七
少佐は、松木にとって、笑ってすませる競争者ではなかった。
二人が玄関から這入って行った、丁度その時、少佐は勝手口から出て来た。彼は不機嫌に怒って、ぷりぷりしていた。十八貫もある、でっぷり肥った、髯のある男だ。彼の靴は、固い雪を蹴散らした。いっぱいに拡がった鼻の孔は、凍った空気をかみ殺すように吸いこみ、それから、その代りに、もうもうと蒸気を吐き出した。
彼は、屈辱(!)と憤怒に背が焦げそうだった。それを、やっと我慢して押しこらえていた。そして、本部の方へ大股に歩いて行った。……途中で、ふと、彼は、踵をかえした。
つい、今さっきまで、松木と武石とが立っていた窓の下へ少佐は歩みよった。彼は、がん丈で、せいが高かった。つまさきで立ち上らずに、カーテンの隙間から部屋の中が見えた。
そこには、二人の一等卒が、正宗の四合壜を立てらして、テーブルに向い合っていた。ガーリヤは、少し上気したような顔をして喋っている。白い歯がちらちらした。薄荷のようにひりひりする唇が微笑している。
彼は、嫉妬と憤怒が胸に爆発した。大隊を指揮する、取っておきのどら声で怒なりつけようとした。その声は、のどの最上部にまで、ぐうぐう押し上げて来た。
が、彼は、必死の努力で、やっとそれを押しこらえた。そして、前よりも二倍位い大股に、聯隊へとんで帰った。
「女のところで酒をのむなんて、全くけしからん奴だ!」
営門で捧げ銃をした歩哨は何か怒声をあびせかけられた。
衛兵司令は、大隊長が鞭で殴りに来やしないか、そのひどい見幕を見て、こんなことを心配した位いだった。
「副官!」
彼は、部屋に這入るといきなり怒鳴った。
「副官!」
副官が這入って来ると、彼は、刀もはずさず、椅子に腰を落して、荒い鼻息をしながら、
「速刻不時点呼。すぐだ、すぐやってくれ!」
「はい。」
「それから、炊事場へ露西亜人をよせつけることはならん。残飯は一粒と雖も、やることは絶対にならん。厳禁してくれ。」
「はい。」
「よし、それだけだ。」
副官が、命令を達するために、次の部屋へ引き下ると、彼はまた叫んだ。
「副官!」
「はい。」
「この点呼に、もしもおくれる者があったら、その中隊を、第一中隊の代りに、イイシ守備に行かせること、そうしてくれ、罰としてここには置かない。そうするんだ。――すぐだ、速刻やってくれ!」
八
一隊の兵士が雪の中を黙々として歩いて行った。疲れて元気がなかった。雪に落ちこむ大きな防寒靴が、如何にも重く、邪魔物のように感じられた。
雪は、時々、彼等の脛にまで達した。すべての者が憂欝と不安に襲われていた。中隊長の顔には、焦慮の色が表われている。
草原も、道も、河も悉く雪に蔽われていた。
枝に雪をいただいて、それが丁度、枝に雪がなっているように見える枯木が、五六本ずつ所々に散見する外、あたりには何物も見えなかった。どこもかしこも、すべて、まぶしく光っている白い雪ばかりだった。そして、何等の音も、何等の叫びも聞えなかった。ばりばり雪を踏み砕いて歩く兵士の靴音は、空に呑まれるように消えて行った。
彼等は、早朝から雪の曠野を歩いているのであった。彼等は、昼に、パンと乾麺麭をかじり、雪を食ってのどを湿した。
どちらへ行けばイイシに達しられるか!
