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運命(うんめい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:19:37  点击:  切换到繁體中文



 永楽えいらく元年、帝雲南うんなん永嘉寺えいかじとどまりたもう。二年、雲南をで、重慶じゅうけいより襄陽じょうよういたり、また東して、史彬しひんの家に至りたもう。留まりたもうこと三日、杭州こうしゅう天台てんだい雁蕩がんとうゆうをなして、又雲南に帰りたもう。
 三年、重慶の大竹善慶里たいちくぜんけいりに至りたもう。このとしもしくは前年の事なるべし、帝金陵きんりょうの諸臣惨死さんしの事を聞きたまい、※(「さんずい+玄」、第3水準1-86-62)げんぜんとして泣きて曰く、我罪を神明にたり、諸人皆我がためにするなりと。
 建文帝けんぶんていは今は僧応文おうぶんたり。心のうちはいざ知らず、袈裟けさ枯木こぼくの身を包みて、山水に白雲の跡をい、あるい草庵そうあん、或は茅店ぼうてんに、閑坐かんざし漫遊したまえるが、燕王えんおう今は皇帝なり、万乗の尊にりて、一身の安き無し。永楽元年には、韃靼だったんの兵、遼東りょうとうを犯し、永平えいへいあだし、二年には韃靼だったん瓦剌わら(Oirats, 西部蒙古)とのあい和せる為に、辺患無しといえども、三年には韃靼の塞下さくかを伺うあり。ことこのとしはタメルラン大兵を起して、道を別失八里ベシバリ(Bisbalik)に取り、甘粛かんしゅくよりして乱入せんとするの事あり。甘粛はけいる遠しといえども、タメルランの勇威猛勢は、太祖の時よりして知るところたり、永楽帝の憂慮察すし。このこと明史みんしには其の外国伝に、朝廷、帖木児チモルの道を別失八里ベシバリに仮りて兵を率いて東するを聞き、甘粛かんしゅく総兵官そうへいかん宋晟そうせいに勅して※(「にんべん+敬」、第3水準1-14-42)けいびせしむ、とあるに過ぎず。しかれども塞外さくがいの事には意を用いること密にして、永楽八年以後、数々しばしば漠北ばくほくを親征せしほどの帝の、帖木児チモル東せんとするを聞きては、いずくんぞ晏然あんぜんたらん。太祖の洪武こうぶ二十八年、傅安ふあん帖木児チモルもと使つかいせしめて、あんなおいまかえらず、たちまちにしてこの報を得、疑虞ぎぐする無きを得んや。帖木児チモル、父は答剌豈タラガイ(Taragai)、げんの至元二年をもって生る。生れてなりしかば、にくむ者チムールレンク(Timurlenk)と呼ぶ。レンクはの義の波斯ペルシヤ語なり。タメルランの称これによって起る。人となり雄毅ゆうき、兵を用いまつりごとすをくす。太祖たいそみんもといを開くに前後しておおいいきおいを得、洪武五年より後、征戦三十余年、威名亜非利加アフリカ欧羅巴ヨウロッパに及ぶ。帖木児チモルは回教を奉ず。明のはじめ回教の徒の甘粛に居る者を放つ。回徒多く帖木児チモルの領土にす。帖木児チモルの甘粛より入らんとせるも、故ある也。永楽元年(1403)より永楽三年に至るまで帖木児チモルもとりしクラウイヨ(Clavijo, Castilian Ambassador)しるす、タメルラン、支那しな帝使を西班牙スペイン帝使のしもに座せしめ、わがたり友たる西帝せいていの使を、賊たり無頼の徒たる支那帝の使の下にせしむるなかれといしと。又同時タメルラン軍営につかえしバワリヤ人シルトベルゲル(T. Schiltberger)記す、支那帝使進貢しんこうを求む、タメルラン怒って曰く、われまた進貢せざらん、貢を求めば帝みずからきたれと。すなわ使つかいを発して兵を徴し、百八十万を得、まさに発せんとしたりと。西暦千三百九十八年は、タメルラン西部波斯ペルシヤを征したりしが、そのふゆ明の太祖及び埃及エジプト王の死を知りたりとなり帖木児チモルが意を四方に用いたる知る可し。しからばすなわち燕王の兵を起ししよりついくらいくに至るの事、タメルランこれを知る久し。建文二年(1400)よりタメルランはオットマン帝国を攻めしが、外にる五年にして、永楽二年(1404)サマルカンドにかえりぬ。カスチリヤの使と、支那の使とを引見したるは、すなわこのとしにして、の翌年ただちに馬首を東にし、争乱のの支那に乱入せんとしたる也。永楽帝のこの報を得るや、宋晟そうせいちょくして※(「にんべん+敬」、第3水準1-14-42)けいびせしむるのみならず、備えたるあること知りぬし。宋晟は好将軍なり、平羌将軍へいきょうしょうぐん西寧侯せいねいこうたり。かつて御史ぎょしありてせいの自らもっぱらにすることをがいしけるに、帝かずして曰く、人に任ずるせんならざれば功を成すあたわず、いわんや大将は一辺を統制す、いずくんぞく文法にかかわらんと。又かつて曰く、西北の辺務は、一にもっけいゆだぬと。其の材武称許せらるゝかくの如し。タメルランのきたらんとするや、帝また別におそるゝところあり。けだし燕の兵を挙ぐるに当って、史これを明記せずといえども、韃靼だったんの兵を借りてもって功を成せること、蔚州いしゅうを囲めるの時に徴して知る可し。建文いまだ死せず、従臣のうち道衍どうえん金忠きんちゅうの輩の如き策士あって、西北の胡兵こへいを借るあらば、天下の事知る可からざるなり。鄭和ていか胡「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、411-12]《こえい》のづるある、徒爾とじならんや。建文の草庵そうあんの夢、永楽の金殿きんでんの夢、其のいずれか安くして、いずれか安からざりしや、こころみに之を問わんと欲する也。さいわいにしてタメルランは、千四百〇五年すなわち永楽三年二月の十七日、病んでオトラル(Otoral)に死し、二雄あい下らずして龍闘虎争りゅうとうこそうするの惨禍さんか禹域ういきの民にこうむらしむること無くしてみぬ。

