二七
幹太郎と、お母は、病院から家へ帰ろうとした。洋車に乗った。
何処からともなく、小銃の音が五六発聞えた。
花火だと思った。
街を、剽悍な蒙古騎兵の一隊が南へ、砂煙を立てながら、風のように飛んで行く。
カーキ服の兵士達は、着剣した銃をさげ、ばらばらとそのあとへ現われた。豆をはぜらすような、小銃の発射は、方々ではげしくなった。緯六路へさしかゝると、俥夫は、おじけづいて、しりごみした。
「早くやれッ! 家へ帰ってみなきゃならんのだ!」
緯五路まできた。壁が厚い洋館の二階から発射される弾丸が、ヒウヒウと、街路の上をとび交うた。
兵士が走る。はだしで、シャツの前をはだけた日本人が走る。紅い繻子の、前髪の女が、ころげそうに走る。
そこから、緯三路まで、突ッきって行く。その間が、幹太郎自身も、危険だと感じずにいられなくなった。
「早くやらんか! なに、マゴ/\しているんだ!」
「旦那、いけましねえ。いのちあぶない。」
「かまわん! やれ、やれッ!」
しかし、苦力は、どうしても進まなくなった。
これは、彼の家の掠奪に引きつゞいて急激に起ったことだった。まさに崩れようとする家は、一本のくさびをはずしても、巨大な屋台骨が、一度に、バラ/\に崩壊してしまうものだ。喧嘩買いには、袖がちょっと触れるだけで十分だ。それが、結構云いがかりとなる。
中津の掠奪が市街戦のきっかけとなった。中津の乱暴を見て、附近にうよ/\している青い服が押しよせてきた。家は叩き毀された。それをきいたカーキ服が馳せつけた。撃ちあいはすぐ始まった。そして、瞬くひまに全市にひろがってしまった。まるで、用意をして、待ちもうけていたものゝように。
猛烈な、有名な市街戦が、これから引き起されて行った。
KS倶楽部の土間は、命からがら、身をもって逃がれて来た人々で埋まっていた。
避難者は、そのあとから、まだ、まだ押しよせて来た。
青鼠色の南兵に、出口をふさがれ、壁を破って隣家へ逃げ、支那服を借りて、通りかゝった洋車のあと押しをして、苦力に化けてのがれてきた男があった。妻が南兵に拉し去られるのを目撃しつゝ、自分だけ、のがれてきた男があった。毛布、風呂敷包をかゝえて来る者。サル又と襦袢だけの者。父親の背に背負われて、身体の具合が悪いような泣き声で眼が赤い小さい子供。
「まあ、百々ちゃんはえらいんですよ。私がつれて避難して来る時に、若し、南軍に掴まったら、どうするかってきくとね、おッ母さんと一緒に剃刀でのどをかき切って死ぬるッて云うんですよ。」腹にボテのある呉服屋のお上は、一人だけ得意げに癇高く喋っていた。「本当にえらいでしょう。これこそ日本男児ですわね。」
彼女は、十歳ばかりの鼻の平たい子供を高く抱き上げて人々に示した。
「まあこれこそ、本当に日本男児ですわね。」
知っている人間の顔を見ると、この太ッちょの牝鶏は、相手の心配をかまわず、誇らしげに、これを繰りかえした。
すゞと、俊とは、この土間の片隅に、人々に押されて、小さくなって蹲っていた。一郎を南軍に取られてしまった! 彼女たちは、父親の背でむずかる眼の赤い子供を見て、始めてそれを思い出した。どこで失ってしまったか? はっきりした記憶がなかった。
ひっかえして探しに行くのは、命がけだった。彼女は、自分の身を守るだけに力いっぱいだった。
――また、おおぜいの女達が足袋はだしで、どや/\と飛びこんできた。詠仙里の娼婦だった。支那兵が女郎屋街に這入りこんだ。娼婦はすっかりあわてゝしまった。
