三
橇は中隊の前へ乗りつけられた。馬が嘶きあい、背でリンリン鈴が鳴った。
各中隊は出動準備に忙殺されていた。しかし、大隊の炊事場では、準備にかえろうともせず、四五人の兵卒が、自分の思うままのことを話しあっていた。そこには豚の脂肪や、キャベツや、焦げたパン、腐敗した漬物の臭いなどが、まざり合って、充満していた。そこで働いている炊事当番の皮膚の中へまでも、それ等の臭いはしみこんでいるようだった。
「豚だって、鶏だってさ、徴発して来るのは俺達じゃないか。それでハムやベーコンは誰れが食うと思う。みんな将校が占領するんだ。――俺達はその悪い役目さ。」
吉原は暖炉のそばでほざいていた。
飼主が――それはシベリア土着の百姓だった――徴発されて行く家畜を見て、胸をかき切らぬばかりに苦るしむ有様を、彼はしばしば目撃していた。彼は百姓に育って、牛や豚を飼った経験があった。生れたばかりの仔どもの時分から飼いつけた家畜がどんなに可愛いものであるか、それは、飼った経験のある者でなければ分らないことだった。
「ロシア人をいじめて、泣いたり、おがんだりするのに、無理やり引っこさげて来るんだからね、――悪いこったよ、掠奪だよ。」
彼は嗄れてはいるが、よくひびく、量の多い声を持っていた。彼の喋ることは、窓硝子が振える位いよく通った。
彼は、もと大隊長の従卒をしていたことがあった。そこで、将校が食う飯と、兵卒のそれとが、人間の種類が異っている程、違っているのを見てきているのであった。
晩に、どこかへ大隊長が出かけて行く、すると彼は、靴を磨き、軍服に刷毛をかけ、防寒具を揃えて、なおその上、僅か三厘ほどのびている髯をあたってやらなければならなかった。髯をあたれば、顔を洗う湯も汲んできなければならない。……
少佐殿はめかして出て行く。
ところが、おそく、――一時すぎに――帰ってきて、棒切れを折って投げつけるように不機嫌なことがあるのだ。吉原には訳が分らなかった。多分ふられたのだろう。
すると、あくる日も不機嫌なのだ。そして兵卒は、叱りつけられ、つい、要領が悪いと鞭うたれるのだ。
彼は考えたものだ。上官にそういう特権があるものか! 彼は真面目に、ペコペコ頭を下げ、靴を磨くことが、阿呆らしくなった。
少佐がどうして彼を従卒にしたか、それは、彼がスタイルのいい、好男子であったからであった。そのおかげで彼は打たれたことはなかった。しかし、彼は、なべて男が美しい女を好くように、上官が男前だけで従卒をきめ、何か玩弄物のように扱うのに反感を抱かずにはいられなかった。玩弄物になってたまるもんか!
「豚だって、鶏だってさ、徴発にやられるのは俺達じゃないか、おとすんだって、料理をするんだってさ……。それでうまいところはみんなえらい人にとられてしまうんだ。」彼は繰かえした。「俺達の役目はいったい何というんだ!」
「おい、そんなこた喋らずに帰ろうぜ。文句を云うたって仕様がないや。」安部が云った。「もうみんな武装しよるんだ。」
安部は暗い陰欝な顔をしていた。さきに中隊へ帰って準備をしよう。――彼はそうしたい心でいっぱいだった。しかし、ほかの者を放っておいて、一人だけ帰って行くのが悪いような気がして、立去りかねていた。
「また殺し合いか、――いやだね。」
傍で、木村は、小声に相手の浅田にささやいていた。二人は向いあって、腰掛に馬乗に腰かけていた。木村は、軽い元気のない咳をした。
「ロシアの兵隊は戦争する意志がないということだがな。」
浅田が云った。
「そうかね、それは好もしい。」
「しかし、戦争をするのは、兵卒の意志じゃないからな。」
「軍司令官はどこまでも戦争をするつもりなんだろうか。」
「内地からそれを望んできとるというこったよ。」
「いやだな。――わざわざ人を寒いところへよこして殺し合いをさせるなんて!」
木村は、ときどき話をきらして咳をした。痰がのどにたまってきて、それを咯き出さなければ、声が出ないことがあった。
彼は、シベリヤへ来るまで胸が悪くはなかった。肺尖の呼吸音は澄んで、一つの雑音も聞えたことはなかった。それが、雪の中で冬を過し、夏、道路に棄てられた馬糞が乾燥してほこりになり、空中にとびまわる、それを呼吸しているうちに、いつのまにか、肉が落ち、咳が出るようになってしまった。気候が悪いのだ。その間、一年半ばかりのうちに彼は、ロシア人を殺し、ついにはまた自分も殺された幾人かの同年兵を目撃していた。彼自身も人を殺したことがあった。唇を曲げて泣き出しそうな顔をしている蒼白い青年だった。赭いひげが僅かばかり生えかけていた。自分の前に倒れているその男を見ると、別に憎くもなければ、恨を持っているのでもないことが、始めて自覚された。それが不思議なことのように思われた。そして、こういうことは、自分の意志に反して、何者かに促されてやっているのだ。――ひそかに、そう感じたものだ。
