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愛と認識との出発(あいとにんしきとのしゅっぱつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 5:59:17  点击:  切换到繁體中文

 

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 愛の二つの機能

 愛は自全な心の働きであって、客観の条件によりて束縛せられざるをもって、その本来の相としなければならない。相手のいかなる状態も、いかなる態度も、いかなる反応も超越して、それみずから発展する自主自足の活動でなければならない。ゆえに純なる愛は相手のいかなる醜さ、卑しさ、ずうずうしさによっても、そのはたらきのまざるものでなければならない。それは事実において至難なるわざではあるが、私らの胸に当為とういとしてて、みずからの心をむち打たねばならない。けれど、私がここに語りたいのは、この当為にはけっして抵触せずに、いなむしろこの当為をみ行なわんために、愛より必然に分泌せらるる二つの機能についてである。それは祈祷と闘いとである。愛が単なる思想として固定せずに、virtue(力)として他人の生命に働きかけるときには、この二つの作用となって現われなければならない。
 愛とは前にも述べしごとく、他人の運命を自己の興味として、これをおそれ、これを祝し、これを守る心持ちを言うのである。他人との接触を味わう心ではなく、他人の運命に関心する心である。ゆえに愛の心が深くなり純になればなるほど、私たちは運命というものの力に触れてくる。そしてそこから知恵が生まれてきて、愛と知恵との密接な微妙な関係がしだいに体験せられてゆく。昔から聖者といわるるほどの人の愛は、みな運命に関する知恵によって深められきよめられた愛である。耶蘇ヤソの愛や釈迦しゃかの慈悲は、その最もよき典型である。愛がもし多くの人々のいわゆる愛のごとくに、他人との接触にインテレッセを置くものであるならば、そは甘く、たのしきものとして享楽せらるるであろう。アンナ・カレニナのなかのオブロンスキーが、「私は女を愛せずにはいられない」といったあのごとき愛や、女が「あなたは好きよ」というときの愛や、または普通の、百姓爺などを面倒くさがる男子が美しき女に対するときの愛などは、そのときの接触を味わう心であるがゆえに、運命や知恵や祈りとは何の関係もなしに済むであろう。けれど、もしも一人の少女をでも、私のいわゆる隣人の愛をもて愛してみよ。それはかぎりなき心配でなければならない。この少女の運命に自分があずからねばならない。自分のやり方でこの少女の運命はいかに傷つけられるかもしれない。いわんやときにはベギールデが働いたり、ミスチーヴァスな気持ちになりかねない自分らが、平気で少女に対することができようか。そのときもし私たちが真面目になるならば、自分たちの知恵と徳とが省みられるに相違ない。もっと自分に知恵があり、もっと心が清いならば、この少女の運命を傷つけずに済むであろうと。そして事実として私たちにこの自信のあることはほとんど不可能である。愛したい、けれど深い愛が宿らない。いかにせば愛の実際的効果をあげ得るかの知恵がない。力が足りない。そして他人の運命を傷つけることのいかにおそるべきかを知れる謙虚な心には、これはじつに切実な問題である。そしてついに自分たちが人間としてもはや許されてないところのある限りを、まざまざと感ずるであろう。未来のことは自分のあずかり知るところではない。現在においても触れ合う人しか愛することはできない。そして触れ合うところの一人の生命すら、心ゆくまで愛されはしない。「一すじの髪の毛をだに白くし黒くする力」は持たない。私たちは自分の愛するものの不幸を目の前にして、手をこまねいて傍観しているよりほか何ごとも許されない場合に、しばしば遭遇する。そして静かに思えば、これまで幾人の人々と交わっては別れ、別れして、今はどこにいかなる生活をしているやら、わからない人々があることだろう。そしてそれらの人々をいかにして愛しようか。このときもし愛の深い人であるならば、堪えがたき無常を感ずるであろう。そのときほとんど私たちは愛する力も、知恵もないことを感ずる。そして、ただ愛したい願いだけが高まってゆく。――そして運命の力を感ずる。『歎異鈔たんにしょう』のなかにも、何人も知るごとく、

 慈悲に聖道浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふが如く助けとぐること、きはめて有り難し。また浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏となり、大慈大悲心をもて、おもふが如く、衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとく助けがたければ、此の慈悲始終なし。しかれば念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にてそうろふべき。


