筑摩現代文学大系 38 小林多喜二 黒島伝治 徳永直集 |
筑摩書房 |
1978(昭和53)年12月20日 |
一
源作の息子が市の中学校の入学試験を受けに行っているという噂が、村中にひろまった。源作は、村の貧しい、等級割一戸前も持っていない自作農だった。地主や、醤油屋の坊っちゃん達なら、東京の大学へ入っても、当然で、何も珍らしいことはない。噂の種にもならないのだが、ドン百姓の源作が、息子を、市の学校へやると云うことが、村の人々の好奇心をそゝった。
源作の嚊の、おきのは、隣家へ風呂を貰いに行ったり、念仏に参ったりすると、
「お前とこの、子供は、まあ、中学校へやるんじゃないかいな。銭が仰山あるせになんぼでも入れたらえいわいな。ひゝゝゝ。」と、他の内儀達に皮肉られた。
二
おきのは、自分から、子供を受験にやったとは、一と言も喋らなかった。併し、息子の出発した翌日、既に、道辻で出会った村の人々はみなそれを知っていた。
最初、
「まあ、えら者にしようと思うて学校へやるんじゃぁろう。」と、他人から云われると、おきのは、肩身が広いような気がした。嬉しくもあった。
「あんた、あれが行たんを他人に云うたん?」と、彼女は、昼飯の時に、源作に訊ねた。
「いゝや。俺は何も云いやせんぜ。」と源作はむし/\した調子で答えた。
「そう。……けど、早や皆な知って了うとら。」
「ふむ。」と、源作は考えこんだ。
源作は、十六歳で父親に死なれ、それ以後一本立ちで働きこみ、四段歩ばかりの畠と、二千円ほどの金とを作り出していた。彼は、五十歳になっていた。若い時分には、二三万円の金をためる意気込みで、喰い物も、ろくに食わずに働き通した。併し、彼は最善を尽して、よう/\二千円たまったが、それ以上はどうしても積りそうになかった。そしてもう彼は人生の下り坂をよほどすぎて、精力も衰え働けなくなって来たのを自ら感じていた。十六からこちらへの経験によると、彼が困難な労働をして僅かずつ金を積んで来ているのに、醤油屋や地主は、別に骨の折れる仕事もせず、沢山の金を儲けて立派な暮しを立てていた。また彼と同年だった、地主の三男は、別に学問の出来る男ではなかったが、金のお蔭で学校へ行って今では、金比羅さんの神主になり、うま/\と他人から金をまき上げている。彼と同年輩、または、彼より若い年頃の者で、学校へ行っていた時分には、彼よりよほど出来が悪るかった者が、少しよけい勉強をして、読み書きが達者になった為めに、今では、醤油会社の支配人になり、醤油屋の番頭になり、または小学校の校長になって、村でえらばっている。そして、彼はそういう人々に対して、頭を下げねばならなかった。彼はそういう人々の支配を受けねばならなかった。そういう人々が村会議員になり勝手に戸数割をきめているのだ。
百姓達は、今では、一年中働きながら、饉えなければならないようになった。畠の収穫物の売上げは安く、税金や、生活費はかさばって、差引き、切れこむばかりだった。そうかといって、醤油屋の労働者になっても、仕事がえらくて、賃銀は少なかった。が今更、百姓をやめて商売人に早変りをすることも出来なければ、醤油屋の番頭になる訳にも行かない。しかし息子を、自分がたどって来たような不利な立場に陥入れるのは、彼れには忍びないことだった。
二人の子供の中で、姉は、去年隣村へ嫁づけた。あとには弟が一人残っているだけだ。幸い、中学へやるくらいの金はあるから、市で傘屋をしている従弟[#「従弟」は底本では「徒弟」]に世話をして貰って、安くで通学させるつもりだった。
「具合よく通ってくれりゃえいがなあ。」と彼は茶碗を置いて云った。
「そりゃ、通るわ。一年からずっと一番ばかりでぬけて来たんじゃもの。」と、おきのは源作の横広い頭を見て云った。胡麻塩の頭髪は一カ月以上も手入れをしないので長く伸び乱れていた。
「いゝや、それでも市に行きゃえらい者が多いせにどうなるやら分らんて。」
「毎朝、私、観音様にお願を掛けよるんじゃものきっと通るわ。」
源作は、それには答えなかった。彼は、息子が中学を卒業して、高等工業へ入って、出ると、工業試験場の技師になり、百二十円の月給を取るのを想像していた。
