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大師の入唐(だいしのにっとう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:01:50  点击:  切换到繁體中文

 

建中(西暦七八〇―七八三)以往、入朝使船、直着揚蘇

とある通りであつた。錢塘江口の明州や越州(今の浙江省會稽道紹興縣)へも、隨分日本船が出入した。宋時代になると、この浙江沿岸の方が、支那と日本朝鮮との交通の門戸と確定した。
 然るに福建方面は、從來餘り日本と交渉がない。長溪縣へ日本船の入港したるは、恐らく今囘が最初であらう。大師の便乘した第一船も、勿論揚子江口か、錢塘江口を目的としたのであらうが、風波の爲に、この南邊に到着した譯である。この長溪縣は邊鄙の小縣とて不便多く、更に地方長官(福州觀察使)所在地の福州へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)航を命ぜられ、我が遣唐大使の一行は赤岸鎭を後に、福州に到着したのは、その年の十月三日のことである。
 支那來航の外國船に貢舶と市舶との區別がある。貢舶とは外國の入貢船のことで、之に對しては支那官憲の取扱も鄭重で、その舶載せる貨物には關税を徴收せぬ。市舶とは貿易を目的にする外國船で、その貨物に對しては、所定の關税を徴收する。貢舶市舶の區別は、主として明代の記録に見えて居るが、事實としては唐・宋時代から、この區別が行はれて居つた。我が遣唐大使が、從來何等縁故のない地方へ入港した爲め、福建の官憲から種々煩細なる取調べを受け、殊に市舶同樣の取扱を受けんとした。「爲大使福州觀察使書」の中に、今囘の待遇が從前に比して苛酷なる點を述べて、不平の意を漏らしてあるが、かかる行違ひの結果で、誠に已を得ざる次第と申さねばならぬ。
 我が大使一行の福建滯留は意外に長引いた。赤岸鎭到着後約三月に及ぶも、入國上京の許可に接せぬ。これには地方官憲から、事件を中央政府に報告して、その指揮を仰ぐ爲めに要する日數もあり、殊に當時生憎福建の觀察使が更迭中で、自然事務が遲滯する事情もあつた。大師はこの空しき滯留を非常に煩悶せられ、その「與福建州觀察使入京啓」に、

居諸ツキヒ駐、歳不我與。何得厚荷國家之憑、空擲矢之序。是故歎斯留滯。貪早達一レ京(『性靈集』卷五)。

と申述べて、熱心に入京求法の許可を催促されて居る。かくて十一月の三日に、始めて入京の許可を得、遣唐大使以下我が大師を加へて二十三人だけ、福州から長安に發向いたし、その以外のものは、當分福州に滯在して、明年の三四月に、大使一行が長安から明州に到着する頃に、明州へ廻航することとなつた。

     (四)長安途中

 我が大使大師の一行が福州から長安に往くのに、如何なる道筋を採られたかは明瞭でない。當時の記録にこの道筋のことが一切見えて居らぬ。されど私ども專門家の立場から申すと、交通道路は略一定して居るから、この一行のとられた道筋も大體の見當はつく。大師等は恐らく※(「門<虫」、第3水準1-93-49)江の流を溯つて、今の南平縣・建安縣・浦城縣を經て、浙江省に入り、大體に於て錢塘江の流に沿うて、今の浙江省錢塘道杭縣即ち唐時代の杭州に出られたことと想像する。福州杭州間の距離は約千六百六十{支那}里で、即ち十七八日の行程である。私はこの道筋に就いては、何等の體驗がないから、何事をも申述べることが出來ぬ。

