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愛と認識との出発(あいとにんしきとのしゅっぱつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 5:59:17  点击:  切换到繁體中文

 

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 生命の認識的努力

       一

 われらは生きている。われらは内に省みてこの涙のこぼるるほど厳粛なる事実を直観する。宇宙の万物は皆その影をわれらの官能の中に織り、われらの生命の内部に潜める衝動はこれに能動的に働きかけて認識し、情感し、意欲する。かくて生命はおのれみずからの中に含蓄的(implicit)に潜める内容をしだいに分化発展してわれらの内部経験は日に日に複雑になってゆく。この複雑なる内部生命はおのれみずからの存在を完全ならしめ、かつ存在の意識を確実にせんがために、表現の道を外に求めて内に蠢動しゅんどうする。いうまでもなく芸術と哲学とはこの内部生命の表現的努力の二途である。ただ前者が具体的に部分的に写出する内部経験を後者は概念の様式をもって、全体として(as a whole)統一的に表現するのである。かくて得られたる結果は内部生命の投射であり、自己の影であり、達せられた目的は生命の自己認識である。
 われらの生命は情意からばかりはできていない。生命は知情意を統一したる分かつべからざる有機的全体である。われらの情意が芸術のはなやかな国に、情緒生活の潤いを追うてあこがれるとともにわれらの知性は影の寒い思索の境地に内部生命の統一を求めて彷徨しなければならない。じつにわれらは日々の現実生活において血の出るような人格の分裂を経験せずにはいられない。このもとより分かつべからざる有機的なる人格が生木を割くがごとく分裂するということはわれらの生命の系統的存在の破壊であって、近代人の大きな悩みであり、迷いでなければならない。なんとなればすべて生命あるものは系統的存在であって、系統の破壊はただちに生命そのものの滅却であるからである。これじつに空疎なる主観と貧弱なる周囲とがもたらす生命の沈滞荒廃よりもわれらにとっていっそう切実なる害悪であり、苦悩である。
 このゆえにちぎれちぎれの刹那に立って、個々の断片的なる官能的経験をあさりつつ生活の倦怠よりのがれんとする刹那主義者はしばらくき、いやしくも全部生命(whole being)の本然的要求の声に傾聴して統一せる人格的生活を開拓せんとする真摯なる個人は必ず芸術とともに哲学をも要求せずにはいられない。これじつにわれらの飽くことを知らざる知識欲の追求にあらずして、日々の実際生活に眉近く迫れる痛切なる現実の要求である。ここにおいてわれらは大いなる期待と要求とをわが哲学界の上に浴びせかけねばならなかった。
 わが国の哲学界を見渡すときに、われらはうら枯れた冬の野のような寂寥せきりょうを感ずるよりも、乱射した日光にさらされた乾からびた砂山の連なりを思わされる。主なき研究室の空虚を意識せぬでもないが、それよりも街頭に客を呼ぶあさはかな喧騒を聞くような気がする。近代の苦悩を身にしめて、沈痛なる思索をなしつつある哲学者はまことに少ない。まれに出版される書物を見れば通俗的な何々講習会の講演の原稿が美装をらして現われたのにすぎない。著者の個性のあらわれた独創的な思想の盛りあげられた哲学書はほとんどない。深刻な血を吐くような内部生活の推移の跡の辿たどらるるような著書は一冊もない。そればかりではない。彼らは国権の統一にその自由なる思索の翼をからまれている。ローマ教会の教権が中世哲学にるいしたごとく、国権がわが現今の哲学界を損うてる。彼らの倫理思想のいかに怯懦きょうだなることよ。彼らはあおい弓なりの空と、広くほしいままに横たわる地との間に立って、一個の自然児として宇宙の真理を説く思想家ではない。それどころではない。われらと同じく現代の空気を呼吸して生き、現代の特徴をことごとく身に収めて、時代の悩みと憧憬とを理解せる真正なる近代人さえもまれである。彼らはわれら青年と mitleben していない。両者は互いの外に住んでいる。その間にはいのちといのちのあたたかな交感は成り立たない。
 この乾燥した沈滞したあさましきまでに俗気に満ちたるわが哲学界に、たとえば乾からびた山陰のせ地から、あおばんだ白い釣鐘草の花が品高く匂い出ているにも似て、われらに純なる喜びと心強さと、かすかな驚きさえも感じさせるのは西田幾多郎にしだきたろう氏である。
 氏は一個のメタフィジシャンとしてわが哲学界に特殊な地位を占めている。氏は radical empiricism の上に立ちながら明らかに一個のロマンチックの形而上学者である。氏の哲学を読んだ人は何人も淋しい深い秋の海を思わせらるるであろう。氏みずからも「かつて金沢にありしとき、しばしば海辺にたたずんで、淋しい深い秋の海を眺めては無量の感慨に沈んだが、こんな情調は北国の海において殊にしみじみと感じられる」と言っていられる。まことに氏の哲学は南国の燃え立つような紅い花や、裸体の女を思わせるような情熱的な色に乏しく、北国の風の落ちた大海の深い底を秘めて静まり返ってるのを見るような静穏なものである。その淋しい海の面に夢のように落ちる極光のような神秘な色さえ帯びている。色調でいわば深味のある青である。天もげよと燃えあがる※(「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88)の紅ではなく、淋しい不可思議な花の咲く秋の野の黄昏たそがれを、音もなく包む青ばんだもやである。氏はまことに質素な襟飾りを着けた敬虔な哲学者であり、その体系は小じんまりと整頓した研究室をぼんやりと照らす蒼ざめたランプのように典雅な上品なものである。そこには氏の人格の奥床おくゆかしささえ窺われて、確信のそのまま溢れたような飾り気のない文章は氏の内面の生活の素朴を思わせ、人をしてすずろに尊敬の念を起こさせるのである。
 氏の著書としては『善の研究』が一冊あるのみである。その他世に公けにせられたのは「法則」(哲学雑誌)、「ベルグソンの哲学研究法」(芸文)、「論理の理解と数理の理解」(芸文)、「ベルグソンにつきて」(学芸大観)、「宗教的意識」(心理研究)、「認識論者としてのポアンカレ」(芸文)等の数篇の論文がある。しかしこれらはみな個々の特殊な問題について論じられた断片的なものであって、氏の哲学思想全体が一つの纏ったる体系として発表せられたのは『善の研究』であって、氏の哲学界における地位を定むるものもこの書であることはいうまでもない。この書は十年以前に書き始められたのであって、今日の思想はいくぶんかこれよりも推移し発展しているからいつか書き替えたいと思ってるが、その根本思想は今日といえども依然として変じないといっておられる。しかのみならず、氏みずから語るところによれば五十歳を過ぎるまでは大きな著述はしないとのことであれば(氏はいま四十三歳である)、われらが氏の沈痛なる思索を傾注せられた結果として、深遠な思想の盛り溢れた重々しき第二の著書を手にするときはなお遠いことと思うから、ひとまず前述の著書および論文に表われたる氏の思想およびこれらを透してうかがわるる氏の人格について論じてみたいと思うのである。私はみずからはからずして氏の思想の哲学的価値に関して、是非の判断を下そうとするのではない。哲学者としての氏の思想および人格をあるがままに、一の方針の下に叙述しようと試みるのである。論者の目的は氏の解釈である。その態度は valuation でなくして exposition である。

