三 教養の読書と専門職能の読書
読書には人間教養のためのものと、社会において分担すべき職能のためのものとある。後者に関してはその種類が多様であるのと、技術知の習得に関するので、特に挙げてあげつらうことができない。ただこの場合において一、二の注意を述べるなら、職能に関する読書はその部門の全般にわたる鳥瞰が欠くべからざるものであるが、そのあいだにもおのずと自分の特に関心し、選ぶ種目への集注的傾向が必要である。何事かを好み、傾くということがそのことへの愛と練達との基礎だからである。「この一技につながる」という決意は人間的にも肝要なものである。またそれとともに、職能というものは真摯にラディカルに従事して行けば、必ず人生哲学的な根本問題に接触してくるものである。医者は生と、精神の課題に、弁護士は倫理と社会制度の問題に、軍人は民族と国際協同の問題に接触せずにはおられない。その最も適切の例証は、最近に結成せられた「産業技術連盟」の声明書である。それは純粋に専門的な技術家のみの結社であるが、技術は社会的・政治的問題と関連することなしには、その技術の任務と成果とをとげることができないと宣言しているのである。
かような事情である故、職能の習得のための読書もまた一般人生哲学的な課題のための読書と結びつかずにはおられないのである。
がここでは特に人間教養のための読書に重点をおいて説述したい。それは職能の何たるを問わず、何人もその人格完成を願い精進しなければならないからである。
私は青年学生が人生の重要問題に関する自らの「問い」をもって読書することをすすめたい。生に真摯であれば「問い」がないはずはない。そして「問い」こそ自発的に読書への欲求を促すものである。法然はその「問い」の故に比叡山で一切経をみたびも閲読したのである。
書物は星の数ほどある。しかしかような「問い」をもってたち向かうとき、これに適切に答え得る書物はそれほど多いものではないのである。むしろそのはなはだ少ないのに意外の感を持つであろう。
かくして「問い」はおのずと書物を選ばしめる。自らの「問い」なくして手当たり次第に読書することは、その割合いに効果乏しく、また批判の基準というものが立ちがたい。
自ら問いを持ち、その問いが真摯にして切実なものであるならば、その問いに対する解答の態度が同様なものである書物を好むであろう。まず問いを同じくする書物こそ読者にとって良書なのである。かような良書の中で、自分の問いに、深く、強く、また行きわたって精細にこたえてくれる書物があるならば、それは愛読書となり、指導書となるであろう。かような愛読書ないし指導書は一生涯中数えるほどしかないものである。
たとえば私にとっては、テオドル・リップスの『倫理学の根本問題』はかような指導書の一つであった。かような指導書を見出したときには、これをくりかえし、幾度となく熟読し、玩味し、その解答を検討すべきである。手垢に汚れ、ページがほどけるほど首引きするのこそ指導書である。
広く読書することも必要であるが、指導書を精読することは一層大切である。
それは問題の所在と、その難点とを突き止め、これが解決の方法を示唆するものだからである。たとい満足な解決が与えられなくとも、解決の方法をつくし、その難点と及び限界とを良心的に示してくれるならば、われわれは深き感謝を持たねばならぬ。徹頭徹尾会心の書というものはあるものではない。
私の場合でいえば、リップスの倫理学も私には充全な満足を与えてはくれなかった。かえって倫理学というものの限界と、失望とを私に与えた。私はこの書を反復熟読し、それを指導原理として私の実践生活を規範しようとさえもしたが、しかし結局はそれも破綻して、私は倫理学以上の、「善悪を横に截る道」を求めて、宗教的方法の探求へと向かったものであった。
がここでいいたいのは、かような指導書の精読ということである。かような指導書を発見するには、自分の生の問いを抱いて、その問いを同じくし、解決を与えんと擬する書物を捜せばいいのである。
下宿を捜すにも実際にかような仕方で、要求の条件に適するものを、数多くの中から選んだわけである。
同一人にとっても、問いの所在ならびに解決方途の異なるにしたがって、かような指導書もまた推移していく。私にとってはそれはカルル・ヒルティの『眠られぬ夜のため』であった時期もあった。『歎異鈔』であった時期もあった。禅宗の普覚大師ノ書であったときもあった。中山みき子の『みかぐら歌』であったときさえあるのである。
かような時期においては反復熟読して暗記するばかりに読み味わうべきものである。
一度通読しては二度と手にとらぬ書物のみ書庫にみつることは寂寞である。
自分の職能の専門のための読書以外においては、「物識り」にならんがために濫読することは無用のことである。識見は博きにこしたことはないが、そのためにしみじみと心して読まぬのでは得るところが少ない。浅き「物識り」を私はとらない。
「物識り」と「深き人」とは同一人であることはまれである。
特に実践の問題においては、「知る」とは「行なう」ことと不可分である故に、なおさら物識りにはなり難い事情があるのである。
読書とは単なる知性の領域にある事柄ではない。それは情意と、実践との世界に関連しているのである。特に東洋においては、それはむしろ実践のためにあるものなのであった。
しかしながら前にも述べた如く、良書とは自分の抱く生の問いにこたえ得る書物のみではなく、生の問いそのものをも提起してくれるものはさらに良書ではある。「いかに問うか」ということは素質に属する。天才は常人よりももっと深く、高く、鋭く問い得る人間である。常人が問わずしてみすごすことを天才は問い得るのである、林檎はなぜ地に落ちるか? これはかつてニュートンが問うまで常人のものではなかった。姦淫したる女を石にて打つにたうる無垢の人ありや? イエスがこの問いを提出するまで誰も自分の良心に対してかく問い得なかった。財の私的所有ならびに商業は倫理的に正しきものなりや? マルクスが問うてみせるまで、常人はそれほどにも自分らの禍福の根因であるこの問いを問うことができなかった。
