運命 |
ほるぷ出版 |
1985(昭和60)年2月1日 |
1985(昭和60)年2月1日初版第1刷 |
世おのずから数というもの有りや。有りといえば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。洪水天に滔るも、禹の功これを治め、大旱地を焦せども、湯の徳これを済えば、数有るが如くにして、而も数無きが如し。秦の始皇帝、天下を一にして尊号を称す。威まことに当る可からず。然れども水神ありて華陰の夜に現われ、璧を使者に托して、今年祖龍死せんと曰えば、果して始皇やがて沙丘に崩ぜり。唐の玄宗、開元は三十年の太平を享け、天宝は十四年の華奢をほしいまゝにせり。然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨、陛下万里に行幸して、聖祚疆無からんと奏したりしかば、心得がたきことを白すよとおぼされしが、安禄山の乱起りて、天宝十五年蜀に入りたもうに及び、万里橋にさしかゝりて瞿然として悟り玉えりとなり。此等を思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。定命録、続定命録、前定録、感定録等、小説野乗の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭も、悉く天意に因るかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を畏れて、巫覡卜相の徒の前に首を俯せんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の教の下に心を安くせんには如かじ。かつや人の常情、敗れたる者は天の命を称して歎じ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共に陋とすべし。事敗れて之を吾が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委ねなば、其人偽らずして真、其器小ならずして偉なりというべし。先哲曰く、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者或は能く数を知らん。
古より今に至るまで、成敗の跡、禍福の運、人をして思を潜めしめ歎を発せしむるに足るもの固より多し。されども人の奇を好むや、猶以て足れりとせず。是に於て才子は才を馳せ、妄人は妄を恣にして、空中に楼閣を築き、夢裏に悲喜を画き、意設筆綴して、烏有の談を為る。或は微しく本づくところあり、或は全く拠るところ無し。小説といい、稗史といい、戯曲といい、寓言というもの即ち是なり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。豈図らんや造物の脚色は、綺語の奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する能わざるの巧緻あり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、試に看よ建文永楽の事を。
我が古小説家の雄を曲亭主人馬琴と為す。馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝の雄大、弓張月の壮快、皆江湖の嘖々として称するところなるが、八犬伝弓張月に比して優るあるも劣らざるものを侠客伝と為す。憾むらくは其の叙するところ、蓋し未だ十の三四を卒るに及ばずして、筆硯空しく曲亭の浄几に遺りて、主人既に逝きて白玉楼の史となり、鹿鳴草舎の翁これを続げるも、亦功を遂げずして死せるを以て、世其の結構の偉、輪奐の美を観るに至らずして已みたり。然れども其の意を立て材を排する所以を考うるに、楠氏の孤女を仮りて、南朝の為に気を吐かんとする、おのずから是れ一大文章たらずんば已まざるものあるをば推知するに足るあり。惜い哉其の成らざるや。
侠客伝は女仙外史より換骨脱胎し来る。其の一部は好逑伝に藉るありと雖も、全体の女仙外史を化し来れるは掩う可からず。此の姑摩媛は即ち是れ彼の月君なり。月君が建文帝の為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの藍本たらずんばあらず。此は是れ馬琴が腔子裏の事なりと雖も、仮に馬琴をして在らしむるも、吾が言を聴かば、含笑して点頭せん。
