二四
塵埃ッぽい通りの一角に、露天商が拡げられた。
支那人は、通りと同様に、赤銅色に塵埃をあびていた。店が財産である。露店のうしろには、半分出来さしの支那家具ががらんとしていた。
青鼠の中山服の群れが通りかゝった。半信半疑で警戒を怠らなかった赤銅色の売手は、店をたゝむひまもなしに、忽ち、中山服に取りまかれた。わめき、罵詈、溺れるような死にものぐるいの手と脚のもがき、屋台の顛覆。……哄笑に腹を波打たして、中山服は散らばった。皿と笊にもられていた一ツの茹卵も、一と切れの豚肉の油煮も残っていなかった。
中山服は、街をとび/\して歩きながら、快活に口をもぐもぐさした。向う側の通りでは、カーキ服が、棘のある針金を引っぱって作業をつゞけていた。睨みあった。こちらが睨む。向うが睨む。石が飛んだ。
その時、西はずれの、三倍の抵抗力にやり直した堅固な土嚢塁に、はゞまれた細い通りで、一人の支那人をつれた日本人が、着剣の歩哨に咎められていた。
「君は、どうも、日本人ではないらしいぞ。」歩哨は、剣をさしつけた。「あんまり支那語がうますぎるじゃないか。」
「私は、日本人でしゅよ。」
「そうかね?」垢まぶれの歩哨は驚いた。
「本当に、日本人でしゅよ。」
その男は、下の前歯が、すっかり抜け落ちていた。
「そのチャンコロは何だい?」
「こいちゅは、そのう、今朝、工場をぬけだしゅた、不届けな工人でしゅ、今、しょいつを………」歯がないために、ふわ/\して、発音がうまく出なかった。二挺の剣が、胸さきで光っている。小山は汗を拭いた。それがかえって歩哨の疑念を深めるのだった。軍隊というものは、非常に有りがたいものである。が、一ツ間違えば頗る恐怖すべきものである。小山は、慌てゝ、自分が燐寸工場の職長であること、逃亡を企てた工人を捕まえに行ったこと、自分の工場にも兵タイを泊めてやっていることなどを説明した。しどろ、もどろだった。
一方の、しッかりした顔つきの歩哨は、それでは、小哨長のところまで行って呉れ、と通りのさきの狭ッ苦るしい暗い支那家屋につれて行った。歩哨の疑念は晴れぬらしい。カンテラの光に、兵士たちが蠢めいていた。
「軍曹殿! こいつ南軍の密偵であるかもしれません。顔つきと、言葉が随分あやしいんであります。」
面倒なことになってしまった、小山は、あれだけ工場で軍隊を世話してやっていながら……と、何か矛盾するようなものを感じた。
「いよう、どうしたんです?」聞き覚えの声が暗い隅の方からだしぬけに呼びかけた。
「あゝ、山崎(しゃきと出た)さん!」小山は、すぐ密偵の山崎だと悟った。助かった!
彼は、歩哨への面あてに、特に、山崎と親しいことを見せつけようとして、蠢めく兵士達を横柄にまたいで握手した。
黒い支那服の山崎は、同様な支那服の中津と並んで、片隅の、眠むげな軍曹の前の長い腰掛に腰かけていた。
「どうしたんです?」
「ここの兵タイら、これゃ、わッしゅの工場で厄介を見とる、あの兵タイじゃないんでしゅね。」如何にも兵士など、わしの風しもに立つべき奴等なんだ! と云わぬばかりの語調で小山は口を切った。彼は、朝、早くから、逃亡した工人を追っかけて、汚穢物乾燥場の、汚穢の乾物を積重ねてある蓆俵のかげに、すなんでいたのを掴まえてきた話をした。
「あれでしゅよ。あれでしゅよ。」
入口で、眼をウロ/\やりながら、慄えている、よごれて蒼い支那人を指さした。二十一歳だった。額に三ツの瘤があった。ついさきほど、彼に殴られて出来た瘤だった、紅く血がにじんでいた。
「間のぬけた野郎もあったもんだね。張宗昌の兵タイにだって、逃げて捕まるような馬鹿はいねえだ。」中津は嘲笑した。「いっそ、オトシちゃどうです。ほかの奴等に、又とない、ええ薬となりますぞ。」
中津の殺伐な眼は、舌なめずりでも始めそうにかゞやいた。
小山は眼を細めて反対しなかった。兵士が顔をあげて、今更、珍らしげに中津を見た。
睨み合いと、石の飛ばしあいをやっていた方向で銃声がした。みな、耳を傾けた。山崎と中津は急いで外に出た。山崎は、最前から軍曹に云いつけて置いたことを、も一度念を押した。
「は、は。」
軍曹は、暗がりの中で、彼の背にむかって頭をさげていた。
