支那の東方にワクワク(W
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k)といふ國號を有する群島がある。黄金の極めて豐富な國で、「黄金が豐富なる爲」その國民は飼犬を羈ぐ鎖にも黄金を用ゐ、飼猿の首環にも黄金を用ふる程である。彼等は黄金を鏤めた外套を着用して居る。
これが西アジアの記録に、我が國のことを紹介した最初の記事である。我が國に黄金が多いと吹聽した記事は、如何なる事實に本づいたものか判然せぬ。併し古代からギリシア人や印度人の間に、世界の東方に黄金を多量に産出する土地があるといふ傳説が行はれて居つたから、それをワクワク國即ち我が國に附會したものか、或は唐宋時代には我が國の産業が未だ發達せず、從つて唐の末頃に支那へ出掛けて貿易した我が國人は、金とか銀とか又は砂金などを使用したから、かかる噂が起つたものか、その邊の事情は十分明白でない。
イブン・コルダードベーの地理書以後のマホメット教徒の記録にも、ワクワクに關する記事が隨分載せられて居り、中にはワクワクの位置が可なり曖昧となつて居る物もあるが、兔に角マホメット教徒の記録を通じて、ワクワクといふ國は黄金の多い神祕的な一種の寶の島の如く傳へられて居る。有名なアラビアの『千一夜物語』普通に『アラビアンナイツ』(Arabian Nights)と稱せらるる物語の中にも、ワクワク島のことが記載されてある。その『千一夜物語』の一部にシンドバード(Sindbd)といふ人の海外探檢談がある。シンドバードは有名なハルン・アル・ラシッド(Harun al Rashid)といふマホメット教國の教皇の時代の西暦九世紀の初期の人で、一身代を作るべく國都のバクダードを後に、世界の寶の島のワクワクへ渡航せんとして、その途中で種々なる危險に遭遇した物語が、彼の海外探檢談の一部であるといふ。此種の物語の通例として、法螺もあり假託もあり、勿論その儘に事實として受取り難いが、そは兔に角この探檢談そのものが、マホメット教徒の間に、世界の東端に黄金を多量に産出するワクワクといふ土地があると、信ぜられて居つた一つの證據に供することが出來る。
日本はワクワクといふ稱呼で、唐のやや末期の西暦九世紀の半頃から、西アジアのマホメット教徒の間に知られたが、歐洲のキリスト教徒の間には、未だその存在を知られなかつた。日本の國名の始めて歐洲に傳つたのは、それより約四百五十年後の元時代、丁度西暦十三世紀の終頃からの事である。元即ち蒙古は太祖成吉思汗以來四方を征服して、大なる版圖を拓き、その孫に當る世祖忽必烈の頃になると、當時の世界の大半を併呑して仕舞つた。西はロシアから東は朝鮮半島の高麗に到るまで、悉く元の支配の下に立ち、南洋諸國も大抵元に朝貢した。かくて歐亞の二大陸に跨る空前の大帝國が出現して、從來一隅に割據して居つた諸小國の障壁が除き去られると、東西兩洋の交通が頗る便利となり、ドイツ人やフランス人などの歐洲人や、西方アジア人達が續々支那に出掛け又はここに移住した。同時に多數の支那人も西方に出掛け、ペルシアのタブリズ(Tabriz)といふ都會や、ロシアのモスカウ(Moscow)や、更に内地のノヴゴロード(Novgorod)といふ都會に、支那人の居留地が出來るといふ状況で、中世期で蒙古時代程東西の交通の盛大を極めた時代がない。最近に西暦一九二〇年にローマ教皇の古文書局から發見された、成吉思汗の孫に當る元の定宗貴由汗から、西暦一二四五年にローマ教皇インノセント(Innocent)四世の許に贈つた書翰は、棉紙にペルシア語で書き、ロシア人のコスマス(Cosmas)の手で彫刻されたと信ずべき、支那風の四角型の國璽の璽文はウイグール字を朱肉で捺してある。この書翰を蒙古の國都の喀喇和林から歐洲のローマに到る間を、イタリーの僧侶のプラノ・カルピニ(Plano Carpini)が持ち歸つた事實は、よく元時代の特色を發揮して居ると思ふ。兔に角元時代には或は宗教上の目的で、或は商業上の目的で更に又政治上の目的やら生活上の目的やら、種々の方面から、歐洲人が尠からず支那方面へ來集したが、その中で最も有名なのが、かのマルコ・ポーロ(Marco Polo)である。
