四
嫁は園子という名だった。最初に受けた印象は誤っていなかった。それは老人達にとって好もしいものではなかった。
駅で、列車からプラットフォームへ降りて、あわたゞしく出口に急ぐ下車客にまじって、気おくれしながら歩いていると、どこからやって来たのか、若々しく着飾った、まだ娘のように見えないでもない女が、清三の手を握らんばかりに何か話しかけていた。清三は、寸時、じいさん達を連れているのを忘れたかのように女に心を奪われていた。じいさんとばあさんとは清三の背後に佇んで話が終るのを待っていた。若い女は、話し乍ら、さげすむようなまた探索するような、眼なざしで二三度じいさん達を見た。と、清三が老人達の方へ振り向いた。女は、さっと顔一面に嫌悪の情をみなぎらせたが、急に、それを自覚して、かくすように、
「いらっしゃいまし。」と頭を下げた。それが園子だった。
両人は、嫁が自分達の住んでいた世界の人間とは全然異った世界の人であるのを感じた。郵便局の事務員が、村の旦那の娘で、田舎の風物を軽蔑して都会好みをする女だった。同じ村で時々顔を見合わしていても近づき難い女だった――両人は思い出すともなく、直ちに、その娘を聯想した。
彼等は嫁が傍にいると、自分達同志の間でも自由に口がきけなかった。変な田舎言葉を笑われそうな気がした。
女事務員が為吉にだけは親切だったように、園子は両人に対して殊更叮寧だった。しかし両人は気が張って親しみ難かった叮寧さが、嫁の本当の心から出ているものとは受け取れなかった。
「おばあさんに着物を買ってあげなくゃ。」
「着物なんかいらないだろう。」
「だってあの縞柄じゃ……」
園子は、ばあさんの着物のことを心配していた。彼女の眼のさきで働いているばあさんの垢にしみたような田舎縞が気になるらしかった。ばあさんは、自分のことを云われると、独りでに耳が鋭くなった。丁度、彼女は二階の縁側の拭き掃除が終って、汚れ水の入ったバケツを提げて立ったまゝ屋根ごしに近所の大きな屋敷で樹を植え換えているのを見入っているところだった。園子は、ばあさんがもう下へおりてしまったつもりで、清三に相談したものらしかった。
「うら等があんまりおかしげな風をしとるせにあれが笑いよるんじゃ。」ばあさんは気がまわった。
「そんなにじゝむさい手織縞を着とるせにじゃ。」じいさんは階下の自分等にあてがわれた四畳半で手持無沙汰に座っていた。
「ほいたって、ほかにましな着物いうて有りゃせんがの、……うらのを笑いよるんじゃせに、お前のをじゃって笑いよるわいの。」
「うらのはそれでも買うたんじゃぜ。」じいさんは自分の着物を省みた。それは十五年ばかり前に、村の呉服屋で買った、その当時は相当にいゝ袷柄だった。しかし、今ではひなびて古くさいものになっていた。ばあさんの手織縞とそう違わないものだった。
「もっとましなやつはないんか?」
「有るもんか、もう十年この方、着物をこしらえたことはないんじゃもの!」ばあさんは行李を開けて見た。
絹物とてはモリムラと秩父が二三枚あるきりだった。それもひなびた古い柄だった。その外には、つぎのあたった木綿縞や紅木綿の襦袢や、パッチが入っていた。そういうものを着られるだろうと持って来たのだが、嫁に見られると笑われそうな気がして、行李の底深く押しこんでしまった。
ばあさんは、屋内の掃除から炊事を殆ど一人でやった。園子は朝起ると、食事前に鏡台の前に坐って、白粉をべったり顔にぬった。そして清三の朝飯の給仕をすますと、二階の部屋に引っこもって、のらくら雑誌を見たり、何か書いたりした。が、大抵はぐてぐて寝ていた。そして五時頃、会社が引ける時分になると、急に起きて、髪を直し、顔や耳を石鹸で洗いたてて化粧をした。それから、たすき掛けで夕飯の仕度である。嫁が働きだすと、ばあさんも何だかじっとしていられなくなって、勝手元へ立って行った。
