二五
竹三郎は、領事館警察の留置場から、S病院に出た。
彼は、瀬戸引きの洗面器の縁で、自分の足の小趾をぶち切った。
それで留置場から出ることが出来た。内地から来たての、若い外務省巡査が、しけこんだような顔をして、彼を監視して病院へついて来た。
マッチ工場で、蒋介石の抗議による守備区域の障害物の撤退、南軍と、日本軍との衝突の危険、などについて、軍隊自身よりも、支配人が気をもんだ。社員は、朝からそわそわした。
工人が、北伐兵の過激派と策応しないとも限らない。十時頃、幹太郎は、親爺が、S病院に出たことを知らされた。
お母と、だぶ/\の詰襟の支那人が、咎めたてる巡警をつきのけて、いきなり事務室へとびこんで来た。彼は吃驚した。
お母は、息を切らし、虫がつめた子供のような眼をして、どういっていいかわからないものゝように、何も喋れなかった。幹太郎はそれを見たゞけで、すぐ、すゞがかっぱらわれたのではないかと不安にされた。
「早よ、S病院、去。あなたのお父ツぁん、負傷あります。日本太夫、診て、出血あります。クヮイクヮイデ。」
詰襟の善人らしい支那人は、日本語と、支那語を、ごちゃごちゃに使った。早く、幹太郎に用談を伝えようとあせる。距離のある眉と眉の間に、皺をよせた。あせると、あせるほど、日本語は舌の先でもつれてしまった。業を煮やして、とうとう、支那語ばかりで叫んだ。分った。
幹太郎は、軽蔑の眼を、小山とかわして冷笑している支配人に、むっとするものを抑えて、一言、ことわった。そして、すぐ、病院の方へとび出した。兵士たちが、街上に撤退する拒馬を重そうにひきずっていた。
「ちょっと待ちなさい。」母があとから呼んだ。
「……。」
幹太郎は、母だと知りつゝわざと返事をしなかった。
「ちょっと待ちなさい!」母は繰りかえした。
「何ですか?」彼は怒ったような声を出した。
「これを持って行かなきゃ駄目なんだよ。」虫がつめた子供のような母は、門鑑の巡警の前に立っていた。「これがなけりゃ駄目なんだよ。」
帯の間から、小さい、紙の小匣を取り出した。「快上快」だ。
「家は大丈夫ですか?」
幹太郎は、云いたくないと思いながら、やはり中津が気にかゝって口に出してしまった。
母は、何をきかれたのか解しかねて黙っていた。
「家は、すゞと俊で大丈夫ですか?」
「あゝ」と母は無心に云った。「今、さっき、出しなに、長さんが、すれちがいにやって来た。大丈夫だよ。」
「中津がやって来た!――何をやり出されるか分らんじゃないですか!」
「……。」
「あんたは、こゝからお帰ンなさい。」幹太郎は小さい行きがかりの感情にこだわっていられないと思った。きっぱり云った。
「お父さんは、どうなんだろう。」母は躊躇した。
「すゞと俊では、どんなことをせられるか油断がならんじゃありませんか。」
「でも……」
やはり、夫が気にかゝるらしかった。どうなとなれ! これ以上強いることは出来なかった。母は病院へ急ぐ彼のあとから、詰襟の支那人と二人でついてきた。
彼は、中津のあぶない陰謀に、うすうす感づいていた。母と喧嘩をしながら、それでも蜿曲に、家を留守にしないように繰りかえしていた。母とすれちがいに中津が家へやって行った。――それは、彼には、中津が、卑猥な会心の笑みをもらしている有りさまさえ想像せられた。そして、不安はますます強くされるのだった。
竹三郎は、領事館の留置場で、ヘロインがきれてしまった肉体を、我慢が出来るだけ我慢をした。しかし、どうしても、二十九日の拘留期間を我慢し通すことは出来なかった。彼は、監視の若い巡査の軽蔑と、冷笑をあびながら、唸き死ぬばかりに、ばたばたと肉体的にもだえ苦るしんだ。
昔、村会議員になった。ほかの収賄をやった連中を摘発してやろうとした。そんな時代の颯爽とした面かげは、全く失われてしまった。外科病室の、白いベッドで、看護婦達に押えつけられながら、あばれている黄色ッぽい、死にかけた黄疸患者のような、親爺を見つけて、幹太郎は、まず、それを思った。誰れが、こういうことにしてしまったか! 俺達は、誰からも保護をうけてはいないのだ! 日本人の特典は、貧乏な者には、通用しない特典だ!
若い、男まえの、支那人の医者が、骨ばかりの右の足のさきに、繃帯を巻いていた。巻かれながら親爺はうめいた。
医者は、一見、日本人のような感じがした。親爺のちぎれた趾からは、紅い血が、ガーゼで拭かれたあとへ、スッスッと涌きあがった。白い繃帯は、巻くそばから紅く染った。
監守の支那人が、いまいましげな顔をしてそばに立っていた。幹太郎が這入って行くと、領事館からついてきた、帽子にエビ茶の鉢巻のついた若い巡査は、二人が、ちょっと顔を見合して室外に出た。幹太郎が、「快上快」を親爺に与えるために持ってきた。それで巡査は気をきかして場をはずした。――そのことは、幹太郎の方へも、すぐ感じられた。
親爺は餓死した屍のように、かん骨はとび上がり、眼窩は奥の方へ窪んで、喘ぎ/\呻いていた。
「いっそ、この際、再び麻酔薬を与えぬように我慢をさして、悪い習慣を打ちきる方がいゝんだ!」と息子は思った。
親爺は病的に落ち窪んだ眼で、息子を認めると、扉の外の巡査に聞えるのもかまわず、むずかる子供のように「快上快」を求めた。
「チェッ! 仕方がないなア!」
薬は与えられた。
竹三郎は、如何にも、うまそうに、むさぼり吸った。たてつゞけに、一と匣分の麻酔薬を吸ってしまった。
「苦しゅうて、苦しゅうて、やりきれんからとうとうこんな芸当をやっちまった。洗面器で足の小指をぶち切った。――そうでもしなきゃ、留置場から出られねえんだ。俺れがどんなにのた打ちまわっとったって、領事館の奴はへへら笑っていやがるんだ。」
母と、詰襟の支那人がやってきた。薬がまわった竹三郎は、足の疼痛を忘れた。自分を取りかこんだ者達にはしゃぎ、唇には、足らん男のような微笑さえ浮んだ。
「全くヘロインの虜になっちまったんだ!」と幹太郎は思った。「自分の指を切り落してもヘロインが吸いたいんだ! 指とヘロインの交換! 支那へさえ来ていなければ、そんなことになりゃしなかったんだ! あの村から追い出されさえしなければ、こんなことになりはしなかったんだ!」
彼は恐ろしい気がした。
「もうないか。……もっとねえか、吸わせろい! 吸わせろい!」
親爺は、また、子供のようにせびりだした。
支那には、この竹三郎のように、外国人の手によって持ちこまれる阿片や、モルヒネや、ヘロインの捕虜となっている人間がどれだけあるかしれないのだ! 阿片のために、どれだけの人間が者となり滅されつゝあるか知れないのだ。……
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