マルコ・ポーロは申すまでもなくイタリーのベニス(Venice)の人である。彼は西暦一二七一年に年十七歳の時に、父に伴はれて故郷を後に東洋に出掛け、東洋諸國を遍歴しつつ、一二七五年に支那に到着して、元の世祖に拜謁して非常な優遇を受け、足掛け十八年ばかり支那に滯在した。即ち一二七五年から一二九二年まで支那に滯在して居つた。一二九二年に世祖の皇女が同じ一族であるペルシアの王樣の許に嫁つがれることになつたので、その皇女を見送りかたがた歐洲へ歸ることになつた。かくて一二九二年にマルコ・ポーロ等の一行は、福建の泉州から船出して、印度洋ペルシア灣を經て、首尾よくペルシアの王廷に元の皇女を送り屆けた後ち、自分等は陸路小アジアを經て一二九五年に丁度足掛け二十五年目に故郷のベニスに歸着した。
ベニスでは浦島が龍宮から歸つた樣な大騷ぎで、彼の東洋に關する珍らしい物語を聽聞すべく、訪問者が市をなす有樣であつた。マルコ・ポーロは來集する訪問者を喜ばしめる目的で、東洋の豪華を物語る際に、誇張してよく百萬といふ數字を使用したから、やがて當時の人から「百萬のマルコ樣」(Messer Marco Millioni)といふ綽號を得たといふ。マルコ・ポーロが歸國すると間もなく、ベニスとゼノアとの兩市の間に戰爭が始まり、ベニス軍に加はつたマルコ・ポーロは敵軍に捕虜となつた。彼が西暦一二九八年にゼノア軍に捕虜となつて居る間に、彼の東洋見聞談を口授して人に書取らせた。これが有名なるマルコ・ポーロの旅行記である。元の世祖の日本入寇、即ち弘安四年(西暦一二八一)の役は、丁度このマルコ・ポーロの支那滯在中に起つた事件であるから、彼は勿論この事件を承知して、その旅行記の中に日本に關する記事を、比較的詳細に紹介して居る。
このマルコ・ポーロの旅行記に日本のことをヂパング(Zipangu)と書いてある。ヂパングとは日本國の支那音ジーペンクオ(Jih-pn-kuo)を訛つたものである。支那人は唐の頃まで我が國を倭國と稱したが、宋元時代には一般に日本國と稱することになつたから、支那人から我が國のことを傳へ聞いたマルコ・ポーロは、支那人の發音をその儘に、日本國をヂパングと書いたのである。兔に角日本國即ちヂパングといふ我が國號は、マルコ・ポーロによつて始めて歐洲人の間に傳へられた。彼の旅行記中の日本國に關する記事を紹介すると、大要次の如くである。
ヂパングは「支那」大陸から東千五百里ばかり離れて、大海の中にある甚だ大きな島である。その國民は色が白くて非常に開化してゐる。……この國民の有する黄金は無限である。それはこの島から多量の黄金を産出するのに、その國王は「國民に」之を海外に輸出することを許可せぬ。それに大陸を遠く離れた絶海中の孤島であるから、この國へ外國商人の通商する者稀有である。此等の事情により、この國民は言語に絶する程の多量の黄金を有する譯である。今予は「讀者の爲に」この國王の驚くべき宮殿の有樣を物語らうと思ふ。この國王は頗る廣大な宮殿を有して居らるるが、此宮殿の屋根瓦はすべて純金製である。更に又この宮殿の建物と建物との間を連結する鋪石は「石の代りに」厚さ幾寸といふ黄金の板敷である。また各部屋の床板も矢張り同樣に厚さ幾寸の黄金の板である。故にこの宮殿の價値は計算以上で、とても普通の人には信用出來ぬ程高大なものである。蒙古の現時の大汗「世祖」忽必烈(Cublay)はこの島の黄金の無量なる由を傳へ聞き、之を併呑せん爲に、さてこそ征伐の軍を起した譯である。
かくてマルコ・ポーロは蒙古軍の我が國への入寇の有樣や、暴風による蒙古艦隊の大失敗などを、詳細にその旅行記中に記載してある。マルコ・ポーロもアラビアの地理學者のイブン・コルダードベーと同じく、否それ以上に、我國を黄金の寶の島扱ひにして居るが、彼の東洋の榮華繁昌についての紹介、殊にヂパングの黄金無量といふ吹聽は、尠からず慾深の歐洲人を刺戟した。一體元時代に東洋に旅行した人の紀行又は記録も尠くないが、その中でこのマルコ・ポーロの旅行記はその内容に於てその書き振りに於て、一番世間に歡迎せられ、西暦十四世紀から十五世紀にかけて、相當廣く愛讀された。廣く愛讀されるに從つて、愈大なる刺戟を歐洲人に與へ、この刺戟が遂に新大陸の發見といふ世界史上の大事件出現を促す一大原因となつたのである。
上に申述べた通り、元時代に東西兩洋の交通が盛大になつて以來、東洋貿易も盛大になつて、歐洲人の東洋産物の需要、從つて歐洲に輸入される東洋産物は、日に月に、多きを加へて來た。歐洲人は最早東洋物産なくしては殆どその日常の生活に差支へるといふ状態となつて來た。西暦十四世紀の頃に於る東西兩洋の一番普通な交通路は、陸上では支那から出て今の新疆省の地面を經て、中央アジアに出で、アラル海や裏海の北方を通つて、黒海の邊に達する。要するにシベリアの西南の黒海方面に出ると、茲に澤山なイタリーの商賈が居つて、彼等の手で東洋から來た産物を、地中海沿岸の國々へ販賣するのである。海路の方は南支那から印度洋を經て、紅海に出で今のスエズ邊りから上陸して、シリア若くはエヂプトに到達すると、茲にもイタリーの商賈が待ち受けて、彼等の手で東洋舶來の物産を、地中海の沿岸諸國に販賣するのである。
