您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 倉田 百三 >> 正文

学生と教養(がくせいときょうよう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 6:03:39  点击:  切换到繁體中文


     三 文芸と倫理学

 人生の悩みを持つ青年は多くその解決を求めて文芸に行く。解決は望まれぬまでも何か活きた悩みに触れてもらいたいために小説や、戯曲に行く。それはもとより当然である。文芸はこの生の具象的な事実をその肉づけと香気のままに表現するものだからだ。少なくともそこにはかわいた、煩鎖な概念的理窟や、腐儒的御用的講話や、すべて生の緑野から遊離した死骸のようなものはない。しかし文芸はその約束として個々の体験と事象との具象的描写を事とせねばならぬ故、人生全体としての指導原理の探究を目ざすことはできぬ。それ故一定の目的をもって文芸に向かうものにとっては、それは活きてはいるが低徊的である。それは行為の法則を与えようとしない。行為そのものを描く。ときとしては末梢的些末事と取り組んで飽くことを知らない。人生を全体として把握し、生活の原理と法則とを求めるものは倫理学に行くべきだ。これは文芸に求めるのが筋ちがいだからだ。もとより倫理学は学としての約束上概念を媒介としなければならぬ。文芸の如く具象的であることはできない。しかしすぐれた倫理学を熟読するならば、いかに著者の人間が誠実に、熱烈に、条理をつくして、その全容を表現しているかを見出して、敬慕の念を抱かずにはいられないであろう。それは文芸の傑作に触れた感動にも劣るものではない。そしてその感染性とわれわれの人格教養の血肉となり、滋養となり、霊感とさえもなる力もまた文芸の作品に劣るものではない。ただ文芸には文芸の約束があり、倫理学にはその特殊の約束があるのみである。カントの道徳哲学を読んで人間理性の自律の崇高感に打たれないものはないであろう。
 倫理学は人間行為の指導原理と法則とを与えようとするのみならず、また学者の個性をも表現する。コーヘンの『純粋意志の倫理学』と、ギヨーの『義務と制裁のない倫理学』とを比較するならば、その個性の対比は文芸作品の個性の差異の如くいちじるしい。所詮倫理学は死せる概念の積木細工ではなくして、活きた人間存在の骨組みある表現なのである。この骨組みの鉄筋コンクリート構造に耐え得ずして、直ちに化粧煉瓦を求め、サロンのデコレーションを追うて、文芸の門はくぐるが、倫理学の門は素通りするという青年学生が如何に多いことであろう。しかしすぐれた文学者には倫理学的教養はあるものである。人間の教養として文学の趣味はあっても倫理学の素養のないということは不具であって、それはその人の美の感覚に比し、善の感覚が鈍いことの証左となり、その人の人間としての素質のある低さと、頽廃への傾向を示すものである。美の感覚強くして善の関心鈍きとき、その美は感覚的の美とならざるを得ない。したがってかかる人の文芸の趣味はまた高い種類のものとは想像出来ないのである。リップスの『美学』を読むものはいかに彼の美の感覚が善の感覚と融合しているかを見て思い半ばにすぎるであろう。しかし生を全体として把握しようとするわれわれの目から見るとき、かくの如きは当然のことである。『モダンペーンター』の著者ラスキンはまた熱心な善の使徒であった。美のセンスと善のセンスとがともに強く、深く、濃まやかであることが第一流の人間としての欠くべからざる教養である。
 自分如きも文芸家となったけれども、学窓にあったときには最も深い倫理学者になることを理想とし、当時倫理学が知識青年からかえり見られなかった頃に、それを公言し、ほこりともしていた。
 文芸を愛好する故に倫理学を軽視するという知識青年の風潮は確かに青年層の人格的衰弱の徴候といわねばならぬ。

     四 社会運動と倫理学

 青年層にはまた倫理学を迂遠でありとし、象牙の塔に閉じこもって、現実の世相を知らないものの机上の空論であるとしてかえり見ない向きもある。しかし街頭の実践運動家といえども倫理学的な指導原理を持ち、それによって社会革新の情熱を刺衝されないものは少ない。それどころか自分の社会革新の思想の正しい所以を合理的に根拠づけんとするやみがたい要求から自ら倫理学を発表さえもしている。アナーキストとして有名なクロポトキンには著書『倫理学』があり、マルクス主義運動家時代のカウツキーにさえ『倫理学と唯物史観』の著があるくらいである。ドイツ無産政党の組織者であったラサールには倫理学的エッセイ多く、エンゲルスや、シュモルラーには社会主義的倫理思想の論述の少なくないことは周知の如くである。そればかりでなくミルや、シヂウィックや、英国経験学派の系統を引く功利主義の倫理学はほとんどことごとく「最大多数の最大幸福」を社会理想として実現せんとする、多かれ少なかれ、社会改良運動の実践と結びついたものであり、現実のイギリス社会に影響する所大であったものである。
 街頭の実践運動の背後には常に偉大なる思想がある。そして人間を実践的社会運動に駆る思想は倫理的思想である。共産主義の運動への情熱が日本の青年層を風靡ふうびし、犠牲的な行動にまで刺衝したのは、同主義の唯物的必然論にもかかわらず、依然として包蔵している人道主義的思想のためであったのだ。正義をもって社会悪を克服するという倫理的な根拠なくして、単なる物的必然力によって、人間は犠牲的奉仕にまで感奮することは出来るものではない。
 倫理思想は内側から社会を動かす原動力である。そして倫理学はその実践への機を含んでしかも、直接に発動せず、静かに、謙遜に、しかも勇猛に徹底して、その思想の統一をとげ、不落の根拠を築きあげようと企図するものであり、そこには抑制せられたる実行意志が黙せる雷の如くに被覆されているのである。
 倫理学を迂遠であり、机上の空論であるとして軽視するのはただ目先きだけの短見にすぎない。真に社会に善事を成さんとする志有る者は軽忽に実行運動に加わる前に、しばらく意志を抑制して、倫理学を研究する必要があるのである。何が社会的に善事であるかを知らずして実行することは出来ず、行為の主体が自己である以上は自己と社会との関係を究めないわけにはいかないからである。それ故に倫理学の研究は単に必要であるというだけでなく、真摯な人間である以上、境遇が許す限りは研究せずにはいられないはずの学問なのである。

上一页  [1] [2] [3] [4] [5] 下一页  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告