       (A)水路

 杭州は隋の煬帝の開いた運河の最南端に在る。この方面での一都會で、名勝に富み、古刹も尠くない。支那では東南澤國とも、北馬南船とも申して、浙江・江蘇方面は一體に水利の便が開けて居る。杭州から水路約三百五十{支那}里往くと蘇州で、姑蘇の寒山寺の所在地として、日本人によく知られて居るのみならず、唐・宋時代に日本人の終始往來した所である。蘇州の産で、金石學者として聞えた、清末の葉昌熾に據ると、蘇州城外に、日本國使の墓と傳へらるる古墳があり、又その殘碑もあるといふ。近時蘇州に往來する日本人は中々に多いが、未だ誰人もこの遺蹟を踏査せぬ樣である。蘇州から更に水路を往くこと三百八十{支那}里で、潤州(今の江蘇省金陵道丹徒縣)に至る。宋時代から有名となつた金山寺はここに在る。ここで長江(揚子江)を渡ると、その對岸が揚州(今の江蘇省淮揚道江都縣)である。
 揚州は鑑眞和尚と特別の關係ある土地で、また隋代の史蹟も多い。大師の時代に、揚州は尤も繁昌を極めた都會で、その時分に揚一といふ諺があつた。富庶といはず、繁華といはず、すべての點に於て、揚州が天下第一といふ意味である。唐の詩人は人生只合揚州死――同じく死亡するのでも、揚州の土になりたい――とさへ申して居る。横の揚子江と、縱の運河の交叉點に當る揚州は、當時内外商賈の輻輳する所で、遠くアラビア(大食)ペルシア邊の外商も尠からずここに來集した。彼等の間には揚州はカンツウ(Kantou)として知られて居る。カンツウとは揚州の別名である江都を訛つたものと思ふ。ここには日本人や朝鮮人も多く來集した。揚子江沿岸へ入港する日本人朝鮮人は勿論のこと、揚子江以南の地へ入港する日本人朝鮮人も、皆揚州を通過して、洛陽や長安に出掛けた。自然揚州でアラビア人やペルシア人が、日本人朝鮮人のことを見聞する機會が多い。さればこそ唐の中世頃、即ち西暦九世紀の半頃のアラビアの地理書に、日本朝鮮の記事が始めて登録さるることになつた。それには日本をワークワーク(W※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)kw※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)k)としてあるが、ワークワークとは倭國を訛つたもの、朝鮮をシーラー(S※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)l※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字))といふのは、新羅の音譯であらう。
 此の如く運河の道筋には名都舊蹟が甚だ多いが、大使大師の一行は、一向に前途を急がれた。藤原葛野麻呂の復命に、

ヲイタダキテ發星宿、晨昏兼行(『日本後紀』卷十二)。

とある通りである。こは福州にて意外に時日を空費したから、成るべく年内に長安に到着して、使命を果さうといふ理由に本づくと思ふ。事實福州から長安まで約五千三百{支那}里――『元和郡縣志』に五千二百九十五里とある。『日本後紀』に此州(福州)去京七千五百廿里とあるのは、間違と斷ぜねばならぬ――の長途を、四十八九日で旅行することは、支那の旅行としては、中々忙敷あわただしいので、我が一行は蘇州にも、揚州にも、一日の滯在見物する暇なかつた筈と想像される。併し大師は歸朝の日も、この同一道筋をとられ、この時は往路程前路を急ぐ必要なかつた筈故、多分此等の都會を一日位は觀光されたかと想ふ。
 私もこの杭州揚州間の運河は、一部分知つて居る。その一部は汽船で、一部は支那船に乘り込んで旅行した。故に大師の御旅行の氣分は可なり味はふ事が出來る。支那では陸路の交通より水路の交通の方が、概して安樂ではあるが、これにしても人知れぬ困難が伴ふ。第一は飮料水の不潔である。支那では日本の樣な清冽な水に乏しい。運河の河筋では皆河水を使用するが、それが頗る不潔である。之に就いて私の體驗した面白い話がある。この席上での話としては、幾分不作法であるが、容赦を願ひたい。
 今より十二三年に、私は藤田劍峰君・長尾雨山君と同伴で、杭州から紹興(唐の越州)へ出掛けた。一艘の支那船を雇ひ、その中に寢泊りをいたし、炊事その他萬般雜事には、長尾君のボーイを使役する事にした。所がこの河筋を見渡すと、例によつて支那人は不潔物をここに排泄いたし、その河水で平氣に顏も洗へば、飯も爨くのである。我々日本人は之には顏をそむける。私は我々のボーイも同樣に、この河水で炊事をせぬかといふ疑を起したが、主人公の長尾君は中々同意せぬ。同君はこのボーイは久しく自分の家で使役したから、支那人とはいへ、日本人同樣潔癖で、あんな不作法をする筈がないとて、激しく反對を唱へる。論より證據とて、食事の時分に給仕に來たボーイを捕へて詰問すると、ボーイは平氣の平左な顏で、何等遲疑する所なく、勿論この河水を毎日の煮炊に使用して居ると公言したので、流石の長尾君も全く面目を潰して閉口した。それ以來我々はボーイに一々干渉して、決して河水を使用させぬことにした。大師も潔癖なる日本人として、この道筋の旅行には、飮料水に就いて、可なり困難を感ぜられたことと恐察いたすのである。
 揚州から運河によつて、更に千三四百{支那}里北に進むと、遂に※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)州(今の河南省開封道開封縣)に達する。現時の運河は江蘇から山東に入るが、唐・宋時代の運河は、山東へ行かずに、河南へ入つて※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)州に達した。元來運河とはその名の示す如く、國都へ糧米を運漕する堀河である。隋・唐時代の國都である洛陽・長安、宋の國都の開封(即ち※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)州)へ糧米を供給する運河であるから、隋・唐・宋時代に、この運河が河南に入るのが當然で、山東を通るやうになつたのは、今の北京へ糧米を運ぶ必要の生じた、元・明以來のことである。
 ※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)州は北宋時代から一層繁華となるが、唐時代でも支那で相當の大都會であつた。ここには、唐・宋時代にかけて有名であつた相國寺がある。運河は※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)州で一段落を告げる。黄河にも荷物船は通ずるが可なりの急流を溯ることとて、中々時日を要するから、旅客は之を利用せぬ。まして上述の如く前途を急がるる我が大使大師の一行は、勿論※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)州で船を辭して、陸路に就かれたに相違ない。

