二九
飛行機がとんできた。
市街の上空にさしかゝると、それは、糞をする鳥のように、続けさまに黒いかたまりを落した。スーッと空中に線を引いてボーンと地響きがする。投下爆弾!
三機である。くの字形に距離を置いてとんでくる。古巣のような、この街の上空に大きな円を描いて翔けめぐった。西端の上に来た。その中の一ツは、ポッと硝子だまのようにはじけた。すると、すぐ、火花が散った。そして機体は黒烟を吐き、火焔となって、つばさは、真二ツに折れ、真直に、大地をめがけてもぐるように墜落した。
市街戦はすんだ。
兵士たちは、ぐたぐたに、二日半の休息を得た。酒。一週間吸わなかった煙草を二日で吸い戻した。
街路の到るところに支那人の屍体がころがっている。
酸っぱい臭気! 無数の唸る蠅。
毛並の房々とした野犬と、乞食が、舌なめずりをしながら、愉快げに、野犬は尾を振り立てて屍体の間をうろ/\していた。
爆破された無電局の、天に突きさゝるようなアンテナ柱は、半分どころからへし折れ、傾き、倒れかゝっていた。振りかえる者もなかった。直す者もなかった。黒い土のような人間が、その下にころがっている頭蓋から脳味噌をバケツに掻き取っていた。
不意に出動!
午前四時、疲労が直り、性慾が頭を擡げかかった頃である。兵士達は、急然と叩き起された。
柿本は、支那商館の石の窓口から、とびこむとき、向う脛をすりむいた。沃丁を塗ったあとが化膿して、巻脚絆にしめられる袴下は、傷とすれた。びっこを引きながら整列に加わった。東の空が白みかけたばかりだ。高さ四丈、幅七間、周囲三里の城壁を攻撃するのだ。リンとした寒い中隊長の号令。目に見えぬ顔。重藤中尉は、軍刀を掴んで歩いた。鉄条網を丸めて、片方にのけた狭い出口から兵士たちの列伍は、電柱伝いに行進した。
路は、露で、しッとりとしていた。静まりかえっている。歩調の揃った靴の音ばかりが、ザックザックと暗い空へ吸い込まれて行った。S病院の西側には、低い力のこもった号令で、砲兵隊が、がちゃ/\車輛をゆるがして砲列を敷いていた。兵士たちは黙って進んだ。青みかかった雲は、東方からさしてくる赤い日の出に、薄紫色に染めぬかれて、ゆるやかに動いていた。明るくなる。
墜落した飛行機に棟を折られた民屋は、甲羅をへしゃがれた蟹のようにしゃがんでいた。兵士たちばかり。家に人気はない。草は人間に踏みにじられて姿も分らなくなっていた。
だん/\高取や、木谷や、那須などの顔がはっきり見分けられるようになってきた。でくの坊のように、銃をかつぎ、背に、飯盒をつけた背嚢を喰いつかせて歩いていた。
戦争の恐怖以外に柿本は、中ン条の小母が子供を殺され、家がすっかり掠奪され、明日から宿も、食物もない心配で、くしゃ/\していた。折角、俺れがやって来ていながら、どうにもしてやることが出来なかった! 高取らが、でくの坊の馬鹿のようにして歩いているのにも理由があった。忍従しているのだ。
中隊は破壊しつくされた街に這入った。窓硝子、扉、壁、屋根、すべてが滅茶苦茶だ。籐張りの女の下駄が片脚だけ放り出されて、靴にあたった。兵士たちは、石の高い頑丈な家と塀とをまわって、広い荒らされた、草ッ原に出た。そこをはすかいに横ぎった。そして、又、破壊された家ごみに這入った。縫うように、細い道を折れ曲った。
太陽は、壊れたぎざ/\の屋根の間から輝かしく、鮮やかにぬッと浮び出た。空の方々に散在していたきれぎれの雲は、どこかへ消え失せてしまった。また暑くなる! ごたごたしたすべての物が、強く照し出された。
中隊は大通りへ出た。城壁の外門へ一直線である。外門の上の建物に、青天白日旗が、ひら/\と翻って見えた。
どこかで、何かの合図が聞えたものゝようだった。と、遙か後方の砲列を敷いていたあたりから、砲声が轟き渡った。つゞく。空を唸って、前方で爆発する。それに応じるもののように、反対の東の方で、銃声が連続して起った。柿本は、腓脛が、ぴく/\、ぴく/\と顫えた。そして全身で身顫いした。
