一八
後発部隊が到着した。寄宿舎は狭くなった。
ベッドもなく、藁蒲団もなく、床の上に毛布をのばして、ごった寝にねた。高梁稈のアンペラが破れかけていた。下から南京虫がごそ/\と這い出してくる。
南京虫は、恐らく、硫黄や、黄燐くさい、栄養不良な工人の病的な肌の代りに、どうしたのか急に、汗と脂肪ぎった溌剌たる皮膚があるのを感じて、いぶかしげな顔をしただろう。
高取は、あとからきた者達と、暫くあわずにいた。その間の行程を、おたがいに話しあった。
彼等は、門司から御用船に乗る際、同様にビラを拾っていた。それを胸のポケットへ、畳んで、お守りのように大事に、しのばしている者もあった。
「俺等が桟橋通りを歩いていたら、天からビラの雨が降ってくるじゃねえか。」と彼は笑った。
「上を向いたら、なんだ、組合の安川が窓から頸を出して、引っこめよう、としとるところだよ。――しっかりやって来い! と呼ぶから、どんなに、しっかりやるんだい! と云ってやったら、しっかり、あっちの連中と手を握って来い! とおらんでるんだよ。」
のんきに、高らかな声を出した。
傍へ特務曹長がきかゝった。誰かを呼びに来た。彼は「しっかり、チャンピーと手を握って行くかな。」
と大声で、又笑った。
無意識に破れかけのアンペラのはしを、ひきむしる彼の手は、マメだらけで、板のようにかたくなっていた。
「工藤は、とうとう、船の中で片づけられちまったよ。」尻眼で特曹に気を配りながら、木谷が囁いた。
「一人で意気まいたって駄目だからと、止めたんだがね、あいつ、多血質だから、きかないんだ。」
「今度は、なかなか労働組合や、俺等の反対に敏感になっている。」高取がしめつけられるように声をひくめた。「日独戦争や、シベリア出兵時代とは、時代が違うからね。俺等もブルジョアの手先に使われてたまるかい、くらいなこたア知ってるが、ブルジョアもまた、俺等の出兵反対に敏感になってる。三月十五日の検挙はやる、四月十日の左翼の三団体の解散は喰らわす。それから出兵。何から何まですべてが、ブルジョアの方が、はるかに用意周到で組織的じゃないか。」
「どんな障害を押しのけても、まっさきにここは占領しなけりゃならんと思ってるんだな。」
「そうだよ、そうだよ、支那を取るためにそう思ってるんだよ。」
「しかし、俺等は、俺等として出来るだけサボって邪魔をしてやるさ。鉄砲をうてと云われたって、みんなうたねえんだな。」
だが、彼等は、まだ、自分たちの支配者を憎み、出兵に反対していたが、皆なが同じ一つの意見を持っているのではなかった。
この現在の持場において俺等が、今すぐ、一箇師団を内地へ引き上げさし、支那から手を引かすことは、なし得ない。出来ない相談だ。しかし俺等は、俺等として仕事がある。如何に、軍隊が、俺等の目あてに反することに使われていようが、それだからと云って軍務を放棄してはいけない。俺等は、俺等が、本当に生れ出る日のために、市街戦を習っておくのだ。装甲自動車の操り方を習っておくのだ。その日のために戦うのだ。
木谷は、小声で語った。高取は、半分頷き、半分かぶりを振った。
「その日のためにか。それはいゝ。しかし、君はいつも気が長いぞ。しかし、現在、吾々の眼前で、吾々の手で叩きつぶされつゝある支那の労働者はどうするか?」
二人は、入営前まで、同じ工場で働いていた。木谷は、几帳面で、根気強い活溌な性質がとくをして、上等兵になっていた。
高取は一年間の勤めを了えて、二年兵になったその日に、歩哨に立っている場所を離れて鶩を追っかけまわした。そして軍法会議にまわされた。