       (B)陸路

 北支那の陸路を行くには所謂北馬で、馬車か乘馬に限る。身分ある人は大抵馬車を雇ふ。大使大師の一行は、勿論沿道の支那の官衙で準備してくれた、馬車を使用されたことと想ふ。支那の馬車は二千年前も今日も格別の相違がない。東漢時代の石彫に見えて居る馬車や、六朝時代の陵墓から發掘された馬車の模型と、十二三年前に、私が支那内地旅行の時乘用した馬車と略同一である。大師入唐時代の馬車も、大體同樣と認めねばならぬ。それは隨分窮屈なものである。
 支那に於ける陸路の交通は、水路に比して概して不愉快と申さねばならぬ。第一に道路が非常に惡い。殊に車馬の往來頻繁な北支那の道路は一層甚しい。道路の中央は破損されてその儘に、可なり深い凹字形になつて居る。都會の道路でも、降雨後は二三日位晴天が連續しても、その中央は池沼の樣になり、ここに水鳥が遊泳いたし、人間はその兩側の小高き所を歩行する有樣である。田舍の道路は一層で、雨が降ると、二尺も三尺もある深き泥濘となつて、事實車輪の半ばを沒する程である。我が國の道路の惡い事も隨分評判高いが、それでも支那の道路に比しては、霄壤の大差がある。唐時代には※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)州・洛陽・長安街道は、幾分今日よりは良好であつたかも知れぬ。併し大した相違のある筈がない。地質上已を得ざる點もある。かかる有樣であるから、雨天の日には支那人は概して旅行を中止して、客舍で一日を空費する。されど我が大使大師の一行は、急ぎの旅とて、私共がこの方面を旅行した時と同樣、雨を衝き風を冒して一向に前進を繼續せられ、從つて尠からざる辛苦を嘗められた筈である。
 右の如き惡道路を支那馬車は、石が出て居つても、水が溜つて居つても、一切構はずに進行するから、乘客は不斷の地震の裡に旅行を續ける有樣である。馬車の中で書見する事も、居睡することも出來ぬ。うつかり居睡すると、否やといふ程、頭を馬車の箱に打ち付けねばならぬ。頭痛持の人では一寸旅行が六ヶ敷い。しかのみならずこの馬車は度々顛覆する危險がある。速度の遲いに拘らず、よく馬車が顛覆する。
 馬車の旅行に就いても面白い插話がある。私と今東京帝國大學に在勤の某教授と二人連で、洛陽から長安へ旅行した途中での出來事である。二人とも文部省の留學生として、學資に餘裕がないから、堂々たる旅行は勿論出來ぬ。そこで馬車一臺と馬一匹とを雇ひ、代る代る之に乘り代へることにした。馬車といふ條、實は棚車ポンチヨウとて、アンペラで屋根を拵へた、粗末至極の荷馬車である。或日私が乘馬で早く指定の土地に到着して、後から荷物と一所に、馬車で來る筈の友人を待ち受けたが中々出て來ぬ。一時間經ても一時間半經ても、中々影が見えぬ。夕暮になるし、手荷物は屆かず、物慣れたボーイは友人と一所で、私唯一人蕭然と、半ば泣きたい氣持で、町の入口に見張りをして居つた。日が全く沒して暗くなつた時分に、漸く馬車が到着した。早速友人に遲刻を責めつつ事情を聞くと、その友人がうとうと車中で居睡をして居る間に、馬車が泥濘の裡に顛覆して、否やといふ程、頭を打ち付けた。喫驚びつくりしたが、車内のこととて身動きが出來ぬ。ボーイや馭者に助けられて、やつと外へ出たが、顛覆した馬車は中々引き起こすことが出來ぬ。已を得ず友人も洋服姿の儘で泥中に這入り、馭者やボーイに力を協せて馬車を引き起こした。生れて初めての力仕事をし、洋服まで泥塗れにして、その上に不足を言はれてはと、友人は友人で愚痴をこぼす。それだけならば支那旅行中には有り勝の出來事で、珍らしくもないが、その日の夜中に、友人が大聲で喚き立てるので、側に寢て居た私は喫驚して起き上ると、その友人は小心小心――支那語で注意せよの意味――そら復た引くりかへつたと、日本語と支那語との合子の寢言ねごとを申して居るのである。餘程晝間の顛覆が身に沁みたのであらう。