 と書いてある。私も親鸞しんらん聖人のこの心の歩みの過程に、しみじみと同情を感ずる。すなわち親鸞聖人は念仏によって完全な愛の域に達せんと望んだ。私はこの計画の実際的効果をまだ信じ得ないけれど、愛を思えば祈りの心持ちを感ぜずにはいられない。もとよりいまだこの祈り聞かるべしと信じての祈りではない。しかし祈りの心持ちを感ずる。そして私は今ではこの心持ちを伴わざる愛は、けっして深いものとは思われなくなっている。どうぞ私がこの少女の運命を傷つけませぬように! 昔あの海べで別れた病める友、今はどうしているかわかりませぬが、どうぞ幸いでいますように! 私は多くの忘れ得ぬ人々の、今はゆくえも知れぬ人々の運命を思うとき、しみじみと祈りの心持ちを感ずる。祈るよりほか何も許されてないではないか。そして、その祈りの真実聴かれると信ずる信仰家は、いかに祝福されたる人々であろうと思わずにはいられない。
 また私たちは愛することは自由でも、愛を表現することは、もはや他人と関係したことで自分の自由ではない。他人が自分の愛を accept してくれないのに、愛を表現することはその人のわがままである。私のある友達が「彼に手紙を出したいけれど、よけいなことだと思われてはと思って差し控えている」といったと聞いて、私はその人の心持ちがよく理解できた。「私はあなたを愛します」といって、金を贈ったり、見舞いに来たりすることは、その人の自由ではない。いわんや「私はあなたを恋します」といって見知りもせぬ女に艶書えんしょを贈り、それで何ものかを与えたごとく考え、その女が応じなかった場合には立腹するようなことは、最も理由の無いことである。私たちは温かな愛があっても、それを受けいれない人に、その表現を押しつけることはできない。かくいろいろと考えて見れば、私たちの愛の実際的効果というものは、じつに微弱なものである。ただ幸あれかしと祈ることのみ自由である。また愛はその本来の性質上、制限を超え、差別を消してつつむ心の働きである。程度と種族とを知らぬ霊的活働である。しかるに私たちの物を識る力は、時間と空間とに縛られている。時が隔たれば忘却し処が異なればうとくならざるを得ない。死んだ啄木の歌に、「Yといふ字日記の方々に見ゆ、Yとはあの人のことなりしかな」というのがあるが、私たちはやむをえぬ制限から、そのようになってゆく。なにもかも過ぎて行く、けれどふと折に触れて思い出すとき、たまらない気がすることがある。そのようなときに私たちが祈り得たならば、いかに心ゆくことであろう。私たちは愛するときほど、人間を限られたるものとして感じるときはない。愛はただ祈りの心持ちのなかにおいてのみ、その全きすがたが成就するように思われる。私は祈りの心持ちに伴われざる愛を深いものとは思えない。昔から愛の深い人は、多くは祈りの心持ちにまで達しているように見える。深いキリスト教の信者には祈りが実際に聴かるべしと信じて、たとえば「あの友の病が癒えますように」と祈れば、もし神の聖旨ならば必ずその病癒ゆべしと信じている人がある由である。いかに幸福な心の有様であろう。私はまだとてもそこまではゆけない。しかし私は祈りの心持ちを強く感じる。愛を徳として完成する境地は祈りのほかにはないように思われるからである。
 純なる愛は他人の運命をより善くせんとするねがいである。そのねがいは消極的にみずからの足らざるを省みる謙虚な心となって、他人の運命を傷つけることをおそれる遠慮となり、自己の力の弱少を感じては祈りとなる。けれどこのねがいは他の一面にては積極的に他人に向かって働きかけたい強い要求となって現われる。他人の運命に無関心でいられない心は、他人の生活に影響したくならずにはおかない。あの人は不幸である。助けてやりたい、あの女は間違っている、正しくしてやりたい。かくのごとき要求は、他人の生活に侵入してゆきがちな傾向を帯びるがゆえに、個人主義の主として支配している今の社会では、ことにしばしばおせっかいとして排斥せられる。このゆえに、世の賢き人々は、ただ自己の生活を乱されぬように守りつつ、他人の生活には、なるべく触れないように努める。そして自分の態度をジャスチファイして曰く、「個性は多様である、自己の思想をもって他人を律してはならない。また自分は他人に影響するだけの自信を持たない」と。この考え方はじつにもっともである。しかし、多くの場合、この思想は愛の欠けている人の口実のように私にはみえる。なんとなればもし、今の世の人と人との孤立が、真に愛より発する働きかけたい心がこの謙虚な思想に批判さるるところに原因を持ってるものならば、その孤立は、もっとしみじみしたものになるはずだからである。孤立というものは、愛が深くて、しかも謙遜な心と心との間においては、むしろ人と人とが繋り合うのに最もふさわしき要件である。今の世の人間同士の孤立は、一つはその掲ぐる口実と正反対に傲慢と、そして何よりも愛の欠乏からきているのである。すなわち他人に働きかけようとせず、他人を受けいれようとしないかたくなな心が、その最大因をなしている。もし愛の深い、ヒューメンな心ならば、一方は、先きに述べしごとく、祈りとなるまでに謙遜になるとともに、一方は、おせっかいなほど働きかけたくなるであろう。人に働きかけたい心は善い、純なねがいである。この心が受け取りやすいモデストな心に出遭うときには、どんなになめらかな交わりになることだろう。自己を知らざるほしいままなる働きかける心は、他人を侵し傷つけるけれども、その心が祈りの心持ちによって深められるときには、もっとも望ましきはたらきをつくる。