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大師の入唐(だいしのにっとう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:01:50  点击:  切换到繁體中文

 

石佛寺即唐青龍寺、在祭台村

とあれば、青龍寺は後に石佛寺と名を變へて、嘉慶時代まで存在したものと見える。祭台村は今の長安縣の西南郊外、我が一里強に當る。私は長安へ出掛けた時分に、未だこの事實を承知せなかつた爲め、石佛寺を探訪せず、今日まで遺憾千萬に思ふ。私の前後に長安に出掛けた人々が尠くないが、誰も石佛寺の現状を審にせぬ樣である。{その後大正十三年の夏に、眞言宗の青年僧侶の和田辨瑞君が、私のこの論文に刺戟され、態※(二の字点、1-2-22)長安に出掛けて青龍寺の舊蹟を踏査し、石佛寺――今は祭台村の小學堂になつて居る――の現状を始めて傳へられた。大正十四年二月發行の『新興』といふ雜誌に、その大要が紹介されて居る。近頃、大正十四年九月の『宗教研究』に、常盤大定博士が、石佛寺を青龍寺の舊蹟とする説を否定されたとか仄聞したが、不幸にして未だ寓目の機を得ぬ。私は今日でも石佛寺を青龍寺の遺址とする説を信頼して居る。何れ常盤博士の論文を閲讀した上で、それに對する批判を學界に公表したいと思ふ。} 
 さて大師はこの年の六月十三日に、始めて惠果阿闍梨に就いてから、二ヶ月を經たその八月には、早くも傳法阿闍梨位の灌頂を受けらるることになつた。私はさきに申述べた通り、眞言の教義には全く不案内であるが、かかる短日月にして、かかる名譽ある灌頂を受けることは、極めて異常のことと思ふ。經範の『大師御行状集記』に、この時玉堂寺の僧珍賀といふ者が、再三この傳法に不平を唱へたと申傳へて居るが、隨分有り勝のことであらう。海外から留學に來た一僧侶が、僅々二ヶ月にして、衆弟子を越えて、法燈繼承の大名譽を負うたことは、確に一部の者に奇怪驚愕の念を起さしめたに相違ない。是に由つても大師の資性の如何に非凡であり、また惠果阿闍梨の大師に對する信任の如何に深大であつたかを、想見し得て餘あると思ふ。
 眞言の教義は深密で、圖畫を借らねば、説明理會し難い點があるといふ阿闍梨の注意で、大師は供奉丹青博士の李眞らに依頼して、大曼荼羅十鋪を作らしめ、また供奉鑄博士の楊忠信らに依頼して、佛具十五事を作らしめた。供奉とは唐時代には一藝に卓越した者を選んで宮廷の供奉官とした。差當り我が宮内省御用掛といふ格である。楊貴妃の一族の楊※(「金+りっとう」、第3水準1-92-92)(楊國忠)などは、※[#「てへん+樗のつくり」、読みは「ちょ」、374-14][#「くさかんむり/捕」、読みは「ほ」、374-14]が上手といふので、供奉官となり、それが出世の緒で、遂に玄宗の晩年の宰相となつた。かかる供奉は有難くないが、丹青博士といへば、先づ今日の帝室技藝員に相當すべきであらう。
 唐は藝術最盛の時代であつた。中にも支那の繪畫は、當時の世界に冠絶して居つた。唐末のアラビア人の支那見聞録にも、支那人はあらゆる技藝に於て、世界の各國民中に卓越して居るが、殊に繪畫を第一とする。彼等は他國民人には、到底模倣し得ざる程の完全なる繪畫を作ると述べてある。支那の鑄金術や合金術も、古代から頗る發達して居つた。大師の入唐より約百年前に、則天武后の延載元年(西暦六九四)に、諸蕃長は醵金して、武后の徳を頌する爲に、洛陽の宮城の正門前に、銅鐵製の天樞を建てた。天樞の形は八角で、その一面の廣さ十二尺、高さ百五尺といふ。天樞の正面には、武后の親筆で大周萬國頌徳天樞の八字を刻し、その周圍には、この計畫に贊成した百官及び四夷諸酋長の名を刻した。土臺は同じく銅鐵製の山形で、高さ二十尺周圍百七十尺餘に及ぶ。この土臺の上に、天樞が聳立して、定めて偉觀を呈したであらう。天樞は武后の死後間もなく破壞されたけれど、當時の記録によつて、その規模を髣髴の間に想見することが出來る。唐人の金物製作に長じて居つたことは、正倉院の御物――御物の中に唐製の器具尠くないと見受ける――を拜觀しても、推知するに難くない。この藝術の發達した唐時代に、或は丹青を以て、或は鑄金を以て、供奉博士に推された人々の、技能の拔群なるべきは贅言を要せぬ。從つて大師が携帶歸朝された、此等の曼荼羅・佛具は、單に藝術的方面から觀ても、大いに貴重すべきものと思ふ。
 勿論大師はこの曼荼羅・佛具を作る爲に、此等藝術家に尠からざる報酬を支拂はれたことであらう。數多き藝術家の中には、銅臭を帶びた者も皆無とはいへぬ。現に慈覺大師の入唐の時、同じく青龍寺に滯在して、畫工を雇ひ佛像を畫かしめんとしたが、報酬多からざる爲、一時拒絶された事實もある。當時大師の御手許は決して豐富でなかつた筈と想ふ。由來精神的事業に出金を惜むのが、日本政府及び日本國民の古今の通弊である。
 唐時代に於ける我が留學生及び學問僧の待遇は、委細のことは知り難いけれど、決して十分でなかつた。大師が同伴の橘逸勢の爲に、日本國使へ學資窮乏を申出られた、「爲橘學生本國使啓」の中に、

