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愛と認識との出発(あいとにんしきとのしゅっぱつ)
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[#改ページ]
地上の男女 ――純潔なる青年に贈る――
肉体的要求を、ただ肉体的要求なるがゆえに悪しと見る思想が斥けられてから、近代の教養を受けたる人々は、官能の要求に多大の価値を認めてきた。しこうしてそれは正しき主張であった。けれども軽卒なる近代人は、近代の文化が一般にその上を迷いきたる外道に導かれて、多くの重要なる錯誤に陥ったように見ゆる。中につきても、私はその最も忌むべきものの一つとして、愛と肉交との問題を挙げずにはいられない。 男女が肉体の交わりをなすことは、日本の在来の習慣(あえて道徳とはいわない)ではなんらかの形式において社会的公認を得たる夫婦の間においてのみ正しとされた。近代人はまずこの思想を毀した。私もこれに対してはなんらの異議も持たない。道徳は社会制度の規定より生ずるものではない。天の下、地の上に人間と人間とが交わるときに、われらの心の奥に内在する真理の声によって定まるのである。たとい夫婦の間に行なわるる肉交のみが正しとするも、(私はそれをも認めないが)そは夫婦なる社会上の規定にその根拠を持たずして、夫婦関係に特在するある事情がそれを許すのでなくてはならない。これに次いで来たるものは、恋愛が存在する男女間の肉交は正しとする思想である。この思想は新人の間に最も認めらるる思想であって、ここに私は主としてこの思想に対する私の疑点を述べたいのである。このほかになお一般に絶対に肉交を是認する思想がある。その唯一の理由は肉交は人間の自然に与えられたる生理的要求であるからであるというのである。しかし、それは道徳とは何の関係もない、単に事実である。存在の法則から価値の法則を導くことはできない。単に要求といわば、人間のすべての行為は形式上要求の充足である。いかなる行為も十分なる動機の充足律なくして生ずるものはない。けれど道徳はそれを善しと見あるいは悪しと見ることができる。ドイトリッヒにいわば、人間のあらゆる要求をばことごとく悪しと見ることも可能なのである。さて、愛があれば肉交をしても善いという思想はどこにあるのであろうか。それは愛を善しと見る、しこうして肉交は愛の必然的結果であるというのである。おもえらく、生命は第一に精神と身体との無関係の別個の両存在ではなく、この二者は一如である。一つの全体としての生命の二つの顕現である。肉体は精神の象徴である。一つの全体として生命を内観すれば精神であり、外より官能を透して知覚すれば身体である。ゆえに内にありて心と心との抱合は、外にありては肉と肉との抱合である。愛が最高潮に達せるとき、それを外より見れば肉交となる。すなわち相愛の男女の心と心との抱合を象徴するがごとき肉交は善いというのである。かつて私はこの思想を信じた。そして私は単に肉交を許さるべきものとして要求したのでもなく、また性欲に圧迫されて要求したのでもなく、じつに二人の恋を完全なるものとなすには肉交しなければならぬと信じて肉の交わりをせんとした。すなわち完全なる恋は生命と生命との抱合すなわち霊肉をもって霊肉と抱合せねば虚偽であると考えたからである。けれど私は今はこの思想を疑っている。そしてときどき私はそのときのことを考えて羞恥と後悔との念に打たれる。そして私はかかる立ち入った問題に触れるのは好まないけれど、今の多くの青年はおそらく私がかつて考えたごとくに恋と肉交との関係を考えていることと思い、そしてこの問題はことに痛ましき切実なる問題であると感じるゆえに、再考を乞いたいために、少なくともここに一人かつてはそれを信じ、今は疑うてる人間がいることを知らしめたいためにこの文章を書くのである。結論を先きに掲げれば、私は肉交は愛の必然的結果ではないと思う。いなむしろ肉交は愛と別物なるのみならず、愛の反対である。もし愛を善しと見るならば、肉交は悪しきものである。互いに愛する男女はけっして肉交してはならない! と私は思うのである。かく考うるに至れる心的過程を次に述べてみる。 第一、生命が精神と身体とに区別できないという説には私も肯く。