女仙外史一百回は、清の逸田叟、呂熊、字は文兆の著すところ、康熙四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業を卒る。其の書の体たるや、水滸伝平妖伝等に同じと雖も、立言の旨は、綱常を扶植し、忠烈を顕揚するに在りというを以て、南安の郡守陳香泉の序、江西の廉使劉在園の評、江西の学使楊念亭の論、広州の太守葉南田の跋を得て世に行わる。幻詭猥雑の談に、干戈弓馬の事を挿み、慷慨節義の譚に、神仙縹緲の趣を交ゆ。西遊記に似て、而も其の誇誕は少しく遜り、水滸伝に近くして、而も其の豪快は及ばず、三国志の如くして、而も其の殺伐はやゝ少し。たゞ其の三者の佳致を併有して、一編の奇話を構成するところは、女仙外史の西遊水滸三国諸書に勝る所以にして、其の大体の風度は平妖伝に似たりというべし。憾むらくは、通篇儒生の口吻多くして、説話は硬固勃率、談笑に流暢尖新のところ少きのみ。
女仙外史の名は其の実を語る。主人公月君、これを輔くるの鮑師、曼尼、公孫大娘、聶隠娘等皆女仙なり。鮑聶等の女仙は、もと古伝雑説より取り来って彩色となすに過ぎず、而して月君は即ち山東蒲台の妖婦唐賽児なり。賽児の乱をなせるは明の永楽十八年二月にして、燕王の簒奪、建文の遜位と相関するあるにあらず、建文猶死せずと雖、簒奪の事成って既に十八春秋を経たり。賽児何ぞ実に建文の為に兵を挙げんや。たゞ一婦人の身を以て兵を起し城を屠り、安遠侯柳升をして征戦に労し、都指揮衛青をして撃攘に力めしめ、都指揮劉忠をして戦歿せしめ、山東の地をして一時騒擾せしむるに至りたるもの、真に是れ稗史の好題目たり。之に加うるに賽児が洞見預察の明を有し、幻怪詭秘の術を能くし、天書宝剣を得て、恵民布教の事を為せるも、亦真に是れ稗史の絶好資料たらずんばあらず。賽児の実蹟既に是の如し。此を仮り来りて以て建文の位を遜れるに涙を堕し、燕棣の国を奪えるに歯を切り、慷慨悲憤して以て回天の業を為さんとするの女英雄となす。女仙外史の人の愛読耽翫を惹く所以のもの、決して尠少にあらずして、而して又実に一篇の淋漓たる筆墨、巍峨たる結構を得る所以のもの、決して偶然にあらざるを見る。
賽児は蒲台府の民林三の妻、少きより仏を好み経を誦せるのみ、別に異ありしにあらず。林三死して之を郊外に葬る。賽児墓に祭りて、回るさの路、一山の麓を経たりしに、たま/\豪雨の後にして土崩れ石露われたり。これを視るに石匣なりければ、就いて窺いて遂に異書と宝剣とを得たり。賽児これより妖術に通じ、紙を剪って人馬となし、剣を揮って咒祝を為し、髪を削って尼となり、教を里閭に布く。祷には効あり、言には験ありければ、民翕然として之に従いけるに、賽児また饑者には食を与え、凍者には衣を給し、賑済すること多かりしより、終に追随する者数万に及び、尊びて仏母と称し、其勢甚だ洪大となれり。官之を悪みて賽児を捕えんとするに及び、賽児を奉ずる者董彦杲、劉俊、賓鴻等、敢然として起って戦い、益都、安州、州、即墨、寿光等、山東諸州鼎沸し、官と賊と交々勝敗あり。官兵漸く多く、賊勢日に蹙まるに至って賽児を捕え得、将に刑に処せんとす。賽児怡然として懼れず。衣を剥いで之を縛し、刀を挙げて之をるに、刀刃入る能わざりければ、已むを得ずして復獄に下し、械枷を体に被らせ、鉄鈕もて足を繋ぎ置きけるに、俄にして皆おのずから解脱し、竟に遯れ去って終るところを知らず。三司郡県将校等、皆寇を失うを以て誅せられぬ。賽児は如何しけん其後踪跡杳として知るべからず。永楽帝怒って、およそ北京山東の尼姑は尽く逮捕して京に上せ、厳重に勘問し、終に天下の尼姑という尼姑を逮うるに至りしが、得る能わずして止み、遂に後の史家をして、妖耶人耶、吾之を知らず、と云わしむるに至れり。
世の伝うるところの賽児の事既に甚だ奇、修飾を仮らずして、一部稗史たり。女仙外史の作者の藉りて以て筆墨を鼓するも亦宜なり。然れども賽児の徒、初より大志ありしにはあらず、官吏の苛虐するところとなって而して後爆裂迸発してを揚げしのみ。其の永楽帝の賽児を索むる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒窘窮して戈を執って立つに及び、或は建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにか其実を知るを得ん。永楽簒奪して功を成す、而も聡明剛毅、政を為す甚だ精、補佐また賢良多し。こゝを以て賽児の徒忽にして跡を潜むと雖も、若し秦末漢季の如きの世に出でしめば、陳渉張角、終に天下を動かすの事を為すに至りたるやも知る可からず。嗚呼賽児も亦奇女子なるかな。而して此奇女子を藉りて建文に与し永楽と争わしむ。女仙外史の奇、其の奇を求めずして而しておのずから然るあらんのみ。然りと雖も予猶謂えらく、逸田叟の脚色は仮にして後纔に奇なり、造物爺々の施為は真にして且更に奇なり。
明の建文皇帝は実に太祖高皇帝に継いで位に即きたまえり。時に洪武三十一年閏五月なり。すなわち詔して明年を建文元年としたまいぬ。御代しろしめすことは正しく五歳にわたりたもう。然るに廟諡を得たもうこと無く、正徳、万暦、崇禎の間、事しば/\議せられて、而も遂に行われず、明亡び、清起りて、乾隆元年に至って、はじめて恭憫恵皇帝という諡を得たまえり。其国の徳衰え沢竭きて、内憂外患こも/″\逼り、滅亡に垂とする世には、崩じて諡られざる帝のおわす例もあれど、明の祚は其の後猶二百五十年も続きて、此時太祖の盛徳偉業、炎々の威を揚げ、赫々の光を放ちて、天下万民を悦服せしめしばかりの後なれば、かゝる不祥の事は起るべくもあらぬ時代なり。さるを其[#ルビの「そ」は底本では「その」]の是の如くなるに至りし所以は、天意か人為かはいざ知らず、一波動いて万波動き、不可思議の事の重畳連続して、其の狂濤は四年の間の天地を震撼し、其の余瀾は万里の外の邦国に漸浸するに及べるありしが為ならずばあらず。
