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渦巻ける烏の群(うずまけるからすのむれ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 6:15:52  点击:  切换到繁體中文


   五

 吉永の中隊は、大隊から分れて、イイシへ守備に行くことになった。
 HとSとの間に、かなり広汎こうはんな区域に亘って、森林地帯があった。そこには山があり、大きな谷があった。森林の中を貫いて、河が流ていた。そのあたりの地理は詳細には分らなかった。
 だが、そこの鉄橋は始終破壊された。枕木はいつの間にか引きぬかれていた。不意に軍用列車が襲撃された。
 電線は切断されづめだった。
 HとSとの連絡は始終断たれていた。
 そこにパルチザンの巣窟があることは、それで、ほぼ想像がついた。
 イイシへ守備中隊を出すのは、そこの連絡を十分にするがためであった。
 吉永は、松木の寝台の上で私物をまとめていた。炊事場を引き上げて、中隊へ帰るのだ。
 彼は、これまでに、しばしば危険に身をさらしたことを思った。
 弾丸に倒れ、眼を失い、腕を落した者が、三人や四人ではなかった。
 彼と、一緒に歩哨に立っていて、夕方、不意に、胸から血潮をほとばしらして、倒れた男もあった。坂本という姓だった。
 彼は、その時の情景をいつまでもまざまざと覚えていた。
 どこからともなく、誰れかに射撃されたのだ。
 二人が立っていたのは山際だった。
 交代の歩哨は衛兵所から列を組んで出ているところだった。もう十五分すれば、二人は衛兵所へ帰って休めるのだった。
 夕日が、あかあかと彼方の地平線に落ちようとしていた。牛や馬の群が、背に夕日をあびて、草原をのろのろ歩いていた。十月半ばのことだ。
 坂本は、
「腹がへったなあ。」と云ってあくびをした。
「内地に居りゃ、今頃、野良からくわをかついで帰りよる時分だぜ。」
「あ、そうだ。もう芋を掘る時分かな。」
「うむ。」
「ああ、芋が食いたいなあ!」
 そして坂本はまたあくびをした。そのあくびが終るか終らないうちに、彼は、ぱたりと丸太を倒すように芝生の上に倒れてしまった。
 吉永は、とび上った。
 も一発、弾丸が、彼の頭をかすめて、ヒウとうなり去った。
「おい、坂本! おい!」
 彼は呼んでみた。
 軍服が、どす黒い血に染った。
 坂本はただ、「うう」と唸るばかりだった。
 内地を出発して、ウラジオストックへ着き、上陸した。その時から、既に危険は皆の身に迫っていたのであった。
 機関車は薪をいていた。
 彼等は四百里ほど奥へ乗りこんで行った。時々列車からおりて、鉄砲で打ち合いをやった。そして、また列車にかえって、飯を焚いた。薪がくすぶった。冬だった。機関車は薪がつきて、しょっちゅう動かなくなった。彼は二カ月間顔を洗わなかった。向うへ着いた時には、まるで黒ン坊だった。息が出来ぬくらいの寒さだった。そして流行感冒がはやっていた。兵営の上には、向うの飛行機が飛んでいた。街には到るところ、赤旗が流れていた。
 そこでどうしたか。結局、こっちの条件が悪く、負けそうだったので、持って帰れぬ什器じゅうきを焼いて退却した。赤旗が退路を遮った。で、戦争をした。そして、また退却をつづけた。赤旗は流行感冒のように、到るところに伝播でんぱしていた。また戦争だ。それからどうしたか?……
 雪解の沼のような泥濘でいねいの中に寝て、戦争をしたこともあった。頭の上から、機関銃をあびせかけられたこともあった。
 吉永は、自分がよくもこれまで生きてこられたものだと思った。一尺か二尺、自分の立っていた場所が横へそれていたら、死んでいるかもしれないのだ。
 これからだって、どうなることか、分るものか! 分るものか! 俺が一人死ぬことは、誰れもとも思っていないのだ。ただ、自分のことを心配してくれるのは、村で薪出しをしているおふくろだけだ。
 彼は、お母がこしらえてくれた守り袋を肌につけていた。新しい白木綿で縫った、かなり大きい袋だった。それが、あかや汗にしみて黒く臭くなっていた。彼は、それを開けて、新しい袋を入れかえようと思った。彼は、袋をはさみで切り開けた。お守りが沢山慾張って入れてある。金刀比羅宮ことひらぐう男山八幡宮おとこやまはちまんぐう、天照皇大神宮、不動明王、妙法蓮華経、水天宮。――母は、多ければ多いほど、御利益があると思ったのだろう! それ等が、殆んど紙の正体が失われるくらいにすり切れていた。――まだある。別に、紙に包んだ奴が。彼はそれを開けてみた。そこには紙幣が入っていた。五円札と、五十銭札と、一円札とが合せて十円ぐらい入っている。母が、薪出しをしてためた金を内所ないしょで入れといてくれたのだろう。
「おい、おい。お守りの中から金が出てきたが。」
 吉永は嬉しそうに云った。
「何だ。」
「お守りの中から金が出てきたんだ。」
「ほんとかい。」
「嘘を云ったりするもんか。」
「ほう、そいつぁ、もうけたな。」
 松木と武石とが調理台の方からんで来た。
 札も、汗と垢とで黒くなっていた。
「どれどれ、内地の札だな。」松木と武石とはなつかしそうに、それを手に取って見た。「内地の札を見るんは久しぶりだぞ。」
「お母が多分内所で入れてくれたんだ。」
「それをまた今まで知らなかったとは間がぬけとるな。……全く儲けもんだ。」
「うむ、儲けた。……半分わけてやろう。」
 吉永は、自分が少くとも、明後日は、イイシへ行かなければならないことを思った。雪の谷や、山を通らなければならない。そこにはパルチザンがいる。また撃ち合いだ。生命がどうなるか。誰れが知るもんか! 誰れが知るもんか!