「休んでらっしゃい。私、やりますわ。」園子はそう云った。
「ヘエ。」
「ほんとに休んでらっしゃい。寒いでしょう。」
「ヘエ。」ばあさんは火を起したり、鍋を洗ったりした。汚れた茶碗を洗い、土のついた芋の皮をむいた。戸棚の隅や、汚れた板の間を拭いた。彼女はそうすることが何もつらくはなかった。のらくら遊ぶのは勿体ないから働きたいのだった。しかし、それを嫁にどう云っていゝか、田舎言葉が出るのを恐れて、たゞ「ヘエ/\」云っているばかりだった。
「じゃ、これ出来たら下しといて頂だい。」
おしかが、何から何までこそこそやっていると園子はやがてそう云い置いて二階へ上ってしまうのだった。おしかは鍋の煮物が出来るとお湯をかけた。
「出来まして……どうもすみません。」清三が帰ると園子は二階から走り下りてきて食卓を拡げた。
「じいさん、ごぜんじゃでえ。」ばあさんは四畳半へ来て囁いた。
「ごぜんなんておかしい。ごはんと云いなされ!」清三はその言葉をきゝつけて、妻のいないところで云いきかした。
「そうけえ。」
しかし、おしかはどうしてもごはんという言葉が出ず、すぐ田舎で使い馴れた言葉が口に上ってきた。
「おばあさん、もうそんな着物よして、これおめしなさいましな。……おじいさんもふだん着にこれを。」園子はやがて新しく仕立てた木綿入りの結城縞を、老人の前に拡げた。
「まあ、それは、それは。――もうそなにせいでもえいのに。じいさん、えい着物をこしらえてくれたんじゃどよ。」
「ほんとに、これをふだんにお召しなさいましな。」園子は、老人達の田舎縞を知人に見られるのを恥かしがっているのだった。
「どら、どんなんぞい。」園子が去ったあとでじいさんは新しい着物を手に取って見た。「これゃ常着にゃよすぎるわい。」
「袷じゃせに、これゃ寒いじゃろう。」ばあさんは、布地を二本の指さきでしごいてみた。
着物は風呂敷に包んだまゝ二三日老人の部屋に出して置かれたが、やがて、ばあさんは行李にしまいこんだ。そして笑われるだろうと云いながら、やはり田舎縞の綿入れを着ていた。
「この方が温くうてえい!」
五
じいさんは所在なさに退屈がって、家の前にある三坪ほどの空地をいじった。
「あの鍬をやってしまわずに、一挺持って来たらよかったんじゃがな。」
「自分が勝手にやっといて、またあとでそんなこと云いよら。」ばあさんは皮肉に云ったが昔のように毒々しい語調はなかった。
「あの時は、こっちに鍬がいろうとは思わなんだせにやったんじゃ。」
いつのまにか彼は近くで小さい鍬を買ってきて、初めて芽を吹きかけた雑草を抜いて土を掘り返した。
「こっちの鍬はこんまいせにどうも深う掘れん。」彼は傍に立って見ているばあさんと、田舎の大きな深く土に喰い込む鍬をなつかしがった。そして、二度も三度も丹念に土を掘り返した。
「こんな土を遊ばしとくんは勿体ない。何ど菜物でも植えようか。」とじいさんは、ばあさんに相談した。
「これでも、うら等が食うだけの菜物くらいは取れようことイ。」とばあさんは云った。
やがて、彼は種物を求めて来ると、
「こっちの人は自分のしたチョウズまで銭を出して他人に汲んで貰うんじゃ。勿体ないこっちゃ。」と呟きながら、大便を汲んで掘り返した土の上に振りかけた。
「これで菜物がよう出来るぞ!」
「御精が出ますねェ。」園子は二階から下りて来て愛嬌を云った。
「へえェ。」じいさんは田舎の旦那に云うような調子だった。
「何かお植えになりますの?」
「へえェ。こんな土を遊ばすは勿体ないせに。」
「まあ、御精が出ますねえ。」そう云って、園子はそっと香水をにじませた手巾を鼻さきにあて、再び二階へ上った。きっちり障子を閉める音がした。
「お前はむさんこに肥を振りかけるせに、あれは嫌うとるようじゃないかいの。」ばあさんは囁いた。
「そうけえ。」
「また、何ぞ笑われたやえいんじゃ。」
