桑原隲藏全集 第一巻 |
岩波書店 |
1968(昭和43)年2月13日 |
1968(昭和43)年2月13日 |
1968(昭和43)年2月13日 |
一
如何なる宗教でも、他の國民の間に傳播して行く際には、その國民の有して居つた舊信仰と衝突するものである。佛教も支那に東漸してから、支那人固有の道教儒教と衝突した。殊に道教とは尤も長く尤も激しく衝突した。
佛教の支那に將來されたのは、普通に東漢の明帝の永平十年(西暦六七)の頃と認められ、『漢法本内傳』(唐の智昇の『續集古今佛道論衡』引く所による)によると、その後ち間もなく永平の十四年に、五嶽の同士等佛教の弘布を憤り、道士の重なる者六百九十人上表して佛僧と術を角せんことを願ひ出た。その結果勅命で國都洛陽の西郊の白馬寺の南門外に壇を築き、壇上に道經を積み火を放つた所が、道士等の祕術を盡したにも拘らず、道經は悉く焚け盡し、術に破れたる道士等は悉く出家して佛門に歸したと記載してある。これが道佛二教衝突の發端といふことで、あらゆる佛教の歴史に引用されて居る。又河南の白馬寺へ往くと、白馬寺の六景と稱するものがあつて、その第二を焚經臺といひ、即ち漢代に道經を焚いた舊蹟と傳へてゐる。吾が輩の河南旅行の際は、前程を急ぎしこととて、所謂焚經臺を親覩せなんだが、勿論後世の附會で信憑するに足らぬ。『漢法本内傳』といふ書は、南北時代から存在はするが、對道教的のもので、餘り信用することが出來ぬ。當時の事情からいうても、新來々の佛教に弘布の餘裕なく、從つて五嶽の道士と衝突する筈もない。第一その當時已に所謂道士なるものが存在したかが疑問である。要するに東漢の永平年間に於ける道佛二教の衝突は、到底事實として認めることが出來ぬ。
東漢の末から三國時代にかけて、一方では佛教が漸く民間に流通するし、又一方では道教が次第に組織されるに從ひ、始めて道佛の衝突が起り、兩晉・南北朝・隋・唐時代は申すに及ばず、宋・元時代までかけて、絶えずこの兩教は衝突した。支那の佛教にとつて、道教は第一の法敵であつた。佛家で三武の厄と稱する、佛教に尤も激しき迫害を加へた帝王は、何れも道教信者である。即ち第一に北魏の太武帝は道士寇謙之を信用して佛教に迫害を加へた。北周の武帝も佛教を迫害したが、これは道士の張賓や衞元嵩に聽いた結果である。唐の武宗も道士の趙歸眞を信じて、寺院を破壞し僧侶を還俗せしめた。『佛道論衡』とか『弘明集』『廣弘明集』などを見ると、南北朝・隋・唐時代に於ける道佛二教の衝突の有樣はよく判然するが、この間に在つて何時も爭論の中心となり、尤も舞臺を賑はしたのは『老子化胡經』即ち略稱の『化胡經』である。『老子化胡經』の來歴は、やがて道佛二教の衝突小史である。
二
『老子化胡經』とは、老子が西域印度へ出掛けて、幾多の胡國を教化したことを書いたもので、西晉の惠帝の頃に、道士の王浮(或は王符に作る)といふ者の僞作に係る。王浮がこの書を僞作するに至つたには相應の由來がある。
(第一) 一體老子の學説は頗る印度的色彩を帶びて居る。老子の學説を波羅門哲學と對比すると、兩者の間に尠からざる類似がある。故に歐洲の學者は多く老子は印度の影響を受けたものと信じて居る。甚しきは老子その人も印度より支那に移住して來たものとさへ信じて居る。有名なフランスの支那學者 Pauthier などは、六七十年から以前に已にこの説を唱へて居り、支那と西方との古代の文化の關係を研究の目的として居つた Lacouperie は、尤も熱心に老子の印度人たるべきを主張して居る。現代の支那學者では、ドイツの Hirth 氏なども餘程この説に傾いて居る。兎も角も老子は印度臭い、彼の學説には幾分佛教の教理とも相通ずべき點の存するといふことが、『老子化胡經』の作者の附け目である。
(第二) 老子はもと周に仕へたが、世の衰ふるを見て官を捨て、西方に出掛けたといふ傳説がある。『史記』の老莊申韓傳を見ると、老子はその晩年に關を出でて莫レ知二其所一レ終と載せてある。單に關とあつては不明なれど、『史記正義』には散關と註す。散關は長安の古都より四百〔支那〕里餘西に當つて、今の陝西省鳳翔府寶縣に在る。或は函谷關といふ説もある。函谷關は今の河南省河南府靈寶縣に在つて、洛陽の古都より西四百〔支那〕里に當つて居る。何れにしても老子は東周の都から西方に出掛けたので、『正義』によつて散關を出たとすると、或は遠く西域地方へ出掛けたものと想像すべき餘地もあるやうで、殊に莫レ知二其所一レ終の一句は、遠く往つて再び支那に歸らぬやうに聞えて、老子の西域行に附會するに誠に都合が好い。それで西漢の末頃から、老子は遠く流沙の西に出掛けたといふ傳説があつた。漢の劉向の作といふ『列仙傳』に、その事を載せてあつたといふが、本書が今日に傳らぬから、眞僞如何は斷言が出來ぬ。
