六 種々の視点への交感
教養としての倫理学研究は必ずしも一つの立場からの解決を必要としない。人間の倫理観のさまざまなる考え方、感じ方、解決のつけ方等をそれぞれの立場に身をおいて、感味して見るのもいい。それは人間としての視野をひろくし、道徳的同情を豊かに、細緻にするからだ。
近世倫理学史も、哲学史のように、カントに集まって、カントから出て行く。カントの形式的倫理学に反対したのは実質的倫理学だけではなく、ギヨーや、ディルタイの如き生命主義の倫理学や、フォイエルバッハから、エンゲルス、マルクス、カウツキーにいたる社会主義の倫理学がある。今これらを詳述する紙幅はないが、ギヨーは『義務と制裁のない道徳論』において、生命の維持特に自我の本性である個性の維持と発展とを主張した。彼によれば、それ自体最高の価値を持ったものは個性であり、個性は何ものの手段ともすべからざるものである。個性の発展は内生活の充実により、この過剰が義務であって、強制や、外的必然ではない。個性を発展せしめるためには狭隘な孤立的自己に閉じこもらず、社会連帯の生活の中に、できるだけ他と協働する生活をひろげなくてはならぬ。最高の徳は義侠である。カントは「汝はなさねばならぬ、それ故なし得る」といったが、これは顛倒されねばならぬ。「汝は能う、故になさねばならぬ」である。彼の義務は過剰であるというイデー、カントの命題の顛倒の思想はニイチェに影響した。ツァラツストラは知恵と力にふくれて山から下り、自己を与えんために民衆への没落を義務と感じ、「汝すべし」を「われは欲す」と顛倒することを宣した。
ディルタイもまた生命と個性との価値を強調した。彼は「全人」の活動を説き、「生」そのものの事実性が、知識の確実性の根拠であるとした。カントのアプリオリの如き不毛の主知的観念に知識の妥当性があるのではない。具体的、直接なる体験は「生」の進展して止まぬ発動である。彼はいった。「ロックや、ヒュームやカントが作りあげた認識主観の脈管には現実赤い血潮が通っているのでなくて、単に思惟活動として、理性の稀薄な液汁が流れているのみである」この紅い血潮は意志し、感じ表象する「全人」の立場からのみくみとることができる。「生」は自らの空虚を充すために価値に向かい、これを実現することによって、自らを充実する。これがわれわれの意志行為である。ライプニッツが同一の木の葉は一枚もないといったように、個性的なものはそれぞれ独自なもので、他に類例を許さない。自然科学では法則を求めるのが目的だから個性的ということは問題でない。熱鉛を水中に滴下すれば、さまざまの奇形を生ずる。しかし一つ一つの形は自然科学には一顧の価もない。しかし精神科学では個性的なものが最も価あるものである。フリードリッヒ大王や、ゲーテの事蹟は斯学の対象として、いつまでも研究をつづけていかれる。
社会主義の倫理観は一種の社会的幸福主義である。そして経済条件をその幸福の基礎とする点において、物的福利を重んずる。それが実質的、現実的、社会的であってカントの倫理学の形式主義、先験主義、自律主義に不満なのはもとよりそのところである。
フォイエルバッハはヘーゲルからエンゲルスの橋渡しとして、ヘーゲルの弁証法を唯物弁証法に媒介した意味で科学的社会主義の先駆ともいえる。
彼によれば「人間相互の共同」が真理の普遍性の最初の原理である。認識において自己以外の他の物体の存在が他人の存在の確実によって媒介されるように、道徳も自己のみから引き出すことは出来ず、他人の存在に依従している。我と汝とが対立して初めてモラールがあり、ジッテがある。この生活共同態の思想は前にも述べた。道徳は如何なる事情の下にも幸福原理から離れ得ない。他人に幸・不幸をもたらしたとき初めて、行為者に善悪があり得るのだからだ。同情は他人の幸福衝動とともに損われ、ともに苦しむ自分の幸福衝動にほかならぬ。