       二

 青草をいてすわれ。あらゆる因襲的なる価値意識より放たれて、裸のままにほうり出されたる一個の Naturkind として、鏡の如き官能を周囲に向けてみよ。大きな蒼い円味を帯びた天はわれらの頭上に蔽い被ぶさって、光をつつんだ白雲はさりげなく漂うてる。平らかな堅い地はほしいままに広くわれらの足下に延びて、水は銀のごとくきらめき流れる。風の落ちた大原野に、濡れたる星は愁わしげにまたたけば、幾千万の木葉はそよぎを収めて、死んだように静まり返る。そしてわれらのうら寒い背をかすめて永遠の時間が足音を忍んでひそかに移り行くのを感ずるとき、われらの胸にはとりとめのない寂寥が影のように襲うであろう。眼前に眉を圧して鬱然として反り返る大きな山は、今にも崩れ落ちてかぼそい命を圧しつぶしはすまいか。ああわれらは生きている。ほそぼそと溜息を漏らしつつ生きているのだ。われらの生命の重味を載する二本の足のいかに心細くも瘠せて見ゆるではないか!
 このとき来ってわれらに絶大なる価値を迫るものは認識である。われらが認識するという心強き事実である。主観を離れて客観は成り立たない。万象はことごとくその影をわれらの官能の中に織り込んでいる。かばかりいかめしき大自然の生成にわれらの主観が欠くべからざる要素であることに気がつくとき、われらはいまさらのごとく生命を痛感せずにはいられない。われらのける一個の小さき ego のなかに封じられたる無限の神秘を思わずにはいられない。かくて眼前に横たわる一個の石塊もわれらにとっては不可思議であって、彼我の間の本質的関係を考えずには生きられなくなる。じつに認識の「おどろき」はいのちの自覚である。深遠なる形而上学はこの「おどろき」より出発しなければならない。『善の研究』が倫理を主題としながらも認識論をもって始まっているのは偶然でない。私はまず氏の哲学の根本であり、骨子である認識論より考察を始めなければならない。
 氏の認識論の根底は radical empiricism である。厳粛なる経験主義である。近世哲学の底を貫流する根調である経験的傾向を究極まで徹底せしめて得たる最醇さいじゅんなる経験である。自己の意識状態を直下に経験したときいまだ主もなく客もなき、知識と対象とが全く一致している、なんらの思惟しいも混じない事実そのままの現在意識をもって実在とするのであって、氏はこれを純粋経験と名づけている。近世の初め、経験論を力説したのはベーコンであるが、その経験という意義が粗笨そほんであったために、今日の唯物論を導いたのであるが、西田氏はこの語の意義を極度まで純化することによって、かえって唯物論を裏切り、深遠な形而上学を建設したのである。経験という語と形而上学という語とは哲学史上背を合わしてきているにもかかわらず、氏の体系においては経験はただちに形而上学の拠って立つ根底である。これは氏の哲学の著しい特色といわなければならない。氏はいたるところ唯物論の誤謬を指摘して、実在の真相の解釈としての科学の価値を排斥しているが、その排斥の方法は科学の拠ってもっておのれを支持する基礎である、いわゆる経験を吟味して「それは経験ではない、概念である」と主張するのである。これほど肉薄的な根本的な、そして堂々とした白日戦を思わせるような攻撃の仕方はあるまい。

