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運命(うんめい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:19:37  点击:  切换到繁體中文



 建文帝の国をゆずらざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代のそうげん傾覆の所以ゆえんを考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子をおおく四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、もって帝室に藩屏はんべいたらしめ、京師けいし拱衛きょうえいせしめんと欲せり。また故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、将帥しょうすい外におごり、奸邪かんじゃあいだに私すれば、一朝事有るに際しては、都城守るあたわず、宗廟そうびょうまつられざるに至るべし。おおく諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣いきおいを得るのすき無し。こゝにおいて、第二子そう[#「木+爽」、UCS-6A09、252-3]しん王にほうじ、藩に西安せいあんかしめ、第三子こうしん王に封じ、太原府たいげんふらしめ、第四子ていを封じてえん王となし、北平府ほくへいふすなわち今の北京ぺきんに居らしめ、第五子しゅく[#「木+肅」、UCS-6A5A、252-5]を封じてしゅう王となし、開封府かいほうふに居らしめ、第六子※(「木+貞」、第3水準1-85-88)てい王とし、武昌ぶしょうに居らしめ、第七子せい王とし、青州府せいしゅうふに居らしめ、第八子を封じてたん王とし、長沙ちょうさき、第九子[#「木+巳」、252-7]ちょう王とせしが、は三歳にしてしょうし、藩に就くに及ばず、第十子たんを生れて二月にして王とし、十六歳にして藩に※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)州府えんしゅうふに就かしめ、第十一子椿ちんを封じてしょく王とし、成都せいとき、第十二子はくしょう王とし、荊州府けいしゅうふに居き、第十三子けいだい王とし、大同府だいどうふに居き、第十四子えい[#「木+英」、UCS-6967、252-11]しゅく王とし、藩に甘州府かんしゅうふに就かしめ、第十五子しょくを封じてりょう王とし、広寧府こうねいふに居き、第十六子せん[#「木+「旃」の「丹」に代えて「冉」、252-12]けい王として寧夏ねいかに居き、第十七子けんねい王に封じ、大寧たいねいに居らしめ、第十八子※(「木+便」、第4水準2-15-14)べんを封じてびん王となし、第十九子けい[#「木+惠」、UCS-6A5E、253-2]を封じてこく王となす、谷王というはるところ宣府せんふ上谷じょうこくの地たるを以てなり、第二十子しょうを封じてかん王となし、開源かいげんに居らしむ。第二十一子しん王とし、第二十二子えいあん王とし、第二十三子けい[#「木+經のつくり」、UCS-6871、253-4]とう王とし、第二十四子とうえい王とし、第二十五子[#「木+(ヨ/粉/廾)」、253-5]王としたり。しん王以下は、永楽えいらくに及んで藩に就きたるなれば、しばらくきて論ぜざるも、太祖の諸子をほうじて王となせるもまた多しというべく、しこうして枝柯しかはなはだ盛んにして本幹ほんかんかえって弱きのいきおいを致せるに近しというべし。明の制、親王は金冊金宝きんさつきんほうを授けられ、歳禄さいろく万石まんせき、府には官属を置き、護衛の甲士こうしすくなき者は三千人、多き者は一万九千人に至り、冕服べんぷく車旗しゃき邸第ていだいは、天子にくだること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、また至れりというべし。且つげんえいなお存して、時に塞下さいかに出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中こくちゅうに専制し、三護衛の重兵ちょうへいを擁するを得せしめ、将をりて諸路の兵をすにも、必ず親王に関白してすなわち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、また大なりというべし。太祖の意におもえらく、かくごとくなれば、本支ほんしあいたすけて、朱氏しゅし永くさかえ、威権しもに移る無く、傾覆のうれいも生ずるに地無からんと。太祖の深智しんち達識たっしきは、まことにく前代の覆轍ふくてつかんがみて、後世に長計をのこさんとせり。されども人智はかぎり有り、天意は測り難し、あにはからんや、太祖が熟慮遠謀して施為しいせるところの者は、すなわち是れ孝陵こうりょうの土いまだ乾かずして、北平ほくへいちり既に起り、矢石しせき京城けいじょう雨注うちゅうして、皇帝遐陬かすうに雲遊するの因とならんとは。
 太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、つとこれを論じて、しかからずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。そのとしうるう九月、たま/\天文てんもんの変ありて、みことのりを下し直言ちょくげんを求められにければ、山西さんせい葉居升しょうきょしょうというもの、上書して第一には分封のはなはおごれること、第二には刑を用いるはなはしげきこと、第三にはを求むるはなはだ速やかなることの三条を言えり。