建文帝の国を遜(ゆず)らざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の宋(そう)元(げん)傾覆の所以(ゆえん)を考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子を衆(おお)く四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、以(もっ)て帝室に藩屏(はんべい)たらしめ、京師(けいし)を拱衛(きょうえい)せしめんと欲せり。是(こ)れ亦(また)故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、将帥(しょうすい)外に傲(おご)り、奸邪(かんじゃ)間(あいだ)に私すれば、一朝事有るに際しては、都城守る能(あた)わず、宗廟(そうびょう)祀(まつ)られざるに至るべし。若(も)し夫(そ)れ衆(おお)く諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣勢(いきおい)を得るの隙(すき)無し。こゝに於(おい)て、第二子※(そう)[#「木+爽」、UCS-6A09、252-3]を秦(しん)王に封(ほう)じ、藩に西安(せいあん)に就(つ)かしめ、第三子棡(こう)を晋(しん)王に封じ、太原府(たいげんふ)に居(お)らしめ、第四子棣(てい)を封じて燕(えん)王となし、北平府(ほくへいふ)即(すなわ)ち今の北京(ぺきん)に居らしめ、第五子※(しゅく)[#「木+肅」、UCS-6A5A、252-5]を封じて周(しゅう)王となし、開封府(かいほうふ)に居らしめ、第六子(てい)を楚(そ)王とし、武昌(ぶしょう)に居らしめ、第七子榑(ふ)を斉(せい)王とし、青州府(せいしゅうふ)に居らしめ、第八子梓(し)を封じて潭(たん)王とし、長沙(ちょうさ)に居(お)き、第九子※(き)[#「木+巳」、252-7]を趙(ちょう)王とせしが、此(こ)は三歳にして殤(しょう)し、藩に就くに及ばず、第十子檀(たん)を生れて二月にして魯(ろ)王とし、十六歳にして藩に州府(えんしゅうふ)に就かしめ、第十一子椿(ちん)を封じて蜀(しょく)王とし、成都(せいと)に居(お)き、第十二子柏(はく)を湘(しょう)王とし、荊州府(けいしゅうふ)に居き、第十三子桂(けい)を代(だい)王とし、大同府(だいどうふ)に居き、第十四子※(えい)[#「木+英」、UCS-6967、252-11]を粛(しゅく)王とし、藩に甘州府(かんしゅうふ)に就かしめ、第十五子植(しょく)を封じて遼(りょう)王とし、広寧府(こうねいふ)に居き、第十六子※(せん)[#「木+「旃」の「丹」に代えて「冉」、252-12]を慶(けい)王として寧夏(ねいか)に居き、第十七子権(けん)を寧(ねい)王に封じ、大寧(たいねい)に居らしめ、第十八子(べん)を封じて岷(びん)王となし、第十九子※(けい)[#「木+惠」、UCS-6A5E、253-2]を封じて谷(こく)王となす、谷王というは其(そ)の居(お)るところ宣府(せんふ)の上谷(じょうこく)の地たるを以てなり、第二十子松(しょう)を封じて韓(かん)王となし、開源(かいげん)に居らしむ。第二十一子模(ぼ)を瀋(しん)王とし、第二十二子楹(えい)を安(あん)王とし、第二十三子※(けい)[#「木+經のつくり」、UCS-6871、253-4]を唐(とう)王とし、第二十四子棟(とう)を郢(えい)王とし、第二十五子※(い)[#「木+(ヨ/粉/廾)」、253-5]を伊(い)王としたり。藩(しん)王以下は、永楽(えいらく)に及んで藩に就きたるなれば、姑(しば)らく措(お)きて論ぜざるも、太祖の諸子を封(ほう)じて王となせるも亦(また)多しというべく、而(しこう)して枝柯(しか)甚(はなは)だ盛んにして本幹(ほんかん)却(かえ)って弱きの勢(いきおい)を致せるに近しというべし。明の制、親王は金冊金宝(きんさつきんほう)を授けられ、歳禄(さいろく)は万石(まんせき)、府には官属を置き、護衛の甲士(こうし)、少(すくな)き者は三千人、多き者は一万九千人に至り、冕服(べんぷく)車旗(しゃき)邸第(ていだい)は、天子に下(くだ)ること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、亦(また)至れりというべし。且つ元(げん)の裔(えい)の猶(なお)存して、時に塞下(さいか)に出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中(こくちゅう)に専制し、三護衛の重兵(ちょうへい)を擁するを得せしめ、将を遣(や)りて諸路の兵を徴(め)すにも、必ず親王に関白して乃(すなわ)ち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、亦(また)大なりというべし。太祖の意に謂(おも)えらく、是(かく)の如(ごと)くなれば、本支(ほんし)相(あい)幇(たす)けて、朱氏(しゅし)永く昌(さか)え、威権下(しも)に移る無く、傾覆の患(うれい)も生ずるに地無からんと。太祖の深智(しんち)達識(たっしき)は、まことに能(よ)く前代の覆轍(ふくてつ)に鑑(かんが)みて、後世に長計を貽(のこ)さんとせり。されども人智は限(かぎり)有り、天意は測り難し、豈(あに)図(はか)らんや、太祖が熟慮遠謀して施為(しい)せるところの者は、即(すなわ)ち是れ孝陵(こうりょう)の土未(いま)だ乾かずして、北平(ほくへい)の塵(ちり)既に起り、矢石(しせき)京城(けいじょう)に雨注(うちゅう)して、皇帝遐陬(かすう)に雲遊するの因とならんとは。 