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東洋人の発明(とうようじんのはつめい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:08:28  点击:  切换到繁體中文

底本: 桑原隲藏全集 第一巻 東洋史説苑
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1968(昭和43)年2月13日
入力に使用: 1968(昭和43)年2月13日
校正に使用: 1968(昭和43)年2月13日


底本の親本: 東洋史説苑
出版社: 弘文堂
初版発行日: 1927(昭和2)年5月10日 発行

 

この論文を讀む人は、拙稿「紙の歴史」「カーター氏著『支那に於ける印刷の起源』」[#底本にはここに「(いづれも本全集第二卷所收)」とある]及び拙著『蒲壽庚の事蹟』(本全集[#「桑原隲蔵全集」]第五卷所收)に載せた、支那に於ける羅針盤の使用に關する記事を參照ありたい。


 私は東洋人の發明と云ふ題で、一時間ばかりお話を致します。一體この協議會の趣意から申しまして、學問上のお話を致すよりも、教育上若くは教授上のお話を致す方が適當であることは、私も萬々承知して居りますが、聞く所では、二三日前已にこの席で、白鳥博士が中等教育の東洋歴史とか云ふお話があつたさうで、されば少し目先を變へて、學問に關係の有るお話を申す方が、却つて宜いかとも考へて、取敢へず昨日この題を極めた譯であります。暑い時分にむづかしい話は禁物と云ふことは、勿論承知致して居る。また僅か一時間で、六ヶ敷い話のしやうもありませぬ。其點は御安心下さい。
 さて近頃のやうに、交通の便利が開けた時代は別として、交通の開けない不便な時代でも、矢張り東洋と西洋との間には、宗教上或は政治上・商業上の關係からして、相互の交通が開けて居つて、自然東洋の文化と、西洋の文化とが、互に影響して居ることは明白な事實であります。或る時には東洋の文化が西洋に影響したこともあり、又或る時には其反對に西洋の文化が東洋に影響したこともある。確か昨年の秋十月だと思ふが、『新日本』と云ふ雜誌が、東洋人と西洋人と、何方がより多く世界の文化發展に貢獻致して居るか、即ち何方が今日までの世界の文化發達に、より多く力を寄與して居るかといふ題を掲げて、所謂名士とか申す各方面の人々の解答を求めたことがありました。その雜誌にはこの問題について、種々の解答を掲げてありますが、併し此問題はさう手輕に解答の出來る問題ではありませぬ。東洋人の發明で、世界の文化に影響したものがあることは事實でありますが、西洋の發明と比較して、何方がより多く世界の文化に貢獻したかと云ふことは、六ヶ敷い問題で、到底一朝一夕に解決し難い。私は唯東洋人の發明の中で、世界の文化に幾分貢獻したと思はれるもの二三を、極く簡單に紹介したいと思ふ。
 東洋人の發明と云ひますが、東洋と云ふ言葉が餘程曖昧な言葉であつて、内容がはつきりしませぬ。私が茲に申す東洋とは、極めて狹い意味に解して、東亞若くは極東と云ふのと同じ意味で、主として支那人を指すことと御承知を願ひます。
 東洋人の發明と云ふ中で、第一に注意すべきは印刷のことであります。支那の印刷術は何時出來たかと云ふと、いろいろの議論がありまして、今日でも學説が一定して居る譯でもありませぬ。併しながら普通では隋の時分に出來た、少くとも隋の開皇十三年(西暦五九三)に出來たことになつて居ります。無論之には異議を申立てる學者もあります、私なども之に絶對的信用を置くことは躊躇いたすのでありますが、其次の唐の時代になると、最早印刷術が發明されて居つたことは疑のない事實であつて、當時の記録にも明瞭にその事實が記載されて居るし、又近年新疆や敦煌方面から出て來た佛典のうちに、確に唐時代の刊本と認定されるものもあります。我が日本の稱徳天皇の御代(西暦七六四―七七〇)に作られた、例の百萬塔の中に納められた陀羅尼ダラニの印本も、時代は丁度唐の中頃に當り、西暦八世紀の半頃のものであります。日本の稱徳天皇の御代の印刷は、日本で發明したものか、唐から傳へたものかといふ事については、いろいろ議論がありますが、日本の印刷の歴史のことを餘程調べて居つた、もとの英國の公使のサトウといふ人が、日本の印刷はどうしても支那から傳へたものだと申したことがある樣に記憶しますが、私も同樣な考をもつて居ります。そは兎も角も。この陀羅尼の印刷といふものが、今日世界に現存して居る印刷物の中で、最も古くて尤も年代の確なものであることは、爭ふべからざる事實であります。さきに申した通り、近年支那の新疆や甘肅方面から、古い印刷物も發見されるが、遺憾な事には年代がはつきり明記されてをらぬから、又たまに明記されて居つても年代が下るから、我が國の百萬塔中の陀羅尼に比較すると、價値が減ずる譯であります。