   六

 松木は、酒保から、あんパン、砂糖、パインアップル、煙草などを買って来た。
 晩におそくなって、彼は、それを新聞紙に包んで丘を登った。石のように固くてついている雪は、靴にかちかち鳴った。空気は鼻を切りそうだ。彼は丘を登りきると、今度は向うへ下った。丘の下のあの窓には、灯がともっていた。人かげが、硝子戸ガラスどの中で、ちらちら動いていた。
 彼は歩きながら云ってみた。
「ガーリヤ。」
「ガーリヤ。」
「ガーリヤ。」
「あんたは、なんて生々しているんだろう。」
 さて、それを、ロシア語ではどう云ったらいいかな。
 丘の下でどっか人声がするようだった。三十すぎの婦人の声だ。それに一人は日本人らしい。何を云っているのかな。彼はちょいと立止まった。なんでも声が、ガーリヤの母親に似ているような気がした。が、声は、もうぷっつり聞えなかった。すると、まもなくすぐそこの、今まで開いていた窓に青いカーテンがさっと引っぱられた。
「おや、早や、寝る筈はないんだが……」彼はそう思った。そして、鉄条網をくぐりぬけ、窓の下へしのびよった。
「今晩は、――ガーリヤ!」
 ――彼が窓に届くように持って来ておいた踏石がとりのけられている。
「ガーリヤ。」
 砕かれた雪の破片が、彼の方へとんで来た。彼の防寒外套がいとうの裾のあたりへぱらぱらと落ちた。雪はまたとんできた。彼の背にあたった。でも彼は、それに気づかなかった。そして、じいっと、窓を見上げていた。
「ガーリヤ!」
 彼は、上に向いて云った。星が切れるように冴えかえっていた。
「おい、こらッ!」
 さきから、雪を投げていた男が、うしろの白樺のかげから靴をならしてとび出て来た。武石だった。
 松木は、ぎょっとした。そして、新聞紙に包んだものを雪の上へ落しそうだった。
 彼は、し将校か、或は知らない者であった場合には、何もかも投げすてて逃げ出そうと瞬間に心かまえたくらいだった。
「また、やって来たな。」武石は笑った。
「君かい。おどかすなよ。」
 松木は、暫らく胸がどきどきするのが止まらなかった。彼は、武石だと知ると同時に、吉永から貰った金で、すぐさま、女の喜びそうなものを買って来たことをきまり悪く思った。「砂糖とパイナップルは置いて来ればよかった。」
「誰れかさきに、ここへ来た者があるんだ。」と武石が声を落して窓の中を指した。「俺れゃ、君が這入ったんかと思うて、ここで様子を伺うとったんだ。」
「誰れだ?」
「分らん。」
「下士か、将校か?」
「ぼっとしとって、それが分らないんだ。」
誰奴どいつかな。」
「――中に這入って見てやろう。」
「よせ、よせ、……帰ろう。」
 松木は、若し将校にでも見つかると困る、――そんなことを思った。
「このまま帰るのは意気地がないじゃないか。」
 武石は反撥はんぱつした。彼は、ガンガン硝子戸を叩いた。
「ガーリヤ、ガーリヤ、今晩はズラシテ!」
 次の部屋から面倒くさそうな男の声がひびいた。
「ガーリヤ!」
「何だい。」
 ウラジオストックの幼年学校を、今はやめている弟のコーリヤが、白い肩章のついた軍服を着てカーテンのかげから顔を出した。
「ガーリヤは?」
「用をしてる。」
「一寸来いって。」
「何です? それ。」
 コーリヤは、松木の新聞包を見てたずねた。
「こら酒だ。」松木が答えないさきに、武石が脚もとから正宗の四合びんを出して来た。「沢山いいものを持って来とるよ。」
 武石は、包みの新聞紙を引きはぎ、硝子戸の外から、罎をコーリヤの眼のさきへつき出した。松木は、その手つきがものなれているなと思った。
