妄に動けば 悔あり、
道は 悖る可からず。
汝 才ありと謂ふ勿れ、
後に 万世あり。
又嘗て紙の銘を為る。曰く、
之を以て言を立つ、其の道を載せんを欲す。
之を以て事を記す、其の民を利せんを欲す。
之を以て教を施す、其の義ならんを欲す。
之を以て法を制す、其の仁ならんを欲す。
此等の文、蓋し少時の為る所なり。嗚呼、運命遭逢、又何ぞ奇なるや。二十余年の後にして、筆紙前に在り。これに臨みて詔を草すれば、富貴我を遅つこと久し、これに臨みて命を拒まば、刀鋸我に加わらんこと疾し。嗚呼、正学先生、こゝに於て、成王いずくに在りやと論じ、こゝに於て筆を地に擲って哭す。父に負かず、師に負かず、天に合して人に合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせず、凛々烈々として、屈せず撓まず、苦節伯夷を慕わんとす。壮なる哉。
帝、孝孺の一族を収め、一人を収むる毎に輙ち孝孺に示す。孝孺顧みず、乃ち之を殺す。孝孺の妻鄭氏と諸子とは、皆先ず経死す。二女逮えられて淮を過ぐる時、相与に橋より投じて死す。季弟孝友また逮えられて将に戮せられんとす。孝孺之を目して涙下りければ、流石は正学の弟なりけり、
阿兄 何ぞ必ずしも 涙潜々たらむ、
義を取り 仁を成す 此間に在り。
華表 柱頭 千歳の後、
旅魂 旧に依りて 家山に到らん。
と吟じて戮せられぬ。母族林彦清等、妻族鄭原吉等九族既に戮せられて、門生等まで、方氏の族として罪なわれ、坐死する者およそ八百七十三人、遠謫配流さるゝもの数う可からず。孝孺は終に聚宝門外に磔殺せられぬ。孝孺慨然、絶命の詞を為りて戮に就く。時に年四十六、詞に曰く、
天降二乱離一兮孰知二其由一。
奸臣得レ計兮謀レ国用レ猶。
忠臣発レ憤兮血涙交流。
以レ此殉レ君兮抑又何求。
嗚呼哀哉兮庶不二我尤一。
廖廖銘は孝孺の遺骸を拾いて聚宝門外の山上に葬りしが、二人も亦収められて戮せられ、同じ門人林嘉猷は、かつて燕王父子の間に反間の計を為したるもの、此亦戮せられぬ。
方氏一族是の如くにして殆ど絶えしが、孝孺の幼子徳宗、時に甫めて九歳、寧海県の典史魏公沢の護匿するところとなりて死せざるを得、後孝孺の門人兪公允の養うところとなり、遂に兪氏を冒して、子孫繁衍し、万暦三十七年には二百余丁となりしこと、松江府の儒学の申文に見え、復姓を許されて、方氏また栄ゆるに至れり。廖氏[#「廖氏」は底本では「氏」]二子及び門人王※[#「禾+余」、UCS-7A0C、395-2]等拾骸の功また空しからず、万暦に至って墓碑祠堂成り、祭田及び嘯風亭等備わり、松江に求忠書院成るに及べり。世に在る正学先生の如くにして、豈後無く祠無くして泯然として滅せんや。
節に死し族を夷せらるゝの事、もと悲壮なり。是を以て後の正学先生の墓を過ぎる者、愴然として感じ、然として泣かざる能わず。乃ち祭弔慷慨の詩、累篇積章して甚だ多きを致す。衛承芳が古風一首、中に句あり、曰く、
古来 馬を
叩く者、
采薇 逸民を称す。
明の徳
ぞ
周に
遜らん。
乃ち其の仁を成す無からんや。
と。劉秉忠を慕うの人道衍は其の功を成して秉忠の如くなるを得、伯夷を慕うの人方希直は其の節を成して伯夷に比せらるゝに至る。王思任二律の一に句あり、曰く、
十族 魂の 暗き月に依る有り、
九原 愧の 青灯に付する無し。
と、李維五律六首の中に句あり、曰く、
国破れて 心 仍在り、
身危ふして 舌 尚存す。
又句あり、曰く、
気は壮なり 河山の色、
神は留まる 宇宙の身。
