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東洋人の発明(とうようじんのはつめい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:08:28  点击:  切换到繁體中文


 〔次に遠洋渡航に尤も必要である羅針盤も、先づ支那で發明されたものらしい。實は羅針盤の發明や傳播の歴史は、まだ十分に研究されて居りませぬ。しかし今日まで知られた確實な文獻によると、支那では西暦十一世紀の末か、十二世紀の初に、既に航海に羅針盤を使用して居るが、アラビアや歐洲方面では、約百年後の十二世紀の末か十三世紀の初に、羅針盤の使用が見えて來るといふ。東西傳播の經路は未だ明瞭ではないが、今日の處では兔に角東洋方面で、より早く羅針盤が使用されて居つた事實は承認せなければならぬ。當時アラブ人は、東西兩用の間に、盛に海上交通を營んで居つたから、このアラブ人の媒介で、羅針盤の使用が、東洋から西洋へ傳播したものかと、想像すべき餘地が多い樣であります。〕
 印刷といひ製紙といひ、將た羅針盤の使用といひ、何れも平和的發明であるから、今度は方面を變へて、殺伐な發明の火藥のことを紹介いたさうと思ふ。支那人は可なり古い時代から火藥の使用を知つて居つたやうであるが、その火藥の成分は不明である。〔火藥が焔硝・硫黄・柳炭等の混合物から成立し、之を爆發用として軍事に使用した事實は、同僚の矢野博士が始めて指摘された如く(大正六年七月號『史林』)、北宋の仁宗時代に編纂された『武經總要』に見えて居る。その以前の事實は判然いたしませぬ。〕
 清の趙翼といふ有名な史學者の説によると、西暦十二世紀の半頃(西暦一一六一)に、金の海陵王即ち例の立馬呉山第一峰と傲語した女眞の君主が、南宋に入冦しました。南宋の方では之を揚子江畔の采石で防ぎ戰つたが、この時宋軍は霹靂砲へきれきはうといふ武器を使用して、金軍を苦しめて居る。これは火藥を敵の陣中に撥ね飛ばす器械で、爆發する時の音によつて霹靂砲と名付けたものと見えます。當時の火藥は硝石・硫黄・柳炭等で作られたもので、大體に於て後世の火藥と相違がないといふ。趙翼の説は何に據つたか、その説の根本史料をよく承知せぬから、絶對に信用する譯には參らぬが、しばらく趙翼の説によると、火藥が實地の戰爭に使用されてゐるのは、この時が最初であります。
 この時から更に七十年程後くれて、西暦十三世紀になると、蒙古軍が金を攻めて、その都の※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)京を圍んだ時、城中の金人が盛に火藥を使用して敵を苦しめ、震天雷など稱する火砲を使用して、火藥を敵陣に飛ばして居る。之は鐵の器に火藥を盛つて、それに火を點じて砲といふ機械で、敵の陣中へ投げ飛ばすのである。その爆發する時の有樣は、其聲如雷、聞百里外と記してあるが、支那人の記事故、多少のおまけはあるにしても、震天雷といふ名から推して、大なる爆聲を發したことがわかる。しかのみならずその爆發の時は、附近の兵士に尠からず火傷を負はしたといふことであります。
 金人は又別に飛火槍といふ火器をも使用して居ります。之は紙筒の中に火藥――柳炭・硫黄・硝石・鐵屑・磁末等――を盛つて、金屬製の棒の先端に釣り下げ、敵が近づくと、別に携帶して居る鐵の鑵の中に入れてある火を取出して、紙筒に火を點ずると、火藥が前方へ十餘歩も飛び出して、爆發するのである。この火藥利用の飛道具の爲に、さしもの蒙古軍も散々に苦しめられたといふ。
 元來※(「石+駮」、第3水準1-89-16)又は砲とは、石を飛ばす機械で、支那では秦漢以前の古代から、戰場で使用されたものである。丁度撥釣瓶はねつるべの樣な仕掛けで、大石を敵の軍中へ撥飛ばすのであります。これは宋・元・明の後代までも使用されて居ります。所が火藥を使用することになつてから、鐵の器の中に火藥を盛り、同樣の仕掛けで之を敵陣へ投げ飛ばし、爆發せしむることとなつた。石を投げ飛ばす普通の砲と區別して、之を鐵砲又は火砲といふので、之が鐵砲の本義であります。
 そこで以上申述べました歴史上の事實――大部分は趙翼の『※[#「こざとへん+亥」、読みは「がい」、156-11]餘叢考』によつたので、私自身はまだ根本的に調査せぬ所もあるが――によると、鐵砲や火藥は、宋人が先づ之を使用して金を苦しめ、金人は又之を使用して蒙古を苦しめて居るのであるから、どうも宋人が最も早く火藥や鐵砲の使用を知つて、之が金人・蒙古人と傳はつたものと想はれるのであります。
 蒙古軍が我が國に來冦した時、この鐵砲といふ新武器で、大いに我が國を惱ましたもので、當時の事實を記録した正應年間の古寫本(『伏敵編』所引)に、