 ※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)州から西の方、唐の洛陽(今の河南省河洛道洛陽縣)まで、四百{支那}里餘りで、今は※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)洛鐵路が開けて、約七八時間位で到着することが出來るが、馬車では普通五日又は六日を要する。一々の道筋の説明は省略するが、洛陽の手前、日本里數で三里たらずの所に、有名な漢代の白馬寺がある。今日の建築は明末清初のもので、さまで盛觀とはいへぬが、唐代には規模廣大で、又旅客の必ず通過すべき道筋に當るから、前途を急がるる大師も、支那佛教上忘るべからざるこの白馬寺には、必ず探訪されたことと想ふ。
 白馬寺を通過すると、やがて洛陽に着く。洛陽に新舊の二がある。舊洛陽は漢魏時代の都で東に、新洛陽は隋唐時代の都で西に在る。相距ること二十五{支那}里許といふ。その結果、漢の洛陽の西門外に在つた白馬寺が、上述の如く却つて唐の洛陽の東に當ることとなつた。大師時代の洛陽は、さして長安に劣らぬ繁華で、その城内を貫通する洛水の上に架せる天津橋は、實に肩摩轂撃の熱閙を極めたが、今は城外に淋しい名殘を存するのみである。洛陽の市街も殆ど見る影もない程淋れて居る。支那の數ある舊都會の中で、尤も衰微した都會の一つであらう。
 洛陽から西へ二日路で※(「さんずい+黽」、第3水準1-87-19)メンチ縣がある。ここから唐時代に有名な潼關に至るまで、支那の四百里、我が四十里餘りの間は、大體に於て黄河の南岸に沿ひ、山谷の間を行くので、道路は險惡で、雨天の際の旅行は實に困難である。※(「さんずい+黽」、第3水準1-87-19)池から西の方一日程の所に、※(「石+夾」、第4水準2-82-38)石といふ所がある。荒寥たる寒村であるが、長安と洛陽との往還には、是非共是處を通過せなければならぬ。丁度東西の谷底に當つて、車馬の通行頗る困難である。私が長安から洛陽への歸途に、その地を經過した時は、生憎の雨天で、險惡な道路が一層險惡となり、殆ど進退に窮した。殊に私はその兩三日前から發熱して、體温三十九度といふ病中を推しての旅行故、成るべく早く旅館に到着して、休養する必要がある。そこで見當り次第に馬を雇ひ、一臺の馬車に大小五六匹の馬を付けて行進したが、その※(「石+夾」、第4水準2-82-38)石――※(「石+夾」、第4水準2-82-38)石といふ地名は、日本の記録では『智證大師傳』に始めて見えて居る――へ今一息といふ所で、前方に行く重荷を滿載した支那商人の馬車が顛覆した。之が爲に、その後方に續く十臺許りの馬車は、何れも前進が出來ぬ。無論私の馬車も停頓せなければならぬ。路幅は狹く、泥濘は深く、馬車を引き起すことは中々六ヶ敷い。雨は激しくなる。夜は更ける。その間に三四時間も吹き曝され、夜の十時半頃にやつと※(「石+夾」、第4水準2-82-38)石に着くと、唯一軒しかない宿屋は滿員で宿る場所がない。外國人だからとて無理に頼んで、不潔な支那宿の中でも、入念に不潔な宿屋の土間で一夜を過ごした。この苦しい體驗は今も忘れることが出來ぬ。この街道は今日に始まつた譯でなく、唐時代から同樣であつた。現に大師より約五十年後に入唐された智證大師なども、この難處では可なり苦勞されて居る。我が大師も往復ともにこの地を經過された筈であるから、定めて辛苦を嘗められたことと想像して間違ない。