燕王今は燕王にあらず、儼として九五の位に在り、明年を以て改めて永楽元年と為さんとす。而して建文皇帝は如何。燕王の言に曰く、予始め難に遘う、已むを得ずして兵を以て禍を救い、誓って奸悪を除き、宗社を安んじ、周公の勲を庶幾せんとす。意わざりき少主予が心を亮とせず、みずから天に絶てりと。建文皇帝果して崩ぜりや否や。明史には記す、帝終る所を知らずと。又記す、或は云う帝地道より出で亡ぐと。又記す、黔巴蜀の間、相伝う帝の僧たる時の往来の跡ありと。これ言を二三にするものなり。帝果して火に赴いて死せるか、抑又髪を薙いで逃れたるか。明史巻一百四十三、牛景先の伝の後に、忠賢奇秘録および致身録等の事を記して、録は蓋し晩出附会、信ずるに足らず、の語を以て結び、暗に建文帝出亡、諸臣庇護の事を否定するの口気あり。然れども巻三百四、鄭和伝には、成祖、恵帝の海外に亡げたるを疑い、之を蹤跡せんと欲し、且つ兵を異域に輝かし、中国の富強を示さんことを欲すと記せり。鄭和の始めて西洋に航せしは、燕王志を得てよりの第四年、即ち永楽三年なり。永楽三年にして猶疑うあるは何ぞや。又給事中胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、398-8]と内侍朱祥とが、永楽中に荒徼を遍歴して数年に及びしは、巻二百九十九に見ゆ。仙人張三を索めんとすというを其名とすと雖も、山谷に仙を索めしむるが如き、永楽帝の聰明勇決にして豈真に其事あらんや。得んと欲するところの者の、真仙にあらずして、別に存するあること、知る可き也。蓋し此時に当って、元の余猶所在に存し、漠北は論無く、西陲南裔、亦尽くは明の化に順わず、野火焼けども尽きず、春風吹いて亦生ぜんとするの勢あり。且つや天一豪傑を鉄門関辺の碣石に生じて、カザン(Kazan)弑されて後の大帝国を治めしむ。これを帖木児(Timur)と為す。西人の所謂タメルラン也。帖木児サマルカンドに拠り、四方を攻略して威を振う甚だ大に、明に対しては貢を納ると雖も、太祖の末年に使したる傅安を留めて帰らしめず、之を要して領内諸国を歴遊すること数万里ならしめ、既に印度を掠めて、デリヒを取り、波斯を襲い、土耳古を征し、心ひそかに支那を窺い、四百余州を席巻して、大元の遺業を復せんとするあり。永楽帝の燕王たるや、塞北に出征して、よく胡情を知る。部下の諸将もまた夷事に通ずる者多し。王の南する、幕中に番騎を蔵す。凡そ此等の事に徴して、永楽帝の塞外の状勢を暁れるを知るべし。若し建文帝にして走って域外に出で、崛強にして自大なる者に依るあらば、外敵は中国を覦うの便を得て、義兵は邦内に起る可く、重耳一たび逃れて却って勢を得るが如きの事あらんとす。是れ永楽帝の懼れ憂うるところたらずんばあらず。鄭和の艦を泛めて遠航し、胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、401-2]の仙を索めて遍歴せる、密旨を啣むところあるが如し。而して又鄭は実に威を海外に示さんとし、胡は実に異を幽境に詢えるや論無し。善く射る者は雁影を重ならしめて而して射、善く謀る者は機会を復ならしめて而して謀る。一箭二雁を獲ずと雖も、一雁を失わず、一計双功を収めずと雖も、一功を得る有り。永楽帝の智、豈敢て建文を索むるを名として使を発するを為さんや。況んや又鄭和は宦官にして、胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、400-8]と偕にせるの朱祥も内侍たるをや。秘意察す可きあるなり。