彼は、夕暮れに、迷い児となった遅鈍な鶩を、剣をつけた銃で突き殺そうとした。そして、追っかけた。
練兵場から、古いお城の麓の柴山の中にまで、五町ほど、鶩を追って、追いこんでしまった。鶩は、ぶさいくな水かきのある脚を、破れるばかりにかわして、ひょくひょくした。とうとう突き殺せなくて、靴で踏みつぶした。彼はホッとした。そして長い頸を垂れた鶩の脚を提げて立ちあがった。その時、巡察将校に見つかってしまった。
彼は、償勤兵となったことを、恥ずかしがりもしなければ、引けめに感じもしなかった。機械を使うのがすきだった。殊に、軽機関銃を使うのがすきだった。空砲射撃の時にでも、多くのよせて来る奴等を、この銃一ツで、雨が降り注ぐようにやッつけることを想像しながらタッタタタとやっていた。
すこし馬鹿な、まがぬけた彼の性質が、みなの人気をあおっていた。
一緒に、睾丸をふり出して検査を受け、一緒に薄暗い兵営に這入って赤飯を食った。一緒に銃の狙い方を習った。剣の着け方を習い、射撃のしかたを習った。その工藤が、御用船の中で片づけられていた。何故、片づけられたか、それは云わなくッても分っている! 甘いしるこがすきな男だった。眼は火のような男だった。それが殺されてしまった!
それは、兵士たちの血を狂暴なものにせずにはいなかった。壁のざらざらした、屋根がひくい、息づまる寄宿舎で、彼等は思い/\の考えにふけった。
高取の横には、内ポケットまでさぐられて、ビラを見つけられ、重藤中尉に、頬がちぎれるほど殴りとばされた那須がいた。
那須は何も云わず黙っていた。
「いくら、ビラを取りあげて、やかましく云ったって、俺等の脳味噌まで引きずり出す訳には行かねえんだぞ!」
誰かゞ、云った。
「それはそうだ!」と、那須は黙って考えた。
「俺れが何を考えようが、何をやろうが、それゃ、俺の勝手だ!」
藤のようなアカシヤの花が匂っていた。その近くで柿本は、小母の一家がどうしているか、それを気にかけていた。
消息をたしかめるひまもなかった。
遠い血縁のはしッくれでも、海を一つ渡って、内地を離れると、非常に近しい親か兄弟のように感じられる。
彼は、居留民保護の名で、盲腸炎の小母を見舞に帰るひまもなくせき立てられて、あわたゞしく、こゝまでやって来た。
しかし、彼とは最もちかしい、市街の方々に散らばって、細々と暮しを立てゝいる人々や、血縁のつながっている人間を、直接、保護することも、行って見ることも出来なかった。
彼は工場を保護していた。
そのために、汗みどろになって働いた。
汗みどろになって守備作業をつゞけた。
工場の附近は、土塁や、拒馬や、鉄条網で、がんじがらめにかためられていた。実弾をこめた銃を持ち、剣をさげて、彼等は、そこを守った。
それ以外の場所には、守備工事は施されなかった。柿本は、折角、兵士としてやってきながら、この土塁や、拒馬にかこまれた区域からは、離れることが出来なかった。
居留民は、この守備区域内へやって来いというのだ。
そして、この区域内で保護を受けろというのだ。
では、何のために、彼は、この支那までやってきたのだろう?……
「おい、おい、ここのマッチは、軸木さえありゃ、板をこすっても、石をこすっても火が出るんだよ。」作業場へはいっていた三人が、珍らしげに黄色い、小さい函のマッチを一ツずつ持って帰ってきた。松岡と、本岡と、玉田だ。
三人は、柱や、床板をこすって、火をつけた。
「これゃ、内地のマッチとは異うよ。」
「俺等、子供の時に、ちょっと、そんなマッチを見たことがあるような気がするがな。ボスって云うんだ。」