 四年応文おうぶん西平侯せいへいこうの家に至り、とどまること旬日、五月いおり白龍山はくりゅうざんに結びぬ。五年冬、建文帝、難に死せる諸人を祭り、みずから文をつくりてこれこくしたもう。朝廷ていもとむることみつなれば、帝深くひそみてでず。このとし傅安ふあんちょうに帰る。安の胡地こち歴游れきゆうする数万里、域外にとどまるほとんど二十年、著す所西遊勝覧詩せいゆうしょうらんしあり、後の好事こうずの者の喜び読むところとなる。タメルランののち哈里ハリ(Hali)雄志ゆうし無し、使つかいあんに伴わしめ方物ほうぶつこうす。六年、白龍庵さいあり、程済ていせい[#ルビの「ていせい」は底本では「ていさい」]つのく。七年、建文帝、善慶里ぜんけいりに至り、襄陽じょうように至り、※(「さんずい+眞」、第3水準1-87-1)てんかえる。朝廷ひそかに帝を雲南うんなん貴州きしゅうの間にもとむ。
 八年春三月、工部尚書こうぶしょうしょ厳震げんしん安南あんなん使つかいするのみちにして、たちまち建文帝に雲南にう。旧臣なお錦衣きんいにして、旧帝すで布衲ふとつなり。しんたゞ恐懼きょうくして落涙とどまらざるあるのみ。帝、我を奈何いかんせんとするぞや、と問いたもう。震こたえて、君は御心みこころのまゝにおわせ、臣はみずから処する有らんともうす。人生の悲しきに堪えずや有りけん、その駅亭にみずからくびれて死しぬ。夏、帝白龍庵に病みたもう。史彬しひん程亨ていこう郭節かくせつたま/\至る。三人留まる久しくして、帝これをりたまい、今後再びきたなかれ、我安居あんきょす、心づかいすなとおおす。帝白龍庵をてたもう。このとし永楽帝は去年丘福きゅうふく漠北ばくほくに失えるを以て北京ほくけいを発して胡地こちに入り、本雅失里ベンヤシリ(Benyashili)阿魯台アルタイ(Altai)と戦いて勝ち、擒狐山きんこざん清流泉せいりゅうせんの二処に銘をろくして還りたもう。
 九年春、白龍庵有司ゆうしこぼつところとなる。夏建文帝浪穹ろうきゅう鶴慶山かくけいざんに至り、大喜庵たいきあんを建つ。十年楊応能ようおうのう卒し、葉希賢しょうきけんいで卒す。帝って一弟子いちていしれて応慧おうえと名づけたもう。十一年てんに至りて還り、十二年易数を学びたもう。このとし永楽帝また塞外さくがいで、瓦剌オイラトを征したもう。皇太孫九龍口きゅうりゅうこうおいて危難に臨む。十三年建文帝衡山こうざんに遊ばせたもう。十四年、帝程済ていせいに命じて従亡伝じゅうぼうでんを録せしめ、みずからじょつくらる。十五年史彬しひん白龍庵に至る、あんを見ず、驚訝きょうがして帝をもとめ、つい大喜庵たいきあんい奉る。十一月帝衡山こうざんに至りたもう、避くるある也。十六年、きんに至りたもう。十七年始めて仏書をたもう。十八年蛾眉がびに登り、十九年えつに入り、海南諸勝に遊び、十一月還りたもう。このとし阿魯台アルタイ反す。二十年永楽帝、阿魯台アルタイを親征す。二十一年建文帝章台山しょうだいさんに登り、漢陽かんように遊び、大別山たいべつざんとどまりたもう。