その時である。中隊の縦列は、だしぬけに、側面から射撃を受けた。中隊長は、耳のすぐ上で、数発の銃声がパチパチとひゞいたのをきゝとめた。T病院の二階からだ。柿本もそれをきいた。銃声は杜絶えた。
「あ、あ、あんなところから不意打ちを喰わして居る!」
特務曹長は、なさけなげな声を出して、アカシヤのかげにかくれるように伏せをした。兵士たちは顔を見合わした。ひとりでに、微苦笑が口をついて出た。同時に、彼等は、たまげちゃったような中隊長の散解[#「散解」はママ]の号令をきいた。
「そら、また、ここへ突ッ込めだぞ。」
高取は、にた/\意味ありげに笑って、どっしりとした玉田に云った。柿本にもそれが聞えた。
「なんだ、何も居りゃせんじゃないか。」
玉田は、頸をあげて、二階建の病院を見まわした。それが終らないうちに、右翼は、重藤中尉が先頭に立って、開き扉を押し割り、着剣した銃を突き出し、クレゾールくさい室内へ突入していた。つづいて兵士がどや/\となだれこんだ。白い服の看護婦がちら/\していた。ベッドには病人がねていた。肋膜炎、腎臓炎、胃かいよう、心臓弁膜不全症――内科と外科は別だった。多くの部屋を区切った扉は、次々に、バタン、バタンと突きあけられた。泥靴がベッドにとびあがった。手術台の厚い硝子は、亀裂が入った。
これが、その当時の記録に、「第×××聯隊が、逐次暗夜を辿りつゝ城門に近づかんとするや、俄かにその北側にあるT病院内より支那兵の猛射を受け、危険極まりなきに到ったが、該建物が病院たるの性質にかんがみ、一時、その措置に窮した。しかし、何分、事態急迫し、躊躇すれば、暴兵の乱射のため、多大の損害を受けざるを得ぬので、N大尉は一部隊を以てこれを駆逐せしめた。当時、急迫の場合の措置として、寔に、止むを得なんだのである。云々」と弁じている事件である。
約三十分の後、兵士たちは、不愉快な記憶を脳髄にこびりつかして、病院を引きあげた。不愉快な記憶は、一日中、とれなかった。翌日も、それは取れなかった。柿本は気がすゝまぬ様子で、渋々と動作をした。そして何か、自分でも分からないような考えにふけった。――「子供の病人が壁に突きささった。そして、胸から血潮を吹いてガクガクっとその下に蹲った。そんなことをしてもいゝもんか! そんなことがあってもいゝもんか!」悔恨のようなものに苦るしめられた。「あの顔色の蒼い女は、口をあけて、何も知らずベッドの中でねむっていた。……毛布に三角の小さい孔があいた。そうしてあの女は、永久に醒めることなく眠っているだろう。……俺れの手はあの時顫えた。力が、腕から急に抜けてしまった! そうだ、俺れらは、あんなことまでさせられたのだ!」
彼等は、隊伍を直して城門にむかった。攻城戦は既にたけなわになっていた。タラッ! タ、タ、タ、タ、タ、タッタ! 機関銃が城門の内と外から呼応して、迅く、つゞけさまにひゞき渡る。ちょっと、きれたかと思うと、また、ひゞく。榴弾が城壁で炸裂していた。
高取や、玉田や、松下などを見ると、彼等は、むッつりして、虫を喰ったような顔をしていた。訓練所出の、倉矢までが、浮かぬ顔で何か考えこんでいた。――「そうだ、あいつらも、みんな不愉快な記憶に心臓をしめつけられているのだ!」と柿本は思った。
直接剣を握って殺し合いをやる最下級の彼等は、殺すことが誰れのためだか、その判断がつかなくなるのだった。何者かに取ッつかれたようだった。
同胞の日本人が惨殺された。掠奪された。天井裏の板一枚まで剥ぎ取られた。と、彼等は、その現象だけを問題とした。そして、一人が殺されたその倍がえしをせずにいられない、憤怒と、情熱と、復仇心を感じた。
その憤怒と、その情熱と、その復仇心とが、いわゆる「敵」をやッつけるのに最も重要な要素となるのは、争われなかった。
この情熱によって、彼等は、市街戦で殺された日本人の約十五倍の支那人を血祭りにあげていた、屍体を蹴とばした。
何のために、それをやったか! 誰のためにそれをやったか!
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