ここにまた一種の他のアモーラリストがある。それは世界をあるがままに肯定するために悪の存在を認めない人々である。凡そ存在するものは皆善い。一として排斥すべきものは無い。姦淫も殺生もすでに許されて此の世界に存在する以上は、善いものであるに相違ないと云ふのである。この全肯定の気持は深い宗教的意識である。私もその無礙の自由の世界を私の胸の内に実有することを最終の願望としてゐるものである。併しそれは決してアモーラルな心持からではない。世界をそのあるがままの諸相のままに肯定するといふのは、差別を消して一様なホモゲンなものとして肯定するのとは全く異なつてゐる。大小・美醜・善悪等の差別はそのまま残して、その全体を第三の絶対境から包摂して肯定するのである。その差別を残してこそ、あるがままと云へるのである。ブレークが「神の造り給うたものは皆善い」と云つたのは、後の意味での自由の地からである。ニイチェの願つた如く「善悪の彼方の岸」に出づることは、決して善悪の感じを薄くして消すことによつて達せられるのではなく、却つてその対立を益※峻しくし、その特質をドイトリッヒに発揮せしめて後に、両者を含むより高き原理で包摂することによつて成就するのである。天国と地獄とが造り主の一の愛の計画として収められるのである。善を追ひ悪を忌む性質は益※強くならねばならぬ。姦淫や殺生は依然として悪である。ただその悪も絶対的なものではなく、「赦し」を通して救はれることができ、善と相並んで共に世界の調和に仕へるのである。併しその「赦し」といふのは悪に対して無頓著なインダルゼンスとは全く異なり、悪の一点一画をも見遁さず認めて後に、そのいまはしき悪をも赦すのである。「七度を七十倍するまで赦せ」と教へた耶蘇は、「一つの眼汝を罪に堕さば抜き出して捨てよ」と誡めた同じ人である。「罪の価は死なり」とある如く、罪を犯せば魂は必ず一度は死なねばならぬ。魂は、さながら面を裹む皇后がいかなる小さき侮辱にも得堪へぬやうに、一点の汚みにも恥ぢて死ぬほど純潔なものである。モンナが夫に貞操を疑はれた時に、「私の眼を見て下さい」と云ふところがあるが、私は彼処を読む時に実に純潔な感じがした。裁かぬといふのは尊い徳である。併しこれと似て而も最も嫌なのはズボラ(indulgence)である。好人物といふ感じを与へる人にはこのズボラが多い。『アンナ・カレンナ』の中のオブロンスキーのやうな人がそれである。オブロンスキーは好人物である。誰も憎む気にはなれない。併しその妻の心はどれほど傷つくか知れない。かやうな人は悪意なくして実に最も他人の運命を損じるエゴイスティックな生き方をしてゐるのである。ゲレヒティヒカイトの盛んな人は裁く心も強い。そして鋭いといふ感じを他人に与へる。裁くのは素より悪い、その鋭さは天に属するものではない。併しズボラより遥かに増しである。何となれば、その鋭さは真の赦しの徳を得た人には深いレリヂァスなものとなるけれど、ズボラは真の赦しの心と一見似て実は最も遠いものだからである。凡そ宗教には二つの要素が欠けてはならない。一はいかなる微細な罪をも見遁さず裁くこと、一はいかなる極悪をも赦すことである。この矛盾を一つの愛に包摂したのが信心である。キリストの説教にはこの二つの要素が鮮かに現はれてゐる。
私は飽くまでも善くなりたい。私は私の心の奥に善の種のあるのを信じてゐる。それは造り主が蒔いたのである。私は真宗の一派の人々のやうに、人間を徹頭徹尾悪人とするのは真実のやうに思へない。人間には何処かに善の素質が備はつてゐる。親鸞が自らを極重悪人と認めたのもこの素質あればこそである。自分の心を悪のみと宣べるのは、善のみと宣べるのと同じく一種のヒポクリシーである、偽悪である。その上私はかく宣べるのは何者かに対して済まないやうな気がする。私はかやうな問題について考へる度に、何となく胸の底で「否定の罪」とでもいふやうな宗教的な罪の感じがする。凡そ存在するものはでき得る限り否定しないのが本道である。造られたるものの造り主に対する務めである。私の魂は果して私の私有物であらうか。或は神の所有物ではあるまいか。