し。夫(そ)れ諸王を重封せるは、太祖の意に出づ。諸王未だ必ずしも反せざるに、先ず諸王を削奪せんとするの意を懐(いだ)いて諸王に臨むは、上(かみ)は太祖の意を壊(やぶ)り、下(しも)は宗室の親(しん)を破るなり。三年父の志を改めざるは、孝というべし。太祖崩じて、抔土(ほうど)未だ乾(かわ)かず、直(ただち)に其意を破り、諸王を削奪せんとするは、是(こ)れ理に於(おい)て欠け情に於て薄きものにあらずして何ぞや。斉黄の輩の為さんとするところ是(かく)の如くなれば、燕王等手を袖にし息を屏(しりぞ)くるも亦(また)削奪罪責を免(まぬ)かれざらんとす。太祖の血を承(う)けて、英雄傑特の気象あるもの、いずくんぞ俛首(べんしゅ)して寃(えん)に服するに忍びんや。瓜(うり)を投じて怒罵(どば)するの語、其中に機関ありと雖(いえど)も、又尽(ことごと)く偽詐(ぎさ)のみならず、本(もと)より真情の人に逼(せま)るに足るものあるなり。畢竟(ひっきょう)両者各(おのおの)理あり、各非理(ひり)ありて、争鬩(そうげい)則(すなわ)ち起り、各情(じょう)なく、各真情ありて、戦闘則ち生ぜるもの、今に於て誰(たれ)か能(よ)く其の是非を判せんや。高巍(こうぎ)の説は、敦厚(とんこう)悦(よろこ)ぶ可(べ)しと雖も、時既に晩(おそ)く、卓敬(たくけい)の言は、明徹用いるに足ると雖も、勢回(かえ)し難く、朝旨の酷責すると、燕師(えんし)の暴起すると、実に互(たがい)に已(や)む能(あた)わざるものありしなり。是れ所謂(いわゆる)数(すう)なるものか、非(ひ)耶(か)。
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