 二十二年春、建文帝東行したまい、冬十月史彬しひんと旅店にあいう。このとし阿魯台アルタイ大同だいどう[#ルビの「だいどう」は底本では「たいどう」]あだす。去年阿魯台アルタイを親征し、阿魯台アルタイのがれて戦わず、師むなしく還る。今又さいを犯す。永楽帝また親征す。敵にわずして、軍食ぐんし足らざるに至る。帰路楡木川ゆぼくせんし、急に病みて崩ず。けだし疑うきあるなり。永楽帝既に崩じ、建文帝なおり、帝と史彬しひん客舎かくしゃあいい、老実貞良の忠臣の口より、簒国奪位さんこくだつい叔父しゅくふの死を聞く。世事せいじ測る可からずといえども、薙髪ちはつしてきゅうを脱し、堕涙だるいして舟に上るの時、いずくんぞ茅店ぼうてんの茶後に深仇しんきゅう冥土めいどに入るを談ずるの今日あるを思わんや。あゝまた奇なりというべし。知らず応文禅師おうぶんぜんじ如何いかんの感をせるを。すなわひんとゝもに江南に下り、彬の家に至り、やがて天台山てんだいさんに登りたもう。
 仁宗じんそう※(「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1-87-58)こうき元年正月、建文帝観音大士かんおんだいし潮音洞ちょうおんどうに拝し、五月山に還りたもう。このとし仁宗また崩じて、帝をもとむること、ようやくに忘れらる。宣宗せんそう宣徳せんとく元年秋八月、従亡じゅうぼう諸臣を菴前あんぜんに祭りたもう。このとし漢王かんおう高煦こうこう反す。高煦は永楽帝の子にして、仁宗の同母弟、宣徳帝せんとくてい叔父しゅくふなり。燕王の兵を挙ぐるや、高煦父にしたがって力戦す。材武みずからたのみ、騎射をくし、はなはだ燕王にたり。永楽帝のちょを立つるに当って、丘福きゅうふく王寧おうねいの武臣こころを高煦に属するものあり。高煦またひそかに戦功をたのみて期するところあり。しかれども永楽帝長子ちょうしを立てゝ、高煦を漢王とす。高煦怏々おうおうたり。仁宗立ってそのとし崩じ、仁宗の子大位にくに及びて、ついに反す。高煦の宣徳帝せんとくていけるは、なお燕王の建文帝に於けるが如きなり。その父反してしかして帝たり、高煦父のせるところを学んで、陰謀至らざる無し。しかれども事発するに至って、帝親征して之をくだす。高煦すなわち廃せられて庶人しょじんとなる。後鎖※さしつ[#「執/糸」、UCS-7E36、416-8]されて逍遙城しょうようじょうれらるゝや、一日いちじつ帝の之を熟視するにあう。高煦急に立って帝の不意にで、一足いっそくのばして帝をこうし地に※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)ばいせしむ。帝おおいに怒って力士に命じ、大銅缸だいどうこうもって之をおおわしむ。高煦多力たりきなりければ、こうの重き三百きんなりしも、うなじこうを負いてつ。帝炭を缸上に積むこと山の如くならしめて之をもやす。高煦生きながらに焦熱地獄にし、高煦の諸子皆死を賜う。燕王範を垂れて反をあえてし、身さいわいにして志を得たりと雖も、ついに域外の楡木川ゆぼくせんに死し、愛子高煦は焦熱地獄につ。如是果にょぜか如是報にょぜほうかなしいたむ可く、驚く可く嘆ずべし。
 二年冬、建文帝永慶寺えいけいじ宿しゅくして詩を題して曰く、

