三 東亞の霸國
過去幾千年の間、支那は東亞の霸國であつた。東亞諸國の間に在つては、習慣上支那の君主のみが獨り皇帝と稱して、自餘の君主はこの稱號を遠慮した。彼等は皆一等下つた王といふ稱號に滿足して、支那の皇帝から封册を受くるを以て名譽として居つた。勿論我が日本のみはその例外であつた。愛國心強く、國權擁護の念厚き日本人は、常に支那に對して同等の位置を要求した。推古天皇の御世、初めて日本の朝廷から隋へ國書を差出した時にも、日出處天子、致二書日沒處天子一とか、東天皇敬白二西皇帝一とか、對等の文句を用ゐて居る。されど支那の方では、殆どすべての場合に於て、日本に對して同等の待遇を與へなんだ。支那と日本と長い通交の割合に、彼此往復した國際文書の多くなかつたのは、かかる障碍があつた結果とも見るべきである。歐米諸國と交通が開けてから、第三者たる彼等も、矢張り支那と日本との待遇に就いて、多少區別を設けて居つた。
所が日清戰役を界として、日本の位置が高く、その反對に支那の位置が低くなつた。下關條約によつて、二國間の條約は改正せられ、支那は日本に對して、歐米諸國同樣の待遇を與へることとなつた。即ち不對等條約を結ぶこととなつた。第三者たる歐米諸國も亦、次第に日本を支那以上に待遇することとなつた。過去幾千年間、東亞の霸國であつた支那は、茲にその位置を日本に讓ることとなつたのである。これも東洋史上より觀て、稀有の大事變といはねばならぬ。
四 世界の一等國
日清戰役によつて、東亞の霸者となつた我が國は、日露戰役によつて、更に世界の一等國に列することとなつた。過去に於てあらゆる世界の問題は、歐米列強のみによつて決定された。東亞問題に就いても、日本や支那は、殆ど何等の發言權を有することも出來ず、すべて英露諸國の意志の儘に決定されたのである。日清戰役によつて、我が國の位置の高まつたといふ條、これは東亞諸國に對してのこと、三國干渉の發頭人なる露國が、わが國の遼東還附後三年ならざるに、厚顏にも支那に迫つて旅順・大連を租借した時、わが國からは抗議すらなし得なかつたのである。明治三十五年に結ばれた日英同盟によつて、我が國の位置の高さを加へたことは申す迄もない。世界の大國で、しかも久しく名譽の孤立を守つて居つた英國が、異人種異宗教の日本と同盟を結んだことは、隨分當時の世間を驚かしたものである。これは勿論我國にそれだけの實力あつたからではあるが、率先してその實力を認めてくれた英國の好意は、十分感謝すべきことと思ふ。
日露戰役後は、英國以外の列強も、流石に日本の實力を度外視する譯にはいかぬ。東アジアに領土を有する大強國は、何れも日本と好意を通じ、各自の植民地又は領土の安全を圖ることとなつた。かくて日佛協約(四十年六月)、日露協約(四十年七月)、日米覺書(四十一年十一月)が、相前後して締結された。これは我が國を除外しては、東亞の平和の保障の出來ぬ證據で、現在及び將來列強の活動舞臺たるべき太平洋方面では、日本國の發言權が最も尊重されることとなつた。從つて世界の國際上でも、一等國の待遇を受けることとなつた。有色人種で、國際上白人種の大國と同一の待遇を受くることは、勿論過去の世界の歴史に於ても、稀有の事實である。
五 文化の輸出
我が國が支那と通交して以來、支那の文化を輸入するのみで、一度も日本から支那へ文化を輸出したことがない。所が日清戰役後は、この天荒を破つて、あらゆる文化が日本から支那へ輸出されることとなつた。流石因循姑息の支那も、日清戰役の大打撃に目を覺まし、變法自強の語が朝野を風靡し、すべての革新は日本を手本とすることとなつた。制度・文物・學術・教育等、皆日本のそれを輸入する。たとひ歐米の文明や文化でも、一度同文同種の日本を經由したものを採用するのが、歐米から直接輸入するより、危險少くて便益多しといふのが、支那人多數の意見であつた。そこで夥多の留學生をも送れば、幾多の日本教習をも迎へる。一時わが國へ來た支那留學生の數は萬を超え、彼地に傭聘された日本教習の數は、五百以上もあつた。
漢字すら日本から逆輸入した方が歡迎される。團體・代表・膨脹・舞臺・社會・組織・機關・犧牲・影響・報告・困難・目的・運動等の文字は、支那の新聞や雜誌に普通に散見するが、此等の熟字は何れも日清戰役後に、日本から輸入されたものである。保守的な支那人は、かかる雅馴ならざる熟字を排斥せんと計畫したこともあるが、すべて無效であつた。支那人の中には更に進んで、株式とか手續とか、組合とか取締とか黒幕などいふ、恐れ入つた熟字迄も使用する者がある。此等の所謂新名詞は、最初日本から歸つた留學生などが輸入したのであらうが、當世振る支那人は、頻に之を歡迎して、新知識顏をするのである。近頃出來た新字典などには、從來支那では曾て使用されたことのない、日本の漢字までも網羅して居る。
支那の御國自慢には必ず出て來る孔子、その孔子を尊崇することすら、日本の影響で、日本維新の鴻業は儒教に負ふ所が多い。故に日本は盛に孔子の學を講じて居る。日本の強大にならはんには、必ず孔子の學を尊ばざるべからずといふのが、心ある支那人の意見であつた。そこで明治三十九年に、從來中祀とて、二等祭祀の待遇を受けて居つた孔子の祭典を、急に大祀に昇格させ、天地・宗廟と同等の待遇をすることとなつた。
ずつと變つた方面では、日本から大和魂まで輸入して居る。日本が往古盛に支那の文明を輸入した時代でも、和魂漢才とて、國魂だけは決して支那の厄介にならなかつたが、支那ではその國魂までも日本から輸入して居る。支那の先覺者の中には、日本の強大なるは大和魂の御蔭である。中國の衰弱不振は中國魂なきによる。中國今日の急務は中國魂を製造するに在ると絶叫した者もある。國魂といふ文字も、勿論日本から輸入した新名詞である。
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