日月荏苒、資生都盡。此國所給衣糧、僅以續命、不束脩讀書之用。若使專守微生之信、豈待廿年之期。非只轉螻命於壑、誠則國家之一瑕也(『性靈集』卷五)

と述べられて居るに據ると、當時の留學生は、支那政府から支給さるる衣食に由つて露命を維ぐのみで、積極的研究などの餘裕のなかつたことが判る。大師も略之と同樣の待遇かと想ふ。
 かかる境遇の間に一流の藝術家を雇ひ、佛畫佛具を作り、幾多の筆生を雇うて經文を寫すのは、中々容易のことであるまい。現に大師が歸朝の途次、浙江の越州(今の會稽道紹興縣)に立ち寄られ、越州の地方長官に經典の蒐集を依頼された時の「與越州節度使内外經書啓」に、

今見於長安城中、所寫得經論疏等凡三百餘軸、及大悲胎藏金剛界等大曼荼羅尊容、竭力涸財、※[#「走+尓」、読みは「ちん」、376-7]逐圖畫矣。然而人劣教廣、未一毫、衣鉢竭盡、不人、忘食寢書寫(『性靈集』卷五)。

と告白されて居るではないか。大師をして、逸勢をして、此くの如き窮乏の裡に求法講學せしめた、當時の日本政府の處置は、今日から觀て甚だ遺憾に堪へぬ。併しこはさきに申置いた通り、古今を通ずる我國の缺陷である。千百年後の大正の今日と雖ども、この缺陷は格別改良されて居らぬ。四五日前の新聞紙に、ドイツのマルク爲替相場が下落したから、在獨の日本研究員は、大盡暮らしをして居るといふ記事があつたが、これは一時的現象に過ぎぬ。名義こそ從來の留學生は在外研究員と改良されたが、實際の待遇は、到底陸海軍等の在外研究員と比較出來ぬ程愍然たるものである。私も二年間の支那留學中、可なり苦しい境遇に在つたから、この點に就いては、特に大師に同情申上ぐる次第である。
 かくする間に、その年の十二月十五日に、惠果阿闍梨は老病を以て遂に入寂された。大師が就いて請益されてから、正しく半歳の後に當る。若し大師の入唐が半年後くれたならば、永遠に阿闍梨に請益の機會を失はれた筈である。大師は延暦二十三年の五月に入唐の勅許を受け、その六月に難波津を發船して、翌七月に支那に渡航されたのである。かかる都合よき遠征は、當時で申せば稀有の幸運である。多くの場合は風待ちの爲に、半年か一年、時には二年をも空費せなければならぬ。傳教大師の如きも、延暦二十二年に入唐の豫定が、一年延期を餘儀なくされて居る。たとひ大師が首尾よく入唐されても、若し惠果阿闍梨が半年早く入寂されたならば、水魚の關係に在るこの二方は、永遠に會合の機會を失はるべき筈であつた。萬一かかる場合ありとせば、大師の爲にも、惠果阿闍梨の爲にも、一大不幸なるべきは勿論、第一日本の宗教界にとつて、想像以上の大損失であらねばならぬ。かく考へると、大師と阿闍梨との會合こそ、實に千歳の一遇と申すべきであらう。
 惠果示寂の後ち、大師はこの恩師の爲に碑文を作られた。『性靈集』卷二に收めてある、大唐神都青龍寺故三朝國師灌頂阿闍梨惠果和尚之碑がそれである。一體大師の文章は、時代の風尚を受けた四六駢儷體で、この碑文も勿論同樣であるが、今日傳はれる大師の文章の中で、尤も傑出したものの一つであらう。これは文學隆盛の支那の本場で、一外國の沙門の身を以て、名譽ある文章を作るといふので、隨分苦心された故もあらうが、同時に衷心から恩師に對する思慕景仰の念の深厚なる故と思ふ。
 大師の入唐中第一に恩顧を受けたのは、上述の惠果阿闍梨であるが、之と共に今一人の般若三藏を見逃がしてはならぬ。大師自身も、その「與本國使共歸啓」に、

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