青春をいかに生きるか |
角川文庫、角川書店 |
1953(昭和28)年9月30日、1967(昭和42)年6月30日43版 |
1981(昭和56)年7月30日改版25版 |
1983(昭和58)年6月20日改版27版 |
今日の社会状態において、婦人を家庭へ閉じこめて、社会の生活戦線における職業に進出することを防ぐことは不可能である。このことはたとい理想的社会が実現されたる暁においても、当為としての法則として、婦人の就職を妨げるいわれはない。婦人も男子と同じく、その天分にしたがって、社会生活の職分を分担すべきである。それによって生活の充実と向上とまた個性の発展とをはかるべきである。実際今日においては職業婦人は有閑婦人よりも、その生命の活々しさと、頭脳の鋭さと、女性美の魅力さえも獲得しつつあるのである。われわれの日常乗るバスの女車掌でさえも有閑婦人の持たない活々した、頭と手足の働きからこなされて出た、弾力と美しさをもっている。働かない婦人はだんだんと頭と心の動きと美しさとにおいて退歩しつつあるように見える。女優や、音楽家や、画家、小説家のような芸術的天分ある婦人や、科学者、女医等の科学的才能ある婦人、また社会批評家、婦人運動実行家等の社会的特殊才能ある婦人はいうまでもなく、教員、記者、技術家、工芸家、飛行家、タイピストの知能的職業方面への婦人の進出は著しいものであるが、これらは将来理想的社会においても抑止さるべき理由はないであろう。
しかしながら婦人の職業的進出がそのまま婦人の生活向上、幸福増進の指標であると考えることはできない。今日の婦人の職業的進出は一面たしかに婦人の生活欲望の開発と拡充との線にそえるものではあるが、他面においては生活のための余儀なき催促によるものである。男子が独力で妻子を養うことができないための共稼ぎの必要によるものである。適当の収入さえあれば、夫への心をこめた奉仕と、子どもの懇ろなる養育と、家庭内の労働と団欒とを欲する婦人が生計の不足のためにやむなく子供を託児所にあずけて、夫とともに家庭を留守にして働くのである。婦人には月々の生理週間と妊娠と分娩後の静養と哺乳との、男子にはない特殊事情がある。これは自然が婦人に課したる特殊負荷であって厳粛なものでありこれがある以上、決して、職業の問題について、男子と婦人とを同一に考えるべきものではない。この意味においては、われわれは蘇露のコロンタイ女史の如く、一にも二にも託児所主義であって、男子も婦人も家庭外に出て働くのが理想的であるという考え方にはとうてい賛成できない。
子どもの哺乳と養育とは母親にとって、もっと重く関心と、心遣いせらるべきものである。動物的、本能的愛護と、手足の労働による世話と、犠牲的奉仕とが母性愛と母子間の従属、融合の愛と理解と感謝とに如何に大きな影響を持つかは思い半ばにすぎるものがある。人倫の根本愛の雛型である母子間の結紐を稀薄にすることが理想的社会の結合を暖かく、堅くするとはどうしても思われない。婦人は少なくとも三人や、四人の子どもは産んでくれねばならぬ。そして一人の子どもの哺乳や、添寝や、夜泣きや、おしっこの始末や、おしめの洗濯でさえも実に睡眠不足と過労とになりがちなものであるのに、一日外で労働して疲労して帰って、翌日はまた託児所にあずけて外出するというようなことで、果して母らしい愛育ができるであろうか。二十五、六歳で結婚するとして、相つぐ妊娠と分娩と哺乳と愛育とを考えれば、婦人と職業との問題は決して矛盾なく解決せらるべきものではない。子どものない婦人や独身婦人の場合は例外である。特殊な天才的才能を恵まれた婦人の場合も例外である。原則としては、理想的社会においては、普通の婦人は、自然が課したる母性としての特別任務をまず果して、それと両立し、少なくとも協定し得る限りにおいて、職業戦線に進出すべきものではあるまいか。
今日の社会では実に婦人は保護されていない。婦人としては男子の圧迫と戦うために職業戦線に出なければならない有様である。婦人の自由の実力を握るための職業進出である。婦人は母性愛と家庭とをある程度まで犠牲としても、自分を保護し、自由を獲得しなければならない事情がある。これは結局は社会改革と男性の矜りある自覚とにまたなければならない問題である。母性愛と職業との矛盾は国家の保護政策を抜きにして解決の道はない。元来子孫の維持と優生という男女協同の任務の遂行が、女子に特別な負荷を要求する以上、男子が女子を保護しなければならないのは当然のことである。しかるに今日においては国法は男子の利益においてきめられ社会は母性と、産児と、未亡人とを保護しない。妊娠すれば職を失わなくてはならぬ有様である。しかも共稼ぎしなくては子どもを養育できない。男子は独立して妻子を養い得ぬのが普通となり、といって婦人の職業進出はますます男子の職を奪い、その労働条件を低下せしめる。これは今日の社会制度を改革しない限りは初めから無理な相談である。子どもの素質は低下せざるを得ない。ここにおいて前回に述べた婦人の社会的関心というものが重要になるのである。一切の婦人は熱心に社会、国家の革新を要請し、そのために協力しなければならないのである。
しばらく社会改革を抜きにして考えるならば、職業と母性愛とをできる限り協定させるよりほかはない。結婚するまでの就職はもとよりいいであろう。それは真面目な社会的訓練と知識とを与える。しかし結婚とともに職をやめて夫の収入に依頼し得る境遇はますます減じつつある。強いてやっていけるにしても、それよりも就職して収入を増し、家庭の窮迫を救いたくなるであろう。そしてそのことはまた家庭の団欒と母性愛を損じる。
職業か結婚かの問題は普通の婦人の場合結婚せずして幸福であり得るはずはない。結婚生活の窮乏に堪え得られないなら、共稼ぎして、母性愛と育児とをある程度まで犠牲にしても結婚すべきである。オールドミスの職業婦人は特別な天才や、宗教的、事業的献身の場合のほかは見るも淋しく、惨めである。窮乏せる結婚生活が恋愛の墓場であるにしても、オールドミスの孤独地獄よりはなおまさっている。ヒステリーに陥らずに、瘠我慢の朗らかさを保ち得るものが幾人あろう。
(一九三五・三・二)
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