裂けたワイシャツに、ズボンだけの男は、アンペラに腰をおろすことも出来ず、弾丸よけに毛布を垂らした窓の傍に突ッ立って、唇をかみしめ、ポケットに、片手を突ッこみ、光った眼で前方を見つめていた。じっとしていられない焦躁が、その身体全体に現れていた。妻と子供を見失ってしまった人だった。
「まあ、小出さん! おききなさい。うちの百々ちゃんはね……」
また、牝鶏がうるさく繰りかえしだした。
すゞは、中津らが彼女の家へ押し入ってきた時、俊と一郎と三人で隣の馬貫之の棕梠の張った床篦子の下で小さくなっていた。それを覚えている。たしかに三人だった。寝台にも、寝具にも、その附近すべてに、支那人の変な匂いがしみこんでいた。
家の方では、大勢の荒々しい足音と、罵る叫び声と、破壊の騒音が渦を巻いていた。板をはぎ取るめりめりボキン。戸棚が倒れる轟音、硝子が割れる音、壁がどさる音。
恐る、恐る、彼女は床篦子の下から這い出て窓に近づいた。そして、眼だけを出して外をのぞいた。石畳の、無気味な小路に、青鼠服の兵士が、いっぱいうごめいていた。
彼女の手ミシンを小脇にかゝえて、向い側の小路へ消えて行くよごれた男があった。針金の鳥籠が踏みへしゃがれていた。
よく隣の馬貫之の細君にかくして貰ったものだ。
誰れか、外から門を叩く音がした。殺しに来た気がした。また床篦子の下へ這いこんで首をすくめた。
荒々しい足音が近づいた。彼女達は呼吸をとめて耳を澄ました。
馬貫之だ。
「あなたがた、ここにいては危いです。早く便所にかくれなさい。」――馬貫之は親切だった。
便所へ逃げた。
そこも、見つかり易かった。困った。もひとつ隣の支那人の家が、この便所にくッつこうとする、そこに隙間があった。俊は、夢中に、六尺の塀をよじのぼった。そして、その間にとびおりた。そこはよかった。すゞもあとからつづいてとびおりた。
五六人の足音が、塀の向側でどやどやと椅子や箱を蹴散らしている。
便所にも来る様子がした。塀がドシンと蹴られた。耳をすました。話声は支那語だ。中津だろうか南兵だろうか? どっちにしろ見つかれば殺されるか、裸体に引きむかれるかだ。
家と家の隙間は、反対側の小路に通じて開いていた。慌てゝ、白足袋跣足で、逃げて行く人かげが細い間からちらッと見えた。着剣のカーキ服が馳せて来る。何も考えるひまはなかった。その小路へとび出した。
そして、人が走って行く方へ一目さんに走ってしまった。前にのろ/\と行く者は、押しのけて走った。一郎はどうなったか忘れてしまっていた。
KS倶楽部へは、あとから、あとからといくらでも避難者が押しよせて来た。いつのまにこういう大動乱になってしまったか? 彼女達は不思議に思った。彼女の家が市街戦のきッかけとなった。それは知らなかった。悪いのは南兵だ。そう思わせられた。多くの人々も、勿論、そう思っていた。いつでも事件のきッかけは中津のような反動のゴロツキが必要に応じて作っているのだ。そういうことは勿論知らなかった。
遠いところや、或は近くで、大砲や銃声が断れ/″\に、又、つゞいて響いていた。大砲が発射されるごとに、硝子窓は、ビリビリッと震動した。頭をめちゃ/\に斬られた人が這入ってきた。何時間かが過ぎた。
男の者が外に出て米をといだ。
飯が出来ると、その男たちは、自分の知っている者や、女郎ばかりに飯を配って、向うの方の人々は、腹いっぱいに食べていた。が、知り合いでない者には一杯もあたらなかった。すゞと俊とは自分達がのけ者にされてしまったような淋しい感情に満された。兄がいれば、飯を食べさして貰えるだろう。ふとすゞは、そんなことを思った。紅い着物の娼婦達は、もう沢山というのに、なおも一ツずつの握り飯を強いられていた。