私は、魂の深い性質の内には、自分の自由にならない、或る公けなもの、或る普遍なもの、自己意識を越えて能(はたら)く堂々たる力があるやうな気がする。私たちの善・悪の意識に内在するあの永遠性は何処から来るのであらうか。或は造り主の属性(アツトリプート)が私たちの先天的の素質として顕はれるのではあるまいか。「魂は聖霊の宮なり。」といふのはかやうな気持をいふのではあるまいか。その公けな部分を悪しざまに言ふことは、自分の持物を罵るやうにはできない気がする。「聖霊に対する罪」といふやうな気がする。「私たちの魂は悪のみなり」と宣べる時、私たちは他人のもの、造り主のものを罵つてはゐないであらうか。私は寄席に行つて彼の「話し家」が自分の容貌や性質を罵り、甚しきは扇子を以て己れの頭を打つて客を笑はせようと努めるのを見る時に、他人のをさうしたよりも一層深い罪のやうな感じがする。私は、私の魂は悪しと無下に言ひ放つのはそれと似た不安な感じがして好ましくない。やはり私は、私たちは本来神の子なのが悪魔に誘惑せられて悩まされてゐる、それで魂の内には二元が混在するけれども、結局善の勝利に帰するといふやうな聖書の説明の方が心に適ひ、又事実に近い気がする。私たちの魂は善悪の共棲の家であり、そして悪の方が遥かに勢力を逞しくしてゐる。併し心を深く省みれば、二つのものには自ら位の差が附いてゐる。善は君たるの品位を備へて臨んでゐる。さながら幼い皇帝が逆臣の群れに囲まれてゐるにも似てゐる。私たちの魂には或る品位がある。落ちぶれてはゐても名門の種といふやうな気がする。昔は天国に居たのが、悪魔に誘はれて今は地上に堕ちて居るといふのは、よくこの気持を説明してゐる。私たちは堕ちたる神の子である、心の底には天国の俤のおぼろなる思ひ出が残つてゐる。それはふる郷を慕ふやうなあくがれの気持となつて現はれる。私たちが地上の悲しみに濡れて天に輝く星をながめる時、私たちの魂は天つふる郷へのゼーンズフトを感じないであらうか? 私は私たちの魂がこの悪の重荷から一生脱することができないのは何故であらうかと考へる時、それは課せられたる刑罰であるといふ、トルストイやストリンドベルヒ等の思想が、今までの思想のうちでは最も私を満足させる。その他の考へ方では天に対する怨嗟と不合理の感じから医せられることはできない。「ああ私は私が知らない昔悪い事をしたのだ、その報いだ」かう思ふと、自ら跪かれる心地がする。「夫れ太初に道(ことば)あり、万の物これに由りて創らる。」とヨハネ伝の首(はじめ)に録されたる如く、世界を支へる善・悪の法則を犯せば必ず罰がなくてはなるまい。是れ中世の神学者の云つた如く、神の自律でもあらう。私たちの罪は償はれなくてはならない。併し百の善行も、一つの悪行を償ふことはできない。私たちは善行で救はれることはできない。救ひは他の力に依る。善行の功に依らず愛に依つて赦されるのである。宗教の本質はその赦しにある。併し善くならうとする祈りがないならば、己れの罪の深重なることも、その赦されの有り難さも解りはしないであらう。例へば親鸞が人間の悪行の運命的なることを感じたのは、永き間の善くならうとする努力が、積んでも積んでも崩れたからである。比叡山から六角堂まで雪ふる夜の山道を百日も日参した程の親鸞なればこそ、法然上人に遇つた時即座に他力の信念が腹に入つたのである。その時赦されの有り難さがいかに沁々と感ぜられたであらうか。思ひやるだに尊い気がする。私は親鸞の念仏を善くならうとする祈りの断念とよりも、その成就として感ずる。彼は念仏によつて成仏することを信じて安住したのである。彼が「善悪の字知り顔に大虚言の貌なり」と云つたのは、何々するは善、何々するは悪といふやうに概念的に区別することはできないと云つたのである。善悪の感じそのものを否定したのではない。彼は善悪の感じの最も鋭い人であつた。故に仏を絶対に慈悲に、人間を絶対に悪に、両者をディスティンクトに峻別せねば止まなかつたのである。
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