其の分封太侈たいしを論ずるにいわく、都城百雉ひゃくちを過ぐるは国の害なりとは、でんの文にも見えたるを、国家今やしんしんえんせいりょう※(「門<虫」、第3水準1-93-49)びんの諸国、各そのを尽してこれを封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都にぎ、之にたまうに甲兵衛士のさかんなるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世すうせいの後は尾大びだいふるわず、しかして後に之が地を削りて之が権を奪わば、すなわち其のうらみを起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざればすなわけんたのみてこうを争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、はなはだしければ則ちかんりて而してたんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景こうけい皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の同宗どうそう父兄弟ふけいてい子孫しそんなり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の親子孫しんしそんなり。然るに世をうるの後はたがいに兵を擁して、以て皇帝をあやうくせり。昔は賈誼かぎ漢の文帝に勧めて、禍を未萌みぼうに防ぐの道をもうせり。願わくば今ず諸王の都邑とゆうの制を節し、其の衛兵を減じ、其の彊里きょうりを限りたまえと。居升きょしょうの言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、まさに太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中ごくちゅうに終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にしてしるしありて、漢の七国のたとえのあたりの事となれるぞ是非無き。
 七国の事、七国の事、嗚呼ああ是れ何ぞ明室みんしつと因縁の深きや。葉居升しょうきょしょうの上書のずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂たいほんどうというを建てたまい、古今ここんの図書をて、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注ききょちゅう魏観ぎかんあざな※山きざん[#「木+巳」、256-9]というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書かんじょの七図漢にそむける事を講じきかせたりと答えもうす。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直はいずれに在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬとこたう。時に太祖がえんぜずして、あらずは講官の偏説なり。景帝けいてい太子たりし時、博局はくきょくを投じて呉王ごおう世子せいしを殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯ちょうさくの説を聴きて、諸侯のほうを削りたり、七国の変は実にこれに由る。諸子のためこの事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は百姓ひゃくせいし、国家の藩輔はんぽとなりて、天下の公法をみだす無かれと言うべきなり、かくの如くなれば則ち太子たるものは、九族を敦睦とんぼくし、親しきを親しむの恩をさかんにすることを知り、諸子たるものは、王室を夾翼きょうよくし、君臣の義を尽すことを知らん、と評論したりとなり。の太祖の言は、まさに是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、はやくよりこの意ありたればこそ、それより二年ほどにして、洪武三年に、そう[#「木+爽」、UCS-6A09、257-9]こうていしゅく[#「木+肅」、UCS-6A5A、257-9]※(「木+貞」、第3水準1-85-88)ていしんたん[#「木+巳」、257-10]の九子を封じて、しんしんえんしゅう等に王とし、そのはなはだしきは、生れてはじめて二歳、あるいは生れてわずかに二ヶ月のものをすら藩王とし、いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、しこうして又はやくより此意ありたればこそ、葉居升しょうきょしょうが上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。しかも太祖が懿文いぶん太子に、七国反漢の事をさとしたりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、ばかり思いしことの、その死すると共にただち禍端乱階かたんらんかいとなりて、懿文いぶんの子の※(「火+文」、第4水準2-79-61)いんぶん、七国反漢のいにしえを今にしてくるしまんとは。不世出の英雄朱元璋しゅげんしょうも、めいといいすうというものゝ前には、たゞこれ一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。