太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙(つと)に之(これ)を論じて、然(しか)る可(べ)からずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其(その)歳(とし)閏(うるう)九月、たま/\天文(てんもん)の変ありて、詔(みことのり)を下し直言(ちょくげん)を求められにければ、山西(さんせい)の葉居升(しょうきょしょう)というもの、上書して第一には分封の太(はなは)だ侈(おご)れること、第二には刑を用いる太(はなは)だ繁(しげ)きこと、第三には治(ち)を求むる太(はなは)だ速やかなることの三条を言えり。其の分封太侈(たいし)を論ずるに曰(いわ)く、都城百雉(ひゃくち)を過ぐるは国の害なりとは、伝(でん)の文にも見えたるを、国家今や秦(しん)晋(しん)燕(えん)斉(せい)梁(りょう)楚(そ)呉(ご)(びん)の諸国、各其(その)地(ち)を尽して之(これ)を封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に亜(つ)ぎ、之に賜(たま)うに甲兵衛士の盛(さかん)なるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世(すうせい)の後は尾大(びだい)掉(ふる)わず、然(しか)して後に之が地を削りて之が権を奪わば、則(すなわ)ち其の怨(うらみ)を起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざれば則(すなわ)ち険(けん)を恃(たの)みて衡(こう)を争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、甚(はなはだ)しければ則ち間(かん)に縁(よ)りて而して起(た)たんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景(こうけい)皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の同宗(どうそう)父兄弟(ふけいてい)子孫(しそん)なり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の親子孫(しんしそん)なり。然るに世を易(か)うるの後は迭(たがい)に兵を擁して、以て皇帝を危(あやう)くせり。昔は賈誼(かぎ)漢の文帝に勧めて、禍を未萌(みぼう)に防ぐの道を白(もう)せり。願わくば今先(ま)ず諸王の都邑(とゆう)の制を節し、其の衛兵を減じ、其の彊里(きょうり)を限りたまえと。居升(きょしょう)の言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、正(まさ)に太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中(ごくちゅう)に終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして験(しるし)ありて、漢の七国の喩(たとえ)、眼(ま)のあたりの事となれるぞ是非無き。 七国の事、七国の事、嗚呼(ああ)是れ何ぞ明室(みんしつ)と因縁の深きや。葉居升(しょうきょしょう)の上書の出(い)ずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂(たいほんどう)というを建てたまい、古今(ここん)の図書を充(み)て、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注(ききょちゅう)の魏観(ぎかん)字(あざな)は※山(きざん)[#「木+巳」、256-9]というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書(かんじょ)の七図漢に叛(そむ)ける事を講じ聞(きか)せたりと答え白(もう)す。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直は孰(いずれ)に在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと対(こた)う。時に太祖肯(がえん)ぜずして、否(あらず)、其(そ)は講官の偏説なり。景帝(けいてい)太子たりし時、博局(はくきょく)を投じて呉王(ごおう)の世子(せいし)を殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯(ちょうさく)の説を聴きて、諸侯の封(ほう)を削りたり、七国の変は実に此(これ)に由る。諸子の為(ため)に此(この)事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は百姓(ひゃくせい)を撫(ぶ)し、国家の藩輔(はんぽ)となりて、天下の公法を撓(みだ)す無かれと言うべきなり、此(かく)の如くなれば則ち太子たるものは、九族を敦睦(とんぼく)し、親しきを親しむの恩を隆(さか)んにすることを知り、諸子たるものは、王室を夾翼(きょうよく)し、君臣の義を尽すことを知らん、と評論したりとなり。