 ※(「石+夾」、第4水準2-82-38)石から更に西へ二日路で、有名な函谷關に差し掛る。我が二里許りの間は、兩側壁立千仭といふ有樣で、その間に辛く一馬車を通ずる事が出來る。實に函谷の名に背かぬ。それで三町位の間隔で、處々に崖を切り開き、兩馬車が途中で行違ふ時に、一つを避け一つを過ごす餘地を作つてある。この函谷關を通過する間は、馬方は絶えず一種の大聲を揚げて、前方から來る馬車を警戒する。その聲を聞いた馬車は、今申した廻避の場所で待ち合せて、雙方行違ふのが習慣となつて居る。性急な私共は、この慣習を無視し、前方から聞えて來る掛聲も構はず、躊躇する自分の馬方を叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)して、無理に前進さしたこともあるが、因果覿てき面で、行違の餘地のない途中で馬車が出合ひ、全く進退に窮した。愈※(二の字点、1-2-22)かかる場合になると、そこは悠長な支那人のこととて、雙方の馬方が鋤鍬など取り出して、崖を切り崩して、行違ひ出來るだけの場所を作る。その出來上る迄は、二時間でも三時間でも、否應なしに辛抱せなければならぬ。性急な爲に、却つて夥しい時間を空費した、馬鹿々々しい失策である。
 函谷關から西へ、二日程で例の潼關に達する。丁度大師より五十年程以前の天寶の亂に、官軍と賊軍とが、天下分け目の大戰をした場所である。潼關以西は普通にいふ所の關中の地で、道路も平坦に廣濶になつて來る。潼關から三日程前進すると、今の臨潼縣で、ここに驪山の温泉がある。唐の玄宗が楊貴妃と遊宴した場所で、白樂天の「長恨歌」や鄭嵎の「津陽門詩」に詠まれて、忘れ難い史蹟である。大師の時代には、まだ天寶の盛時を親覩した故老も多く存せしなるべく、且つは長安への往還に必經の道筋に當れば、大師もここでは定めし徘徊顧望されたことであらう。
 驪山の温泉の所在地から、日本里數で三里許り往くと※(「さんずい+霸」、第3水準1-87-33)水のほとりに出る。この川幅は二町に近い。川に※(「さんずい+霸」、第3水準1-87-33)橋が架してあるが、その橋の兩側に楊柳が多い。唐時代に長安から東へ旅立する時には、友人達が是處で柳を折つて別を惜しみ、長安から西へ旅立する時には、友人達が渭水の畔に到つて、別を惜しむ風習があつた。大師も長安で滿一年餘り留學ののち、その東歸の日に、定めて僧俗の友人達と、この河畔で別離を惜しまれたことと想ふ。
 ※(「さんずい+霸」、第3水準1-87-33)水から更に我が一里程行くと、愈※(二の字点、1-2-22)長安の郊外に達する。ここに長樂坡といふ長さ一町餘りの坂がある。唐時代に長安出入の人々を、ここでも送り迎をした。徳川時代の江戸に對する品川といふ場所である。我が大使一行は、十二月二十一日にここに到着した。『日本後紀』卷十二に、この光景を記して、

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