嗄れた、そこらあたりにひびき渡るような声で喋っていた吉原が、木村の方に向いて、
「君はいい口実があるよ。――病気だと云って診断を受けろよ。そうすりゃ、今日、行かなくてもすむじゃないか。」
「血でも咯くようにならなけりゃみてくれないよ。」
「そんなことがあるか!――熱で身体がだるくって働けないって云やいいじゃないか。」
「なまけているんだって、軍医に怒られるだけだよ。」木村は咳をした。「軍医は、患者を癒すんじゃなくて、シベリアまで俺等を怒りに来とるようなもんだ。」
吉原は眼を据えてやりきれないというような顔をした。
「おい、もう帰ろうぜ。」
安部が云った。
中隊の兵舎から、準備に緊張したあわただしい叫びや、叱咤する声がひびいて来た。
「おい、もう帰ろうぜ。」安部が繰かえした。「どうせ行かなきゃならんのだ。」
空気が動いた。そして脂肪や、焦げパンや、腐った漬物の悪臭が、また新しく皆の鼻孔を刺戟した。
「二度診断を受けたことがあるんだが。」そう云って木村は咳をした。「二度とも一週間の練兵休で、すぐまた、勤務につかせられたよ。」
「十分念を入れてみて貰うたらどうだ。」
「どんなにみて貰うたってだめだよ。」
そしてまた咳をした。
「おい。みんな何をしているんだ!」入口から特務曹長がどなった。「命令が出とるんが分らんのか! 早く帰って準備をせんか!」
「さ、ブウがやって来やがった。」
四
数十台の橇が兵士をのせて雪の曠野をはせていた。鈴は馬の背から取りはずされていた。
雪は深かった。そして曠野は広くはてしがなかった。
滑桁のきしみと、凍った雪を蹴る蹄の音がそこにひびくばかりであった。それも、曠野の沈黙に吸われるようにすぐどこかへ消えてしまった。
ペーターの息子、イワン・ペトロウイチが手綱を取っている橇に、大隊長と副官とが乗っていた。鞭が風を切って馬の尻に鳴った。馬は、滑らないように下面に釘が突出している氷上蹄鉄で、凍った雪を蹴って進んだ。
大隊長は、ポケットに這入っている俸給について胸算用をしていた。――それはつい、昨日受け取ったばかりなのであった。
イワンは、さきに急行している中隊に追いつくために、手綱をしゃくり、鞭を振りつづけた。橇は雪の上に二筋の平行した滑桁のあとを残しつつ風のように進んだ。イワンのあとに他の二台がつづいていた。それにも将校が乗っている。土地が凹んだところへ行くと、橇はコトンと落ちこんだ。そしてすぐ馬によって平地へ引き上げられた。一つが落ちこむと、あとのも、つづいて、コトンコトンと落ちては引き上げられた。滑桁の金具がキシキシ鳴った。
「ルー、ルルル。……」
イワンは、うしろの馭者に何か合図をした。
大隊長は、肥り肉の身体に血液がありあまっている男であった。ハムとべーコンを食って作った血だ。
「ええと、三百円のうち……」彼は、受取ったすぐ、その晩――つまり昨夜、旧ツアー大佐の娘に、毎月内地へ仕送る額と殆ど同じだけやってしまったことを後悔していた。今日戦争に出ると分っていりゃ、やるのではなかった。あれだけあれば、妻と老母と、二人の子供が、一ヵ月ゆうに暮して行けるのだ!――しかし、彼は大佐の娘の美しさと、なまめかしさに、うっとりして、今ポケットに残してある札も、あとから再び取り出して、おおかたやってしまおうとしていたことは思い出さなかった。
「近松少佐!」
大隊長は胸算用をつづけた。彼にはうしろからの呼声が耳に入らなかった。ほんとに馬鹿なことをしたものだ。もうポケットにはどれだけが程も残っていやしない!
「近松少佐!」
「大隊長殿、中佐殿がおよびです。」
副官が云った。
耳のさきで風が鳴っていた。イワン・ペトロウイチは速力をゆるめた。彼の口ひげから眉にまで、白砂糖のような霜がまぶれついていた。「近松少佐! あの左手の山の麓に群がって居るのは何かね。」
「……?」
大隊長にはだしぬけで何も見えなかった。
「左手の山の麓に群がってるのは敵じゃないかね。」
「は。」
副官は双眼鏡を出してみた。
「……敵ですよ。大隊長殿。……なんてこった、敵前でぼんやり腹を見せて縦隊行進をするなんて!」絶望せぬばかりに副官が云った。
「中隊を止めて、方向転換をやらせましょうか。」
しかし、その瞬間、パッと煙が上った。そして程近いところから発射の音がひびいた。
「お――い、お――い」
患者が看護人を呼ぶように、力のない、救を求めるような、如何にも上官から呼びかける呼び声らしくない声で、近松少佐は、さきに行っている中隊に叫びかけた。
中隊の方でも、こちらと殆んど同時に、左手のロシア人に気づいたらしかった。大隊長が前に向って叫びかけた時、兵士達は、橇から雪の上にとびおりていた。
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