けれどこの唯物論と唯心論との調和は、キリスト教的の霊と肉との調和とは別事である。聖書の「霊」とベルグソンの『物質と記憶』の「精神」と、および聖書の「肉」と『物質と記憶』の「身体」とは異なる概念である。たとえば後者では意志は精神であっても、前者では霊でもあり、肉でもある。聖書の霊肉は精神作用の二種である。後者では性欲は精神であるが、キリスト教的には肉である。物心一如論はただ性欲と肉交との間には象徴的関係があることのみを主張する。けれどそれが善いとか悪いとかを主張するのではない。聖書に拠れば、性欲は悪い、ゆえにその象徴なる肉交も悪いのである。すなわち、キリストによれば性欲と肉交とは初めより終わりまで肉である。そのどこにも霊はない。 第二、肉交は愛の象徴ではない。肉交はなんらかの精神的要素の象徴であるに相違ない。しかし愛の象徴ではない。「内より見れば愛、外より見れば肉交」という関係は成立しない。私は肉交が性欲の象徴であることを認める。けれど、愛の象徴であることは認めない。換言すれば二人の愛が高潮したときには、その愛の肉体的表現が肉交にはならない。あるいはその肉体的表現としては抱擁して泣くかもしれない。あるいは互いに充実して沈黙するかもしれない。その他のいかなる表現をとることもあろう。しかし肉交にはならない。肉交は愛の要求からは起こらずに、他の全く異なる要求すなわち性欲から起こる。肉交はその要求の象徴である。愛とは何の本質的関係もない。肉交の要求が生ずるときは愛の弛んでいるときである。二人が真に愛しているときは感謝と涙とにはなるが肉交にはならない。そして肉交しているときは二人は少しも愛していない。肉交の頂点にあるときは二人は全くなんの関係もなく互いを忘れている。この状態は心と心との抱擁を証していると誤まられる。そこに根本的の錯誤がある。 第三、肉交のエクスタシイは愛のエクスタシイではない、肉交はけっして霊肉の法悦ではなく、キリスト教的にいわば肉のみの楽欲である。霊は与っていない。そのエクスタシイは男女が互いに相手の運命を忘却して自己の興味に溺れたるときに起こる。相手の運命と自己の運命とが触れるのではなく対手を「物」とし「財」として生じたるエクスタシイである。心と心との接触ではなく、心と物との接触である、その相は生物と生物との共食いの相と同じ系統に属している。しこうして肉交の最も嫌悪すべきは、この恐るべき相を愛の絶対境と混同しあるいはみずから欺くところにある。愛の絶対境は犠牲であって肉交ではない。肉交はエゴイズムの絶対境である。ある人はいうであろう、すべての肉交がそうではない、強姦や買春の場合はそうであっても、相愛の人の肉交は愛のエクスタシイであると。しかしたとい相愛の人といえども肉交するときはけっして相手を愛してはいない。以上の提言は相愛の人の肉交についてなしたのである。ここに二人のあいびきしたときの場景を想像してみよ。二人は純粋に愛している間は性欲は起こらない。涙と感謝とである。けれどもその愛の少し弛んだとき他の全く異なれる要求がはたらき始める。そのとき愛と性欲とが混じてはたらく。したがってその愛は不純になる。そしてしだいに性欲がプレドミネートするに従って愛は退く。そしてついに性欲が勝をしめる。そして肉交になる。そしてクライマックスになる。そのときは全く愛はない。相手の運命などを考えてはいない。自己の興味――いな自己も与らざる自然力の興味に溺れている。私は不愉快を忍んでもっと鋭くいおう。たとえば相手の愛人がからだ具合が悪いときにでも肉交の要求は起こるであろう。もし肉交の中途においてある愛人の生命に危険をおよぼすごときできごとが生じても、肉交は終わりまで達しなくてはなかなかたやすく止められぬであろう。そのように相手の運命を恐れない状態がはたして愛のエクスタシイであろうか。霊肉の法悦として賛美さるべきものであろうか。「あなたのためなら死にます」という愛の没我とどこに関係があろうか。 第四、肉交したために愛がインニッヒになるのは肉交の愛であることとは別事である。ある人はいうであろう。しかし肉交したる二人は肉交せざる以前よりインニッヒになるではないかと。しかしそれは必ずしもそうではない。肉交したためにかえってはなれる愛人もある。