 唯物論者ゆゐぶつろんしやや一般の科学者は物体が唯一ゆゐいつの実在であつて、万物は皆物力の法則に従ふと言ふ。しかし実在の真相ははたしてかくのごときものであらうか。物体といふも我々われわれの意識現象を離れて、別に独立の実在を知り得るのではない。我々に与へられたる直接経験の事実はただこの意識現象あるのみである。空間も時間も物力も皆この事実を統一説明するために設けられたる概念である。物理学者の言ふやうなすべて我々の個人の性を除去したる純物質といふ如きものは、最も具体的事実に遠ざかりたる抽象的概念である。(善の研究――四の三)


 しかしながら注意すべきことは氏は口をきわめて唯物論者を非難しているけれども、けっして主観のみの実在性を説く唯心論者ではないことである。氏はむしろヴントらと立脚地を同じくせる絶対論者である。ヴントが黄金期の認識として説く写象客観(Objektvorstellung)のごとく、主観と客観との差別のない、物心を統一せる第三絶対者をもって実在とするのである。この点は氏の哲学が客観世界を主観の活動の所産とするフィヒテの超越的唯心論と異なり、むしろシェリングのいわゆる das Absolute に類似するところであって氏はこれを明言している。

 元来精神と自然と二種の実在があるのではない。この二者の区別は同一実在の見方の相違より起るのである。純粋経験の事実においては主客の対立なく、精神と物体との区別なく、心即物、物即心、ただ一個の現実あるのみである。かくいづれかの一方に偏せるものは抽象的概念であつて、二者合一して初めて完全な具体的実在となるのである。(善の研究――四の三)


 しからばこの唯一の実在なる、現実なる絶対者よりいかにして主観と客観との対立は生ずるであろうか。
 氏はこの疑問に答えて、絶対者の中に含まるる内容が内面的必然に分化発展するというのである。けだしこの説明は氏の根本の立場から見て論理的必然の結果であろう。氏は第一事実としてこの唯一実在のほか何ものをも仮定しないのであるから、もし現象の説明としてなんらかの意味において動的の要素をこれに与えなければならないならば働くものと、働きかけらるるものとの対立は一者のなかに統一されなければならない。すなわち唯一実在の自発自展でなければならない。しこうして分化発展の結果として生ずる新しき性質は可能性の形において絶対者の中に初めより含まれていなければならない。哲学は現象の複雑相を説明する統一原理を求むる学である。一と多との問題はその枢軸である。いま氏は実在として唯一絶対者を立した。この絶対者は一にして同時に多でなければならない。このことたるいかにして可能であるか。一にして同時に多であるためには、その一は数的一ではなくして部分を統一する全体としての一でなければならない。氏はこの要求よりヘーゲルの主理説にゆかねばならなかった。すなわち氏は実在をもって系統的存在となした。「すべて存在するものは理性的なり」とヘーゲルがいったように実在は体系をなしている。差別と統一とをおのれみずからの中に含んでいる。実在の根底には必ず統一が潜んでいる。統一は対立を予想している。対立を離れて統一はない。たとえばここに真に単純であって独立せる要素が実在せりと仮定せよ。しからばその者はなんらかの性質もしくは作用を有せなければならない。全くなんらの性質も作用もない者は無と同一である。しかるに作用するということは必ず他のものに対して働くのであって二者の対立がなければならない。加うるにこの二者が互いに独立して何の関係も無いものならば作用することはできない。そこにはこの二者を統一する第三者が無ければならない。たとえば物理学者の仮定する元子が実在するためには、それが作用する他の元子が存在しなければならぬのみならず、二者を統一する「力」というものを予想しなければならない。また一の性質たとえば赤という色が実在するためには、その性質と区別せらるる他の色が対立しなければならない。色が赤のみであるならば赤という色の表われ方がない。しかのみならずこの二者を統一する第三者がなければならない。なんとなれば全く相独立して互いになんらの関係のない二つの性質は比較し区別することはできないからである。ゆえに真に単純なる独立せる要素の実在ということは矛盾せる観念である。実在するものはみな対立と統一とを含める系統的存在である。その背後には必ず統一的或者が潜んでいる。
 しからばこの統一的或者は常にわれらの思惟の対象となることのできないものである。なんとなればそれがすでに思考されているときは他と対位している。しこうして統一はその奥に移って行くからである。かくて統一は無限に進んで止まるところを知らない。しこうして統一的或者は常にわれらの思惟の捕捉を逸している。われらの思惟を可能ならしめるけれども、思惟の対象とはならない。この統一的或者を神という。

