深く考へて見れば世の中に絶対的の悪といふものはない。悪はいつも抽象的に物の一面を見て全貌を知らず、一方に偏して全体の統一に反する所に現はれるのである。悪がなければ善もない。悪は実在の成立に必要なる要素である。(善の研究――三の十二)
と述べさらにアウグスチヌスの語を引いて、陰影が画の美を増すがごとく、もし達観すれば世界は罪を持ちながら美であるといっている。われらはライプニッツ以来議論の多いこの説明が、この世界より悪の存在を除き去るに完全なるものとは思わない。そこには種々の疑問が挾み得るであろうが、氏のごとく自然の円満と調和とに純なる憧憬を有する人にとっては、その企図の方針はむしろ当然のことであると思う。氏にとりてはもともと精神と自然と二の実在があるのではない。両者はただちに唯一実在である。その実在の統一力が神である。自己の本然的要求は神の意志と一致するのである。宇宙は唯一実在の唯一活動であり、その全体は悪を持ちながらに善である。
四
宗教は自己に対する要求である。自己を真に生かさんとする内部生命の努力である。欠けたるものの全きを求むる思慕である。みずから貧しくして、偽りに満ち、揺らめきて危うきを知る謙遜なる心が、豊かにして、まことに、金輪際動揺せざる絶対の実在を求むる無限の憧憬である。一人※然[#「螢」の「虫」に代えて「几」、75-13]として生きるに耐えざる淋しき魂が、とこしえに変わらざる愛人と共に住まんと欲する切なる願いである。氏はその宗教論の冒頭に宗教的要求という一章を掲げて、宗教がいかに真摯に生きんとする者のやみがたき要求であるかを述べて次のごとく言っている。
宗教的要求は自己の生命に就ての要求である。我々の自己が相対的にして有限なるを知ると共に、絶対無限なる力に合一し之に由りて永遠の真生命を得んと欲するの欲求である。パウロがも早我生けるにあらず、基督我に在りて生けるなりと言つたやうに、肉的生命の全部を十字架の上に釘け終りて独り神によりて生きんとするの情である。真正の宗教は意識中心の推移によりて、自己の変換、生命の革新を求めるの情である。世には往々何故に宗教は必要であるかなどと問ふ人がある。併しかくの如きは何故に生きる必要があるかと問ふと同様であつて、自己の生涯の不真面目なることを示すものである。真摯に生きんとする人は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずには居られないのである。(善の研究――四の一)
宗教は氏の哲学の終局であり、根淵である。氏は『宗教的意識』のなかにシュライエルマッヘルを引いて、宗教の認識論的研究の必要を説いているが、まことに氏の宗教は認識論をもって終始している。認識論より宗教に入る者の帰着点はどうしても Pantheism のほかにはないように思われる。ことに氏のごとき体系の哲学においては汎神論はほとんど論理的必然であるといってもいい。宇宙は唯一実在の唯一活動である。その活動の根底には歴々として動かすべからざる統一がある。宇宙と自己とは二種の実在ではない。純粋経験の状態においてはただちに合して一となる。すなわち宇宙の統一力はわれらの内部にあっては意識の背後に潜む統一力である。この統一力こそ神である。われらがいかにしてこの神を認識し能うかについてはすでに氏の認識論を考察するときにこれを述べたから、ここでは主として神の本質について考えてみよう。
第一に神は内在的である。すなわち神はこの世界の外に超越して、外より世界を動かす絶対者ではなく、世界の根底に内存して、内より世界を支え世界を動かす力である。氏の哲学においては現象界の外に世界はない。たとい世界の外に超然として存在する神ありとするも、それはわれらになんらの交渉もなき無も同様である。われらの生命に直接の関係を有し、われらの内部生活に実際に力強く働くことを得る神はわれらの生命の奥底において見いださなければならない。