右手向うの小高い丘の上から、銃を片手に提げ、片手に剣鞘を握って、斥候が馳せ下りて来た。彼は、銃が重くって、手が伸びているようだった。そして、雪の上にそれを引きずりながら、馳せていた。松木だった。
彼は、息を切らし、中隊長の傍まで来ると、引きずっていた銃を如何にも重そうに持ち上げて、「捧げ銃」をした。彼の手は凍って、思う通りに利かなかった。銃は、真直に、形正しく、鼻のさきへ持ち上げることが出来なかった。
中隊長は、不満げに、彼を睨んだ。「も一度。そんな捧げ銃があるか!」その眼は、そう云っているようだった。
松木は、息切れがして、暫らくものを云うことが出来なかった。鼻孔から、喉頭が、マラソン競走をしたあとのように、乾燥し、硬ばりついている。彼は唾液を出して、のどを湿そうとしたが、その唾液が出てきなかった。雪の上に倒れて休みたかった。
「どうしたんだ?」
中隊長は腹立たしげに眼に角立てた。
「道が、どうしても、」松木は息切れがして、つづけてものを云うことが出来なかった。「どうしても、分らないんであります。」
「露助は、どうしてるんだ。」
「はい。スメターニンは、」また息切れがした。「雪で見当がつかんというのであります。」
「仕様がない奴だ。大きな河があって、河の向うに、樅の林がある。そういうところは見つからんか、そこへ出りゃ、すぐイイシへ行けるんだ。」
「はい。」
「露助にやかましく云って案内さして見ろ!」
中隊長は歩きながら、腹立たしげに、がみがみ云った。「場合によっては銃剣をさしつけてもかまわん。あいつが、パルチザンと策応して、わざと道を迷わしとるのかもしれん。それをよく監視せにゃいかんぞ!」
「はい。」
松木は、若し交代さして貰えるかと、ひそかにそんなことをあてにして、暫らく中隊長の傍を並んで歩いていた。
彼は蒼くなって居た。身体中の筋肉が、ぶちのめされるように疲れている。頭がぼんやりして耳が鳴る。
だが、中隊長は、彼を休ませようとはしなかった。
「おい行くんだ。もっとよく探して見ろ!」
ふらふら歩いていた松木は、疲れた老馬が鞭のために、最後の力を搾るように、また、銃を引きずって、向うへ馳せ出した。
「おい、松木!」中隊長は呼び止めた。「道を探すだけでなしに、パルチザンがいやしないか、家があるか、鉄道が見えるか、よく気をつけてやるんだぞ。」
「はい。」
斥候は、やがて、丘を登って、それから向うの谷かげに消えてしまった。そこには武石と、道案内のスメターニンとが彼を待っていた。
松木と武石とは、朝、本隊を出発して以来つづけて斥候に出されているのであった。
中隊長は、不機嫌に、二人に怒声をあびせかけた。
「中隊がイイシ守備に行かなけりゃならんのは誰れのためだと思うんだ! お前等、二人が脱柵して女のところで遊びよったせいじゃないか!」彼は、心から怒っているような眼で二人をにらみつけた。「中隊長は、皆んなを危険なところへは曝しとうない。中隊が可愛いいんだ。それを、危険なところへ行かなけりゃならんようにしたのは、貴様等二人だぞ! 軍人にあるまじきことだ!」
そして二人は骨の折れる、危険な勤務につかせられた。
松木と武石とは、雪の深い道を中隊から十町ばかりさきに出て歩いた。そして見た状勢を、馳け足で、うしろへ引っかえして報告した。報告がすむと、また前に出て行くことを命じられた。雪は深く、そしてまぶしかった。二人は常に、前方と左右とに眼を配って行かなければならなかった。報告に、息せき息せき引っかえすたびに、中隊長は、不満げに、腹立たしそうな声で何か欠点を見つけてどなりつけた。
雪の上に腰を落して休んでいた武石は、
「まだ交代さしてくれんのか。」ときいた。
「ああ。」松木の声にも元気がなかった。
「弱ったなア――俺れゃ、もうそこで凍え死んでしまう方がましだ!」
武石は泣き出しそうに吐息をついた。
二人は、スメターニンと共に、また歩きだした。丘を下ると、浅い谷があった。それから、緩慢な登りになっていた。それを行くと、左手には、けわしい山があった。右には、雪の曠野が遥か遠くへ展開している。
山へ登ってみよう、とスメターニンが云いだした。山から見下せば地理がはっきり分るかもしれなかった。それには、しかし、中隊が麓へ到着するまでに登って、様子を見て、おりてきなければならなかった。そうしなければ、また中隊長がやかましく云うのだ。
山のひだは、一層、雪が深かった。松木と武石とは、銃を杖にしてよじ登った。そこには熊の趾跡があった。それから、小さい、何か分らぬ野獣の趾跡が到るところに印されていた。蓬が雪に蔽われていた。灌木の株に靴が引っかかった。二人は、熱病のように頭がふらふらした。何もかも取りはずして、雪の上に倒れて休みたかった。
山は頂上で、次の山に連っていた。そしてそれから、また次の山が、丁度、珠数のように遠くへ続いていた。
遠く彼方の地平線まで白い雪ばかりだ。スメターニンはやはり見当がつかなかった。
中隊は、丘の上を蟻のように遅々としてやって来ていた。それは、広い、はてしのない雪の曠野で、実に、二三匹の蟻にも比すべき微々たるものであった。
「どっちへでもいい、ええかげんで連れてって呉れよ。」二人はやけになった。
「あんまり追いたてるから、なお分らなくなっちまったんだ。」
スメターニンは、毛皮の帽子をぬいで額の汗を拭いた。
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