またインニッヒになったにせよ、それはあたかも互いに撲り合うた人間と人間とが、教会堂に並んで腰をかけて互いに触れあわない二人の人間よりも、インニッヒになるのと同じことである。肉交そのものは愛ではない、また肉交せねばインニッヒになられないことはない。もしも二人が運命と運命とを触れあわすならば、二人の醜いこと、苦しいこと、羞かしいことをも共生するならば、肉交にかぎらずインニッヒになる。肉交すればインニッヒになるかもしれない。けれど、肉交そのものは愛の表現ではない。あるいは愛と性欲とをそのように切り離して考えることはできない、という人もあるであろう。けれど私はこの精神作用のなかに本質的な区別を感じわけることができると思う。私はいかなる場合にでも、夫婦の間でも、相愛の間でも肉交は絶対に悪であると信じている。「愛のない肉交はしたくない」この言葉はしばしば聞く。しかし愛があっても肉交してはいけないのである。これは因襲でも概念でもない。肉交そのものの経験より発する実感に根をおいての主張である。仏者が女人を禁じたのは肉交そのものが悪いからである。キリストがマタイ伝に「およそ女を見て色情を起こすものは心の内すでに姦淫したるなり」といったのはけっして道徳の理想として厳重すぎてはいない。キリストの思想を純粋に守れば性欲はいかなる場合にも悪だからである。ある人はそれでは子孫ができない、人類は絶滅するというかもしれない。しかしたとい人類が絶滅しても悪は悪である。あたかも他の生物を殺さなければ人類は絶滅するけれども、殺生は悪であるのと同じ理屈である。私は人生に二つの最大害悪があると思う。一つは肉交しなければ子供のできないことと、他の一つは殺生しなければ生きてゆけないことである。もし愛が善いものであるならばこの二つはどうしても罪悪である。愛を説く人は何人もこの説を容れねばなるまい。女に対して性欲を起こしているときには、その男の心は女を祝福していない、ゆえに罪である。およそ他の生命を祝すことは善で呪うことは悪である。女の運命に関心していない。そのときには愛していない。食おうとしているときの心に酷似している。その証拠には性欲を興奮させるものはすべて呪いを含む感情のみである。「この女は処女だ、私は初めて聖らかなものを涜すのだ。しかも私は昨夜は他の女と寝たのに」。かく思うとき性欲は興奮する。「この女は美しい弄具だ。男に身を任せるために生まれてきたようにできている」。こう思うとき性欲が興奮する。「じたばたしてももう私のものだ」。強姦するものは女が抵抗するだけ性欲が興奮する。猫が鼠を食う前に弄ぶときの心と、男子が自分の犯す女を肉交する前にいろいろ悪戯する心とは酷似している。すべての征服の意識は性欲を興奮させる。私は蛇が蛙を食ってるところを見ると性欲が生ずる。はなはだしきに至りては新聞で日本がシナを威嚇してる記事を読むと性欲が興奮する。その間にはある必然的な関係がある。しばしば手淫する人は、できるだけ惨酷な肉交を頭に思い浮かべなくては、性欲の興奮を感じなくなるという。これに反して女の運命を畏れているときの心には最も性欲が生じがたい、愛の純粋な喜悦のときは涙と感謝とがみちて、性欲は最も遠ざかっている。美しい感情には、それを証する感謝がなければならない、性欲には感謝が伴わない。体の交わりをした直後に抱き合って泣くこともある。けれどそれは性欲そのものの感謝ではない。純潔な男女がある異常な鋭い接触をしたために感動して泣くのである。肉交に慣れた男と女とがなんらの著しき感動もなく、いな快楽さえもなく、習慣的に肉交して、互いを辱しめたことも感ぜずに、なまけた、じだらくな心で寝入るありさまを想像してみよ。じつに忌わしき感じがする。何に馴れているのがいまわしいといっても肉交になれて、なんらのパッションもなく、できるだけ安価にしかしできるだけしつこくたのしもうとするときの心ほどいやなものはない。殺人と肉交とははなはだ酷似したる罪悪である。しかも肉交は殺人より、もっと質の悪い罪である。そして人間の魂は前者よりも後者においていっそうその品位を傷つけて堕落している。私はキリストが聖霊によりて、姙める処女マリアより生まれたという聖書の説話を誠にふさわしきことと思う(耶蘇を神の独り子とする福音記者の思想を純粋に守れば)。