てつほうとて鐵丸に火を包で、烈しくとばす。あたりてわるゝ時、四方に火炎ほとばしりて、烟を以てくらます。又その音甚だ高ければ、心を迷はし、きもを消し、目くらみ、耳ふさがれて、東西をしらずなる。之が爲に打るゝ者多かり。

とあるに據ると、我が將士が鐵砲の攻撃に、困難周章した有樣を察知することが出來る。
 蒙古軍は西域征伐をもやつたが、勿論この時火藥や鐵砲を使用したものと認められる。蒙古軍との觸接で、アラブ人(サラセン人)が火藥と鐵砲の使用を知つたのは、西暦十三世紀の半頃のことであらうと想はれます。兔に角火藥は支那からサラセン國へ傳つたものと見え、アラブ人は火藥の主要成分である硝石を Thelg as Sin 即ち支那の雪と呼び、火箭の事を Sahm Khatai 即ち支那矢と稱したさうであります。降つて西暦十四世紀になると、アラブ人から火藥が歐洲へ傳はりました。歐洲に於ける火藥の起源については、從來種々異説もありますが、近時火藥や火器の歴史を研究した學者の説は、多くアラブ人から歐洲に傳へたものといふことに傾いて居ます。
 歐洲へ火藥が傳はつた後ち、火器は次第に改良されて、十六世紀の初になると、有效な鐵砲が製作されて、歐洲の戰術も爲に一變する氣運になる。丁度この十六世紀の半頃の天文年間に、鐵砲がポルトガル人の手を經て、我が國に輸入される。戰國時代とて、間もなくこの舶來の新武器が日本全國に採用されて、五十年後の文禄征韓の頃には、我が國の尤も有力な武器となつたのであります。當時朝鮮人は、殆ど火器殊に鳥銃の使用を知りませぬ。明軍とても遼東方面から來た兵隊は、朝鮮人よりも一層火器の使用に不案内であつた位故、朝鮮人も明人も、皆我が軍の鐵砲に辟易しました。當時我が軍の戰術は、先づ鐵砲で敵軍を威嚇して置いて、日本刀にて切り卷くるのであるから、支那や朝鮮の記録を見ると、何れもこの二つの武器に大閉口して居る。文禄の役に我が軍が勝利を得た原因は、種々ありますけれど、よく鐵砲を使用したことが、確にその重なる原因の一つと申さなければなりませぬ。三百年前の弘安の時には、我が國は蒙古・高麗の聯合軍の爲に、鐵砲で散々惱されたが、三百年後の文禄の時には、同じく鐵砲で朝鮮・明の聯合軍を打ち惱まして、首尾よくさきの仕返しをいたした譯であります。
 最早豫定の時間に達したから、急いで結論だけを申し述べます。先刻から約一時間の講演は、誠に不充分なものでありますが、實はこの講演の主意は、必ずしも事實の考證のみを主とした譯ではなく、事實のうちから若干の教訓を得たいといふ、目的をももつて居るのであります。そこで結論として、一二の教訓を申述べて置きたい。
 (第一) 單に發明といふ點から申せば、長い歴史をもつて居る東洋人は、必ずしも西洋人に劣らぬかも知れぬ。印刷や製紙や羅針盤や火藥の外に、商業の方面では、爲替や紙幣の發行、工藝の方面では、※[#「茲/瓦」、読みは「じ」、158-7]器や漆器の製造なども、先づ支那で發明されたものらしい。近來の支那人は、例の自惚根性から、あらゆる世界の文化や文明は、支那から始まつた樣に主張するものもある。列國平和會議(弭兵會)なども支那が開祖で、已に二千四五百年前の春秋時代に實行されて居る。赤十字社の事業も、同時代から支那で實行されて居る。新聞紙の發行も、議院の開設も、支那が家元であるかの如く吹聽する者も居る。勿論これらは相當に割引を要し、その儘に直に贊成する譯には參らぬが、兔に角東洋人の發明は、中々大したものに相違ないと想はれる。が併し一歩退いて考へると、どうも東洋人の通弊として、研究心に乏しい結果、折角の發明も發明榮えせぬものが尠くない。製紙や印刷や羅針盤や火藥の發明は、大なる發明ではあるが、惜いことには、その家元の東洋では、發明後幾百千年を經ても、依然としてその舊態を脱却せぬ。長い年月の間に、さしたる改良進歩の跡を見得ないのであります。