呉れダワイ。」コーリヤは手を動かした。
 でも、その手つきにいつものような力がなく、途中で腰を折られたようにくじけた。いつも無遠慮なコーリヤに珍らしいことだった。
 武石も、物を持って来て、やっているんだな、と松木は思った。じゃ、自分もやることは恥かしくない訳だ。彼はコーリヤが遠慮するとなおやりたくなった。
「さ、これもやるよ。」彼は、パイナップルの鑵詰かんづめを取出した。
 コーリヤはもじもじしていた。
「さ、やるよ。」
「有がとう。」
 顔にどっか剣のある、それで一寸沈んだ少年が、武石には、面白そうな奴だと思われた。
「もっとやろうか。」
 少年は呉れるものは欲しいのだが、貰っては悪いというように、遠慮していた。
「煙草と砂糖。」松木は、窓口へさし上げた。
「有がとう。」
 コーリヤが、窓口から、やったものを受取って向うへ行くと、
「きっと、そこに誰れか来とるんだ。」と、武石は、小声で、松木にささやいた。
「誰れだな、俺れゃどうも見当がつかん。」
「這入りこんで現場を見届けてやろう。」
 二人は耳をすました。二つくらい次の部屋で、何か気配がして、開けたてに扉がきしる音が聞えてきた。サーベルのさやが鳴る。武石は窓枠に手をかけて、よじ上り、中をのぞきこんだ。
「分るか。」
「いや、サモ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ールがじゅんじゅんたぎっとるばかりだ。――ここはまさか、娘を売物にしとる家じゃないんだろうな。」
 コーリヤがドアのかげから現れて来た。窓から屋内へ這入ろうとするかのように、よじ上っている武石を見ると、彼は急に態度をかえて、
「いけない! いけない!」叱るように、かすれた幅のある声を出した。
 武石は、突然、その懸命な声に、自分が悪いことをしているような感じを抱かせられ、窓からすべちた。
 コーリヤは、窓の方へ来かけて、途中、ふとあとかえりをして、扉をぴしゃっと閉めた。暫らく二人は窓の下にたたずんでいた。丘の上の、雪におおわれた家々には、灯がきらきら光っていた。武石は、そこにも女がいることを思った。吉永が、温かい茶をのみながら、リーザと名残を惜んでいるかも知れない。やせぎすな、小柄なリーザに、イイシまで一緒に行くことをすすめているだろう。多分、彼も、何かリーザが喜びそうなものを買って持って行っているのに違いない。武石は、小皺こじわのよった、人のよさそうな、吉永の顔を思い浮べた。そして、自から、ほほ笑ましくなった。――吉永は、危険なイイシ守備に行ってしまうのだ。
 丘の上のそこかしこの灯が、カーテンにさえぎられ、ぼつぼつ消えて行った。
「お休み。」
 一番手近の、グドコーフの家から、三四人同年兵が出て行った。歩きながら交す、その話声が、丘の下までひびいて来た。兵営へ帰っているのだ。
 不意に頭の上で、響きのいい朗らかなガーリヤの声がした。二人は、急に、それでよみがえったような気がした。
「ばあ!」彼女は、硝子戸ガラスどの中から、二人に笑って見せた。「いらっしゃい、どうぞ。」
 玄関から這入ると、松木は、食堂や、寝室や、それから、も一つの仕事部屋をのぞきこんだ。
「誰れが来ていたんです?」
少佐マイヨール。」
「何?」二人とも言葉を知らなかった。
「マイヨールです。」
「何だろう。マイヨールって。」松木と武石とは顔を見合わした。「寄ると解釈すりゃ、ダンスでもする奴かな。」

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