と那須が沈んだ顔をしていた。
「これ黄燐マッチ、――と、そこの支那人が云っているんだよ。ちょっと、日本語の片ことが云えるんだ。」製麺工場の、まだ、ウドン粉くさい玉田が云った。「――これ、大いに毒ある。外国の工場作らせない。私ら、身体、すぐ悪くなる。この薬、悪い、大いに毒ある、悪い、こいつは、……この黄燐マッチは、有毒だし、すぐ火事を起すから、どこの国でも禁止しているんだよ。それを、ここじゃ作っているんだ。」
「これ、大いに毒ある。人、死ぬる。」と玉田は、支那人の言葉の真似をつゞけた。「鉄道もない、劇薬もない、田舎、これ、自殺にのむ。男と、女、夫婦、喧嘩をする。婦(妻)死にたくなる、これ、この軸木のさきの薬、けずり取ってのむ。この函に十函ぶんのむ。死ぬる。日本、ネコイラズ、中国黄燐マッチ……」
「ふむむ、……それだけ日本語が分りゃ、話が出来るじゃないか。」高取があたりかまわぬ声を出した。
「その支那人を、ここへつれてこんか、話してやろうぜ。面白いじゃないか。」
一九
昼につゞく夜の勤務があった。
夜につゞく昼の勤務があった。ねるひまもない。
兵士達は、汗と垢でドロドロになった。水がない。あっても、極く僅かしかない。濁って、生でのめるようなしろものじゃなかった。のんだら、胃と腸が、雷のように鳴り出すだろう。
彼らは長いこと入浴しなかった。七日間、いや、もう十五日以上。
内地を出発する前日に、炊事場の隣の入浴場で、汗とホコリを流した。それきりだ。
窓のない、支那風の暗い寄宿舎には、男ばかりのくさい息がこもった。連日の勤務、不自由と、過労と、苦るしみによって、工場は守られている。それからひいて、この物資の豊かな山東地方をブルジョアジーは、わが物に確保しようとたくらんでいる。兵士たちは、内地で、自分を搾取するブルジョアジーの利益のために、支那へ来ても、苛まれ、酷使されている。内地の職場にも、飢餓と、酷使と、搾取がある。失業地獄がある。支那へ来ても、また、同様なことがある。彼等は、労働者、農民の出身である彼等は、どんな場合のどんな瞬間に於ても、苦悩から脱却することは出来ないのだ。自分の生命を削らずに、生きて行くことは出来ないのだ。「そうだ、どうすれば、この邪魔になる重い足枷を断ち切ることが出来るか!」
と、高取は考えた。彼は、誰れにすゝめられるともなく、マッチ工場の作業場に出入した。ドロドロの黄燐を冷す裸体の旋風器がまわっている。無頓着な工人は、旋風器の羽に、頭を斬られそうだ。
当直士官は、作業場への出入に対して、二三言を費した。兵士たちは、おとなしくそれをきいた。が、二三日たつと、又、作業場や、支那街を物ずきにほっついた。言葉は分らなかった。眼と眼が語りあった。顔と眼[#黒島伝治全集では「顔と顔」]が感情を表現した。
将校との対立は、いつとはなしに深くなっていた。上陸前に工藤が片づけられている。それが一層将校に近づき難い感じを与えた。それが、目前のカタキだ。
入浴も、飯も、勤務時間も、休む寝床も、はッきりと区別がついていた。兵士は麦飯だ。将校は米だった。苦楽を共にするのは兵士たちの間だけに於けることだ。彼らは、久しく入浴しなかった。将校は、毎日、製氷公司で風呂を立てゝいた。製氷公司の社員からビールや、菓子や、お茶を御馳走されて、牛のよだれのような長話をつゞけていた。兵士たちは、あとから、あいたら這入ろうと思っても、牛のよだれが長くって、はいるひまがなかった。彼等がはいれる頃には、もう晩がおそくなりすぎていた。