此(こ)の太祖の言は、正(まさ)に是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、夙(はや)くより此(この)意ありたればこそ、其(それ)より二年ほどにして、洪武三年に、※(そう)[#「木+爽」、UCS-6A09、257-9]、棡(こう)、棣(てい)、※(しゅく)[#「木+肅」、UCS-6A5A、257-9]、(てい)、榑(ふ)、梓(しん)、檀(たん)、※(き)[#「木+巳」、257-10]の九子を封じて、秦(しん)晋(しん)燕(えん)周(しゅう)等に王とし、其(その)甚(はなはだ)しきは、生れて甫(はじ)めて二歳、或(あるい)は生れて僅(わずか)に二ヶ月のものをすら藩王とし、次(つ)いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、而(しこう)して又夙(はや)くより此意ありたればこそ、葉居升(しょうきょしょう)が上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。しかも太祖が懿文(いぶん)太子に、七国反漢の事を喩(さと)したりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、斯(か)ばかり思いしことの、其(その)身(み)死すると共に直(ただち)に禍端乱階(かたんらんかい)となりて、懿文(いぶん)の子の允(いんぶん)、七国反漢の古(いにしえ)を今にして窘(くるし)まんとは。不世出の英雄朱元璋(しゅげんしょう)も、命(めい)といい数(すう)というものゝ前には、たゞ是(これ)一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。 七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後を承(う)けて其(その)御子(おんこ)允皇太孫の位に即(つ)かせたもう。継紹(けいしょう)の運まさに是(かく)の如くなるべきが上に、下(しも)は四海の心を繋(か)くるところなり。上(かみ)は一人(にん)の命(めい)を宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに皇儲(こうちょ)となりたまえる上は、齢(よわい)猶(なお)弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王或(あるい)は功あり或は徳ありと雖(いえど)も、遠からず俯首(ふしゅ)して命(めい)を奉ずべきなれば、理に於(おい)ては当(まさ)に之(これ)を敬すべきなり。されども諸王は積年の威を挟(はさ)み、大封の勢(いきおい)に藉(よ)り、且(かつ)は叔父(しゅくふ)の尊きを以(もっ)て、不遜(ふそん)の事の多かりければ、皇太孫は如何(いか)ばかり心苦しく厭(いと)わしく思いしみたりけむ。一日(いちじつ)東角門(とうかくもん)に坐して、侍読(じどく)の太常卿(たいじょうけい)黄子澄(こうしちょう)というものに、諸王驕慢(きょうまん)の状を告げ、諸(しょ)叔父(しゅくふ)各大封重兵(ちょうへい)を擁し、叔父の尊きを負(たの)みて傲然(ごうぜん)として予に臨む、行末(ゆくすえ)の事も如何(いかが)あるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんと曰(のたま)いたもう。子澄名は(てい)、分宜(ぶんぎ)の人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りと雖(いえど)も、世故(せいこ)に練達することは未(いま)だ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例は其(その)昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にして纔(わずか)に身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国叛(そむ)きたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、誰(たれ)か能(よ)く之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、御心(みこころ)安く思召(おぼしめ)せ、と七国の古(いにしえ)を引きて対(こた)うれば、太孫は子澄が答を、げに道理(もっとも)なりと信じたまいぬ。太孫猶(なお)齢(とし)若く、子澄未だ世に老いず、片時(へんじ)の談、七国の論、何ぞ図(はか)らん他日山崩れ海湧(わ)くの大事を生ぜんとは。 太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、同(どう)閏(うるう)五月西宮(せいきゅう)に崩ず。