第二に神は人格的である。宗教として論理的に最も徹底せるものは汎神論であることはほとんど疑うべからざる事実である。しかしながら、そのいわゆる神は単に論理上の冷ややかなる存在であって、われらの温かなる憑依の対象となる人格的の神ではないのであろうか。氏によれば敬とは部分的生命が全部生命に対して起こす感情であり、愛とは二人格が合一せんとする要求である。しからば敬愛の情は人格者を対象としてのみ起こり得る意識である。われらが神に対して敬虔の情を起こし、また神の無限の愛を感得することができるためにはその神は必ず人格的でなければならない。しからば汎神論の宗教において神はいかなる意味において人格的であるか。この問に答うるためには人格という概念の意味を明らかにしなければならない。われわれは普通内に省みて特別に「自己」なるものがあるように考えている。しこうしてこれより類推してどこに神の「自己」があるかと問うのである。しかしながらかくのごとき意味においては自己なるものはどこにも存在しない。われらの個人意識も分析すれば知情意の精神作用の連続にすぎない。特別に自己なるものは存在しない。われわれが内に省みて特別なる自己なるものがあるごとく考うるのは、ただ一種の感情にすぎないのである。ただその全体の上に動かすべからざる統一あるがゆえにこれを一人格と名づくるのである。神を実在の根底であるといっても、実在そのものが精神的であり、その全体の発現に統一があるならば神の人格性は毫も傷つけられはしないのである。いな純粋経験の状態にあってはわれらの精神の統一はただちに実在の統一である。神とわれとの人格は一に帰し、われはただちに神となるのである。
ここに氏の宗教において最も著しき特殊の点がある。すなわちそのいわゆる天国といい、罪悪という意義がはなはだ認識論的の色彩を帯びていることである。氏の天国とは主客未分以前の純粋経験の状態をいうのである。この認識の絶対境においては、物とわれとの差別なく、善と悪との対立なく、ただ天地唯一の光景あるのみである。なんら斧鑿の痕を止めざる純一無雑なる自然あるのみである。われと物と一なるがゆえにさらに真理の求むべきなく、欲望の充たすべきなく、人は神と共にあり、エデンの花園とはかかる境涯をいうのである。しかるに意識の分化発展するに従い、物我相背き、主客相対立し、人生初めて要求あり、苦悩あり、人は神より離れ、楽園はアダムの子孫よりとこしえに閉ざされた。これすなわち人間の堕落であり、罪悪である。ここにおいてわれらは常に失いたる楽園を思慕し、たましいの故里を憧憬し、対立差別の意識を去りて純粋経験の統一せる心境に帰らんことを求める。これすなわち宗教的要求である。
かくのごとく氏の宗教においては罪悪は対立差別の意識現象より起こるのである。しかしながら対立は統一の一面であって対立を離れては統一は考えられない。実在が自己の内面的性質を分化発展するのは宇宙現象の進行の根本的方式である。ゆえにもし対立差別を罪悪の淵源となさば、実在そのものの進行を、したがって神の意志を罪悪の根本となさねばならぬ。この不合理を除去するために氏は罪悪の本質的存在を影のごとく薄きものとなさねばならなかった。
元来絶対的に悪といふものはない。物の本来に於ては皆善である。悪は物其者に於て悪なのではない。実在体系の矛盾衝突より起るのである。罪悪は宇宙形成の一要素である。罪を知らざる者は真に神の愛を知ること能はず、苦悩なき者は深き精神的趣味を理解する事は出来ない。罪悪、苦悩は人間の精神的向上の要件である。されば真の宗教家は是等のものに於て神の矛盾を見ずして却つて深き恩寵を感ずるのである。(善の研究――四の四)
といっている。かくて氏の哲学は一の楽天観をもって終わっているのである。
五
私らは哲学の批評に関して芸術的態度をとりたい。人を離れて普遍的にただその体系が示す思想だけを見たくない。興味の重点をその体系がいかばかり真理を語れるかという点にのみおかずして、その思想の背後に潜む学者の人格の上にすえつけたい。古来幾多の哲学体系は並び存して適帰するところを知らない。もし哲学をただ真理を聞かんがためのみに求むるならば、かくのごときは哲学そのものの矛盾を示すというような非難も起こるであろう。しかしながら哲学はその哲学者の内部生活が論理的の様式をもって表現された芸術品である。その体系に個性の匂いが纏うのは当然のことである。私は西田氏の哲学を、氏の内部生活の表現として、氏の人格の映像として見ることに興味を感じて読んだのである。また氏の哲学ほど主観の濃く、鮮やかに、力強く表われたものはあるまい。『善の研究』は客観的に真理を記述した哲学書というよりも、主観的に信念を鼓吹する教訓書である。敬虔にして愛情に富み、真率にしてやや沈鬱なる氏の面影がいたるところに現われている。氏の哲学の特色はすでに述べたから、ここには繰り返さない。ただいいたきことは氏の哲学には生物学的の研究が欠けていることである。たとえば生殖というような大問題には少しも触れてない。愛に関しては多く論ぜられてるけれど、それはただキリスト教的な愛についてであって、性欲の匂いの籠った愛については何の説くところもない。ことに永遠の大問題である死に関して何事をも語らないのには大きな不満を抱かないではいられなかった。『善の研究』の書き替えらるるときには Leib に関する深い、新しい研究の結果が添えらるることを望んでおく。
