七
鈴をつけた二十台ばかりの馬橇が、院庭に横づけに並んでいた。負傷者の携帯品は病室から橇へ運ばれた。銃も、背嚢も、実弾の這入っている弾薬盒も浦潮まで持って行くだけであとは必要がなくなるのだ。とうとう本当にいのちを拾ったのだ。
外は、砂のような雪が斜にさら/\とんでいた。日曜日に働かなければならない不服を、のどの奥へ呑み下して、看護卒は、営内靴で廊下や病室をがた/\とびまわった。
「さあ、乗れ、乗れ!」護送に行く看護長が廊下から叫ぶと、防寒服で丸くなった傷病者がごろ/\靴を引きずって出てきた。
橇には、五人ずつ、或は六人ずつ塒にかたまる鶏のように防寒服の毛で寒い隙間を埋めて乗りこんだ。歩けない者は、看護卒の肩にすがり、又は、担架にのせられて運んで行かれた。久しい間の空気のこもった病室から院庭へ出ると、圧縮された胸がすが/\しく拡がるようだ。病院へつれて来られる時には、うつゝで、苦痛ばかりを意識しながら登ってきた丘に、今、さら/\と快よい雪が降っている。
雪のかゝらない軒庇から負傷者が乗りこむのを見ていた看護長は、
「何だ? 何だ?」
と、息せき/\這入ってきた聯隊の伝令に云った。
「これであります。」
伝令は封筒を出した。
「どれ?」
看護長は右の手袋をぬいで、よほどそこで開けて見たそうに封を切りに二本の指を持って行ったが、何か思いかえして、廊下を奥へ早足に這入って行った。
伝令は嵩ばった防寒具で分らなかったが、二度見かえすと、栗本と同じ中隊の一等卒だった。毛の房々しい帽子をぬいで手のひらで額の汗を拭いていた。栗本とは入営当座、同じ班の同じ分舎にいた。巻脚絆を巻くのがおそく、整列におくれて、たび/\一緒に聯隊本部一週の早駈けをやらされたものだ。
「おい、おい!」
栗本は橇の上から呼びかけた。
田口は看護長の返事を待ちながら、傷病者がうまく橇に身を合わそうとがた/\やっているのを見ていた。
「おい、おい、田口!……俺だよ。」
痛くない方の手を振ると、伝令は、よう/\栗本に気がついたらしかった。が二人の間には、膝から下を切断し、おまけに腹膜炎で海豚のように腹がふくれている患者が担架で運んで来られ、看護卒がそれを橇へ移すのに声を喧嘩腰にしていた。栗本は田口がやって来そうにないのを見て、橇からおりて雪の中の馬の頭のさきを廻って行った。
「俺ら、今日帰るんだ。」彼は、帰れることに嬉しさを感じながら、「みんなによろしく云って呉れ。」
田口は、何か訳の分らないことを呟いて、当惑そうな色を浮べた。そして、こゝから又セミヤノフカへ一個大隊分遺される、兵士が足らなくて困っている、それに関する訓令を持って来た、と云った。一個大隊分遣される、それゃ、内地へ帰る傷病者の知ったことじゃない。が、田口のなんか事ありげな気配で栗本は直ぐ不安にされた。
「また突発事件でもあったんか?」
田口は、今、こゝへ来しなにメリケン兵の警戒隊に喧嘩を吹っかけられた、と告げた。二三日前、将校が軍刀を抜いたのがもとで、両方が、いがみ合っている。メリケン兵とも衝突するかもしれない。
そこへ軍医が出て来た。あとから、看護長がついてきた。その顔に一種の物々しさがあった。
「みんな一っぺん病室へ引っかえすんだ。」
軍医の声は、看護長の物々しさに似ず、悄然としていた。
負傷者は、一寸見当がつかなかった。なんでもないことのようであもあり、又、非常な突発事件のようでもあった。彼等は乗込んだ橇から暫らく立上ろうとしなかった。そこらにいた看護卒も軍医の言葉を疑うものゝのようにじいっとしていた。しばらく、さら/\と降る雪の音ばかりがあった。
「一っぺん病院へ引っかえせ!」相変らず、軍医の声は悄然としていた。
「雪が降るからですか?」
誰れかがきいた。
「うゝむ。」
「じゃ、雪がやんだら帰れるんですね?」
返事がなかった。