 右に申述べた通り、唐時代から佛典は隨分盛に印刷されて居りますが、次の五代時代からは、佛典の外に儒書が印行される。更に次の北宋時代になると、『史記』だとか、『漢書』だとかいふ歴史物も段々に印刷されて來る。併し其頃までの印刷は、寺か或は政府でやるのが普通でありましたが、北宋の終から南宋の初頃にかけて、丁度西暦十二世紀になると、初めて坊間に書物屋が出來て、どしどし書物を印刷して販賣することになりました。以上が支那に於ける印刷發展の順序であります。
 この印刷と關聯して考へられるのは、活版即ち活字版で、これは普通の木版の印刷よりも一層便利で、一層世界の文化に貢獻したものであります。この活版も矢張り支那人によつて發明されたので、即ち北宋の仁宗の慶暦年間(西暦一〇四一―一〇四八)に、畢昇ヒツシヨウと云ふ人が發明したのであります。この事はその當時の記録に明かに載つて居つて、確な事實であります。この支那のグーテンベルグとも申すべき畢昇の發明した活字は、粘土に膠を加へて乾し固めて作つたもので、印刷する時には、先づ平扁なる鐵の板の上に、蝋若くは松脂など、容易に溶解する物質を布き、其上に土製の活字を列べて、鐵板の下を火で熱するのである。すると火の熱で以て蝋なり松脂が溶けた時機を見計らつて、さきの鐵板と平行して、他の鐵板で活字の上を壓して、活字の面を水平にして印刷するのが、當時の方法であります。木で作つた活字も其當時出來て居つたが、銅とか鉛とかの金屬製の活字は、當時の記録に見えませぬ。ずつと後世の記録に始めて載せてあります。この金屬製の活字のことは、支那の記録よりも、却つて朝鮮の記録に早く見えて居ります。朝鮮へ活字の傳はつたのは、何時代のことか分りませぬが、高麗時代に丁度西暦十三世紀の半頃になると、立派に金屬で作つた活字があつて、これで書物を印刷してゐる。この金屬製の活字のことを、其當時高麗では鑄字と申しました。十三世紀の半頃に、李奎報といふものが作つた『詳定禮文』の跋によると、當時鑄字を用ゐて、この書物を二十八部印行したことが記載してあります。降つて朝鮮時代すなはち李朝時代となると、この活字の使用が益※(二の字点、1-2-22)開けて、殊に李朝三代目の太宗は、銅製活字數十萬を鑄造させて居ります。朝鮮人は銅製活字は朝鮮人の發明だと自慢して居るが、いかにも記録の上から見ると、左樣な結論にもなるが、私の想像では、金屬製活字も矢張り支那で最初に發明されたものであるが、不幸にしてこの事實が支那の記録に傳らぬのであらうと思はれます。朝鮮人ではそんな發明はちよつとむづかしいかと考へますが、併し是は勿論斷定は出來ませぬ。所が朝鮮の活字が日本の文禄の役に分捕物になつて日本に傳はつて、慶長・元和時代の印刷に利用せられて、我が國の文運に貢獻したことは御承知のことで、事新しく茲に申し述べる必要がありませぬ。
 以上は東亞に於ける印刷の歴史の大略でありますが、これを引き詰めて申すと、
 (1)木版は後くも西暦の八世紀の半頃に立派に出來て居つた。
 (2)活版は西暦十一世紀の半頃に發明された。
 (3)金屬製の活字も、後くも西暦十三世紀の半頃には、東洋で發明されて居つた。
斯う云ふ結論になる譯であります。
 西洋の印刷の歴史は、遙に東洋のそれに後れて居ります。西洋の印刷の歴史は西暦十四世紀以後に限ります。今日西洋に現存して居る古代印刷の標本も、十五世紀以前のものはないといふことであります。その以前西洋では、皆書物を手寫したのであります。それで兔に角印刷は西洋の方が東洋より後れて居ることは疑ふべからざる事實であるが、それでは印刷術は東洋から西洋に傳はつたのであらうかと云ふと、隨分六ヶ敷い問題で、つまり今日では、確たる證據がないのであります。ある一部の學者は、西洋の印刷は支那の影響を受けて起つたものだと申して居ります。それは十三世紀に出た有名なマルコ・ポーロと云ふ人が、久しく支那に參つて居つて、十三世紀の末に本國のイタリーで、丁度浦島の龍宮歸りのやうな有樣で歸りました。非常な評判であつて、澤山の人々がマルコ・ポーロを訪問する。マルコ・ポーロが東洋から持つて來た土産物の中に、當時元で盛に使用した紙幣があつた。此紙幣は無論印刷したものでございます。