五 蒲壽庚の事歴(下) 蒲壽庚の一族 蒲壽庚はただに元の爲に東南平定の大功を建てたのみでなく、彼は更に南海諸國を招懷して、此等諸國と元との間に互市を開くべく、若干の貢獻を致して居る。 已に述べた如く、唐宋時代から、否その以前から支那と南海諸國間との通商は盛んに行はれて居つた。殊に宋一代を通じて、外國貿易は一層隆盛を極めた。當時支那政府はこの外國貿易によつて、大體二重の利得を收めることが出來た。一は關税の收入で、之は時代によつて相違はあるが、普通輸入品の一割二割位を政府に收めるのである。一はこの關税收入以外に、宋時代から、或種の外國輸入品は一旦政府に買ひ上げ、而して後ち相當の利益を取つて民間に拂ひ下げることで、即ち政府が或種の外國輸入品の獨占權を握り、之によつて多大の利得を收めた。兔に角南宋時代には、外國貿易が政府の重要なる歳入の一とみなされて居つた。 されば元の世祖が宋を滅ぼして江南を平定すると殆んど同時に、この收益多き外國貿易に着眼したのは、無理ならぬ次第である。世祖はこの目的を遂行する爲には、久しく外國貿易のことを管理して、尤も斯道に通曉して居る蒲壽庚の助力を借らねばならぬ。『元史』の世祖本紀を見ると、至元十五(西暦一二七八)年八月に、世祖は蒲壽庚等に命じて、海外諸國に成るべく從前の通り、支那沿海へ貿易に出掛け來るべく、勸諭の使者を派遣することにした。その直接又は間接の結果として、占城 Chamnpa、馬八兒 Mbar の二國先づ通商を開き、引續きその他の南海諸國も之にならひ、元一代の外國貿易も亦かなり盛況を極めて居る。この外蒲壽庚は又間接ながら、世祖の日本征伐事件に幾分關係して居る樣である。 蒲壽庚の事蹟は『元史』に至元二十一年(西暦一二八四)を限つて、その以後のことが見えぬ。當時彼は最早かなりの老年で、間もなく世を辭したものと想像される。 さきに紹介して置いた如く、蒲壽庚の兄に蒲壽といふ者がある。蒲壽庚も多少文雅の心得をもつては居つたが、兄の蒲壽が詩を以て優に一家をなしたには及ばぬ。蒲壽は一時梅州(廣東省潮循道梅縣)の知州として令名を馳せたが、宋末に退隱したから、その官途の經歴は弟の蒲壽庚の如く顯著でない。蒲壽庚の人物は寧ろ單純一徹な武人氣質で、餘り策略に長ぜぬが、蒲壽は文學の趣味も深く、思慮綿密で宋元鼎革の際に、蒲壽庚のとつた進退は、多くその兄蒲壽の計畫指圖に由つたものと傳へられて居る。その晩年に蒲壽は世間の批判を憚り、泉州府城東南郊外の法石山に隱居して、風月に身を託したといふ。 その他蒲壽庚の一族としては『書』に據ると、彼の長子に蒲師文と申す者があつて、始終父の股肱として活動したが、人物が暴悍であつた故か、餘り出世をせずに身を終つた樣である。又『八通志』卷の三十に據ると、元の世祖の末年に、福建行省の參知政事(從二品)となつた蒲師武といふ者がある。その年代及び姓名から推すと、彼は蒲壽庚の子で、蒲師文の弟に相違あるまい。 宋末元初の周密の『癸辛雜識』を見ると、泉南在住の巨賈に、南蕃人佛蓮と申す者があつて、蒲氏の壻となり、盛んに海外貿易を經營したが、死後嗣子なき爲に、政府がその遺産を沒收したことを記してある。單に蒲氏とあるのみでは、勿論斷言は出來ぬが、或は蒲壽庚の一家であるまいかと想像すべき餘地がないでもない。『八通志』の卷二十七に擧ると、元の晉宗の泰定年間(西暦一三二四―一三二七)に、福建等處都轉運鹽使(正三品)といふ官――これは鹽鐵、酒醋等の專賣事業を統べ、兼ねて市舶のことを管理する大官である。――を占めた蒲居仁といふ人がある。或は蒲壽庚の孫にでも當るべき人かと想像される。 要するに蒲壽庚は元朝に忠勤を抽でて重用されたのみならず、彼の一族は元一代を通じて福建地方に大なる勢力を振つた。同時に隨分世間から嫌忌された樣である。『書』の卷一百五十二に、
とあるによつて、その大體を察知することが出來る。蒲壽庚が元に登庸されて以來元の滅亡に至るまで約九十年に及ぶ。『書』に泉人避二其薫炎一者十餘年とあるは、恐らく八十餘年の誤脱であらう。 かくて明の太祖が元に代つて天下を一統すると、漢族の國家再造を標幟とした彼太祖は、その返報に、この元と因縁深き福建の蒲姓の一族の仕官を禁じた。さらぬだに色目人の威勢の傾いた時に、官途の禁錮まで受けては、愈社會に於ける蒲姓の面目が失はれた譯である。此の如くして福建の蒲姓は次第に衰微して、遂に世間の視聽の外に埋沒し終つた。
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