私は妻とともに伝道する牧師が、私は罪人であると告白することなしに純潔を説くときにはこそばゆいような気がしてならない。いやしくも愛を説く人はできるかぎり貞潔であることを努力すべきである。貞操という徳は二人以上の異性と肉交しないことのみではない。真の貞操は夫の所有物でなくして、神の所有物である。肉交そのものが罪悪なるがゆえに、貞潔は尊いのである。互いに恋する男女は肉交を避くべきである。そは自分らの恋を汚すものとして斥くべきである。かかる悪しき欲望が混じて働くこと自身がすでにおのれの恋の純でないことを証するものとして恥ずべきである。恋の本質はけっして性欲ではない。このことだけは私は確信している。しからば恋の本質は何であろうか。それに対しては私は他のすべての人性の深き願いについてと同じく、明瞭な答えをなし得ない。実際かかる問題は一生の問題である。いな、むしろ私の考えではそれはじつに「彼の世」に亙る問題である。造り主の計画! それは地上と天国とを併せて見渡し得る知恵者の計画に属することである。われら地なるものはかかる問題についてはとうてい探り足であることを免れ得ない。しかし不断に探り求むべきである。死にいたるまで。われらの思索とは地なるものを機縁として、天なるものの知識に達することである。その思索の動因はわれらの魂の願いと憧憬であり、その思索の器官はそのわれらに稟在する先験的願求がわれらの体験を素材として醗酵せしむる想像力である。かかる想像力によってのみわれらは天なるものの俤は髣髴することができる。かかる想像力が、恵みによって、照らされたるときこそ、かのヨハネやスエデンボルグのごとき宗教的天才の見たる黙示と称すべきものであろう。恋の本質は何か? そは深き深き問題である。いま私はその謎を解き得るとは思わない。ただ私の心に照らし出される、貧しい想像の形象を語るならば、私は恋は人間の原型を完成せんとする願いではあるまいかと思う。すなわち、造物主の胸の奥に人間の原型があって、地上の男女は各々それ自身では欠けたるものであり、その両性を渾融して、男性でもなく、女性でもなく、しかしけっして中性ではないところの一種の性を備えたる人間、すなわち原型としての人間(かかる人間が完全なる円相を備えたるものである)たらんと願うのではあるまいか。ある人々は全然性の差別を超越して、ただ人間としての人間になるように努力すべきであるというけれども、私はいま少しく深く考えたい。人間はすでに人間である以上、必ず男か女かである。その魂の本質まで性の差別がある。その差別は変ずることはできず、変じる必要はなく、また変じてはならないものである。その差別から性欲でない、性の願い――恋が生ずるのではあるまいか。「神初め人を男と女とに造りたまい」しゆえに生ずる恋がありはせぬか。万有の持っている差別相は一点一画といえども否定してはならない。かくするは造物主の意匠に侵入する冒涜だからである。恋のなかには一種の当為の意識がある。その意識は一種の道徳的意識といってもいい。私はかのダンテのベアトリチェに対する恋を思う。ダンテにとっては彼女はあらゆる徳の華であった。善の君であった。彼は恋のなかに善のイデアを見た。その恋は、天なるものの俤への憧憬と分かつことはできなかった。ミケランジェロのヴィクトリア・コロンナに対する恋のごとく、またあのペラダンの戯曲化したクララのフランシスに対する恋のごとく、純なる恋はわれらの「善くなろうとする祈り」と分かつことのできないものである。私はゲーテの「永遠の女性」といった心持ちを思う。またホウガッツァロの『聖者』のなかに描かれたる老牧師と少女との恋を思う。マグダラのマリアが耶蘇に対する心持ちを思う。またかの中世期に聖い、燃ゆるがごとき、けれど静かなる情熱となってあらわれた「聖母崇拝」の心持ちを思う。またかの観世音菩薩の男性のごとく、また女性のごとき円満にして美しき像を思い浮かべずにはいられない。かかる像に礼拝する心持ちと恋の本質をなせる心持ちとは酷似している。純なる恋の気持ちはじつに祈りの気持ちに近い。私のかかる思想はある人々にはおそらく愚かにまた空しく見えるであろう。しかし恋の涙と感謝とを体験したる人はたやすく肯くことができるであろう。恋の本質はかかる憧憬,願い、祈祷のなかにあって、けっして性欲のなかにはない。