「ふむ。」とじいさんは眼をしばたいた。
「臭いな、こんじゃ仕様がない。」清三は会社から帰ると云った。「菜物なんか作らずに草花でも植えりゃえい。」
「臭いんは一日二日辛抱すりゃすぐ無くなってしまう。」
「そりゃそうだろうけど、菜物なんかこの前に植えちゃお客にも見えるし、体裁が悪い。」
「そうけえ。」じいさんは解しかねるようだった。
「きれいな草花を植えりゃえい。」
「草花をかいや。」じいさんは一向気乗りがしなかった。
「草花を植えたって、つまりは土を遊ばすようなもんじゃ。」
彼は腰を折られて土いじりもしなくなった。それでも汚穢屋が来ると、
「こっちの者は自分のしたチョウズまで銭を出して汲んで貰うんじゃ。……勿体ないこっちゃ。」と繰り返した。「肥タゴが有れゃうらが汲んでやるんじゃがな。」
汚穢屋の肥桶を見ても彼は田舎で畑へ肥桶をもって行っていたことを思い出しているのだった。青い麦がずん/\伸び上って来るのを見て楽んでいたことを思い出しているのだった。
やがて桜の時が来た。じいさんとばあさんとは、ぶっくり綿の入った田舎の木綿縞をぬいだ。
「温くうなって歩きよいせに、ちっと東京見物にでも連れて行って貰おういの。」
「うむ。今度の日曜にでも連れて行って貰うか。」
「日光や善光寺さんイ連れて行ってくれりゃえいんじゃがのう。」
「それよりぁ、うらあ浅草の観音さんへ参りたいんじゃ。……東京イ来てもう五十日からになるのに、まだ天子さんのお通りになる橋も拝見に行っとらんのじゃないけ。」
両人は所在なさに、たび/\こんな話を繰り返えした。天子さんのお通りになる橋とは二重橋のことだった。
「今日、清三が会社から戻ったら連れて行ってくれるように云おういの。」
「うむ。」じいさんは肯いた。
しかし、清三は日曜日に二度つゞけて差支があった。一度は会社の同僚と、園子も一緒に伴って、飛鳥山へ行った。
「それじゃ花も散ってしまうし、また暑くなって悪いわ。」
と園子は気の毒そうに云った。
「明日でも私御案内しますわ。」
両人は園子に案内して貰うのだったら全然気がすゝまなかった。どこまでも固辞した。
清三夫婦が日曜日に出かけると、両人は寛ろいでのびのびと手を長くして寝た。誰れ憚る者がいないのが嬉しかった。
「留守ごとに牡丹餅でもこしらえて食うかいの。」とばあさんは云い出した。
「お。」
「毎日米の飯ばかり食うとるとあいてしまう。ちっとなんぞ珍らしい物をこしらえにゃ!」
けれども米の牡丹餅も、田舎で時たま休み日にこしらえて食ったキビ餅よりもうまくなかった。じいさんは、四ツばかりでもうそれ以上食えなかった。
「もっと食いなされ。」ばあさんは、二ツのお櫃の蓋に並べてある餅をすゝめた。
「いゝや。もう食えん。」
「たったそればやこし……こんなに仰山あるのに、またあいらが戻ったら笑うがの。」
「そんなら誰れぞにやれイ。」
「やる云うたって、誰れっちゃ知った者はないし、……これがうちじゃったら近所や、イッケシの子供にやるんじゃがのう。」
ばあさんは田舎のことを思い出しているのだった。うちとは田舎の家のことだった。
「お、やっぱりドン百姓でも生れた村の方がえいわい。」
夕方、息子夫婦がつれだって帰ってきた。
「お土産。」と園子は紙に包んだ反物をばあさんの前に投げ出した。
「へえエ。」思いがけなしで、何かと、ばあさんは不審そうに嫁の顔を見上げた。
「そんな田舎縞を着ずに、こしらえてあげた着物を着なされ。」と、嫁より少しおくれて二階へ行きながら清三が云った。
ばあさんは、じいさんの前で包みを開けて見た。両人には派手すぎると思われるような銘仙だった。
「年が寄ってえい着物を着たってどうなりゃ!」両人はあまり有りがたがらなかった。「絹物はすぐに破れてしまう。」
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