其(その)遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度(いくたび)と無く畏(おそ)るべき危険の境を冒して、無産無官又無家(むか)、何等(なんら)の恃(たの)むべきをも有(も)たぬ孤独の身を振い、終(つい)に天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、慮(おも)[#ルビの「おも」は底本では「おもい」]い竭(つく)して民を済(すく)い、而(しこう)して礼を尚(たっと)び学を重んじ、百忙(ぼう)の中(うち)、手に書を輟(や)めず、孔子の教(おしえ)を篤信し、子(し)は誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ず此(これ)に依拠し、又蚤歳(そうさい)にして仏理に通じ、内典を知るも、梁(りょう)の武帝の如く淫溺(いんでき)せず、又老子(ろうし)を愛し、恬静(てんせい)を喜び、自(みず)から道徳経註(どうとくけいちゅう)二巻を撰(せん)し、解縉(かいしん)をして、上疏(じょうそ)の中に、学の純ならざるを譏(そし)らしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚(こうしょう)せず、嘗(かつ)て宗濂(そうれん)に謂(い)って、人君能(よ)く心を清くし欲を寡(すくな)くし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々々(ききこうこう)として自(みずか)ら知らざらしめば、是れ即ち神仙なりと曰(い)い、詩文を善(よ)くして、文集五十巻、詩集五巻を著(あらわ)せるも、同(せんどう)と文章を論じては、文はたゞ誠意溢出(いっしゅつ)するを尚(たっと)ぶと為し、又洪武六年九月には、詔(みことのり)して公文に対偶文辞(たいぐうぶんじ)を用いるを禁じ、無益の彫刻藻絵(そうかい)を事とするを遏(とど)めたるが如き、まことに通ずること博(ひろ)くして拘(とら)えらるゝこと少(すくな)く、文武を兼(か)ねて有し、智有を併(あわ)せて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高(かいてんこうどうちょうきりつきょくたいせいししんじんぶんぎぶしゅんとくせいこうこう)皇帝の諡号(しごう)に負(そむ)かざる朱元璋(しゅげんしょう)、字(あざな)は国瑞(こくずい)の世(よ)を辞(じ)して、其(その)身は地に入り、其神(しん)は空(くう)に帰せんとするに臨みて、言うところ如何(いかん)。一鳥の微(び)なるだに、死せんとするや其声人を動かすと云わずや。太祖の遺詔感ず可(べ)く考う可(べ)きもの無からんや。遺詔に曰く、朕(ちん)皇天の命を受けて、大任に世に膺(あた)ること、三十有一年なり、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき。奈何(いかん)せん寒微(かんび)より起りて、古人の博智無く、善を好(よみ)し悪を悪(にく)むこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕危懼(きく)す、慮(はか)るに終らざることを恐るのみ。今万物自然の理を得(う)、其(そ)れ奚(いずく)んぞ哀念かこれ有らん。皇太孫允(いんぶん)、仁明孝友にして、天下心を帰す、宜(よろ)しく大位に登るべし。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐(ほゆう)し、以(もっ)て吾(わ)が民を福(さいわい)せよ。葬祭の儀は、一に漢の文帝の如くにして異(こと)にする勿(なか)れ。天下に布告して、朕が意を知らしめよ。孝陵の山川(さんせん)は、其の故(ふるき)に因りて改むる勿(なか)れ、天下の臣民は、哭臨(こくりん)する三日にして、皆服を釈(と)き、嫁娶(かしゅ)を妨ぐるなかれ。諸王は国中に臨(なげ)きて、京師に至る母(なか)れ。諸(もろもろ)の令の中(うち)に在らざる者は、此令を推して事に従えと。 嗚呼(ああ)、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任に膺(あた)ること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真に是(こ)れ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕(あいあいじんじょ)の情景、百歳の下(しも)、人をして欽仰(きんごう)せしむるに足るものあり。奈何(いかん)せん寒微より起りて、智浅く徳寡(すくな)し、といえるは、謙遜(けんそん)の態度を取り、反求(はんきゅう)の工夫に切に、諱(い)まず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死旦夕(たんせき)に在り、といえるは、英雄も亦(また)大限(たいげん)の漸(ようや)く逼(せま)るを如何(いかん)ともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れ奚(いずく)にぞ哀念かこれ有らん、と云(い)える、流石(さすが)に孔孟仏老(こうもうぶつろう)の教(おしえ)に於(おい)て得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑少(すくな)きは、世間の常態なるが、太祖は是れ真(しん)豪傑、生きて長春不老の癡想(ちそう)を懐(いだ)かず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容(しょうよう)として逼(せま)らず、晏如(あんじょ)として(おそ)れず、偉なる哉(かな)、偉なる哉。皇太孫允(いんぶん)、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一言(げん)や鉄の鋳られたるが如(ごと)し。