 七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後をけてその御子おんこ※(「火+文」、第4水準2-79-61)皇太孫の位にかせたもう。継紹けいしょうの運まさにかくの如くなるべきが上に、しもは四海の心をくるところなり。かみは一にんめいを宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに皇儲こうちょとなりたまえる上は、よわいなお弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王あるいは功あり或は徳ありといえども、遠からず俯首ふしゅしてめいを奉ずべきなれば、理においてはまさこれを敬すべきなり。されども諸王は積年の威をはさみ、大封のいきおいり、かつ叔父しゅくふの尊きをもって、不遜ふそんの事の多かりければ、皇太孫は如何いかばかり心苦しくいとわしく思いしみたりけむ。一日いちじつ東角門とうかくもんに坐して、侍読じどく太常卿たいじょうけい黄子澄こうしちょうというものに、諸王驕慢きょうまんの状を告げ、しょ叔父しゅくふ各大封重兵ちょうへいを擁し、叔父の尊きをたのみて傲然ごうぜんとして予に臨む、行末ゆくすえの事も如何いかがあるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんとのたまいたもう。子澄名は※(「さんずい+是」、第3水準1-86-90)てい分宜ぶんぎの人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りといえども、世故せいこに練達することはいまだ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例はその昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にしてわずかに身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国そむきたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、たれく之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、御心みこころ安く思召おぼしめせ、と七国のいにしえを引きてこたうれば、太孫は子澄が答を、げに道理もっともなりと信じたまいぬ。太孫なおとし若く、子澄未だ世に老いず、片時へんじの談、七国の論、何ぞはからん他日山崩れ海くの大事を生ぜんとは。
 太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、どううるう五月西宮せいきゅうに崩ず。その遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度いくたびと無くおそるべき危険の境を冒して、無産無官又無家むか何等なんらたのむべきをもたぬ孤独の身を振い、ついに天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、おも[#ルビの「おも」は底本では「おもい」]つくして民をすくい、しこうして礼をたっとび学を重んじ、百ぼううち、手に書をめず、孔子のおしえを篤信し、は誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ずこれに依拠し、又蚤歳そうさいにして仏理に通じ、内典を知るも、りょうの武帝の如く淫溺いんできせず、又老子ろうしを愛し、恬静てんせいを喜び、みずから道徳経註どうとくけいちゅう二巻をせんし、解縉かいしんをして、上疏じょうその中に、学の純ならざるをそしらしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚こうしょうせず、かつ宗濂そうれんって、人君く心を清くし欲をすくなくし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々※(「白+皐」、第4水準2-81-80)ききこうこうとしてみずから知らざらしめば、是れ即ち神仙なりとい、詩文をくして、文集五十巻、詩集五巻をあらわせるも、※(「澹のつくり」、第3水準1-92-8)せんどうと文章を論じては、文はたゞ誠意溢出いっしゅつするをたっとぶと為し、又洪武六年九月には、みことのりして公文に対偶文辞たいぐうぶんじを用いるを禁じ、無益の彫刻藻絵そうかいを事とするをとどめたるが如き、まことに通ずることひろくしてとらえらるゝことすくなく、文武をねて有し、智有をあわせて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高かいてんこうどうちょうきりつきょくたいせいししんじんぶんぎぶしゅんとくせいこうこう皇帝の諡号しごうそむかざる朱元璋しゅげんしょうあざな国瑞こくずいして、その身は地に入り、其しんくうに帰せんとするに臨みて、言うところ如何いかん。一鳥のなるだに、死せんとするや其声人を動かすと云わずや。太祖の遺詔感ずく考うきもの無からんや。遺詔に曰く、ちん皇天の命を受けて、大任に世にあたること、三十有一年なり、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき。奈何いかんせん寒微かんびより起りて、古人の博智無く、善をよみし悪をにくむこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕危懼きくす、はかるに終らざることを恐るのみ。今万物自然の理をいずくんぞ哀念かこれ有らん。皇太孫※(「火+文」、第4水準2-79-61)いんぶん、仁明孝友にして、天下心を帰す、よろしく大位に登るべし。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐ほゆうし、もっが民をさいわいせよ。葬祭の儀は、一に漢の文帝の如くにしてことにするなかれ。天下に布告して、朕が意を知らしめよ。孝陵の山川さんせんは、其のふるきに因りて改むるなかれ、天下の臣民は、哭臨こくりんする三日にして、皆服をき、嫁娶かしゅを妨ぐるなかれ。諸王は国中になげきて、京師に至るなかれ。もろもろの令のうちに在らざる者は、此令を推して事に従えと。