私はまだ肉交の経験なき純潔なる青年が、漫然たる霊肉一致の思想に甘やかされてその純潔を失うことをかぎりなく遺憾に思うものである。一度失った純潔はもはやけっして返らないからである。純潔な青年と、すでに女を知った青年とでは女に対する感じがまるで違う。いな、すでに肉交を経験したる者は真の意味ではもはや青年と称すべきものではない。青春の幸福はすでにその人を去っているからである。私はいまだ童貞なる青年が、肉交を、思想上においてジャスチファイするのを愚かだとは思わない。むしろ純潔なる青年が、その何ものをも純く見る善き素質から、かえって肉交を肯定しやすいからである。しかしすでに肉交に馴れたる男子が、肉交を善しと見、そを童貞なる青年に説くがごときは私は恥知らずとなすものである。すでに肉交を経験しながら、なおその醜さを感じられない人は無神経である(もし真にインノセントな意識で肉交できる人があれば、私はその人を礼拝してもいい。その人は悪の種を生命のなかに蒔かれていない、清い清い人だから。ブレークやホイットマンのごとき人はそれに近い)。彼らはおそらくみずから欺いているのである。すでに肉交を経験したる青年が、処女に対して、平気で恋をしかけるならば、その人は厚顔である。私はかかる人が真実な恋をなし得るとは信じない。私はあのアンドレーエフの『霧』のなかの青年のことを思い出す。自分を「汚ない、汚ない!」といって、ついに恋をも打ち明けずに死んだ不幸な青年のことを。私はかかる青年を尊敬する。そして自分はさまざまの恥ずべき病に罹りながら、妻を選ぶときには、さもさも当然のごとくに、その処女であることを要求するがごとき男子を破廉恥となすものである。いまだ純潔なる青年は、できるだけ永く、もしでき得れば一生涯その純潔を保つことを努力すべきである。そして不幸にしてすでに純潔を失いたる青年は、そのことを常に恥ずべきである。常にその償いに用意したる心をもって女に対すべきである。私はかかる青年もまた真実なる恋をなし得るを信ずる。私はむしろかかる青年を今の世では普通の青年と思い、いまだ童貞である青年をば特別に天の使に守られた、恵まれたる青年と思っているほどである。すでに汚れたる青年は、もしすでに汚れたる女と恋に落ちるならば、まことにふさわしき運命というべきである。かかる場合にも真実なる恋は成り得る。かかる青年が処女と相恋するならば、そはまことに傷ましい、むしろ恐ろしい運命である。しかしかかる場合にも真実なる恋は成り得る。しかし私はこの二つの場合とも、宗教を持ちきたらずしては、調和する意識に達することができない。ここで私は「地上の男女」ということを考えずにはいられなくなる。すなわち神の前に罪にさだめられたる男女を並べて立たせる――跪かせることを! 厳密にいえば、いかに純潔なる男女も、すでに物心のつきたる以上は、心のうちに醜き死骸の堆積を持っているのである。「おお神様。私たちは汚れています。許してください。これからも汚れそうです。守ってください。身を清く保ち得るように力を与えてください」と祈る心持ちでのみ、恋する立場を与えらるるのである。恋の本質はけっして性欲ではない。しかし人間の恋には必ず性欲が混じて働く。そは何ゆえであるか。私には解らない。おそらく光には必ず影を伴わせ、善には必ず悪を絡ませ、天の使の来たるところには必ずまた悪魔をもともに来たらしむる造物主の特殊な技巧であろう。しかし善と悪とはあくまでも峻しく対立せしめられなくてはならない。ただ造物主の知恵の内においてのみその対立は包摂せられる。われらはけっして悪をみずからに許してはならない。たとい恋に性欲が伴うことはやむをえないことであっても、性欲を善しと見てはならない。いわゆる白道は善悪の区別を消すのではなく、越えるのである。その道に立って眺むれば、善悪の相はかえってますますはっきりと見えるに違いない。その意味において私はあくまでも善悪の二業を気にかけて生きたい。しからざれば浄土がわれらの心の内に啓けてこないからである。われらはできるかぎりの清さを現実に少しも頓着せずして、想像力のおよぶかぎり描かねばならぬ。それが地上において実現できるかいなかにかかわらず、かかる想像の像をわれらの理想としなくてはならぬ。その理想は絶対的に寸毫といえども低められてはならない。