鄭和は王景弘等と共に出て使しぬ。和の出づるや、帝、袁柳荘の子の袁忠徹をして相せしむ、忠徹曰く可なりと。和の率いる所の将卒二万七千八百余人、舶長さ四十四丈、広さ十八丈の者、六十二、蘇州劉家河より海に泛びて福建に至り、福建五虎門より帆を揚げて海に入る。閲三年にして、五年九月還る。建文帝の事、得る有る無し。而れども諸番国の使者和に随って朝見し、各々其方物を貢す。和又三仏斉国の酋長を俘として献ず。帝大に悦ぶ。是より建文の事に関せず、専ら国威を揚げしめんとして、再三和を出す。和の使を奉ずる、前後七回、其の間、或は錫蘭山(Ceylon)の王阿烈苦奈児と戦って之を擒にして献じ、或は蘇門答剌(Sumotala)の前の前の偽王の子蘇幹剌と戦って、其妻子を併せて俘として献じ、大に南西諸国に明の威を揚げ、遠く勿魯漠斯(Holumusze ペルシヤ)麻林(Mualin? アフリカ?)祖法児(Dsuhffar アラビヤ)天方(“Beitullah”House of God の訳、メッカ、アラビヤ)等に至れり。明史外国伝西南方のやゝ詳なるは、鄭和に随行したる鞏珍の著わせる西洋番国志を採りたるに本づく歟という。
胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、402-1]等もまた得る無くして已みぬ。然も張三を索めしこと、天下の知る所たり。乃ち三の居りし所の武当 大和山に観を営み、夫を役する三十万、貲を費す百万、工部侍郎郭※[#「王+追」、402-3]、隆平侯張信等、事に当りしという。三嘗て武当の諸巌壑に游び、此山異日必ず大に興らんといいしもの、実となってこゝに現じたる也。
建文帝は如何にせしぞや。伝えて曰く、金川門の守を失うや、帝自殺せんとす。翰林院編修程済白す、出亡したまわんには如かじと。少監王鉞跪いて進みて白す。昔高帝升遐したもう時、遺篋あり、大難に臨まば発くべしと宣いぬ。謹んで奉先殿の左に収め奉れりと。羣臣口々に、疾く出すべしという。宦者忽にして一の紅なる篋を舁き来りぬ。視れば四囲は固むるに鉄を以てし、二鎖も亦鉄を灌ぎありて開くべくも無し。帝これを見て大に慟きたまい、今はとて火を大内に放たせたもう。皇后は火に赴きて死したまいぬ。此時程済は辛くも篋を砕き得て、篋中の物を取出す。出でたる物は抑何ぞ。釈門の人ならで誰かは要すべき、大内などには有るべくも無き度牒というもの三張ありたり。度牒は人の家を出て僧となるとき官の可して認むる牒にて、これ無ければ僧も暗き身たるなり。三張の度牒、一には応文の名の録され、一には応能の名あり、一には応賢の名あり。袈裟、僧帽、鞋、剃刀、一々倶に備わりて、銀十錠添わり居ぬ。篋の内に朱書あり、之を読むに、応文は鬼門より出で、余は水関御溝よりして行き、薄暮にして神楽観の西房に会せよ、とあり。衆臣驚き戦きて面々相看るばかり、しばらくは言う者も無し。やゝありて天子、数なり、と仰[#ルビの「おお」は底本では「おおせ」]せあり。帝の諱は允、応文の法号、おのずから相応ずるが如し。且つ明の基を開きし太祖高皇帝はもと僧にましましき。後にこそ天下の主となり玉いたれ、元の順宗の至正四年年十七におわしける時は、疫病大に行われて、御父御母兄上幼き弟皆亡せたまえるに、家貧にして棺槨の供だに為したもう能わず、藁葬という悲しくも悲しき事を取行わせ玉わんとて、仲の兄と二人してみずから遺骸を舁きて山麓に至りたまえるに、絶えて又如何ともする能わず、仲の兄馳還ってを取りしという談だに遺りぬ。其の仲の兄も亦亡せたれば、孤身依るところなく、遂に皇覚寺に入りて僧と為り、食を得んが為に合に至り、光固汝頴の諸州に托鉢修行し、三歳の間は草鞋竹笠、憂き雲水の身を過したまえりという。