 嗚呼ああ、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任にあたること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真にれ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕あいあいじんじょの情景、百歳のしも、人をして欽仰きんごうせしむるに足るものあり。奈何いかんせん寒微より起りて、智浅く徳すくなし、といえるは、謙遜けんそんの態度を取り、反求はんきゅうの工夫に切に、まず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死旦夕たんせきに在り、といえるは、英雄もまた大限たいげんようやせまるを如何いかんともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れいずくにぞ哀念かこれ有らん、とえる、流石さすが孔孟仏老こうもうぶつろうおしえおいて得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑すくなきは、世間の常態なるが、太祖は是れしん豪傑、生きて長春不老の癡想ちそういだかず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容しょうようとしてせまらず、晏如あんじょとして※(「りっしんべん+易」、第3水準1-84-53)おそれず、偉なるかな、偉なる哉。皇太孫※(「火+文」、第4水準2-79-61)いんぶん、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一げんや鉄の鋳られたるがごとし。衆論の糸のもつるゝを防ぐ。これよりさき、太孫の儲位ちょいくや、太祖太孫を愛せざるにあらずといえども、太孫の人となり仁孝聡頴そうえいにして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気ははなはだ欠く。これを以て太祖の詩を賦せしむるごとに、その婉美柔弱えんびじゅうじゃく、豪壮瑰偉かいいところ無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句しく属対ぞくたいをなさしめしに、おおいかなわず、ふたたび以て燕王えんおうていに命ぜられけるに、燕王の語はすなわち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌ようぼうにして髭髯しぜんうるわしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]たること多かりしかば、太祖もこれよろこび、人もあるいこころを寄するものありたり。ここおいて太祖ひそか儲位ちょいえんとするに有りしが、劉三吾りゅうさんごこれはばみたり。三吾は名は如孫じょそんげんの遺臣なりしが、博学にして、文をくしたりければ、洪武十八年召されてでゝ仕えぬ。時に年七十三。当時汪叡おうえい朱善しゅぜんともに、称して三ろうす。人となり慷慨こうがいにして城府を設けず、自ら号して坦坦翁たんたんおうといえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平せいへい実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議にあずかりて定むる所多く、帝の洪範こうはんの注成るや、命をけて序をつくり、勅修ちょくしゅうの書、省躬録せいきゅうろく書伝会要しょでんかいよう礼制集要れいせいしゅうよう等の編撰へんせん総裁となり、居然きょぜんたる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節たいせつに臨むに至りては、きつとして奪うからず。懿文いぶん太子のこうずるや、身をぬきんでゝ、皇孫は世嫡せいちゃくなり、大統をけたまわんこと、礼なり、と云いて、内外の疑懼ぎくを定め、太孫を立てゝ儲君ちょくんとなせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞげん無からん、すなわいわく、し燕王を立てたまわば秦王しんおう晋王しんおうを何の地に置き給わんと。秦王そう[#「木+爽」、UCS-6A09、265-7]、晋王こうは、皆燕王の兄たり。そんを廃してを立つるだに、定まりたるをかえすなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、あに事無くしてまんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、そのみけるなり。かくの如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍をとどめて、ことに厳しく皇太孫允※(「火+文」、第4水準2-79-61)よろしく大位に登るべしとは詔をのこされたるなるべし。太祖のを思うのりょも遠く、皇孫を愛するの情もあつしという可し。葬祭の儀は、漢の文帝のごとくせよ、と云える、天下の臣民は哭臨こくりん三日にして服をき、嫁娶かしゅを妨ぐるなかれ、と云える、何ぞ倹素けんそにして仁恕じんじょなる。文帝の如くせよとは、金玉きんぎょくを用いる勿れとなり。孝陵の山川は其のもとに因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をしてさいわいあらしめんとなり。諸王は国中になげきて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、けだその諸王其の封を去りて京に至らば、前代の※(「薛/子」、第3水準1-47-55)いげつ、辺土の黠豪かつごう等、あるいは虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原りょうげんの勢を成すに至らんことをおそるるに似たり。また愛民憂世の念、おのずからここに至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼ああ、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。

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