所が困つたことは西暦十四世紀の中頃から十五世紀にかけて、トルコ帝國が勃興して來て、次第に勢力を張り、黒海もシリアもエヂプトも漸次にトルコの手に歸し、又は歸せんとする形勢になつて來た。かくてヨーロッパとアジアとの交通路が海陸ともにトルコの爲に威嚇され、又は遮斷されることになつた。元來歐洲諸國とトルコとは、不倶戴天の仇敵の間柄である。第一にトルコはマホメット教を奉じ、歐洲諸國はキリスト教を奉じて信仰を異にして居る。第二にトルコは新興の勢を擧げて侵略の手をヨーロッパ方面に向け、歐洲諸國と絶えず交戰するといふ有樣であつた。その宗教上政治上不倶戴天の仇敵たるトルコの爲に、大事な東洋方面との交通路を遮斷威嚇されることは、歐洲諸國にとつて堪へ難い大苦痛であつた。そこで十五世紀の半頃から歐洲諸國ではトルコの勢力から離れた、東洋への新交通路を發見すべく熱心に努力した。この發見に努力すべき新交通路は二筋ある。一つはアフリカの西海岸に沿うて東に向ひ、印度洋を經て東洋へ廻航せんとするもの、一つは西に向ひ大西洋を横斷して、東洋へ航行せんとするものである。前者は隨分迂回な航路ではあるが、海岸傳ひのこととて、新交通路とはいへ、寧ろ安全である。後者は距離は短縮かと想はれるが、頗る冒險な新航路といはねばならぬ。
前者の東廻航路を開いたのがポルトガル人である。ポルトガル人は五十年に亙る努力の結果、西暦一四九七年にリスボン(Lisbon)から船出したヴアスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の艦隊がアフリカの南端を廻つて、その翌一四九八年の四月に印度のカリカット(Calicut)に到着して、首尾よく歐洲から印度に到る新航路を開いた。やがて彼等は一五一〇年に印度のゴア(Goa)を占領して東洋經營の根據地と定めその翌一五一一年に更にマレー半島の南端のマラッカ(Malacca)を略取し、一五一四年に始めて南支那に進出した。彼等が更に前進して我が日本の九州に到達したのは、その約三十年後の一五四三年の頃である。かくてポルトガル人は東廻航路によつてアジアの東端を極め、最後に一五五七年に南支那の阿瑪港(Amacao)又は瑪港(Macao)を占領し、この地を極東の根據地として、日本や支那と貿易を營んだ。
後者の西廻航路を開いたのはスペインである。一體中世紀における歐洲は所謂暗黒時代で、學問は極度に壓倒された時代であつた。從つて當時のヨーロッパ人の世界地理に關する知識は憫然至極のもので、殊に東方アジアに關する知識は絶無と稱しても不可なき状態であつた。中世紀に十三世紀の頃まで、歐洲で普通に使用された地圖は、所謂O中にTを篏めたる地圖で、略上の圖の如きものであつた。
すなはちキリスト教の聖地イエルサレムが世界の中心を占め、アジアは實際以上に狹小に描出されて居り、殊に中央アジア以東は極端に狹隘なる空間に壓迫されて居つた。所が元時代に多數の歐洲人が、蒙古や支那方面に往來して、アジアの東邊が意外に廣大なることを體驗すると、今度は從來の反動で、十五世紀頃の歐洲の地圖には、實際以上にアジアを廣大に描出して來た。それにマルコ・ポーロの旅行記に記載してある日本や支那に關する記事は、支那人から傳聞したもので彼此の距離は勿論支那里數を使用したのであるが、讀む歐洲人はこれをイタリーの里數と誤算した。イタリーの里長は支那の里長の約三倍もあるから、この誤算は愈實際以上に東方アジアを廣大ならしむる譯である。例へばマルコ・ポーロに據ると、ヂパング即ち日本は、(支那)大陸の東一千五百里の大海中にある大なる島であるが、この一千五百里といふ里數を、イタリーの里數として換算すると、經度二十五度に當るから、ヂパングは支那大陸より、東經二十五度を距てた大海中に存在せなければならぬ。然るに今日實際について見ると支那大陸の一番東端と日本の西端との距離は、約經度八度であるから、この誤算の結果として、支那とヂパング(日本)との距離は、實際の三倍以上に擴大された譯である。
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