 一方より見れば神はニコラス・クザウヌスなどの言つた如くすべての否定である。これと言つて肯定すべきもの、即ち捕捉すべきものがあるならばすでに有限であつて宇宙を統一する無限の作用をなす事は出来ない。この点より見て神は全く無である。しからば神は単に無であるか。決してさうではない。実在成立の根柢には歴々として動かすべからざる統一作用が働いてる。実在は是によつて成立するのである。神の宇宙の統一である。実在の根本である。そのよく無なるがゆゑらざる処なく、働かざる所がないのである。(善の研究――二の十)


 この氏のいわゆる神の本質に関しては、後に氏の宗教を観察するときに論ずることとしてここには主として認識論の問題より、神の認識について考えてみようと思う。
 しからばわれらはいかにして、この統一的或者を認識することが可能であるか。
 氏はここにおいてわれらの認識能力に思惟のほかに知的直観(intellektuelle Anschauung)をあげている。氏のいわゆる知的直観は事実を離れたる抽象的一般性の真覚をいうのではない。純一無雑なる意識統一の根底において、最も事実に直接なる、具体的なる認識作用である。知らるるものと知るものと合一せるものの最も内面的なる会得えとくをいうのである。われらの思惟の根底には明らかにこの知的真観[#「真観」はママ]が横たわっている。われらは実在の根本に潜む統一的或者を思惟の対象として外より知ることはできないけれど、みずから統一的或者と合一することによりて内より直接に知ることができるのである。時間空間に束縛されたるわれらの小さき胸のなかにも実在の無限なる統一力が潜んでいる。われらは自己の心底において宇宙を構成せる実在の根本を知ることができる。すなわち神の面目を捕捉することができる。ヤコブ・ベーメのいったごとくに「ひるがえされたる目」をもてただちに神を見るのである。かくいえば知的直観なるものははなはだ空想的にして不可思議なる神秘的能力のごとく思われる。あるいはしからずとするも、非凡なる芸術的、哲学的天才のみのあずかることを得る超越的認識のごとく思われる。しかしけっしてそうではない。最も自然にして、原始的なるわれらに最も近き認識である。鏡のごとく清らかに、小児のごとく空しき心にただちに映ずる実在の面影である。

 知的直観とは純粋経験にける統一作用そのものである。生命の捕捉である。即ち技術の骨の如きもの、一層深く言へば美術の精神の如きものである。例へば画家の興来たり、筆自ら動くやうに複雑なる作用の背後に統一的或者が働いてる。その変化は無意識の変化ではない。一者の発展完成である。この一者の会得が知的直覚である。普通の心理学では単に習慣であるとか、有機作用であるとか言ふであらうが、純粋経験の立場より見れば、これ実に主客合一、知意融合の状態である。物我相忘じ、物が我を動かすのでもない。我が物を動かすのでもない。ただ一の光景、一の現実があるのみである。(善の研究――一の四)


 氏の認識論においては to know はただちに to be である。甲のみよく甲を知る。あるものを会得するにはみずからそのものであらねばならない。野に横たわる一塊の石の心は、みずから石と合致し、石となるときにのみ知ることができる。しからざるときは主観と石とが対立し、ある一方面から石をのぞいているのであって、ある特定の立場から石を眺めてこれを合目的の知識の系統に従属せしめんとするのである。いまだ石そのものの完全なる知識ではないのである。すべての科学的真理はかかる性質の知識であって、われらの生活の実行的意識の理想から対象物を眺めたる部分的、方法的なる物の外面的の知識系統であって、物そのものの内面的なる会得ではない。ここにおいて氏の認識は科学者の分析的理解力よりも、詩人の直観的創作力に著しく接近してきて、われらをして科学的真理の価値の過重からきたる器械的見方の迷妄より免れしめ、新しくて、不思議の光に潤うたる瞳をもって自然と人生とを眺めしめるのである。