終わりに臨んで私は力強く繰り返したい。氏の哲学には生命の脈搏が波打ってる。真面目なる、沈痛なる力がこもってる。しかもその力はしっとりと落ち着いて、深い根を張っている。氏が内部生命の衝動に駆られて、真剣に自己の問題につきて思索しつつある痕跡は至るところに残っている。ことに宗教を論じられるあたりは、病中の作であるからでもあろうが、氏の苦悩と憧憬とがありありと見えてことに感情が籠っている。淋しげなる思索の跡はそぞろに涙を誘うものがある。「デカルトの哲学は数学の定理の如きものを組み立てて作ってあるけれども、よく読んで見れば、彼の内心の動揺と苦悩が窺われて、強く、沈痛の力に打たれる」と氏はいっておられる。まことに氏は抽象的概念をいじくり回す単なるロジシャンではない。その思索には内部生活の苦悩が纏い、その哲学にはいのちとたましいとの脈搏が通うている。私はともに坐して半日の秋を語りたる、京都の侘しき町端れなる氏の書斎の印象を胸に守っている。沈痛な、瞳の俊秀な光をおさめた、やや物瘠せしたような顔が忘れられない。メフィストをして嘲るままに嘲らしめよ。氏は生命の根に潜む不可思議を捕捉せんために、青草を藉きて坐しながらなお枯草を食うて、死に至るまで哲理を考えつつ生きるであろう。
(一九一二・一一・一二夜)
[#改ページ]
異性の内に自己を見いださんとする心
Sinotschka. K
nnen Sie f
r die jenige sterben, die Sie lieben?
Niemowezkij. Ja, ich kann es. und Sie?
Sinotschka. Ja, ich auch es ist ja doch ein grosses Gl
ck, f
r den liebsten
Menschen zu sterben, ich m
chte es sehr gern. (Der Abgrund. Andrejew.)
上
たとえば大野の黎明にまっ白い花のぱッと目ざめて咲いたように、私らが初めて因襲と伝説とから脱してまことのいのちに目醒めたとき、私らの周囲には明るい光がかがやきこぼれていた。ことごとに驚異の瞳が見張られた。長き生命の夜はいま明けた。これからほんとに生きなければならないのだ。こう思って私らは心をおどらし肩を聳かすようにした。かくて生命の第一線に添うて勇ましくも徹底せる道を歩まんことをこころざした。このときほど自己の存在の強く意識されたことはなかった。
しかしながら私らが一たび四辺を見まわすとき、私らは私らと同じく日光に浴し、空気を吸うて生きつつある草と木と虫と獣との存在に驚かされた。さらに私らとともに悩ましき生を営みつつある同胞(Mitmensch)の存在に驚かずにはいられなかった。じつに生命の底に侵徹して「自己」に目ざめたるものにとっては自己以外のものの生命的存在を発見することは、ゆゆしき驚きであり、大事であったに相違ない。かくて生命と生命との接触の問題が、魂と魂との交渉の意識が私らの内部生活に頭をもたげてくる。このときもしわれらの素質が freundlich であり、moralisch であればあるほど、この問題が重大に関心されるであろう。この問題をどうにかかたをつけなければ、内部生活はほとんど新しき方面に進転することを妨げらるるであろう。この問題が内部動乱の中心に蟠り、苦悩の大部分を占めるであろう。私はいうが、私はこの対人関係について思索するに痩せた。自己の生命を痛感した私が一たび自己以外のものの生命の存在に感触して以来、この問題は一日も私の頭を去らなかった。常に重苦しくもたれかかって私を圧迫した。私はこの問題を徹底的に解釈しなくては思い切った生き方はどうしてもできないと思った。私は力強い全人格的の態度がとれなかった。私の行動はすべて曖昧に、不鮮明であった。あらゆる行為が否定と肯定との間を動揺した。