衆論の糸の紛(もつ)るゝを防ぐ。これより前(さき)、太孫の儲位(ちょい)に即(つ)くや、太祖太孫を愛せざるにあらずと雖(いえど)も、太孫の人となり仁孝聡頴(そうえい)にして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気は甚(はなは)だ欠く。此(これ)を以て太祖の詩を賦せしむるごとに、其(その)詩婉美柔弱(えんびじゅうじゃく)、豪壮瑰偉(かいい)の処(ところ)無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句(しく)の属対(ぞくたい)をなさしめしに、大(おおい)に旨(し)に称(かな)わず、復(ふたた)び以て燕王(えんおう)棣(てい)に命ぜられけるに、燕王の語は乃(すなわ)ち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌(ようぼう)偉(い)にして髭髯(しぜん)美(うる)わしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]に肖(に)たること多かりしかば、太祖も此(これ)を悦(よろこ)び、人も或(あるい)は意(こころ)を寄するものありたり。此(ここ)に於(おい)て太祖密(ひそか)に儲位(ちょい)を易(か)えんとするに意(い)有りしが、劉三吾(りゅうさんご)之(これ)を阻(はば)みたり。三吾は名は如孫(じょそん)、元(げん)の遺臣なりしが、博学にして、文を善(よ)くしたりければ、洪武十八年召されて出(い)でゝ仕えぬ。時に年七十三。当時汪叡(おうえい)、朱善(しゅぜん)と与(とも)に、世(よ)称して三老(ろう)と為(な)す。人となり慷慨(こうがい)にして城府を設けず、自ら号して坦坦翁(たんたんおう)といえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平(せいへい)実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に与(あずか)りて定むる所多く、帝の洪範(こうはん)の注成るや、命を承(う)けて序を為(つく)り、勅修(ちょくしゅう)の書、省躬録(せいきゅうろく)、書伝会要(しょでんかいよう)、礼制集要(れいせいしゅうよう)等の編撰(へんせん)総裁となり、居然(きょぜん)たる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節(たいせつ)に臨むに至りては、屹(きつ)として奪う可(べ)からず。懿文(いぶん)太子の薨(こう)ずるや、身を挺(ぬき)んでゝ、皇孫は世嫡(せいちゃく)なり、大統を承(う)けたまわんこと、礼也(なり)、と云いて、内外の疑懼(ぎく)を定め、太孫を立てゝ儲君(ちょくん)となせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ言(げん)無からん、乃(すなわ)ち曰(いわ)く、若(も)し燕王を立て給(たま)わば秦王(しんおう)晋王(しんおう)を何の地に置き給わんと。秦王※(そう)[#「木+爽」、UCS-6A09、265-7]、晋王棡(こう)は、皆燕王の兄たり。孫(そん)を廃して子(し)を立つるだに、定まりたるを覆(かえ)すなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、世(よ)豈(あに)事無くして已(や)まんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、其(その)事止(や)みけるなり。是(かく)の如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍を遏(とど)めて、特(こと)に厳しく皇太孫允宜(よろ)しく大位に登るべしとは詔を遺(のこ)されたるなるべし。太祖の治(ち)を思うの慮(りょ)も遠く、皇孫を愛するの情も篤(あつ)しという可し。葬祭の儀は、漢の文帝の如(ごと)くせよ、と云える、天下の臣民は哭臨(こくりん)三日にして服を釈(と)き、嫁娶(かしゅ)を妨ぐる勿(なか)れ、と云える、何ぞ倹素(けんそ)にして仁恕(じんじょ)なる。文帝の如くせよとは、金玉(きんぎょく)を用いる勿れとなり。孝陵の山川は其の故(もと)に因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をして福(さいわい)あらしめんとなり。諸王は国中に臨(なげ)きて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、蓋(けだ)し其(その)意(い)諸王其の封を去りて京に至らば、前代の遺(いげつ)、辺土の黠豪(かつごう)等、或(あるい)は虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原(りょうげん)の勢を成すに至らんことを虞(おそ)るるに似たり。此(こ)も亦(また)愛民憂世の念、おのずから此(ここ)に至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼(ああ)、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。
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