 ハイネは静夜の星を仰いで蒼空に於ける金のびやうと言つたが、天文学者はこれを詩人の囈言うはごととして一笑に付するであらうが、星の真相はかへつてこの一句の中に現はれてゐるかも知れない。(善の研究――二の三)


 氏の知的直観はじつに認識作用の極致であって、氏の哲学の最も光彩ある部分である。
 つぎにわれらは氏とプラグマチズムとの関係を考えてみなければならない。氏の認識論の経験を重んじ、純粋なる経験のほかには絶対的に何ものをも認めない点においてはプラグマチズムの出発点と同一である。氏のいわゆる純粋経験はプラグマチズムの主唱者であるゼームスの pure experience の和訳である。そのゼームスが自己の認識論の立脚点をプラグマチズムと名づけたのはピアースの用語を踏襲したのであって、それまでは Radical empiricism と呼んだのである。その意味は経験のほか何ものをも仮定せずというにある。してみれば西田氏の認識論の出発点はプラグマチズムであるといっても差支えはあるまい。しかしながらこれをもってただちに氏をプラグマチストと解釈するならば大なる誤解である。少なくとも田中王堂氏がプラグマチストであるがごとき意味において、西田氏はけっして単なるプラグマチストではない。氏は認識論の出発点としてはプラグマチズムの純粋経験を採るにもかかわらず、真理の解釈に関してはプラグマチズムと背を合わせたるがごとき態度を持している。すなわちプラグマチズムは真理の解釈に関して著しく主観的態度をとり、真理の標準は有用であり、実際的効果であり、われらの主観的要求がすなわち客観的事実であるというのである。しかるに西田氏は真理の解釈に対して厳密に客観的態度をとり、主観の混淆を避け、主観的要求によりて色づけらるる意味をしりぞけて、純粋に事実そのままの認識をもって真理とするのである。プラグマチズムの真理は氏より見れば一つの実行的理想を立てて、これに適合するように対象物を一の特定の方面より眺めたる相対的真理にすぎない。いまだ物そのものの最深なる真相ではないのである。最深の真理はわれらが実行的目的より離れて、純粋に事実に即し、物そのものと一致して得る会得である。ショウペンハウエルのいわゆる「意志を離れたる純粋認識の主観」となって、事物の内実本性を直観するのである。さればとて氏は主観を離れて真理の客観的実在性を説くのではもちろんない。氏は真理に対して主観と客観とを超越せる絶対的実在性を要求するのである。

 我々が物の真相を知るといふのは自己の妄想臆断まうさうおくだん即ちいはゆる主観的のものを消磨し尽し物の真相に一致した時始めてこれくするのである。我々は客観的になればなるだけ物の真相をますます能く知る事が出来る。(善の研究――四の五)


 と論じているのを見ても、また認識論者としてのポアンカレを論じて、真理が単に主観的なコンベンショナルな、学者が人工的に作為したるもので、単に便利なものとはいえない、真理は経験的事実に基づいたものであることを主張しその論文の末段に、

 ポアンカレは単に有用なるものは真理であるとか、思惟しゐの経済といふやうなことで満足し得るプラグマチストたるにはあまりに鋭き頭を持つてゐた。氏は何物も自己の主観的独断を加へない。種々の科学的知識を解剖台上に持来もちきたつて、明らかに物そのものを解剖して見せたのである。(芸文――十月号)


 と評しているのを見ても氏がみずからをプラグマチズムに対して持する態度を知るにはあまりあるであろう。プラグマチズムは敬虔にして、情趣こまやかなる人々の歩むにはあまりに平浅な道である。西田氏がプラグマチズムに発しながら、プラグマチズムに終わらなかったのは、その原因を氏の個性の上に帰せねばなるまい。氏はもののあわれを知るロマンチストである。その歩む道には青草と泉とがなければならなかった。蒼い空を仰いでは群星の統一に打たれ、淋しい深い北国の海を眺めて、無量の哀調を聞くことを忘れざる西田氏は、ベルグソンの神秘とヘーゲルの深遠とを慕うて、その哲学体系を豊かに、潤いて、物なつかしく、深くして、不思議にした。氏の哲学はじつに概念の芸術であり、論理の宗教である。