建文皇帝諱は允、太祖高皇帝の嫡孫なり。御父懿文太子、太祖に紹ぎたもうべかりしが、不幸にして世を早うしたまいぬ。太祖時に御齢六十五にわたらせ給いければ、流石に淮西の一布衣より起って、腰間の剣、馬上の鞭、四百余州を十五年に斬り靡けて、遂に帝業を成せる大豪傑も、薄暮に燭を失って荒野の旅に疲れたる心地やしけん、堪えかねて泣き萎れたもう。翰林学士の劉三吾、御歎はさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、儲君と仰せ出されんには、四海心を繋け奉らんに、然のみは御過憂あるべからず、と白したりければ、実にもと点頭かせられて、其歳の九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、即ち後に建文の帝と申す。谷氏の史に、建文帝、生れて十年にして懿文卒すとあるは、蓋し脱字にして、父君に別れ、儲位に立ちたまえる時は、正しく十六歳におわしける。資性穎慧温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳に亘りて昼夜膝下を離れたまわず、薨れさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々と瘠せ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、爾まことに純孝なり、たゞ子を亡いて孫を頼む老いたる我をも念わぬことあらじ、と宣いて、過哀に身を毀らぬよう愛撫せられたりという。其の性質の美、推して知るべし。
はじめ太祖、太子に命じたまいて、章奏を決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしければ、刑獄に於て宥め軽めらるゝこと多かりき。太子亡せたまいければ、太孫をして事に当らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太祖に請いて、遍く礼経を考え、歴代の刑法を参酌し、刑律は教を弼くる所以なれば、凡そ五倫と相渉る者は、宜しく皆法を屈して以て情を伸ぶべしとの意により、太祖の准許を得て、律の重きもの七十三条を改定しければ、天下大に喜びて徳を頌せざる無し。太祖の言に、吾は乱世を治めたれば、刑重からざるを得ざりき、汝は平世を治むるなれば、刑おのずから当に軽うすべし、とありしも当時の事なり。明の律は太祖の武昌を平らげたる呉の元年に、李善長等の考え設けたるを初とし、洪武六年より七年に亙りて劉惟謙等の議定するに及びて、所謂大明律成り、同じ九年胡惟庸等命を受けて釐正するところあり、又同じ十六年、二十二年の編撰を経て、終に洪武の末に至り、更定大明律三十巻大成し、天下に頒ち示されたるなり。呉の元年より茲に至るまで、日を積むこと久しく、慮を致すこと精しくして、一代の法始めて定まり、朱氏の世を終るまで、獄を決し刑を擬するの準拠となりしかば、後人をして唐に視ぶれば簡覈、而して寛厚は宗に如かざるも、其の惻隠の意に至っては、各条に散見せりと評せしめ、余威は遠く我邦に及び、徳川期の識者をして此を研究せしめ、明治初期の新律綱領をして此に採るところあらしむるに至れり。太祖の英明にして意を民人に致せしことの深遠なるは言うまでも無し、太子の仁、太孫の慈、亦人君の度ありて、明律因りて以て成るというべし。既にして太祖崩じて太孫の位に即きたもうや、刑官に諭したまわく、大明律は皇祖の親しく定めさせたまえるところにして、朕に命じて細閲せしめたまえり。前代に較ぶるに往々重きを加う。蓋し乱国を刑するの典にして、百世通行の道にあらざる也。朕が前に改定せるところは、皇祖已に命じて施行せしめたまえり。然れども罪の矜疑すべき者は、尚此に止まらず。それ律は大法を設け、礼は人情に順う。民を斉うるに刑を以てするは礼を以てするに若かず。それ天下有司に諭し、務めて礼教を崇び、疑獄を赦し、朕が万方と与にするを嘉ぶの意に称わしめよと。嗚呼、既に父に孝にして、又民に慈なり。帝の性の善良なる、誰がこれを然らずとせんや。
是の如きの人にして、帝となりて位を保つを得ず、天に帰して諡を得る能わず、廟無く陵無く、西山の一抔土、封せず樹せずして終るに至る。嗚呼又奇なるかな。しかも其の因縁の糾纏錯雑して、果報の惨苦悲酸なる、而して其の影響の、或は刻毒なる、或は杳渺たる、奇も亦太甚しというべし。
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