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那珂先生を憶う(なかせんせいをおもう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:09:35  点击:  切换到繁體中文


成吉思汗ジンギスカン實録』が出版されて間もなく先生を訪うた時、先生は尨然たる草稿を示されて、『成吉思汗ジンギスカン實録』著述の際、蒙古に關する漢洋の史料を渉獵した間に、種々從來氣附かなんだ事柄を發見して、一寸抄録したのが是だけある。之を纏めたならば『成吉思汗ジンギスカン實録』以上の大部の書物が出來る。追々は『別録』とか『餘録』とか名づけて、世に公にする積りであるといはれた。尚先生の未定稿としては「皇元聖武親征録」の註がある。是は漢文で書かれたもので、兩三年前已に淨書し終つたが、其後多少改訂すべき點を發見されたとかで、其儘になつて居る。是等の書が先生の手によつて、十分校訂されて出版せられたならば、學界を裨益すること、決して『成吉思汗ジンギスカン實録』に劣らぬであらうに、返す返すも殘念なことである。
 先生に就て尤も敬服すべき點は、其の研究の態度の根本的オリジナルであることである。前人の糟粕を嘗めて、其の足らざる所を拾綴して行くといふことは、先生の餘り屑とせられぬ所で、成るべく前人未發のことを闡明して行きたいとは、先生の始終の心掛けであつた。東洋史の内でも、特に蒙古史の研究に心神を傾注せられたのも、或はこの理由からかも知れぬ。一體わが國の學者の多數は、西洋人の所説を其の儘取り次ぐか、若くは多少之を敷衍するか、然らずとも彼等の暗示ヒントによりて研究の題目を得るといふに過ぎぬ。先生は決して左樣でない。眞に獨立濶歩の概がある。一度研究の緒を得ると驚くべき氣根と、勉強とを以て幽を闡き微を發かねば止まぬのである。先生は外國文を綴ることは不得手であつた故か、其研究の結果を汎く世界に發表せられぬから、歐洲の學者間には名を知られなかつたが、若公平に批評したならば、先生は世界現今の東洋史界に於て、少くもドイツのヒルト氏(Hirth)や、フランスのシャヴァンヌ氏(Chavannes)と、同等以上の位置を占むべき實力があつたと吾輩は確信して居る。
 清朝の學者のうちでは、顧炎武や錢大※(「日+斤」、第3水準1-85-14)を重じて居られた。顧炎武の『日知録』や、錢大※(「日+斤」、第3水準1-85-14)の『養新録』は、時々漢文の教科書代りに採用された。陳※(「さんずい+豊」、第3水準1-87-20)の『東塾讀書記』も隨分使用された。最近では教科書代りとして、崔述の『考信録』を盛に使用せられた。
 この『考信録』に就いては世間に隨分反對論者が多い。吾輩も決して崔述の謳歌者ではない。現に其の一部の説に就いては先年史學會の講演で反駁の意見を發表した位である。併し虚心平氣にて論ずると、崔述は支那の學者に稀有な明晰なる頭腦をもつて居る。『考信録』は完全無缺とはいへぬけれど、之を馬繍の『繹史』や、李※(「金+皆」、第4水準2-91-14)の『尚史』や、さては羅泌の『路史』などいふ支那の古代史に比較して見ると、材料の選擇といひ、斷案の明快といひ、到底日を同くして談るべからずである。那珂先生の之を推奬せられたのも十分の理由あることと思ふ。
 一體崔述といふ人は實に轗軻不遇の人で、生前は貧苦の間に沈淪し、死後も餘り支那學者間には知られなかつたのである。那珂先生はかねて其の爲人と所説を慕はれて、明治三十三年に、今京都大學に居らるる狩野直喜君が支那へ留學せらるる時、特に『考信録』の購買を依頼し、狩野君の手より那珂先生の手を經て、『考信録』はわが學界に紹介せられたものである。那珂先生は尤も崔述を推奬して、『那珂東洋史』の内にも特に彼の爲に一頁以上の記事を費されて居る。崔述は其の死後百五十年、海外の日本で、先生の如き有力なる知己を得た以上は、以て瞑すべしである。
『考信録』の外に、清の洪鈞の『元史譯文證補』も亦那珂先生の手によつて我學界に紹介されたものである。洪鈞は外國公使として歐洲滯在中に、ラシッドウッヂン氏(Rashid ud Din)の『蒙古全史』(Jami ut Tewarikh)といふ書物を手に入れ、其他ハンメル(Hammer)、ウォルフ(Wolff)、ドオソン(D'Ohsson)、ホウォルス(Howorth)、ベレヂン(Berezin)などいふ英、獨、露其の他の學者の蒙古史に關する著書を參考し、東西の史料を比較してこの書を作つたので、元史を研究する者は是非一讀せねばならぬ良著である。この書はたしか明治三十一年の初めに、當時上海シャンハイに居られた文學士藤田豐八君から、先生及び吾輩宛に送られたものである。
 また清の李桓の『耆獻類徴』といふ書物がある。是れは清朝の國初より道光年間に至る各人物の傳を輯録したもので、是種の著述としては尤も完備したものである。今日では帝國大學の圖書館や高等師範の圖書館に備へ附けられて、學者間に珍重されて居るが、是の書物もたしか先生の紹介の功多きに居ると思ふ。併しこの事は吾輩の記憶が十分でないから斷言は出來ぬ。