ある時、上衣を紛失した上川が、ぬれ手拭をさげ、風呂からあがりたての、桜色の皮膚で帰って来た。こっそり、おさきに這入ってきたのだ。愉快がった。
「製氷会社の奥さんは、金すじが光っとったって、光っていなくたって、何も区別をつけやしないんだ。タンツボにだって、あいているから、さきおはいんなさいって云ってるよ。居留民保護という段になりゃ、ベタ金だって、タンツボだって、働きに変りはねえからな。……ちゃんと、こら、俺れゃ、一番風呂に失敬してやった。」
「まだ、誰れも来ていなかったかい?」
「うむ、来ていない。」
「製氷会社の奥さんは、若い奥さんだね。」
「うむ、一寸、可愛い顔をしている。」
「よし、俺も行って垢を落してきよう。」
「俺も行くよ。」
「俺も行く。」
彼等は、泥棒をやる時の愉快さを知っていた。靴紐を結ばずに、靴の中へなでこんだ。十四人が、汗のにじんだ手拭をさげ、石鹸は一ツも持たずに、マッチ工場から、貧民窟とは反対側の雑草が青濃く茂っている広場を横ぎった。――チット人数が多すぎるぞ。が、一人をやめさすのなら、十四人がみなやめなければならなかった。赤い屋根の上に、巨大な貯水タンクがのっかっている。そこが製氷公司だ。
一町あまりも距っていた。
そこは、蛋粉工場へ行った中隊の方に近かった。門を這入る。ポンプが動いていた。
ふと、赤煉瓦建ての扉のうちから、将校らしいきれるように冴えた音声が呶鳴った。顔見知りの一等卒が、蛸をゆでたように、真赤になって、似指を振りだしのまゝとび出してきた。猫をつまむように、軍衣袴と、襦袢袴下をつまんでいた。
「何中隊のやつだッ!」扉の中から、きれるような声がひびいた。「人の迷惑も考えないのか! 今ごろから、早や、人の家に厄介をかける奴があるかッ!」
語尾が、カンカンあがった。
「どうしたんでえ?」
連隊中の顔を知らない者はない高取は、のんきげに、素裸体の一等卒にきいた。
「旅団副官だ。」
「副官が、どうしたちゅうんでえ?」
十四人は、扉の前で立止った。何だろう?
扉は、内から、ぐいと押しあけられた。
副官章を肩からはすかいにかけた、目立って鼻すじの通った貴族的な、中尉の顔が、兵士達の前に立ちはだかった。
副官は、剣吊りボタンをはずして、ぞろぞろ押しよせた十四人を、いぶかし気に睨みまわした――何ごとだ。何でこんな厚かましい奴らが大勢やってきたんだろう!
「閣下がおいでになるんだ! 帰れ! 帰れ!」
彼はきれるような声を出した。
「不埒な奴め! 帰れ! 帰れッ!」
十四人は冴えた音声に斬りつけられた。
「チェッ!」
高取はあっけにとられた。渡し場で舟に乗ることを拒まれた旅人のように、眼のさきの風呂場を、残念げに眺めた。そして、通ってきた雑草の広場を眺めかえした。
「チェッ! どうしたんでえ?」彼は口のうちで呟いた。
「くそッ! 誰だって人間なら、汗や垢が、ぬるぬるして気持が悪いなァ同じこった! チッ! また、辛抱するかな。」
将校よりさきに風呂に這入っていた兵卒が叱りとばされ、追い出されたのだ。
……間もなく、湯に浮いた垢がキレイに掬いとられていた。湯加減をした。風呂場の入口は、着剣した二人の歩哨によって守られた。アカシヤとバラが植えてある。
扉の中から湯をチャバチャバいわす音がもれた。
湯は、汲み出されたり、温められたり、水がうめられたりした。当番卒が背中を流すけはいがする。髯をあたるけはいがする。
そうかと思うと、二十分間も、おおかた三十分間も、かたこその音響もしない。