彼はヘーゲルが概念をもって真の実在としたのをひるがえして、われわれの感官に与えられた自然をもって実在とした。マルクスはさらに進んで意識を自然の反映であるとし、道徳は経済関係の上部構造としての二次的のものにすぎないとした。生産関係はそれに内存する必然法則により発展して最後に幸福な社会を産み出す力があるとする。ブルジョア社会の道徳はその階級にのみ妥当するもの故これを忌避し、階級闘争をなさねばならぬ。それ以外の社会改良、労資協調的温情はかえって、理想社会の到達を遅らすのみである。エンゲルスはマルクスと、半世を献身的友情をもって共産主義宣伝のために働いた。『弁証法と自然』において、唯物弁証法を発展させ、『英国における労働階級の境遇』において、自由競争下の労働者の悲惨な実状を論じた。ラサールはマルクスと異なり、理念に導かれた人間の道徳的意志が歴史の発展を導き得るとなした。彼は個人主義の法治国家のかわりに、社会連帯の利害の上に建設せらるべき文化国家の理想をおき換えることを要請した。文化国家は国家の統制力によって、個人が孤立しては到底得られないような教養と力と自由とを国民に享受せしめねばならぬ。かかる理想から労働者階級に対する国家としての道徳的義務がある。労働階級といえどもこの努力に協力するの義務がある。富裕階級が労働階級の解放に参加しないのは個人的利害によって、この国家的な道徳的協同に反対するものであると説いた。われわれには共鳴するところ最も多い論拠である。マルクスの如く歴史の発展を物力の必然として人間の道徳的努力の参与を拒むことは、たといその結果が理想社会に到達しようと、人間性を侮蔑するものである。改革の手段に暴力を用いる用いないの点よりも、この人間の特性の貶斥は最も許し難き冒涜である。人間の道徳意識そのものはマルクスによって泥を塗られただけで少しも高められず、退化するのみである。『キリスト教の本質』を書いたフォイエルバッハの人間の共同生活態という美しい、人類の輝かしい希望をつなぐ理念を物的の意味に引き下してしまって何の役に立つのであろう。資本主義制度はもとより悪い。道徳的意味においてこれは呪詛されねばならぬ。われわれは真の人間の共同態フォイエルバッハの Gemeinschaft des Menschen mit dem Menschen を建設せんことを熱願する。しかし物力の必然でなく、人間の道徳的努力の協同によってそれを成しとげたい。何故なら、つくり上げた共同態はまた道徳的協同によって維持発展されなければならないからである。人性の徳性の花の咲き盛らないような、物的福利の理想社会とは理想社会の名に価しないからである。
以上自分は与えられたスペースで、青年の教養に資する視点から、倫理学研究の手引きのようなものを書いた。書くべき多くのものが残された。中世期の神秘主義の倫理観、古代のストアやエピクロス派の倫理観、スピノーザやショーペンハウエルの形而上学的倫理観等に触れる暇がなかった。さらに東洋の倫理観にも手が染められなかった。それは本稿の目的上、羅列を事とせずして、活きた倫理的問いを中軸として、一つのまとまりのある叙述をものしたく思ったからである。
最後に一言付すべきことは、生の問いをもってする倫理学の研究は実は倫理学によって終局しないものである。それは善・悪の彼岸、すなわち宗教意識にまで分け入らねば解決できぬ。もとより倫理学としては、その学の中で解決を求めて追求するのが学の任務であるが、一般に学の約束として、それは絶えざる認識の拡充としての永久の追求であっていいのである。しかし生の問いは解決されることを要する。したがって学の中にとどまっていることはできぬ。善悪の二字総じて忘れる宗教のふところに入らねばならぬ。しかし善悪を忘じることは、善悪に執し切った後においてのみ可能なのである。知識青年にして少なくともある時代、倫理学に身をやつさないような人間は決して善悪の彼岸には出で得ぬであろう。
(一九三六・一〇・七)
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