私はこの生温き生き方が苦しくてならなかった。私は実際この問題をどうにかせねばならないと思った。
私はこの生命と生命との交渉、魂と魂との接触は宇宙における厳粛なる偉大なる事実に相違ないと思った。この問題に奥深く底の底まで頭を突ッ込むとき、そこに必ず私らの全身を顫動せしめるほどの価値に触れることができるだろうと思った。
その頃から私は哲学を私の生活から放さなかった。私は確乎として動かざるの上に私の生活を築きあげたいと思っていた。かくて私は哲学的に自他の生命の交渉、関係について考えてみなければならなかった。
私は生きている。私はこれほど確かな事実はないと思った。自己の存在はただちに内より直観できる。私はこれを疑うことはできなかった。しかしながら他人の存在が私にとっていかばかり確実であろうか。この形而上学の大問題は実際私の手に余ったにもかかわらず、私はどうかして考えを纏めなければならなかった。私はここに認識論の煩瑣な理論を書くことを欲しないが、とにかくその頃の私は唯心論の底に心を潜ませていた。私はどう思っても主観の Vorstellung としてのほかは他人の存在を認めることができなかった。私にとっては他人の存在は影のごとく淡きものにすぎなくなった。とても自己存在の確認とは比較にならない力の乏しいものになってしまった。私はやや大なる期待をもってあの人格的唯心論(personal idealism)をも研究したのであるが、その他われの存在を設定する過程にどうしても首肯することができなかった。私は唯心論が行くところまで行くとき必ず帰着しなければならないように唯我論に陥ってしまった。
「天が下に独りわれのみ存す」という意識が私をおののかした。私はそぞろに寒き存在の寂寞に慄えつつも、また極端なる自己肯定の権威と価値とに、いうべからざる厳粛なる感に打たれるのであった。自己は今や唯一のそしてまたすべてのものとなった。宇宙の中心に座を占めて四辺を睥睨した。自己に醒めたるものの必ず通り行く道は個人主義である。それには醒めたる個人をして、しかあらしむる現実生活の種々なる外的の圧力がある。この圧力に迫られてさらぬだに個人主義に傾いていた私は、さらにこの認識論の基礎の上に立って極端なる個人主義に陥らざるを得なかった。この Individualism が要求の体系に従うとき必然的に Egoism になる。私が自己の内部生活を、実在の上に基礎づけようとする要求に忠実であるならば、私はエゴイストであるよりほかはなかった。その頃から私はショウペンハウエルの哲学に読み耽った。そしてひどく動かされた。この沈痛なる皮肉なる冷狂なる哲人の思想は私の利己主義に気味悪き底力と、悲痛なる厭世的の陰影とを与えずにはおかなかった。私は生命の内部にただいたずらにおのれを主張せんとする盲目的なる暴力を意識せずにはいられなかった。生きんとする意志のむやみなる不調和なる主張を痛感せずにはいられなかった。この頃から人なみすぐれて強烈なる性欲の異常なる狂奔を持てあましていた私にはこの盲目力がいっそう力強く感ぜられた。なんという取り返しのつかぬ不調和な地位に置かれたる生であろう! 私はこの痛ましき生をまじまじ見守りながら、それでも引きずられるようにして生きてゆかねばならなかった。この頃私にとりては愛ほど大きな迷妄はなかった。また犠牲ほど大きな生活の誤謬はなかった。この二つのものは私には全く理解せられなかった。私はキリスト教徒について愛の話も聞いてみた。また書を漁って犠牲の理論も読んでみた。けれども皆私の心を動かす根本的の力を欠いていた。なぜというに私の利己主義はその根を認識論の上に深く張っている。私が唯我論から利己主義に達する過程は論理的必然の強迫である。私を利己主義から離れしむるものは私の独我論を根底より動揺せしむる認識論でなければならなかった。