歩哨は、上気して、脳貧血でもおこしたのではないかと、扉のすきからのぞいて見た。鬚の閣下は浴槽の縁に頭をゆすぶりながら、居眠りをしていた。いい気持の鼾が、かすかにもれた。
歩哨は、退屈げに、扉の前を往き来した。その頸すじは、汗につもった土ほこりで、気持悪るく、じゃりじゃりしていた。足もとの地中から石が凸凹と頭を出している。二人は、十五万円の懸賞金で、便衣隊につけねらわれている閣下の頸の番をしているのだ。退屈さと、欠伸をかんでいた。
腕の時計は一時間を経過した。それから二十分が経過した。ようよう馬丁の爺さんが、うやうやしげな腰つきで、新らしいサル又を持ってはいった。乾いたタオルがいる。
「一と晩だけでいい、垢を洗い落して、サッパリした蒲団でねてみたいなア!」
「ゼイタクぬかすな。俺らにゃ、そんなことナニヌネノだ、とよ。」
製氷所の機械場では、黄ろいホコリをかむった蟇のような靴を、マメだらけの足にひっかけて兵士達が、しびれをきらして、自分達の番を待ち、待っていた。
夕暮れは白く迫ってきた。
二〇
籠のカナリヤが軒で囀っていた。
大陸の気温は、夜になると、急激にさがってくる。
肌の襦袢がつめたくッて気持が悪い。工人は自分が食えなくっても、小鳥をば可愛がっていた。不思議な趣味だった。
「ふむ、なる程、なる程、面白い!」と高取は頷ずいた。
「もっとやれ、もっと何か話をしろ!」
彼の声は怒るようだった。依然としてあたりを憚らなかった。
「回々教徒、人悪るい。よろしくない。冬、日が短い。暗くなる早い。電気つかない。工場暗い。われ/\顔見えない。男と女、いつもちちくる。始める。」鼻づまりの工人が分りかねる日本語で語りつゞけた。「回々教徒、人悪るい、ちちくりながら、ひとのツメたマッチ函、かッぱらって、自分のツメた函にする函多い。金多い。」
時以礼という工人である。蒼ざめて、骨まで細くなったような、おやじに見える男だ。年をきくと、三十一歳だった。まだ若い。
「ふむむ、暗くなると男工と女工がちゝくり合うんだね。その騒ぎにつけこんで、回々教徒が、人がつめたマッチを、自分がつめたようにかっぱらうんだな。なる程、面白い、面白い。」と高取は頷ずいた。「もっとやれ、もっと何か話をしろ!」
工人は、だんだんに兵タイを怖がらなくなった。兵士は、大蒜と、脂肪と、変な煙草のような匂いのする工人の周囲に輪を描いた。
「あの、窩棚の向うの兵営のそのさきに、英吉利人のヘアネット工場ある、私の妹、そこの女工、毎日、ふけとゴミばかり吸う」と、時以礼はつづけた。「妹、髪と、ゴミくさい。胸、悪るい。肺病。ヘアネットの髪、田舎の辮髪者の髪、三銭か四銭で切らして、仲買人、公司へ持って来て売る。辮髪切らない者、税金を出せという。公司、仲買人の持ってきた髪を、また六割か、五割に値切る。――仲買人、掛値を云うて持ってくる。私の親爺、昔の人、辮髪税、取られている。親爺、辮髪切りたくない。仲買人、巡警と来て、切れ、切らなければ、税金をとるという。――そんな税金、仲買人と、巡警が勝手にこしらえた税金、そんな税金ない。でも、辮髪きらない、税金無理やり取って行く。英吉利人の公司、仲買人と巡警に金掴ましている。……英吉利人、米国人、独逸人、日(云いかけたが、時以礼は口を噤んだ)……みな、支那、百姓、工人、苦るしめる。私達生きる。つらい!」
「エヘン!」
雷のような咳払い。がちゃッという、軍刀と靴の音。すぐ、兵士達の背後で起った。重藤中尉が、知らぬまにうしろへ来て立っていた。びくッとした。
時以礼は、唖のように口を噤んでしまった。中尉は、時を、六角の眼でじいッと睨みつけていた。支那人は、罪人のように、悄々とうなだれて立上った。そして、力なく肩をすぼめて、音響一ツ立てずに去ってしまった。