通りで、浮浪漢が、銃声の方向へ物ずきに馳せて行く。纏足が、その方向から逃げて来る。又、銃声がした。まもなく、この小衝突の一方を敷きつぶしてしまうかのように、灰色の装甲自動車が、機関銃の角をはやし、地響きを立てて疾駆してきた。犬がうろつく。
「チエッ! こういうことをやるからいけない!」
山崎は、頭から、自動車の土塵埃にまかれて、親方が弟子の失策を不満がるように舌打ちをした。彼は、彼として深い計画を持っていた。彼は、そのために苦心した。利用し得る人間は、誰れでも利用した。中津も利用される株だった。
「こういうことをやるからいけない。勝とうと思えば、まず負けろ! だ。」
彼は中津にむかって呟いた。
「勝つも負けるもねえじゃないか、そこらの蟻は、大砲を持ってきて、一となめに、なめッちまえばいゝじゃないか!」
「それが……すべて、仕事には、大義名分が立たなけゃ、勝っても、勝った方が負けとなるんだよ。」
「君等のやることはいつも面倒くさいね!」
山崎は、中津の剛胆さ、支那人の間にきく顔の広さを好いていた。それは、利用できる一ツの財産だ。しかし、この一とすじものでないゴロツキは、ほかの空想に夢中になって、彼の相談に乗ろうとしなかった。それが気に喰わなかった。
――顧祝同が、津浦線停車場と、無電局を占領している。それは、甚だ危険なことだった。それは最もひどく山崎を悩ました。本国や、世界各国に送る報道は、彼の思う通りのものでなければならない。そのためには、多少の捏造があってもかまわなかった。その通信機関を顧祝同が握っている。それから、蒋介石は、これ以上、天津、北京にむかって進軍させる訳には行かなかった。満洲を確保する上から最もいけないことだ。そこで、何か、大義名分が必要となってくるのだ。云いがかりといってもよい。それを作るのには、中津のようなゴロツキを手さきに使うのが一番いいのだ。
将校が、横の通りからとび出してきた。
小ぜり合いは、おさまってしまった。二人は、のぞきの看板だけを見物した馬鹿者のように、東興桟の方へ歩いた。
「おい、子供のような、あんな娘さんへの日参はよして、ちっと、俺の仕事でも手伝えよ。」山崎は冗談のように切り出した。
中津は、道を歩きながら、すゞの、手や、脚や、肩や、鼻、口もとなどの美点を夢中に数えあげるようになっていた。彼は、彼女を誘かいする計画を空想に描いてたのしんでいた。その計画がどんなに滑稽なものであるか。その結果がどうなるか、そんな点は、考えなかった。彼は、遮二無二、娘を奪い出そうと考えていた。そして、それを、計画し、空想するのが愉快だった。中津は、山崎が、すゞのことを云いだしたついでに、こころよげに、にこ/\しながら、自分の計画を打ちあけた。
「君は、一体いくつだね?」と、山崎はきいた。
「五十三さ。」
別に、中津は不思議がらなかった。
「あの娘ッ子は、君の子供ぐらいの年恰好なんだよ。恐らく、君の三分の一しか年はとっていまい。」
「それがいゝんじゃないか。君には、俺れのこの気持が分らないんだ。あの、軟らかい、子供々々したところが、とてもたまらなくいゝんじゃないか。俺れゃ、この年になるまで、あんな娘は見たことがない。何と云っていゝか、……俺れの全存在を引きつけるような、とても、なんとも云えん気持なんだ。」
「いゝ年をして、生若い、紺絣の青年のようなことを云ってら!」
「そんな軽々しい問題じゃないよ。俺れゃ、君がどう云ったって、この決心は、やめられやせん。」
「ふふふッ、」山崎は冷笑した。「ちょっと、可愛いゝ娘ではあるが、……しかし、君なら、あの娘のおッ母アが丁度持って来いだ。あの婆さんと夫婦なら似合ってら。どうだい、あの親爺はヘロ中で領事館に叩ッこまれとるし、婆さんをひとつものにしちゃどうだい? それなら、俺も手を貸してやるよ。」
「冗談はよせやい。――あんな腐れ婆にゃ、あき/\していら。何と云ったって、俺れゃ、処女でなけゃ駄目なんだ! 処女の味は、また、特別なもんだ! 二度とあんな娘は手に入れやしない!」
小山は支那家屋の兵士たちに、糞喰え! のような顔をして、そこを立ち去った。捕まえられた工人は彼のあとにつゞいた。
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