       三

 われらが自己に対して最高の尊敬の情を感ずるのは、われらが道徳的意識の最深の動因によりて行動したりと自覚するときである。われらが自己の胸底に最醇の満足を意識するのはみずから正善の道をめりと天に対して語り得るときである。われらが自己の生命の発露に最も強き力を感ずるのは、自己の内面的本性の要求に従いて必然的に動きし刹那である。万人はことごとく詩人たり、哲人たるを要しない。ただあらゆる人間は善人でなければならない。道義の観念は全人類に普汎的に要求さるべき人間最後の価値意識である。われらは善人たらんとする意志の燃焼を欲する。ただわれらは因襲的なる不純、不合理なる常識道徳の束縛に反抗する。天地の間に大自然の空気を呼吸して生ける Naturkind として赤裸々なる心をもって真新なる道徳を憧憬する。われらが渇けるがごとくに求めつつある善の概念の内容は自然の真相と性情の満足とにあわせ応うる豊富にして徹底せるものでなければならない。
 西田氏がその著に冠するに『善の研究』の名をもってしたのはこの問題が思索の中心であり、根本であると考えたからである。
 道徳的意識は当然意志の自由という観念を予想してる。これを認めないならば道徳は所詮迷妄にすぎない。ある動機よりある行為が器械的必然に決定せらるるならば、われらはその行為に対して責任の観念を有することは不可能だからである。氏はまず意志の自由を承認しかつその範囲および意義をきわめて徹底的に研究している。氏は意志の自由の範囲を限定して、観念成立の先在的法則の範囲において、しかも観念結合に二個以上の道があり、これらの結合の強度が強迫的ならざる場合においてのみ全然選択の自由を有することを明らかにした。さてしからば自由の意義如何いかん
 自由には二種の意義がある。一はなんらの原因も理由もなく、偶然に動機を決定する随意という意味の自由である。他は自己の本然の性質にのっとり、内心の最深の動機によりて必然的に動く内面的必然という意味の自由である。もし前者のごとき意味において自由を主張するならば、それは全く迷妄であるのみならず、かかる場合にはわれらはその行為に対して自由の感情を意識せずしてかえって強迫を感ずるのである。われらの有する自由は後者のごとく内面的必然の自由である。内面的に束縛せらるることによりて、外面の事由より自由を獲得するのである。自己に忠実であり、自己の個性に対して必然であり、おのれみずからの法則に服従することによりて自由を得るのである。しかしここに大きな問題が頭をもたげてくる。もし自己の内面的性質に従って動くのが自由であるならば、万物みな自己の性質に従って動かぬものはない。水の流るるも、火の燃ゆるもみな自己の内面の性質に従うのである。しかるにわれらは何ゆえに自然現象をば盲目的必然の法則に束縛せられているというのであるか。氏のいわゆる必然的自由は Mechanism と危くも顔を見合わせているといわねばならない。しかしながら内面的必然と器械的必然の間には鮮やかな一線が横たわっている。その人類の隷属と自由との境を画する月にきらめく銀流のような一線は何であるか。それは認識である。生命の自己認識の努力である。じつに西田氏ほど認識を神秘化した哲学者はあるまい。認識は氏の哲学のアルファでありまたオメガである。氏によれば認識の性質のなかに自由の観念が含蓄されている。自然現象においてはある一定の事情よりは、ある一定の現象を生ずるのであってその間に毫釐ごうりも他の可能性を許さない。全く盲目的必然の因果関係によりて生ずるのである。しかるに「知る」ということには他の可能性が含まれている。歩むことを知るというには歩まずとも済むという可能性が含まれている。われらの行為がたとい必然の法則によりて生ずるともわれらはみずからそれを知るがゆえに自由なのである。われらは他より束縛せられ、圧抑せらるるとも、みずからそのやみがたき事情を知るときにはその束縛、圧抑を脱して安らかな心を持することができる。天命の免れがたきを知り、自己のなすべき最善のことをなして毒盃を含んで自殺したるソクラテスの心境はアゼンス人の抑圧を超越して悠々として自由である。氏はパスカルの語を引いて、「人はあしのごとく弱し。されど人は考うる葦なり。全世界が彼を滅ぼさんとするとも、彼は死することを自知するがゆえに、殺す者よりもとうとし」といっている。われらはここにおいて認識なるものに対して驚異の目を見張らざるを得ない。認識能力が人間の無上の天稟であり、めでたき宝であることを思い、認識が人生において占有する地位の厳粛なることを痛感せずにはいられない。知識の拡張は同時に自由の拡張である。無機物より有機物に進んで、人間に至るに従い、意志はしだいに明瞭に、認識は階段をなして発達しきたっている。すなわち生命はしだいにおのれ自身を認識してきている。それと共に自由はしだいに拡張せらるるのであろう。しかしながら氏のいうごとく自然現象と意識現象との間に前者は必然にして後者は自由であるというような絶対的の区別があるとは思えない。今日の生物学が言うように無機物にもなおきわめて低き程度の意識を許さねばならないならば、同時にきわめて低き程度の自由をも認めなければなるまい。自由は要するに程度の問題である。無機物より人間に至るまで実在の自己認識の努力の発達に従いてしだいに高き程度の自由に進むと考える方が、いっそう氏の思想を徹底せしめないであろうか。われらはこの自由の発展的過程の階段に立てるみずからを発見することに大なる喜悦を感ずるのである。