しかしながら悲しいことには私は形而上学的に叙述された愛と犠牲との書物に接することができなかった。すべては曖昧なる不徹底なるまがいものにすぎなかった。自己存在の深刻なる覚醒もなく、他人の魂の底に侵徹してその存在に触れたる意識もなく、ただ漫然として愛と犠牲とが主張されるのが私は不思議でならなかった。かくのごとき愛がいかばかり力と熱と光とを生命の底より発せしめ得るであろうかを疑った。西田氏は熱心なる「愛の哲学者」である。その氏はしかも愛を骨子とする宗教論のなかに「本質を異にせるものの相互の関係は利己心の外に成り立つことはできないのである」といってる。私は自己存在に実在的に醒めたる個人が、他人の存在を徹底的に肯定するときにのみ、まことの力ある愛は生ずるであろうと思った。しかしながら私はいかにして他人の存在を肯定することができたであろうか。私はいかにして私が自己の存在を肯定するごとく、確実に、自明に、生き生きとした姿において他人の存在を認識することができたであろうか。そして自他の生命の間に通う本質的関係あることを認めることができたであろうか。私は思い悩んだ。そしてこれらのことは唯我論の基礎の上に立ってはとうてい不可能な望みであることを感ぜずにはいられなかった。そこで私は唯我論に私のできるだけ周到な吟味と批判とを加えてもみた。けれども私はどうしても唯心論の帰着点を唯我論に見いだすほかはなかった。そしてその立場より対人関係の問題を覗くとき、究極は個人主義を透して、極端なる利己主義に終わらざるを得なかった。
今から考えればこの頃の私の生き方はたしかにインテレクチュアルにすぎていた。その思索の方法も情意を重んぜぬ概念的なもので必ずしも正しかったとは思わない。けれども自己の生活を「実在」の上に据え付けようという要求は形而上学的な私の唯一の生活的良心であった。私とてもただ充実して生きられさえすればよかったのである。けれども生きんがためにはそうしないではいられなかったのである。私は私の実際生活の上に落ちかかったこの大問題に貧しい稚い思想をもって面接することを、どんなに心細くもおぼつかなくも思ったであろう。苦しんでも悶えてもいい考えは出なかった。先人の残した足跡を辿って、わずかに nachdenken するばかりで、みずから進んで vordenken することなどはできなかった。私はこんな貧しい頭を持ちながら考えなければ生きられない自分は何の因果だろうかと思った。私はとても適わぬと思った。けれども何事も生きんがためじゃないかと思うとき、私はじっとしてはいられなかった。私は子供心にも何か物を考えるような人になりたいと思って大きくなった。私は leben せんためには denken しなければならないと思った。
生命と生命との接触の問題は宇宙における厳粛なる偉大なる事実である。私はこの問題に対して忠実でありたい。私はこの問題に対して曖昧な虚偽な態度はとりたくなかった。私は稚いながらも私の信ずる真理の道を進もうと思った。
かくて極端なる利己主義者となった。それもショウペンハウエルの底気味悪き思想を潜りて出でたる戦闘的態度の利己主義であった。初めより生の悲痛と不調和とを覚悟して立ちたるデスペレートな利己主義であった。私は戦っておよそ Egoist の味わい得べきほどのものをことごとく味わい尽くして死にたいと思った。私はその頃の私の心の怪しげなる緊張を忘れることができない。私の生命は血の色に漲っていた。ほしいままなる欲望にふくれていた。私は充たされざる性欲を抱いて獣のごとく街を徘徊しては、昔洛陽の街々に行なわれたる白昼の強姦のことを思った。魯鈍なる群衆の雑踏を見ては、私に一中隊の兵士があれば彼らを蹂躪することができるなどと思った。私の目の前をナポレオンと董卓と将門との顔が通っては消えた。強者になりたい。これが私の唯一の願望であった。私は法科に転じた。私は欲望の充足のために力が欲しいとしみじみ思った。力よ、力よと思った。ああ欲望と力! こう思って私は胸をおどらした。このとき愛と犠牲とは私にとって全く誤謬であった。それよりも人間自然の状態は万人が万人に敵たるの状態であるというホッブスの言葉が力強く心に響いた。Alles Leben Leiden というショウペンハウエルの言葉が耳元を去らなかった。
しかしながら私の思想がしだいにエゴイズムに傾くとき、私に最も直接な痛刻な苦悩を感じさせるものがあった。それは私の無二の友なるSというものの存在であった。私はいうが、私らは涙のこぼれるほど誠実なる友情を持っていた。二人は細かなる理解をもって骨組まれたる実在的なる友情を誇っていた。それに小さいときから机をならべていたという濃やかな思い出が、二人の間にいっそう離れがたき執着を繋いでいた。私はこの友の存在が確認したくてならなかった。実在的に肯定したくてならなかった。その魂の秘密に触れておののきたくてならなかった。生命と生命としっかり抱擁して顫えるほどの喜びにすすり泣きたくてならなかった。けれども私の思想はこの痛切なる願望を裏切らずにはおかなかった。私は泣く泣くも友の存在を影のごとく淡きものになさなければならなかった。二人の間に実在的な交渉を否認してただ関係的な交渉にしてしまわなければならなかった。これはじつに私には痛刻きわまりなき悲哀であり、苦痛であり、寂寞であり、涕涙であった。私は苦しみ悶えた。私はその友に与えた手紙の一節を記憶している。