元の前に國を建てた女眞の金でも、矢張り印刷した紙幣を使用して居ります。今日世界に現存して居る紙幣で一番古いのは、金の貞祐年間(西暦一二一三―一二一七)に發行された紙幣であらうと思ひます。勿論これも印刷されたものであります。丁度マルコ・ポーロより八十年餘り前のものであります。この時代に西洋に紙幣のある筈はありませぬ。そこでマルコ・ポーロを訪問して、この印刷した紙幣を見た人々は、誠に珍らしいことにいたし、この紙幣の印刷から思付いて、イタリー人が木版で骨牌を印刷し出し、更に進んで簡單な繪本などを印刷したのが、西洋の印刷の起源であると申す人もあります。ベルリン大學のグオルグ・ヤコブといふ人は、東洋と西洋と文化の關係を研究して居て「西洋に於ける東洋的文明の要素」といふ論文を公にしてをりますが、この人も矢張り印刷は支那が源で、それからして西域に傳はつて、西洋に參つたものであらうと申して居ります。兔に角印刷では、支那が世界の開祖と申して差支ない。
 それから活版の方になりますと、西洋の方で普通活版の發明者と云はれて居る、オランダのコスターやドイツのグーテンベルグなどの出たのは、十五世紀でありまして、支那で活版を發明した畢昇より四百年ばかり後の人であります。西洋の活版が、支那から影響を受けてはじまつたものであるや否は明白でない。今日ではこの關係を明かにするだけの歴史上の證據が見出されて居らぬ。併し支那の活版は、直接西洋のそれに影響せずとしても、世界に於て活版を最初に發明したといふ名譽は、當然支那人に歸する譯であります。
 次に印刷と親密の關係の有る、紙の話を申し述べようと思ふ。紙の發明も印刷の發明に劣らず、世界の文化に大なる關係をもつて居るのであるが、その紙の製造もまた、最初に支那人によつて發明されたのであります。支那で紙を發明したのは、東漢時代の蔡倫と云ふ人である。蔡倫以前には、木とか竹とか、又は帛などに書寫したのであるが、木や竹は重量も重く、持ち運に不便で、帛は價不廉で、皆實用に適しませぬ。そこで蔡倫が色々と工夫して、遂に樹皮・麻屑・敝布ふるぎれなどを原料として、今日の所謂紙を造つた。是が普通謂ふ所の紙の製造の起源であります。丁度東漢の第四代目の和帝の元興元年(西暦一〇五)のことであります。今日世界に現存してゐる一番古い紙は恐らく西晉の武帝の泰始六年(西暦二七〇)及び元康六年(西暦二九六)のデートのある古寫經であらうと思ふ。これらは支那で紙が發明されてから、僅々百七八十年後のもので、前者は英國のスタイン博士が敦煌方面で發掘した一小紙片で、後者は西本願寺から派遣した中央アジア探檢隊が、新疆から持ち歸つた寫經である。
 所が西域の方では、その當時書寫の材料として使用したのは、パピルス即ちカヤツリ紙か、または獸皮を滑した革紙即ちパルチメントであつた。支那の唐の中頃、西暦の八世紀の半頃までは、西域でも歐洲でも、今日謂ふ所の紙の製造法を知らずに、ひたすら不便極まるパピルスや革紙を使用して居つたのであります。
 西暦八世紀に有名な唐の玄宗の時代になると、かのマホメットの建てたサラセン國、即ち唐でいふ大食國と唐との間に戰爭が起りまして、二國の軍隊が中央アジアの怛邏斯タラスといふ處で戰爭をした。此時に唐の方が敗けて、澤山の支那兵士が捕虜となつたが、この捕虜の中に唐の紙漉かみすき職工がありましたから、サラセンの大將は、この紙漉職工を使役して、中央アジアのサマルカンドといふ都で、初めて製紙工場を建て、其所で支那風の紙を製造することに着手した。是が唐の玄宗の天寶十載すなはち西暦七百五十一年のことで、サラセン國に紙の製造の傳はつた起源であります。これまでの革紙などに比較すると便利で、價格も低廉であるから、需要は日を逐うて増加いたし、サラセンの領内のアラビア、ペルシア、スペイン、エジプト、シリヤ地方で、支那紙の製造工場が、どしどし開設される。製造業の勃興につれて從來のパピルスや革紙などは次第に勢力を失つたは勿論、この頃まで矢張り不便な、パピルスとか、革紙とかを使用して居つた西洋諸國へ、このサラセンで製造された紙が段々と輸出されました。そこで西洋の方でもパピルスや、革紙は次第に勢力を失つて、十四五世紀になると、歐洲でも製紙業が發達し、印刷術の應用と並んで、近世文明の發達を促がす大原因となつたものである。この紙の歴史については、私は京都大學から出て居る『藝文』と云ふ雜誌に、可なり詳しく述べて置きましたから、此處では極めて大略のみを紹介した譯であります。

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