 しかしながらわれらがここに疑問を起こさざるを得ないのは行為の自然ということと、自覚ということとははたして矛盾なく調和せらるるかという問題である。氏の自由とは内面的に自己の本性に必然なること、換言すれば自然ということである。しこうしてその内面的必然なる行為が自由であり得る条件はその行為が自覚されるというにある。しかし事実として自然なる行為が自覚を伴うであろうか。われらの行為が自然に発動するときは、むしろ無意識の状態であって、氏の盲目的なりとなす自然現象に酷似している。われらの行為に自覚が伴うのはその行為の発動が妨げられたるときである。最も自然なる行為はなんらの反省も自覚も伴わざる流動的なる自発活動である。
 この見かけの矛盾を調和するためには自覚の内化、知識の本性化ということを考えなければならない。すなわち知識がいまだ外的であって、十分に自己のものとならず、自己の本性の中に包摂せられざる間は行為の自然の発露を妨げるけれども、その知識が完全に内的に自己のものとして会得されたときには、直接に行為と合致して、その自然の開展を妨げない。たとえば熟練なるピアニストはその指の鍵盤に触るることを意識しない。しかしこの場合には、指もて鍵盤を打ちつつあることを知らぬのではない。その知識が直接に行為に包摂されて、これと合致してるのである。すなわち純粋経験の状態であって、知と行とが一致してるのである。善事を行なうにしても、善行をなしつつあることを意識せる間はその徳がただちにその人の本性となってるのではない。孔子が心の欲するところに従うてのりえずといったごとく、自然のままに行ないしことがただちに徳に適ってるときその人は真に徳を会得しているといい得る。徳の知識が本性の内に体得されているがゆえに、自然のままの行がただちに徳と合するのである。真実の知識はただちに行為を誘うて自然にして無意識なる自発自展を開始する。このときは現前唯一の事実あるのみである。知識はその中に包摂されている。よく知らざるがゆえに知るのである。かくして自然と自覚と自由とは純粋経験の状態においてただちに融合して一如いちにょとなるのである。
 善は自己が自己に対する要求である。われらは他人のために善をなすのではない。自己の人格的要求に促されてなすのである。罪悪を犯ししときにきたる内心の苦悩は他人の上に被らせし害悪をいたむのではない。自己の人格の欠陥と矛盾とを嘆くのである。善行をなししときにくる内心の喜悦は、その結果として起こる他人の幸福に対してでもなく、自己の上に返るべき報酬に対してでもなく、全く自己の人格の完成、向上に対する純なるたましいの喜びである。真正なる善は自己の人格を対象とせる観照的意識より生じなければならない。われらの意志の上にかかるおのれみずからの要求でなければならない。西田氏の倫理思想は真新なる意味における個人主義である。
 しからば善の内容をなすものは何か。それはわれらの生命の本然的要求である。価値は要求に対する合目的性である。道徳的判断が一の価値判断である以上、それが要求を予想してることはいうまでもない。しこうしてその要求なるものはそれ自身価値の尺度であって、評価の対象にはならない。いいとか、わるいとかいう差別を超越したものである。それはただわれらに与えらるるものである。自然にわれらに備わる性質である。じつにこの本然の要求こそわれら自身の本体である。Wollen を離れては Sollen は無意義である。善が所有する命令的要素はこの自己本然の要求の上に求めるほかはない。われらに本然に備われる要求は動かすべからざるザインであって同時にゾルレンの根源をなすものである。Du sollst という声がもし外部よりわれらを襲うならばわれらはニイチェの獅子と共に Ich will と叫んで頭を振るよりほかはない。しかしこの命令が自己の内部より発したとき、自己内面の本然的要求の上に基礎を置いたとき、われらはその声に傾聴しなければならない。かくて自律の道徳は起こり、真実の自由は始まる。すなわち氏の倫理思想は自然主義である。
 この自然主義が誤れる刹那の観念の上に立つとき刹那主義が生まれる。刹那主義には確かに厳粛なる一面の真理が含まれている。かつ空しき過去の追憶と、未来の映像とに生きんとする者に、「汝らは何処いずこに立てりや」と問うものはこの主義である。現実主義が確固たる足場を得んがために、その哲学的反省を「時間」に関しておのれみずからの上に加うることによりて生じたのである。われらはただ現在にのみ立ってる。未来も過去も内容なき空殻である。ショウペンハウエルもその主著に次のごとく論じている。

