桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑 |
岩波書店 |
1968(昭和43)年2月13日 |
1968(昭和43)年2月13日 |
1968(昭和43)年2月13日 |
(一)緒言
毎年この六月に、弘法大師降誕會が主催となり、東西の碩學を聘して講演會を開き、大師の遺風餘徳を偲ぶといふことは、極めて結構な企と思ふ。古人を尚友すと申して、過去の偉人を修養の手本とするのは、非常に效驗が多い。現存の人々にも立派な方は尠くなからうが、生きた人間の褒貶は定らぬ。憲政の神樣が一朝にして憲政の賊に早變りなし、清節を看板の人が、その反對の事實を新聞紙上に素張拔かれたりする。眞僞は兔に角、評判の定らぬ人間を、修養の手本とするのは危險である。大師の如き、千歳の下に日月とその光を爭ふ所の偉人を仰いで、修養の手本とするのが、極めて安全と思ふ。
さて本年は不肖私が講演を引き受けいたした次第であるが、如何なる講演をいたすべきかと、可なり苦心を拂うた。一體私は宗教上の知識が不十分で、殊に眞言宗に就いての知識は皆無である。從つて大師の宗教上に於ける偉績を申述べる資格がない。さらばとて大師の文學とか、藝術とかに關しては、已に前年來先輩諸博士の講演が發表されて居つて、この方面でも餘り得意でない私が、態蛇足を添へる必要を認めぬ。そこで色々思案の末に、茲に掲げた「大師の入唐」といふ題目を選ぶことにいたした。
私は自分の專門として、唐時代の歴史は多少調査して居る。また私は支那へ滿二年間留學いたした。丁度大師も二年間唐に留學されて居る。大師が一年餘り滯在になつた長安には、私も半月餘り滯留いたした。大師が福建から長安へ、長安から浙江へ往復された、その道筋の半ばは、千百年後に、私も親しく通過した所である。この縁故により、大師の入唐の時、その往復に如何なる道筋をとられたであらうか。その旅行は如何に困難であつたであらうか。當時の長安は如何なる状態であつたであらうか。大師は長安で如何なる行動をされたであらうかといふ風の問題を、當時の記録と私自身の體驗とを土臺として御話し申したい。かかる講演は當會で未だ發表されて居らぬ樣であるし、旁萬更不適當のものであるまいと思ふ。
(二)渡海
大師の入唐はその三十一歳の時で、正しく桓武天皇の延暦二十三年(西暦八〇四)に當る。この年の七月六日に、遣唐大使藤原葛野麻呂の一行が、肥前國松浦郡田浦から唐へ渡ることとなつた。大師は橘逸勢と共に、藤原葛野麻呂の第一船に便乘いたし、天台の傳教大師は、判官菅原清公の第二船に便乘いたした。ここで先以て申置かねばならぬことは、當時の日支間の航海は非常に危險で、今日では殆ど想像し得ざる程の困難が多かつたことである。
申す迄もなく、當時の航海は帆船に乘るので、風の利用が第一に緊要である。所が當時日支間の航海に、この風の利用が十分研究されて居なかつた。一體西は紅海より、東は日本海に至る、東洋の海上に吹く風の方向は、季節によつて略一定して居る。所によつては多少の相違はあるが、極めて大體を見渡して、陰暦の四、五月から七、八月にかけては、多く西南の風が吹き、九、十月から翌年の一、二月にかけては、多く東北の風が吹く。その以後は復た西南の風が吹き出すといふ樣に、季節によつて吹く風の方向が略一定して居る。これは西暦六十年の頃に、エジプトのアレキサンドリアの住人ヒッパルスといふ人が始めて發見して、航海に利用したと傳へられるので、ヒッパルス風とも、また恆信風ともいはれた。この風の利用が開けて以來、西洋から東洋に渡航するには、西南風を利用して四・五月の頃から發船する。その反對に東洋から西洋に出掛けるには、十月以後に發船する。帆船時代には皆この恆信風を利用したもので、唐宋時代の歴史を見渡すと、南洋や西洋の貿易船が支那に入港するのは、大抵夏の五月の南風の吹く頃で、之を夏迅といひ、その貿易船が西洋や南洋へ歸航するのは、冬の十月十一月の北風の吹く時で、之を冬迅というた。
日支間の航海にもこの風を利用すべきと思ふが、事實大師の時代には、餘り之を利用せなかつた樣である。この時代に日本から支那に出掛けるには、大抵夏期を選ぶ。光仁天皇の寶龜七年(西暦七七六)の閏八月に、遣唐使一行の上奏に、今既入二於秋節一、逆風日扇、臣等望、待二來年夏月一、庶得二渡海一(『續日本紀』卷卅四)といへる通りである。現に大師等も七月六日に田浦を發船されて居る。支那から日本に歸るのは秋冬の交を選ぶ。これらは恆信風利用の點から觀れば、間違つて居ると申さねばならぬ。勿論恆信風以外に、低氣壓や潮流の關係や、その他の事情もあつて、簡單に斷定は出來ぬが、恆信風を利用する上から申せば、その反對に、春夏の交に支那から日本に、秋期に日本から支那に渡航する方が寧ろ安全便利と思ふ。
幾多の入唐僧侶の中で、尤も迅速なる渡海を遂げたのは、安祥寺の惠運和尚であらう。彼は仁明天皇の承和九年(西暦八四二)秋八月二十四日に、肥前國松浦郡遠値賀島那留浦を發船し、正東風――實は東北風と見るべきである――に乘じ、僅に六晝夜にして浙江の温州の樂城縣(今の樂清縣)附近に到着いたし、滯在五年の後ち、承和十四年(西暦八四七)の夏六月二十二日に、明州(今の浙江省會稽道縣)より出帆して、西南風を利用し、僅々三晝夜にして、肥前國遠値賀島に歸着して居る。即ち往復ともに恆信風を利用した譯である。
高岳(眞如)親王に同伴して入唐した宗叡和尚は、清和天皇の貞觀四年(西暦八六二)の九月三日に、肥前の遠値賀島から東北風に乘じて帆を擧げ、途中一夜だけは逆風に苦しめられたが、その七日に早くも浙江の明州附近に到着した。貞觀八年(西暦八六六)歸朝の時は、六月に福建の福州(今の海道侯縣)より西南風に乘じ、五日四夜にして遠値賀島に到着して居る。これも往復ともに恆信風を利用したればこそ、かく容易な航海を遂げ得たのである。かく西暦九世紀の半頃となると、恆信風を利用した場合が多く見當るが、その五十年前の大師の入唐時代には、未だこの利用が十分に知られて居なかつた樣に思ふ。
次に航海には方向を正確に知ることが必要で、それには羅針盤を使用せなければならぬが、羅針盤が航海に利用さるるに至つたのは、大師の時代より約三百年後の北宋の末期からである。大師の時代には、世界の何地でも、まだ航海に羅針盤を使用して居らぬ。從つてこの時代の航海は、日月星宿を目標にして方向を定めるといふ、至極不安心のものであつた。大師より約四百年の昔に、法顯がセイロンから南洋を經て支那に歸着した。その當時の航海の有樣を記して
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] 下一页 尾页