ようよう、向うの人々の食った残りの飯が、櫃の底にちょっぴりまわって来た。一段下の別扱いをされたような腹立たしさがした。しかし、それを食い逃がしたら、又、いつ飯を食べられるかわからない。
みんな、我れさきに、その飯をよごれた手に掴んで取りがちをした。それは悲惨ながきのような有様だった。
夕方、人々は、S銀行の宿舎へ、移れという命令をうけた。ここでは防ぎきれないからだ、と云う。
すゞは、俊の手を、しっかりと握りしめた。弾丸があたらないように壁に添うて大通りへ出た。いつもはにぎやかな大通りが、がらんとして、犬の子一匹も通っていなかった。時々、銃声がぱッぱッぱときこえた。
「あれ見なさい! あれ……南軍め、沢山やられとる。」
子供をおぶって、走せて行く、鬚の男が、馳せながら、郵便管理局の構内を指さした。
「何だろう?」
すゞはちらっと、指さゝれた方へ顔を向けた。
鉄条網を引っぱった柵の中に、武装解除をされた紺鼠の中山服の兵士達が、両手を後に縛られて、獣のように、呻いたり、わめいたりしていた。何十人いるか? 何百人いるか、数がわからない。着剣した銃を持って、四五人のカーキ色の兵士が、ばらばらと立っていた。
ふと、俊が、何か叫ぶと、彼女の手を重く引いて、地上にがくッとへたばった。
「どうしたの?」
俊は、流弾に脚をうたれていた。白ッぽいメリンスに血がにじんでいた。
「どうしたの?」
傷の痛さよりも、弾丸にあたった意識が、すっかり、張りつめた気持を奪ってしまった。俊は、どうしても立ちあがれなかった。ほかの者はどんどん彼女達を抜いて走った。
すゞは、妹に、自分の肩へすがらして、背負って立上った。二人だけが一番最後に取り残されていた。たび/\重い妹をすり上げた。つめたい血が、せわしくかわす、ふくらはぎに、ぽた/\流れかかった。
……人々は、S銀行の舎内のゴザの上で、一夜を過した。二枚のゴザの上に、十三家族が坐るのだ。医者はなかった。すゞは、ハンカチを裂いて、うたれた紫色の俊の太股をしばった。
二人には、ゴザの端もあたらなかった。板の上に坐った。
「そこでは痛いでしょう。これに坐んなさい。」
お歯ぐろをつけた小さいおばさんが、自分のねまきをゴザの代りにひろげた。
すゞは、そのおばさんの顔を知らなかった。しかし、その上で血で、ねまきを汚さないように気をつけながら俊に脚をのばさした。
二人は、並んで、おばさんの、ねまきの上に寝た。
「あゝ、恐ろしいこった。今日中にどれだけの人間が殺したり、殺されたりしたか、数が知れまい。」
と、おばさんは吐息をして、なむあみだぶを唱えた。
「……すっかり財産を失った人がどれだけあるか知れまい……百ではきくまい。家を壊されてしまった人だって、どれだけあるか!……あ、あ、怖いこった! 怖いこった!」
なむあみだぶ。
なむあみだぶ。
夜はふけた。俊は、歯を喰いしばって疼痛をこらえようとしたが、唸きが、ひとりでに、その歯の間から漏れた。
大砲は、なお遠くで、静けさを破って轟いていた。人の鼾声や、犬の吠えるのがきこえる。電燈だけが、ます/\明るくなっていた。憲兵の靴が、廊下にコットン/\とひびいた。
翌日、お昼すぎ、二人は、脚を怪我した父と母がいる病院へつれて行かれた。
そこで、俊は手あてを受けた。
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