しこうして現実は少しの仮借もなく、あるがままに認められねばならぬ。かくて天と地とを峻別し、しかる後にこそ初めて、天に昇る道は工夫せらるべきである。そこに宗教の微妙な問題が始まるのである。性欲はいかに避くべからざる生理的要求であってもあくまでも悪しきものである。恋するものは、その恋を尊ぶほどこの悪しき要求を斥くべきである。ある人はいうであろう。かく性欲を無視してはわれらの恋愛の要求は飽和することができないと。しかし私は性欲とは全然質を異にせる性のねがいがあるのではないかと思う。生物学的の根拠より発せずして前にも述べしごとく、「神初め人を男と女とに造りたまい」しゆえに生ずる、人間の型の完成の要求より発する性のねがいがあるのではあるまいか。しこうして恋の中の涙と感謝とはおそらくこのねがいから生ずるのではあるまいか。性欲から涙と感謝とが生ずるとは信ぜられない(肉交を経験するまでは私はそれを信じていたが)。われらの魂が深く清められ、天使的願望にみたされてゆくに従って、性欲はしだいに魂から退き体の交わりはなくとも、性の要求の飽和が感じられるようになってゆくことはあり得ぬことではなかろう。(私はあの古風なキリスト教の聖別という宗教的経験を注意せざるを得ない)。創世記によるもアダムとイブは楽園にいる間は体の交わりをしていない。キリストも「天国にあるものは娶らず、嫁がず」といっている。あるいは罰せられたるものの裔なるわれらには絶対的の聖潔に達することは不可能かもしれない。しからばこの理想を追うものは常に性欲の誘惑と、その欠陥より生ずる飢えとに悩まさるるであろう。しかれども、その誘惑と戦いその飢えを忍び、常に祈りの気持ちの中に純潔を保たんことを努力するならば、これこそ善くなろうとする祈りに伴われたる尊き恋である。いな、ときとして肉の交わりに陥ろうとも、そを悪として神前に悔い、「貞潔を守らしめたまえ」と祈りつつ清き交わりの完成せんことを努力してゆくならば、悪魔より放たれざる被造物としては清い男女といわれ得ぬであろうか。私はこの意味においてのみ「夫婦」というものを地上に許したい。かくて生まれたる子はかぎりなく美しく、愛すべきものであるけれども、かかる善からぬ原因により生を享けたるものなるがゆえにその素質のなかにすでに不幸と邪淫との種を植えられているのではあるまいか。(私は仏教の「種子不浄」という語を思い出す)。かくて地を嗣ぐものは永久に催されつつ善を祈り求めねばならないのではあるまいか。これは見かけのままにてはいかにしても不合理である。しかし天上の知恵者はそれを合理的と考え得るのであろう。かく考え得る根拠と自信とがあるのであろう。私たちが地上を去ったときその秘密が解るのではあるまいか。 純潔なる青年よ、諸君はあるいは私の言説をきわめて空想的となすかもしれない。それは諸君があまりに女に対して現実的なる先輩を持ちすぎているからである。天なるものにつきての考察を等閑にする近代の文化に毒されているからである。もし中世の人ならば私の言説を最も普通のこととして聴いたかもしれない。諸君の先輩の多くの人々はおそらく「女」をただ性欲の対象としてのみ取り扱っているであろう。比較的真面目にして、恥を知れる人といえどもおそらくおのれは女に囚縛せられざる容易なる位置に立って、女の発散する美しき気分を享楽する態度をとっているのであろう。かかる種類の人が最も多い。そして最も不幸なるは、かかる人々のなかには、かつては一度美しき、聖なるものとして恋に憧憬し、烈しき幻滅を経験して、恋のついにイリュウジョンにすぎざることを知り、女に対して貴き精神内容を盛ることを断念し、ついにただその色香のみを享楽することの最も賢きにしかざるを説くに至りしものの多きことである。私はかく推移する道程には実感的な同情を禁じ得ない。諸君がその言説に動かさるるのはもっともといってもいい。実際かかる人々は目に涙して、自分の捧げた情熱のあまりに清かったことを惜しみ、払った犠牲のあまりに高価であったことを嘆ずるであろうから。彼らがもはや地上に「永遠の女性」を尋ぬることに倦むに至れる愁嘆は諸君を動かさずにはやまぬであろう。しかししかしそこに本道と外道とのきわどい分岐点がある。外道は「女」を透して輪廻に迷行し、本道は「女」を透して天界にせりあげる。