三
市の従弟から葉書が来た。息子は丈夫で元気が好いと書いてあった。県立中学は、志願者が非常に多いと云って来た。市内の小学校を出た子供は、先生が六カ月も前から、肝煎って受験準備を整えている上に、試験場でもあわてずに落ちついて知って居るだけを書いて出すが、田舎から出て来た者は、そういう点で二三割損をする。もっとも、この子はよく出来るということだから、通ることは通るだろうが、と書いてあった。
「通ったらえらいものじゃがなあ。」源作は、葉書を嚊に読んできかせた後、こう云った。
「もっと熱心にお願をするわ。」
こういうことを、神仏に願っても、効くものでない、と常々から思っている源作も、今は、妻の言葉を退ける気になれなかった。
源作が野良仕事に出ている留守に、おきのの叔父が来た。
「そちな、子供を中学校へやったと云うじゃないかいや。一体、何にする積りどいや。[#底本では「。」は脱落]」と叔父は、磨りちびてつるつるした縁側に腰を下して、おきのに訊ねた。
「あれを今、学校をやめさして、働きに出しても、そんなに銭はとれず、そうすりゃ、あれの代になっても、また一生頭が上がらずに、貧乏たれで暮さにゃならんせに、今、ちいと物入れて学校へでもやっといてやったら、また何ぞになろうと思うていない。」と、おきのは答えた。
「ふむ。そりゃ、まあえいが、中学校を上ったって、えらい者になれやせんぜ。」
「うちの源さん、まだ上へやる云いよらあの。」
「ふむ。」と、叔父は、暫らく頭を傾けていた。
「庄屋の旦那が、貧乏人が子供を市の学校へやるんをどえらい嫌うとるんじゃせにやっても内所にしとかにゃならんぜ。」と、彼は、声を低めて、しかも力を入れて云った。
「そうかいな。」
「誰れぞに問われたら、市へ奉公にやったと云うとくがえいぜ。」
「はあ。」
「ようく、気をつけにゃならんぜ……」と叔父は念をおした。そして、立って豚小屋を見に行った。
「この牝はずか/\肥えるじゃないかいや。」
親豚は、一カ月程前に売って、仔豚のつがいだけ飼っている。その牝の方を指して叔父はそう云った。
「はあ。」と、おきのは云って、彼女も豚小屋の方へ行った。
「豚を十匹ほど飼うたら、子供の学資くらい取られんこともないんじゃがな、……何にせ、ここじゃ、貧乏人は上の学校へやれんことにしとるせに、奉公にやったと云うとかにゃいかんて。」と、叔父は繰り返した。
おきのは、叔父の注意に従って、息子のことを訊ねられると、傘屋へ奉公に出したと云った。併し、村の人々は、彼女の言葉を本当にしなかった。でも、頑固に、「いいえいな、家に、市の学校へやったりするかいしょうがあるもんかいな。食うや食わずじゃのに、奉公に出したんにきまっとら。」と、彼女は云い張った。
が、人々は却って皮肉に、
「お前んとこにゃ、なんぼかこれが(と拇指と示指とで円るものをこしらえて、)あるやら分らんのに、何で、一人息子を奉公やかいに出したりすらあ! 学校へやったんじゃが、うまいこと嘘をつかあ、……まあ、お前んとこの子供はえらいせに、旦那さんにでもなるわいの、ひひひ……。」
おきのは、出会した人々から、嫌味を浴せかけられるのがつらさに、
「もういっそ、やめさして、奉公にでも出すかいの。」と源作に云ったりした。
「奉公やかい。」と、源作は、一寸冷笑を浮べて、むしむしした調子で、「己等一代はもうすんだようなもんじゃが、あれは、まだこれからじゃ。少々の銭を残してやるよりや、教育をつけてやっとく方が、どんだけ為めになるやら分らせん。村の奴等が、どう云おうがかもうたこっちゃない。庄屋の旦那に銭を出して貰うんじゃなし、俺が、銭を出して、俺の子供を学校へやるのに、誰に気兼ねすることがあるかい。」
おきのは、叔父の話をきいたり、村の人々の皮肉をきいたりすると、息子を学校へやるのが良くないような気がするのだったが、源作の云うことをきくと、源作に十二分の理由があって、簡単、明瞭で、他から文句を云う余地はないように思われた。
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