天才の書によってわれわれは自分の力では開き得ない宇宙と人間性との奥深き扉をのぞき得るのである。それは最も深き意味での人間教育である。真と美とモラルの高みへとわれわれを引き上げてくれるのである。かような人間教育をなし得る書物こそ最良の書であり、青年がたましいを傾けて愛読すべきものである。
われわれが読書に意を注がぬことの最も恐ろしいのは、かような人間教育の書にふれる機会を失うからである。仏教の開教偈に、
微妙甚深無上の法は、百千万劫にも遇ひ難し。我れ今見聞して受持するを得たり。願はくは如来の真実義を解かん。
とあるのはこの心である。「あいがたき法」「あいがたき師」という敬虔の心をもっと現代の読書青年は持たねばならぬのである。
街頭狗肉を売るところの知的商人、いつわりの説教師たちを輩出せしめる現代ジャーナリズムに毒されたる読書青年が、かような敬虔な期待を持つことができないのは同情に値する。しかしながらジャーナリズムはまた需要にこたえるものでもある。読書子の書物への期待が深く、高いならば、そのような書物についにはあうことができるであろう。
四 書物無き世界
人間教養の最後は、しかしながら、書物によるものではない。人は知性と、一般に思想とを究竟のものと思ってはならないのである。人間の宇宙との一致、人間存在の最後の立命は知性と思想とをこえた境地である。いと高く、美しき思想もそれが思想である限りは、「なくてならぬ究竟唯一」のものではない。書物は究竟者そのものを与え得ない。それは仏教では「絶学無為の真道人」と呼ぶのである。学を絶って馳求するところなき境地である。「マルタよ、マルタよ、汝思ひわづらひて疲れたり。されどなくてならぬものは唯一つなり」とキリストがいったように、思想そのものは実は「思い煩い」であり、袋路である。はてしなき迷路である。知識階級とは、この意味においては、永遠の懐疑の階級なのである。立命のためには知性そのものを超克しなくてはならぬ。知性を否定して端的に啓示そのものを受けいれねばならぬ。それは書物ではできない。その意味においては、弁証法的神学者がいうように、聖書でさえも啓示を語った書ではあるが、啓示そのものではないのである。
かように書物と知性から離れて端的に神の啓示につくまでの人間超克の道程に読書があるのである。読書は無意義ではない。啓示を指さす指である。解脱への通路である。書を読んで終に書を離れるのが知識階級の真理探究の順路である。
現代青年学生は盛んに、しかしながら賢明に書を読まねばならぬ。しかしながら最後には、人間教養の仕上げとしての人間完成のためには、一切の書物と思想とを否定せねばならぬものであることを牢記しておくべきものである。
キリストのいうように「嬰児」の如くになり、法然の説く如くに、「一文不知の尼入道」となり、趙州の如くに「無」となるときにのみ、われわれは宇宙と一つに帰し、立命することができるのである。
五 知性か啓示か
今日この国の知識階級の前には知性か啓示かの問題がおかれている。知性主義は主として現在の文化指導者たちによってとなえられているものである。そして今のところ青年学生はこの知性主義を支持し、それが読書の方向を支配しているかに見える。
われわれはインテリゼンスの階層である読書青年が今その旺盛な知識欲をもって、その知的胃腑を満たし、また思考力を操練せねばならないとき、知性の拡充よりもその揚棄を先きに説かんと欲するものではない。しかしながら知性そのものにもその階層がある。真理を把握するオルガンとしての知性は、直観となり、啓示となるのでなければ全くはない。今日この国の知的指導者たちの主張するのは主として合理的知性である。「合理的なるもの」を認識するための知性である。しかし生の真理の重要な部分はむしろ非合理的の構造を持ち、それを把握するためにはそれに対応する直観的英知によらねばならぬ。さらに生の真理の最深部は啓示によるのでないならとらえることができぬ。否それはわれわれがとらえるのでなく、とらえられるのである。
ブルンナーやバルトらの主張する如くに、啓示なくして、理性知のみによって、生の真理をとらえ得るという考え方そのものが、すでに生への要請を平浅ならしめるものである。
最近にはこの国の知性主義者たちも、その非を認めて知性の改造をいうようになった。それはよろこぶべき転向である。しかしながらまだ、彼らが知性の否定や、啓示の肯定をいうようになる時機はおそらく遠いであろう。
われわれは生の探求に発足した青年に、永遠の真理の把握と人間完成とを志向せしめようと祈願するとき、彼らがいずれはその理性知を揚棄せねばならぬことを注意せざるを得ず、またその読者の選択を合理的知性に対応する方向のみに向けしむることは衷心からの不安を感じる。
彼らに祖国への愛を植えつけるためには、非合理的なるものへの直観を要し、さらに彼らに神への帰依を目ひらかしむるためには、啓示への受容を説かなければならないからである。
人間教育者としてのわれわれの任務を思うとき、われわれは彼ら純真の若き生命に対し、生と人間性とを最高の可能性において、その存在の神秘性において、提起しておかなければならない命令を感じる。
たとい彼らにとって当面には、そして現実身辺には、合理的知性の操練と、科学知の蓄積とが適当で、かつユースフルであろうとも、彼らの宇宙的存在と、霊的の身分に関しては、彼らが本来合理的平民の子ではなくして、神秘的の神の胤であることを耳に吹きこんでおきたいのである。なぜならいつかは彼らはその霊的の身分に目ざめねばならないから、そして聖なる国と神の街との建設に向かわねばならないからである。
(一九三八・一二・二)
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