わが友よ。御身と私との間には今や無辺際の空より垂れ下りたる薄き灰色の膜がある。私らはこの膜をへだてて互いの苦しげなる溜息を微かに聞く。また涙に曇る瞳と瞳とを見かわしながら、しかも相抱擁することができない。どうしてもできない。ああわれらはどうすればいいのだろう。
けれどもその頃の私のインテレクチュアルな生き方ではとうてい友を捨てるほかはなかった。私は骨の抜けた、たましいのない空殻のような交渉を二人の間に残すに忍びなかったからである。
そのときの友の態度の誠実なのに私は敬服した。その心根のやさしさに私は涙ぐんだ。
君は私と離れるという。けれども私は君を放したくはない。君が離れたがればますます私の側に置いて私の温かい息で君の荒んだ胸をじんわりと包んでやりたい。君よ、たとい今私と離るるとも君が傷ついたならまた帰って来たまえ。潤える瞳と温かな掌とは君を容れるに吝ではないであろう。
こんなことも書いてよこした。また私が法科に転じて荒んだ方面へばかり走るのをいましめて、
君よ。星の寒いこの頃の夜更けに、試みに水銀を手の腹に盛ってみたまえ。底冷たさは伝わって君の魂はぶるぶると顫えるであろう。このとき何ものかの偉大なる力が君に思索を迫らずにはおくまい。
というようなことも書いてよこした。こんな誠実な可憐な友を捨てることはじつに泣き出したいほど苦しかったのだ。友と別れた私は真に孤独であった。私の胸のなかを荒んだ灰色の影ばかりが去来した。孤独の淋しみのなかに座を占めて、静かに物象を眺め、自然を印象するほどの余裕もなかった。孤独そのものの色さえ不安な、動揺した、切迫したものであった。それでも初めのほどは私の内部生活は荒みながらも緊張していた。凄蒼たる色を帯びながらも生命は盛んに燃焼していた。炭火のように赤かった。
けれどもしばらくして私はまた惑い始めた。私の生活法がはたしてよきものであろうかと疑い始めた。全体私は蔽うべくもないロマンチシストである。私は幼いときからあたたかな愛に包まれて大きくなった。私は小さいときからものの嬉しさ哀しさも早く解り、涙脆かった。一度も友達と争ったことなどはなかった。戦闘的態度のエゴイズムなどとても私の本性の柄に合わないのだ。それだのに何ゆえに私はエゴイストでなければならないのだろうか。生命は知情意の統合されたる全一なるものでなければならない。私が友を愛してるということは動かしがたき事実ではないか。心理的事実としては知識も感情も同一であって、その間に優劣はないはずである。それだのに私は何ゆえに知性のみに従って、情意の確かなる事実をなみせなければならないか。それはかなり吟味を要するではないか。しかしながら私が友の生命を実在的に肯定することができないというのもたしかなる事実である。してみれば結局私の生命は有機化されていないということに帰着せねばならない。私の生命は全一ではないのだ。分裂してるのだ。知識と情意とは相背いてる。私の生命には裂罅がある。生々とした割れ目がある。その傷口を眺めながらどうすることもできないのだ。この矛盾せる事実を一個の生命のなかに対立せしめてることがメタフィジカルな私にとって、どんなに切実な苦痛であったろう。
私は実際苦悶した。私はどうして生きていいか解らなくなった。ただ腑の抜けた蛙のように茫然として生きてるばかりだった。私の内部動乱は私を学校などへ行かせなかった。私はぼんやりしてはよく郊外へ出た。そして足に任せてただむやみに歩いては帰った。それがいちばん生きやすい方法であった。もとより勉強も何もできなかった。
ある日、私はあてなきさまよいの帰りを本屋に寄って、青黒い表紙の書物を一冊買ってきた。その著者の名は私には全く未知であったけれど、その著書の名は妙に私を惹きつける力があった。
それは『善の研究』であった。私は何心なくその序文を読みはじめた。しばらくして私の瞳は活字の上に釘付けにされた。
見よ!