「あいつは、お前達に思想宣伝に来とるんだろう。ここの工場にだって赤い奴が這入っとるんだぞ。あんな奴に赤化宣伝をされちゃ、お前達の面目があるめえ!」
「中尉殿、ヒョウキンな話をして居るだけであります。あのチャンコロ、一寸、日本語が分るんであります。」と高取は云った。
「嘘云うな! 聞いて知っとる!」急激に中尉の顔は、けわしくなった。「ヒョウキンな奴でもなんでもいかん! 散れ! 散れ! 散って寝ろ! 用心しろ!」
「はい。用心します。」
兵士たちは、時以礼の話に心を引かれた。そして、その周囲に集った。宿舎はいつも暗かった。壁は、ボロ/\と剥げ落ちて来そうだ。そこは、虐げられ、苛まれた人間ばかりが集ってくる洞窟のように感じられた。
兵士と工人、これは同一運命を荷っている双生児ではないだろうか? 昼間の憔々しい労働は、二人を共に極度の疲憊[#「疲憊」は底本では「疾憊」]へ追いこんでいた。
俺れらは、この支那人の工人をいじめつけて、結局は、俺れら自身の頸をくゝっているんだぞ。工人達がいじめつけられてそいつが嬉しいのは大井商事だけだ。ほかの誰れでもないのだ。
高取は簡単にその話をした。いぶかしげに頸を振る者もあった。高取は、又話をした。補足するつもりだ。俺れらがここまでやって来て、俺れらは、日本の国のために尽していると考える。国の利権を守っていると考える。その結果、肥え太ったブルジョアジーは、どんな政策をとってくるか? その結果、肥え太るのは、ブルジョアだけだぞ。金を儲けて、なお、労働者の頸をしめる。ダラ幹には金を呉れてやるだろう。しかし優秀な労働者は、ます/\頸をしめつけられるんだ。
「兵タイて、何て馬鹿な奴だろうね。」と高取は、感慨深かげに云った。「自分が貧乏な百姓や、労働者の出身でありながら、詰襟の服を着とるというんで工人や百姓の反抗を抑えつけているんだ。植民地へよこされては、ブルジョアをます/\富ませるために命がけで働いてやっているんだ。一体、なんのために生きているのか、訳が分らない盲目的とは俺等のコッたなア! 全く自分で、自分の頸をくくっているんだ!」
皆んな、しみじみした、考えずにいられない気持になった。
「忍耐だ!」と木谷は心のうちで云っていた。「笞の下をくゞり、くゞって底からやって行かなきゃならないんだ。」
ここにも、彼等が、内地の工場や農村で生活をした、それと同じような、――もっとひどい、苦るしい生活があった。彼らは、工人がもう一カ月も、この工場の一廓から一歩も外へ出ることを許されずにいるのを知った。月給を貰っていなかった。幼年工のなかには、一番年下の、六歳になるものが七人もいた。その五人までは、十元か十二元で、永久に買いとられた者だった。そんな子供が、やせて、あばら骨が見えるような胸を、上衣をぬいで、懸命に、軸木を小函につめていた。マッチの小函を握りかねるような、小さい手をしていた。
腰掛の下にもう一ツ、台を置いて貰わないと、仕事台に、せいが届かなかった。
「俺等も、やっぱし、これぐらいな六ツか七ツの時から、仕事をしろ、仕事をしろと、親爺に叱られて育ってきたものだ。」と、夜中の一時頃に起きて仕事にかゝる、製麺屋の玉田は、幼時のことを考えていた。「しかし、俺等は、身体ぐち売られやしなかった!」
工人の多くは田舎の百姓上りだ。それが、百姓をやめて工人となっていた。百姓は、工人よりも、もっとみじめだった。