 先生が帝國文科大學の講師を囑託されたのは、明治二十九年の秋で、三十六年まで繼續された。三十六年の文科大學の學制改革の時に、講師をやめられた。東京高等師範には、明治二十七八年の頃から今日まで十五年許りも勤續されて、學校内では教授生徒の間に中々勢力をもつて居られた。先生は後藤教授、三宅教授と共に、高師の三尊と稱せられて居つた。其ほかに早稻田大學、淨土宗大學にも出講されたから、可なり多忙であつた。學校から歸ると直に二階の書齋に立て籠りて、讀書三昧に一日を送られた。家計のことや、交際のことには無頓着の方で、約束した會合の席に、日限や時刻を間違へられたり、學校の授業に、時間や教室を間違へられたことは珍らしくない。吾輩も隨分輕卒家で、時間や教室を間違へること多く、廣き高師の廊下を彼處此處へ彷徨ふ時に、必ず那珂先生も教室不明の爲に困却されて居るに出會した。
 かく家事世事には無頓着な先生は、學問上のこととなると非常に入念なもので、讀書なども極めて精細に注意せられ、事實の異同や、文字の相違まで、必ず他書と比較して一々書き入れをせられたものである。例せば『法顯傳』の如きも、ジャイルス氏(Giles)、ビール氏(Beal)、レッグ氏(Legge)などの諸譯を對照して、一々異同を書き誌されて居る。著書に對する注意も同樣で、印刷も一々自分親しく校正の勞をとり、一字一畫の微をも忽にせられぬ。『那珂東洋史』などは殆ど印刷上の間違はないというてよき位である。活版所に就いて聞いたなら、先生ほど校正に嚴密なる人は他に多くないといふ證言を提供することと思ふ。
 讀書以外先生第一の嗜好は自轉車であつた。自らも轉輪博士と稱して居られた位である。自轉車に就いての失策や逸話も多いが斯にはいはぬ。次に圍碁を好まれた。高師教員中第一の腕前で、彼此田舍初段近くの伎倆あると聞いた。玉突も一時は熱心に練習された。吾輩の内地出發の際、旅行に必要故、追々寫眞の練習を始めたしと申されたが、是は實行されなんだ樣子である。先生は平常餘り交友を求められなんだ樣子である。高等師範の同僚は措き、其の以外では東京大學の白鳥君、京都大學の内藤君などとは終始交際されて居つた。矢野文學士(北京ペキン仕進館教習)、中村文學士(もと廣島高等師範教授今は東京高等師範教授)、高桑文學士(早稻田大學講師)其の他東洋史の研究に從事せらるる人々は、大抵先生方へ出入して居られたやうである。
 先生は正直であると同時に短氣であつた。人の間違つたことでも自分に關係なき事は其の儘にするといふ、當世風のことは先生の氣質として到底出來なかつたことと見える。其で先生は他人と衝突組打などをした歴史を尤も多くもつて居らるる一人であつた。明治二十六年の頃、先生が華族女學校に奉職して居られた時に、幹事の北澤正誠といふ男を蹴り倒して、事が面倒となり、遂に辭職されたことは有名の談である。この事件に就いて、吾輩は曾て當時の目撃者また關係者であつた人から、委細の事實を聞いたが、那珂先生の方に十分同情すべき理由があるのである。
 この北澤といふ男は、たしか信州の産で、曾て東京地學協會の幹事などをやつて居つた人である。其の節、平城天皇の御子、高岳親王即ち眞如法親王が佛蹟禮拜の爲渡天の際、羅越といふ處で御隱れとなつたが、其の羅越は※(「てへん+過」、第3水準1-84-93)ラオスである、何でも高岳親王の御墓所は暹羅シャムの北境にあるに相違ないといふ説を唱へ出した人である。是の説は根據極めて薄弱であるに拘らず、隨分贊成者もあつて、後には暹羅シャム政府とも交渉して御墓所を搜索するといふ騷ぎになつたが、勿論失敗に終つたのである。この人は後に伊豆か小笠原あたりの島司となり、三四年前に死去したと記憶して居る。
 北澤以外の人とも隨分衝突されたが、現在の人に關係あるから態と斯にはいはぬ。其れで世間からは、那珂といふ人は我武者で、偏屈人で、常識を缺いて居るやうに誤解された。是の點は誠に先生の爲に惜むべきことである。其の實先生は極めて無邪氣の人で、上に向つて上手もせぬ代り、下に向つて高振りもせぬ。學問のことに就ては極めて弘量坦懷で、何如なる人にも質問することを恥とせられなんだ。是れは吾輩一人の言でなく、先生と親しく交際した人の一樣に同意する所と思ふ。
 さるにても先生の如き摯實なる學者でありながら、其の生前に帝國大學の教授となることも出來ず、また帝國學士院の會員ともなること出來ずして永眠せられたのは、返す返すも先生の不幸といはねばならぬ。先生の不幸はいふに足らぬ。先生の如き摯實なる學者を、其の教授とすることも出來ず、また其の會員に加ふることも出來なんだのは、大學及び學士院にとりて、實に大不幸といはねばならぬ。

(明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載)





底本:「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店
   1968(昭和43)年3月13日発行
初出:「大阪朝日新聞」
   1908(明治41)年3~4月(五回に分載)
入力:はまなかひとし
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
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