祈りの心持ちは、単に密室において神と交わる神秘的経験ではなく、その心持ちのなかには、切実な実行的意識が含まれている。いな、むしろ祈祷は実践的意識の醗酵、分泌した精のごときものである。今ここにある人の心に愛が訪れるとする。その愛がいまだ表象的なものに止まる間は、けっして祈りにはならない。しかし、その愛が他人の運命を実際に動かしたい意志となり、そしてその意志がそれに対抗する運命の威力を知り、しかもその運命に打ちって意志を貫こうとするときに、祈りの心持ちとなるのである。ゆえに、その心持ちは、しばしばたたかいの心持ちと酷似している。キリストのごとき宗教的天才においては、その愛は常にたたかいの相を呈している。そしてその闘いは、祈りによってただしくされている。けだし、私たちは愛を実現しようと思えば、必ず真理の問題に触れてくる。深く考えてみれば、愛とは他人をして人間としての真理に従わしめようとすることのほかにはない。ゆえに愛を実行せんとするときには、自己にとって真理なることは、他人にとっても真理であるとの信仰が必要である。真理を個性のなかに限定し、その普遍性を絶対に否定する人は、他人に愛を実行する地盤はない。「われかく信ず、ゆえに他人もしか信ぜざるべからず」との信念ある範囲においてのみ、他人に働きかけることができる。愛には人間としての当為が要る。宗教的天才はその Sollen を握れるがゆえに、堂々と愛を働きかけることができたのである。私は西田氏のごとく個性とは普遍性ダス・アルゲマイネの限定せられたるものと考えたい。すなわち、個性の多様性は認めつつ、その後ろに人間としての普遍的真理の存在をゆるしたい。この信仰なくしては、私たちは相互に繋り合うことはできない。事実においては、人間はいかに懐疑的なる人といえども、ある範囲においてこの普遍性を容して、他人に対して働きかけているのである。著しくいわば、真に徹底せる愛は、真理をしいることである。マホメットが剣をもって信じさせようとした心持ちには、愛の或る真理が含まれている。日蓮も愛のために、親にそむき、師にそむき、異宗と闘った。彼は『法華経』を信じなければ、親も師もことごとく地獄につると信じたからである。私は聖書などの思想に養われて謙遜とゆるしを学んでから、他人をあるがままにいれてその非を責めないようになりだした。初めは「私は愛がないのだから責める資格はない」と、自省して沈黙するようにしていたが、後には表面の交友を円滑にし、うるさい交渉を避ける自愛的な動機から、他人の軽薄、怠慢をも責めずに済ますようになりだした。かくなれば、他人に働きかけないことは一つの誘惑になる。愛するならば責めねばならない。それはゆるさぬのとは違う。他人がいかなる悪事をなしても、それは赦さねばならない。しかしいかなる小さな罪も責めねばならない。宗教はこの二つの性質を兼ね備えたものである。キリストはいかなる罪をも赦した。しかし罪の価は死なりといった。罪の裁判はできるかぎり重くなくてはならない。そしてその重き罪は全く赦されねばならない。甲が乙をなぐったとする。このとき、そのくらいのことは小さなことだとして赦してはならない。人間が人間を撲ることはけっして小さなことではない。それは地獄に当たる罪である。しかしその大罪を全的に赦すのである。阿部氏は「私は人を愛したい。けれど憎むに堪える心でありたい」といってる。私もしか感ずる。もし私が私を愛するがごとく他人を愛しているならば、私みずからを憎むがごとくに他人を憎み得るであろう。愛は闘いを含み得る。純粋なる愛の動機より、他人と闘うことができるようになるならば、その愛はよほど徹した内容を持っている。
 現に宗教的天才はかかる闘いをなしている。キリストも、エルサレムの宮ではとを売るもののつくえを倒し、なわの鞭を持って商人を追放した。私は初めは、キリストのこの行為を善しと見ることができなかった。それは愛とゆるしとの教えにかなわないと思われたからである。しかし私はこの頃は、愛しつつ赦しつつ、かくすことができると思うようになりだした。おのれを釘づけるものを赦したキリストに、この商人が赦されないとは考えられない。愛はたたかいを含み得る強いものであってさしつかえはない。ただ私はそのたたかいが、他の一面において祈りの心持ちによってただしくされることをねがう。
 けだし、私たちはゾルレンをつかむことにおいて自信のない愚人である。たたかいが愛のみの動機より発することのできかねるエゴイストである。他人の運命を思えばもだしがたく、しかも働きかけることが、他人を益するとの自信を握りかぬる弱者である。「どうぞこの人を傷つけませぬように!」と祈る心持ちなくして、安んじて働きかけることはできかねるからである。たたかいと祈りとは、愛の二つの機能である。愛が実践的になるとき、必然に生み出される二つの姉妹感情である。そして相互を義しくする。哲学的絶対を求めて後に愛そうとするならば、私たちは祈ることも、戦うこともできない立往生になる。けれど、私は真理はだんだんに知られてゆくものと思う。もし愛のなかに実感的な善を体験して、それに圧されて愛しながら、しだいに真理を体得してゆこうとするならば、私たちはたたかいと祈りの心持ちのなかに入って行くであろう。そしてそれは、私にとっては、ようやく明らかになりゆく真理の姿である。

(一九一五、冬)


 

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