 所が是等の發明が一旦西洋人の手に渡ると――傳播の經路に就いては、多少不明な點もあるが――彼等の熱心なる研究によつて、忽ちその利用若くは應用の範圍を擴めて、今日の如き製紙機械・印刷機械等が出來て、大いに世界の文明を進めることとなつたので、東洋人の發明したものでも、西洋人の手を經ぬ間は、十分にその效力を發揮することが出來ぬ有樣であります。折角の發明も東洋人にとつては、寶の持腐れの觀がないでもない。誠に遺憾千萬ではあるが、事實であるから仕方がありませぬ。我が國人も東洋人として、支那人などと同樣の缺陷をもつてをらぬとも限らぬ。果して左樣な事があるならば、教育上大いに注意して、一日も早くこの缺陷を充たすやうに努力せねばならないと思ふ。是處にお集りの諸君は、多く地理や歴史の教授に當られる方々ではあるが、教育家といふ廣い意味から申せば、無論この缺陷を充すべき責任と、無關係ではなからうかと考へるのであります。
 (第二) 紙の傳播や火藥の傳播の例によつて明かである通り、東洋の文化が西洋へ傳播するには、多くの場合西域地方を通過する。西洋の文化が東洋に傳播する時も、之と同樣に大抵西域地方を通過するのである。西域は丁度東洋と西洋との文化交換の中繼に當つて居る。それ故廣く世界の文化や文明の發達の跡を明瞭にするには、是非とも西域地方を度外視することが出來ぬ譯であります。
 しかのみならず西域自身、その固有の立派な文化を持つて居つて、その文化が隨分古い時代から東洋に影響して居るのである。唐宋時代や元明時代に、西域文化の支那に影響を及ぼして居ることは、想像以上に多いのであります。或る意味から申すと、支那の文化――從つて幾分日本・朝鮮の文化――の發達を調べるのに、西域を度外視しては、その眞相を盡し難い程であります。殊にこの十年來新疆探檢が流行して、各文明國競うて力をここに盡して居る。その發掘物の研究は、多く未だ發表されぬから、十分效果を知ることが出來ぬけれども、之によつて將來西域文化の價値の一層高まることは疑を容れぬのであります。
 我が國現行の東洋史は、主として支那を中心として、多くの場合、西域の事實は除外される傾になつて居る。これは授業時間の制限や、その他の理由があつて、已むを得ざる點もありませうが、併し之が爲に中等教育で歴史の教授に當られる人々まで、西域のことといふと、全然無關係のやうに考へて、實際以上にこれを輕視する傾向を見受けるのは、如何のものかと思ふ。學生自身には差當りて左程西域のことを授けぬにしても、その教授に當られる方々は、西域の事情に、より以上の注意を拂はれる方が歴史教授に當つて、確に便利と效果が多からうと思ふのであります。

(大正三年十二月刊『中等學校地理歴史教員協議會議事及講演速記録』所載)




 



底本:「桑原隲藏全集 第一巻 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「東洋史説苑」
   1927(昭和2)年5月10日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2002年2月26日公開
2004年2月22日修正
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    「こざとへん+亥」、読みは「がい」    156-11
    「茲/瓦」、読みは「じ」    158-7

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