百姓は、各国の帝国主義に尻押しをされて、絶えまなく小競合を繰りかえす軍閥の苛斂誅求と、土匪や、敗残兵の掠奪に、いくら耕しても、いくら家畜をみずかっても、自分の所得となるものは、何一ツなかった。旱魃があった。雲霞のような蝗虫の発生があった。収穫はすべて武器を持った者に取りあげられてしまった。
ある者は、土地も、家も、家畜も売り払って、東三省へ移住した。多くの者が移住した。――その移住の途中で、行軍する暴兵に掴まって、僅かの路銀を取りあげられた。そして、それから向うへは行けなくなった。そんな者が工人として這入りこんでいた。
ある者は、家族を村に残して出稼に来ていた。残っている家族は、樹の根をかじったり、草葉を喰ったりしていた。石の粉を食って死ぬ者もあった。
「あの、俺の町の、場末の煤煙だらけの家に残っているおッ母アも、手袋を縫って、やっと、おまんまを食っているんだ。」と、のんきな、馬鹿者の高取も、しみじみした気持になった。
「……こうっと、六十三歳にもなっていたかな。……もう、皺だらけのおッ母アのところへ遊びに来る助平爺もあるめえ! 誰れも相手にしちゃ呉れめえ! 手袋を縫うだけで、腹いっぱい飯が食えるかな。」
兵士達は、ここの工人と、自分等の内地に於ける生活とを思い較べた。
村で、間もなく麦が実ることを思い、すこし、ボケかけた親爺がどうしているかな、――と考える者もあった。
「王洪吉の女房、こないだ、女の子供、産んだ。」
日本語の分る時以礼は、人のよげな、いくらか顔にしまりがない、落胆した、恨めしげな王を指して、兵士達に話した。
「ふむ、お産をしたんだね。」
二十人あまりの兵士の視線が、王一人に集中された。王はかくれてしまいたげな、気の弱い表情をした。
「王、ゼニない、女房ゼニない。職長ゼニ呉れない。」
「ふむ、賃銀をよこさないんだね。工場が。」
「王のおッ母ア、上の子供をおんぶして、工場へ泣いて来る。社員、おッ母アと、王とあわせない。」
「ふむ。」
「ゼニやれない、やるゼニない。」
「ふむ。」
「女房、飯、食えない。ちゝ出ない。赤ん坊泣く。」
「ふむ。」
「赤ン坊、六日間、泣き通した。女房、腹がへる。湯ばかりのむ、湯、腹がおきない。眼まいする。十日目、朝、赤ン坊泣かない。起きて見た。赤ン坊、死んでいる。おッ母ア、工場へ飛んできた。それでも巡警、王にあわせない。柵のすきまから、おッ母ァ、話をした。王、なかできいていた。王、家へ帰れない。職長、一歩も、門から出さない。」
「ふむむ!」
王洪吉には、日本語が分らなかった。しかし、彼は、時以礼が、兵士達に何を話しているか、兵士達と、時以礼の、緊張した表情からそれを看取した。
「――買い取られた子供、もっともっとひどい。」と時以礼はつゞけた。「働く、働く、ゼニ一文も呉れない。髪剪めない。手拭買えない。正月、十五銭呉れるだけ。子供、一年、二年、三年働く。いつまでも働く。いつまでも正月に十五銭だけ。いつまでも外へ出られない。三年間、一日もここから出ない者十八人。働くばかり。希望、一ツもない。絶望する。九ツ[#「ツ」は底本では「ッ」]か十の子供、子供なりに、死ぬ方がましと考える。黄燐、ぬすんでのむ。二月、死んだ子供二人。三月、死んだ子供四人。黄燐のむ、腹のなか焼ける。苦るしい。細い、小さい子供の身体、皮と骨だけになって、脚かたかたになっていた……社員、職長笑う。支那人、意気地なし、面あてに死ぬる。意気地なし……。」
「ふむむ!」
兵士達は、息がつまりそうに唸った。
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