個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することが出来た。
とありありと鮮やかに活字に書いてあるではないか。独我論を脱することができた この数文字が私の網膜に焦げつくほどに強く映った。
私は心臓の鼓動が止まるかと思った。私は喜びでもない悲しみでもない一種の静的な緊張に胸がいっぱいになって、それから先きがどうしても読めなかった。私は書物を閉じて机の前にじっと坐っていた。涙がひとりでに頬を伝わった。
私は本をふところに入れて寮を出た。珍しく風の落ちた静かな晩方であった。私はなんともいえない一種の気持ちを守りながら、街から街を歩き回った。その夜蝋燭を燈して私はこの驚くべき書物を読んだ。電光のような早さで一度読んだ。何だかむつかしくてよく解らなかったけれど、その深味のある独創的な、直観的な思想に私は魅せられてしまった。その認識論は私の思想を根底より覆すに違いない。そして私を新しい明るいフィールドに導くに相違ないと思った。このとき私はものしずかなる形而上学的空気につつまれて、柔らかく溶けゆく私自身を感じた。私はただちに友に手紙を出して、私はまた哲学に帰った。私と君とは新しき友情の抱擁に土を噛んで号泣できるかもしれないと言ってやった。友は電報を打ってすぐ来いといってよこした。私は万事を放擲してO市の友に抱かれに行った。
操山の麓にひろがる静かな田圃に向かった小さな家に私たちの冬ごもりの仕度ができた。私はこの家で『善の研究』を熟読した。この書物は私の内部生活にとって天変地異であった。この書物は私の認識論を根本的に変化させた。そして私に愛と宗教との形而上学的な思想を注ぎ込んだ。深い遠い、神秘な、夏の黎明の空のような形而上学の思想が、私の胸に光のごとく、雨のごとく流れ込んだ。そして私の本性に吸い込まれるように包摂されてしまった。
私らは進化論のように時間的に空間的に区別せられたる人間と人間との間に生の根本動向から愛を導き出すことはとうてい不可能である。ここから出発するならば対人関係は詮ずるところ利己主義に終わるほかはない。しかしながら私らは他のもっと深い内面的な生命の源泉より愛を汲み出すことができるのである。ただちに愛の本質に触れることができるのである。愛は生命の根本的なる実在的なる要求である。その源を遠く実在の原始より発する、生命の最も深くして切実なる要求である。
しからばその愛の源流は何であるか。それは認識である。認識を透して、高められたる愛こそ生命のまことの力であり、熱であり、光である。
私は自己の個人意識を最も根本的なる絶対の実在として疑わなかった。自己がまず存在してもろもろの経験はその後に生ずるものと思っていた。しかしながらこの認識論は全く誤謬であった。私のいっさいの惑乱と苦悶とはその病根をこの誤謬のなかに宿していたのであった。実在の最も原始的なる状態は個人意識ではない。それは独立自全なる一つの自然現象である。われとか他とかいうような意識のないただ一つのザインである。ただ一つの現実である。ただ一つの光景である。純一無雑なる経験の自発自展である。主観でもない客観でもないただ一の絶対である。個人意識というものは、この実在の原始の状態より分化して生じたものであるのみならず、その存在の必須の要件としてこれに対立する他我の存在を予想している。客観なくして主観のみ存在することはない。
それゆえに個人意識は生命の根本的なるものではない。その存在の方式は生命の原始より遠ざかりたるものである。第二義的なる不自然なる存在である。それ自身には独立自全に存在することのできないものである。これは個人意識が初めより備えたる欠陥である。愛はこの欠陥より生ずる個人意識の要求であり、飢渇である。愛は主観が客観と合一して生命原始の状態に帰らんとする要求である。欠陥ある個人意識が独立自全なる真生命に帰一せんがために、おのれに対立する他我を呼び求むる心である。人格と人格と抱擁せんとする心である。生命と生命とが融着して自他の区別を消磨しつくし第三絶対者において生きんとする心である。
それゆえに愛と認識とは別種の精神作用ではない。認識の究極の目的はただちに愛の最終の目的である。私らは愛するがためには知らねばならず、知るがためには愛しなければならない。われらはひっきょう同一律の外に出ることはできない。花のみよく花の心を知る。花の真相を知る植物学者はみずから花であらねばならない。すなわち自己を花に移入して花と一致しなければならない。この自他合一の心こそ愛である。
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