「永遠の女性」を地上に尋ぬるに倦みたる人は、すべからくそを天上に求むべきである。私はそこに恋と信との繋りがあるような気がする。「永遠の女性」を求むる憧憬は人間の霊魂に稟在する善き願いである。その願いはついに地上では満たされないものなのかもしれない。しかしなぜそれゆえにこの願いを捨てねばならないのか? 何ゆえこの願いを墓場の向こうで成就させようと努めないのか。およそ人心に宿る願いはもしそれが善いものであるならばいかなる事障によってもあきらめてはならない。われらの生存に意味を与うるものはただそれらの願いのみである。それらの願いをあきらめてはもはやわれらの霊魂は死ぬのである。それらの願いをけっしてあきらめずに成就せんと欲するのが宗教的要求である。人々はあるいはいうであろう。「彼の世」の実在を信ぜずしては、これらの願いを持ちつづけることはできないではないかと。しかし私はむしろその反対に考えずにはいられない。これらの願いはあきらめられてはならないものであるゆえに、もしそれがこの世において成就しないものならば、必ず「彼の世」が実在するであろうと。かかる問題は「こころもち」の内的実感を離れては論議さるべきものではない。ただ私は人心の深き願いのうちに永遠性を実感するものである。その願いの死なざるものであることを信ずるものである。したがってその願いを大切に大切に守りつつ生きたい。恋は人心の最も深き願いの一つである。そして多くの尊い問題をその内より分泌する、重要なる生活材料である。しかもその意識のうちには、私の信ずるところでは、天に通ずる微妙なる架橋を含んでいる。ダンテの生涯はその最もよき手本である。私は純潔なる青年に、何よりもこの問題に対して重々しい感情を保たんことを勧めたい。女に対して早くよりずるくなることを警めたい。かの「青い花」を探し求めたハインリッヒのごとくに「永遠の女性」を地上くまなく、いな天上にまでも探し求めることをすすめたい。しこうして「いつまでも愛します」と誓わずに、「いつまでも愛せしめたまえ」と祈り、他人を傷つけずみずからを損わず、肉体の交わりなき聖い聖い恋をしてもらいたい(このことにつきては、『出家とその弟子』の五幕二場の親鸞と唯円との対話に詳説したからここには省く)。一度純潔を失いたる青年は、そを惜しみ、恥じ、悔い、その償いに用意したる心をもって女に対すべきである。しこうして夫婦はできるかぎりの貞潔を保たんことを努力すべきである。もしそれいかにしても遊蕩の制し得られざるときは、せめてそのことを常に恥じつつなしたい。みずからを悪人と認め、そを神に謝しつつも、なお引きずられるように煩悩の林に遊ぶ人と、それを当然のことと思って淫蕩する人とは雲泥の差がある。それはじつに親鸞と、ただの遊冶郎との差異である。浄土に摂らるるものと、地獄に堕さるるものとの差異である。私はもしその人がみずから悪人と認めて、それを恥じていさえすれば、いかなる悪人をも責める気にはなれない。現に私はけっして清い人間ではなく(これは謙遜でもいや味でもない)絶えず性欲との戦いを意識し、しかも常に不名誉な敗戦をつづけている。私はけっして人間の悪の根の抜きがたきことを知らないものではない。またその悪によってかえって人と人との結びつく呼吸をも解せざるものではない。しかし悪は悪としてどこまでも斥けたい。それをみずからに許したくない。自分を責め、鞭打ちたい。しこうしてその悪の根を抜き取る道を工夫したい。この世でできなければ、あの世でも。 人は私があまりに善悪にこだわりすぎると思うかもしれない。しかしながら私の祈り求めてやまざる無礙自由の白道に出づるためにはそれは欠くべからざる手続きなのである。私はすべてのものを肯定せんとする願いにみちている。すでに造られて存在しているものは、いかなるものといえども、それを否定せずして肯定するのが本道である。造り主に対する造られたるものの義務である。私はそれを熟知している。私は性欲をも肯定したい。しかしそれは性欲をそのままに善しと見る方法によってではなく、一度悪として厳しく斥け、しかる後その悪しきものにも存在の理由を許す宗教の摂取の道によってである。
(一九一八・一・五)
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