杖錫じょうしゃく きたり遊びて 歳月深し、
山雲 水月 閑吟にふ。
塵心じんしん 消尽しょうじんして 些子さしも無し、
受けず 人間の物色の侵すを。


 これより帝優游自適ゆうゆうじてき、居然として一頭陀いちずだなり。九年史彬しひん死し、程済ていせいなお従う。帝詩をくしたもう。かつしたまえる詩の一に曰く、

牢落ろうらく 西南 四十秋、
蕭々しょうしょうたる白髪 すでこうべつ。
乾坤けんこん うらみあり 家いづくにかる。
江漢 じょう無し 水おのづから流る。
長楽 宮中きゅうちゅう 雲気散じ、
朝元ちょうげん 閣上 雨声収まる。
新蒲しんぽ 細柳さいりゅう 年々緑に、
野老やろう 声をんで こくしていままず。


 又かつ貴州きしゅう金竺きんちく長官司羅永菴しらえいあんへきに題したまえる七律二章の如き、皆しょうす可し。其二に曰く、

楞厳りょうごんけみんで けいたたくにものうし。
笑ってる 黄屋こうおく 団瓢だんぴょうを寄す。
南来 瘴嶺しょうれい 千層※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)はるかに、
北望 天門 万里はるかなり。
款段かんだん 久しく 忘る 飛鳳ひほうれん
袈裟けさ あらたかわる ※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)こんりゅうほう
百官 この 知るいずれのところぞ、
ただ有り 羣烏ぐんうの 早晩に朝する。


 建文帝かくの如くにして山青く雲白きところに無事の余生を送り、僊人せんにん隠士いんし踪跡そうせき沓渺ようびょうとして知る可からざるが如くに身を終る可く見えしが、天意不測にして、魚は深淵しんえんひそめども案に上るの日あり、とりは高空にくれども天に宿しゅくするによし無し。忽然こつぜんとしてまたきゅうに入るに及びたもう。そのことまことに意表にづ。帝の同寓どうぐうするところの僧、帝の詩を見て、ついに建文帝なることを猜知すいちし、その詩をぬすみ、思恩しおん知州ちしゅう岑瑛しんえいのところに至り、われは建文皇帝なりという。こころけだし今の朝廷また建文をくるしめずして厚くこれを奉ず可きをおもえるなり。えいはこれを聞きておおいに驚き、ことごと同寓どうぐうの僧を得て之を京師けいしに送り、飛章ひしょうして以聞いぶんす。帝及び程済ていせいけいに至るのすうに在り。御史ぎょし僧をただすに及びて、僧曰く、年九十余、今たゞ祖父のりょうかたわらに葬られんことを思うのみと。御史、建文帝は洪武こうぶ十年に生れたまいて、正統せいとう五年をへだたる六十四歳なるを以て、何ぞ九十歳なるを得んとて之を疑い、ようやく詰問して遂にそのなるを断ず。僧じつ鈞州きんしゅう白沙里はくさりの人、楊応祥ようおうしょうというものなり。よって奏して僧を死に処し、従者十二人を配流して辺をまもらしめんとす。帝そのうちり。ここおいむを得ずしてその実を告げたもう。御史また今更におおいに驚きて、この事を密奏す。正統帝せいとうてい御父おんちち宣宗せんそう皇帝は漢王高煦こうこうの反に会いたまいて、さいわいに之を降したまいたれども、叔父しゅくふために兵をうごかすに至りたるの境遇は、まことに建文帝に異なること無し。宣宗せんそうぎたまいたる天子の、建文帝に対して如何いかんの感をやしたまえる。御史の密奏を聞召きこしめして、すなわ宦官かんがんの建文帝に親しくつかえたる者を召して実否を探らしめたもう。呉亮ごりょうというものあり、建文帝につかえたり。すなわち亮をして応文の果して帝なるやあらぬやを探らしめたもう。亮の応文おうぶんを見るや、応文たゞちに、なんじは呉亮にあらずや、と云いたもう。亮なおしからざるを申せば、帝ふるき事を語りたまいて、なんじ亮にあらずというや、とおおす。亮胸ふさがりて答うるあたわず、こくして地に伏す。建文帝の左の御趾おんあしには黒子ほくろありたまいしことを思ひでゝ、亮近づきて、御趾おんあしるに、まさしく其のしるし御座おわしたりければ、懐旧の涙とどめあえず、また仰ぎることあたわず、退いてそのよしを申し、さて後自経して死にけり。こゝに事実明らかになりしかば、建文帝を迎えて西内せいだいに入れたてまつる。程済ていせいこの事を聞きて、今日こんにち臣が事終りぬとて、雲南に帰りてあんき、同志の徒を散じぬ。帝は宮中に在り、老仏ろうぶつを以て呼ばれたまい、寿じゅをもて終りたまいぬという。

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