帝は太祖の皇孫と生れさせたまいて、金殿玉楼に人となりたまいたれども、如是因、如是縁、今また袈裟念珠の人たらんとす。不思議というも余りあり。程済即ち御意に従いて祝髪しまいらす。万乗の君主金冠を墜し、剃刀の冷光翠髪を薙ぐ。悲痛何ぞ能く堪えんや。呉王の教授揚応能は、臣が名度牒に応ず、願わくは祝髪して随いまつらんと白す。監察御史葉希賢、臣が名は賢、応賢たるべきこと疑無しと白す。各髪を剃り衣を易えて牒を披く。殿に在りしもの凡そ五六十人、痛哭して地に倒れ、倶に矢って随いまつらんともうす。帝、人多ければ得失を生ずる無きを得ず、とて麾いて去らしめたもう。御史曾鳳韶、願わくは死を以て陛下に報いまつらん、と云いて退きつ、後果して燕王の召に応ぜずして自殺しぬ。諸臣大に慟きて漸くに去り、帝は鬼門に至らせたもう。従う者実に九人なり。至れば一舟の岸に在るあり。誰ぞと見るに神楽観の道士王昇にして、帝を見て叩頭して万歳を称え、嗚呼、来らせたまえるよ、臣昨夜の夢に高皇帝の命を蒙りて、此にまいり居たり、と申す。乃ち舟に乗じて太平門に至りたもう。昇導きまいらせて観に至れば、恰も已に薄暮なりけり。陸路よりして楊応能、葉希賢等十三人同じく至る。合二十二人、兵部侍郎廖平、刑部侍郎金焦、編修趙天泰、検討程亨、按察使王良、参政蔡運、刑部郎中梁田玉、中書舎人梁良玉、梁中節、宋和、郭節、刑部司務馮※[#「さんずい+寉」、405-12]、鎮撫牛景先、王資、劉仲、翰林侍詔鄭洽、欽天監正王之臣、太監周恕、徐王府賓輔史彬と、楊応能、葉希賢、程済となり。帝、今後はたゞ師弟を以て称し、必ずしも主臣の礼に拘らざるべしと宣う。諸臣泣いて諾す。廖平こゝに於て人々に謂って曰く、諸人の随わんことを願うは、固よりなり、但し随行の者の多きは功無くして害あり、家室の累無くして、膂力の捍ぎ衛るに足る者、多きも五人に過ぎざるを可とせん、余は倶に遙に応援を為さば、可ならんと。帝も、然るべしと為したもう。応能、応賢の二人は比丘と称し、程済は道人と称して、常に左右に侍し、馮※[#「さんずい+寉」、406-8][#「馮※[#「さんずい+寉」、406-8]」は底本では「憑※[#「さんずい+寉」、406-8]」]は馬二子と称し、郭節は雪菴と称し、宋和は雲門僧と称し、趙天泰は衣葛翁と称し、王之臣は補鍋を以て生計を為さんとして老補鍋と称し、牛景先は東湖樵夫と称し、各々姓を埋め名を変じて陰陽に扈従せんとす。帝は南に往きて西平侯に依らんとしたもう。史彬これを危ぶみて止め、臣等の中の、家いさゝか足りて、旦夕に備う可き者の許に錫を留めたまい、緩急移動したまわば不可無かるべしと白す。帝もこれを理ありとしたまいて、廖平、王良、鄭洽、郭節、王資、史彬、梁良玉の七家を、かわる/″\主とせんことに定まりぬ。翌日舟を得て帝を史彬の家に奉ぜんとす。同乗するもの八人、程、葉、楊、牛、馮、宋、史なり。余は皆涙を揮って別れまいらす。帝は道を陽に取りて、呉江の黄渓の史彬の家に至りたもうに、月の終を以て諸臣また漸く相聚まりて伺候す。帝命じて各々帰省せしめたもう。燕王位に即きて、諸官員の職を抛って遯去りし者の官籍を削る。呉江の邑丞鞏徳、蘇州府の命を以て史彬が家に至り、官を奪い、且曰く、聞く君が家建文皇帝をかしずくと。彬驚いて曰く、全く其事無しと。次の日、帝、楊、葉、程の三人と共に、呉江を出で、舟に上りて京口に至り、六合を過ぎ、陸路襄陽に至り、廖平が家に至りたもうに、其後を訊う者ありければ、遂に意を決して雲南に入りたもう。
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