 Die Form der Erscheinung des Willens also die Form des Lebens oder der Realil※(ダイエレシス付きA小文字)t ist eigentlich nur die Gegenwart, nicht Zukunft noch Vergangenheit: diese sind nur in Begriff, sind nur in Zusammenhang der Erkenntnis da. In der Vergangenheit hat kein Mensch gelebt, und in der Zukunft wird nie einer leben sondern die Gegenwart allein ist die Form alles Lebens, ist aber auch sein sicherer Besitz, der ihm nie entreissen werden kann.(Die Welt als Wille und Vorstellung)


 この現在にいくらかの延長を想像し、これを分割して得たる単位時間のなかに、われらの生活の最後の基礎を置かんとするのが刹那主義者である。かくて彼らは刹那刹那の断片的なる要求を満足することにおいて正善な生活を見いださんことを主張する。刹那主義はその動因をわれらの生活基礎を確実にし、価値意識を純化せんとする真面目なる動機に発したものではあるけれど、その思索の過程にはたしかに概念的の錯誤が横たわってるのである。
 第一に彼らはわれらの意識現象を時間のなかに生滅するものと考えている。第二に時間を空間に翻訳して若干の単位に分割し得るものと考えている。
 しかし時間はわれらの意識現象を統一するために主観が設けた概念である。時間のなかに意識があるのではなく、意識の上に時間が支えらるるのである。意識を離れてただ抽象的に、延長のみ考えるならば、時間のなかに過去と未来とより切り放たれたる独立せる現在、すなわち刹那なるものが立て得らるるであろう。しかし事実として時間は意識をもって填充せられている。時間の推移とは意識現象が一の統一より他の統一へと移り行く過程であって、それは流動的なる純粋の継続であって分割すべからざるものである。その統一の頂点が常に「今」であるが、その今はそれ自身過去と未来との要素を含んでいる。一つ一つ併列して互いの外にある幾何学的の点のような刹那というものはどこにも存在しない。意識現象はいかに単純であっても必ず組成的である。すなわち複雑なる要素を含んでいる。これらの要素は孤立的でなく互いに相関係して意味を持っている。一生の意識もかくのごとき一系統である。われらの本然的なる要求もけっして孤独に起こるのではない。種々の要求は互いに相関係している。その全体の統一がすなわち自己である。ゆえに一時のまた個々の要求を断片的に満足せしめるのが善ではない。善とは全体としての一系統の本然的要求、換言すれば全部生命の要求を満足せしめることである。その全部生命は知情意を統一せる不可分の有機的全体である。これを人格と名付けるならば善とは人格の要求の実現である。けっして断片的なる官能的欲望のみの充足を言うのではない。
 西田氏の倫理思想は一言にして蔽えば人格的自然主義である。この人格的自然主義は享楽主義よりもいっそう根本的なる深刻なる基礎に立つものである。生命の底にいっそう深く根を下ろしたる気分より起こるものである。快苦は衝動の充足さるるか否かによりて生ずる感情であって生命の第二義的の産物である。第一義的の価値は衝動そのものである。自然主義は衝動そのもののなかに価値の重点を置くのである。快苦は後より生ずる結果である。自然主義は生命の内部より起こる本然の要求に押されつつ生きるのである。生を味わう心ではない。ただ生きんがために生きる努力である。ショウペンハウエルは半世紀の昔、Alles Leben Leiden. といった。「生きるは悩み」と知りながら、なお、苦痛の中に価値を見いだしつつ生きる心こそ自然主義の根本的覚悟である。飢えたる者には食欲あることは苦痛であり、失恋の人には愛あることは悩みであろう。しかもなお食わんとし、恋いんとするのである。やむにやまれぬ生命の本然の要求は絶対の価値あるザインである。自然主義はこのザインに生存の意義を見いだすのである。
 自然ということは西田氏の思想全体を一貫せる根本精神であるが、その倫理思想にはこの傾向がことに力強く現われている。すべてのものをしてあるがままにあらしめよ、世に最も尊くして美しく不可思議なるものはザインである。氏が自然に対する純なる嘆美と敬虔の情は氏の倫理学をして著しく芸術と宗教とに接近せしめている。
 氏は善が諸種の要求の調和であることを説いてはプラトーの善を音楽のハルモニーにたとえしことを述べ、善の要求の厳粛なることを論じては、カントが蒼空の星群の統一と並べて、内心に存在する道徳的法則を称嘆せし例を引き、万人の意識の普汎性を説いては野より帰れる淋しき書斎のファウストを思い、善の極致としての主客の融合を論じては創作衝動に駆られて自己を忘れたる芸術家の神来と同一視し、『宗教的意識』には「すべて万物が自己の内面的本性を発露したときが美である」というロダンの語を引いて美と善との一致を説いている。
 そればかりではない。氏の自然に対する敬虔の情は氏をして善悪の対立をそのままに放置せしめなかった。何ゆえに自然に罪悪なるものが存在するのであるか。これ心清きものの胸を悩ます種であろう。氏はかばかり統一せる調和せる自然に本質的なる罪悪の存在を許すに堪えなかった。かくて包括的なる宗教的の立場より、罪悪を自然の外に排除せんと試みて、

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