軍医の云ったことが間違いでないのを確めた看護卒は、同じ言葉を附近の負傷者に同情を持たぬ声で繰りかえした。
栗本は、脚がブル/\慄えだした。
「俺等をかえさんというんじゃあるまいな?」
田口は、また困ったような顔をして答えなかった。
栗本は、一本の藁にでもすがりたい気持をかくして、殊更、気軽く、
「こっちの中尉がメリケン兵を斬りつけたんが悪かったんかい?」と重ねてきいた。
「あゝ。」田口は気乗りのしない返事をした。「それで悶着がおこってきたんだ。」
「だって、あいつら、偽札を使ってたんじゃないか。」
田口は、メリケン兵を悪く云うのには賛成しないらしく、鼻から眉の間に皺をよせ、不自然な苦い笑いをした。栗本は、将校に落度があったのか、きこうとした。が、丁度、橇からおりた者が、彼のうしろから大儀そうにぞろ/\押しよせて来た。彼は、それをさきへやり過ごそうとした。みんな防寒具にかゝった雪を払い払い彼につきあたって通った。ブル/\慄えている脚はひょろ/\した。彼は、道の真中にある石のように邪魔になった。看護卒がやかましく呶鳴った。
脇へよけようと右を向くと、軍医が看護長に、小声で、
「橇は、うまく云ってかえして呉れんか。」
そう云っているのが聞えた。彼は、軍医の顔をみつめた。そこに何か深い意味があるように感じた。軍医は、白い顔を傷病者の視線から避け、わざと降る雪に眼を向けていた。
栗本は、ドキリとした。もう、如何に田口から委しいことをきいても、取りかえしはつかない、と感じた。
病室の入り口では護送に行く筈だった看護卒が防寒服をぬぎ、帯剣をはずして、二三人で、何かひそ/\話し合っていた。負傷者が行くと、不自然な笑い方をして、帯皮を輪にしてさげた一人は急いで編上靴を漆喰に鳴らして兵舎の方へ走せて行った。
患者がいなくなるので朝から焚かなかった暖炉は、冷え切っていた。藁布団の上に畳んだ敷布と病衣は、身体に纒われて出来た小皺と、垢や脂肪で、他人が着よごしたもののようにきたなかった。
「あゝ、あゝ、まるで売り切りの牛か馬のようだ。好きなまゝにせられるんだ!」
彼等は、すっかりおさらばを告げて出て行った筈のベッドへまた逆戻りした。大西は、いつもの元気に似ず、がっかりして、ベッドに長くなった。
「ほんまに家まで去んでみにゃ、どんなになるか分りゃせん。」
あの封筒に這入ったもの一ツが、梶を反対の方向にねじ向けてしまった。彼等はそれを感じていた。梶は、又、弾丸が降ってくる方へ向けられた。アルファベットを操る間絶えず胸に描いていた美しい、魅力のある内地が、あの封筒一ツに覆がえされてしまった。
栗本は、ベッドに腰かけて、心の動揺と戦った。茅葺きの家も、囲炉裏も、地酒も、髯みしゃの親爺も、おふくろも――それらは安らかさと、輝かしさに満ちている――すべてが自分から背を向けて遠くへ飛び去ってしまった。内地へ帰りたさに、どれだけ目に見えぬ心を使ったか! 一寸した将校のしわざが、俺等に祟って来るのだ! 下らんことのために、こゝに居る者の願望が根こそぎ掘り取られてしまうのだ。これからさき、どうなることか!
二重硝子の窓を通して、空の橇が馭者だけを乗せて、丘の道を一列につゞいて下るのが見えた。馬は、人を乗せなかったことが嬉しいかのように奔放にはねていた。粉雪は一層数を増して斜に、早いテンポでさら/\と落ちていた。
「そうだ、あたりまえなら、今頃、あの橇で辷っている時分だ!」
彼は、ふと、こんなことを考えた。
伍長は、手箱の湯呑をいじっていたが、観音経は忘れたかのように口にしなかった。
「俺ゃ、また銃を持てえ云うたって、どうしろ云うたって、動けやせん!」骨折の上等兵は泣き顔をした。
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