(第三) 『後漢書』卷六十下の襄楷傳によると、襄楷は當時の天子の桓帝に上書して時事を論じたが、その書中に、
或言老子入二夷狄一爲二浮屠一。
とあるから、東漢の末に已に化胡の説の行はれたことが明かである。桓帝の時は佛教漸く流通し、殊に桓帝は老佛に歸依して、宮中に二者を併せ祀つた故に、當時老子に左袒する人は、かかる説を唱へて、暗に佛教を抑へたものと見える。また曹魏の魚豢の『魏略』(『三國志』の魏志の東夷傳の註に引く所による)には、
浮屠所レ載與二中國老子經一相出入。蓋以爲老子西出レ關。過二西域一。之二天竺一。教二胡浮屠一。
と記して、老子化胡の説を尤も分明に表示して居る。化胡説の流行と共に、佛道二教の爭の漸く激烈を加へたことは申す迄もない。『老子化胡經』の僞作者王浮は、是等の説を繼承し、又利用したのである。老子の學説は佛説と似て居る所があり、老子は晩年に中國を後に西方に往つたといふ傳説もあり、殊に老子が天竺に往つて佛教を唱へたといふ説も行はれて居ること故、之を大成して『老子化胡經』を作つたのである。
三
晉の王浮が『老子化胡經』を僞作したといふことは、フランスの Chavannes 氏がさきに一九〇五年の『通報』に譯載した『魏略』の本文に加へた注釋中に、唐初の文獻を引いて相當紹介に努めて居る。之によると道士の王浮は沙門の白法祖と議論して、負けた口惜しさに『老子化胡經』を作つて勝を求めたといふ。南宋の志盤の『佛祖統記』第三十六卷には、之を東晉の成帝の咸康六年(西暦三四〇)に繋けて居る。同書の第五十四卷にも、晉成帝道士王符僞撰『老子化胡經』と掲げてある。『高僧傳』卷一にも王浮の事を載せてあるが、之によると王浮の相手の帛遠(即ち白法祖で、遠は名にして、法祖は字である)は、西晉の惠帝の時に張輔といふものに殺されて居る。所が『資治通鑑』を檢べると、張輔自身は永興二年(西暦三〇五)に戰死して居るから、王浮の『化胡經』を僞作したのが、その以前でなくては協はぬ。『化胡經』僞作の年代はかく相違して居るが、『高僧傳』の方が信憑すべく、從つて『化胡經』は西暦三百年前後に僞作されたものと認定すべきである。
王浮の作つた『老子化胡經』は、もと一卷であつたが(唐の道宣の『大唐内典録』等には二卷とす)、後にその徒が増附して都合十卷(『佛祖統記』には十一卷とす)とした。『佛祖統記』によると、その第一卷には化賓胡王とて、迦濕彌羅國王を教化せしこと、第二卷には倶薩羅國降二伏外道一とて、中天竺の薩羅國にて外道を説伏せしこと、第三卷には化二維衞胡王一とて、釋迦の生國の迦毘羅國を教化せしことを記載してある。維衞は又迦維衞とも書き、即ち法顯の迦維羅衞國、玄奘の劫比羅伐堵國である。この『化胡經』の記事は、佛經の文句を剽竊して作つたものといふことである。もと一卷の『化胡經』が十卷に増加したのみならず、『化胡經』の内容も隨分變化して居る。最初は老子自からが釋迦を教へたといひ、後には老子が釋迦と生れ變つたといひ、又その弟子の尹喜を釋迦と生れ變らしたなど、説は區々になつて居る。
四
『老子化胡經』が公にされてから、道佛二教の爭は實に火の手を擧げた。道士は之にて敵の死命を制すべき屈竟の武器を得たりとて、頻に『化胡經』を振り廻はす。釋迦は老子の弟子である。弟子は固より先生に劣る。老子は中國人の爲に道教を説いた。佛教は胡人の爲に立てた法である。中國人にして佛教を奉ずるのは、いはゆる蠻夷擾レ夏ものなりとて、盛に國粹主義を鼓吹する。道士顧歡の『夷夏論』に、
佛道齊二乎達化一、而有二夷夏之別一。以二中夏之性一、不レ可レ傚二西戎之法一。
と主張し、道士張融の作と稱せらるる『三破論』に、
今中國有二奉レ佛者一、必是羌胡之種。若言レ非耶、何以奉レ佛。
と絶叫せるが如き、その一例である。佛教徒も之には尠からざる打撃を受け、その防禦に全力を盡した。
當時佛教徒が『化胡經』の毒焔に對する最良の防禦法は、『化胡經』が後人の僞作たることを證明するにある。それには釋迦を老子以前の人として、老子が釋迦を教へるなどは、到底あり得べからざることを證明すればよい。是に於てか釋迦の誕生を成るべく古代に置く必要が起る。釋迦の降誕を西周の昭王の二十四年と定めて、老子より四百年も以前の人としたのは、この理由に本づくのである。後魏の孝明帝の正光四年(西暦五二三)に、道士僧侶を會して、佛道二教の祖師の出生先後を對論せしめし時、道士姜斌は『老子開天經』を引き、老子は西域にいたりて佛を侍者に充てたとあるから、老佛二者はこれ同時の人なりと主張せしに對して、法師の曇謨は左の如き駁撃を加へた。
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