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深編笠の侍は、白刃をダラリと下げたまま、茫然と往来へ立っていた。
「ここだここだ!」と呼ぶ声がした。一軒の家の屋根の上に、鬼小僧は立って笑っていた。
「やいやい侍吃驚したか。だが驚くにゃアあたらねえ。飛燕の術というやつさ。日本の武道で云う時はな。……形学で云うと少し違う。物理の法則にちゃんとあるんだ。教えてやろう『槓桿の原理』そいつを応用したまでだ。……さあ今度は何にしよう。水鉄砲がいい! うんそうだ!」
また懐中から何か出した。
「おおおお侍気を附けろよ! ただの水鉄砲たア鉄砲が異う。水一滴かかったが最後、手前の体は腐るんだからな」
闇に一条の白蛇を描き、シューッと水が迸り出た。
危険と知ったか侍は、サッと軒下に身を隠した。
「あっ、畜生、こいつア不可ねえ。あべこべに先方が水遁の術だ。……中止々々! 水鉄砲は中止。……さてこれからどうしたものだ。ともあれ家根から飛び下りるとしよう」
鬼小僧はヒラリと飛び下りた。
途端に侍が走り出た。
「小僧!」と掛けた血走った声、ザックリ肩先へ切り込んだ。
「どっこい!」という声と共に、辛く身を反せた鬼小僧、三間ばかり逃げ延びたが、そこでグルリと身を飜えし、ピューッと何か投げ付けた。それが地へ中った一刹那、ドーンと凄じい爆音がした。と、火花がキラキラと散り、煙りが濛々と立ち上った。
「へ、へ、へ、へ、どんなものだ。その煙りを嗅いだが最後、手前の鼻はもげっちまうぜ。気息を抑える発臭剤! 可哀そうだなあ、死れ死れ!」
だが侍は死らなかった。煙りを潜って走って来た。
「わッ、不可ねえ、追って来やがった!」
吾妻橋の方へ逃げかけた時、天運尽きたか鬼小僧は、石に躓いて転がった。得たりと追い付いた侍は、拝み討ちの大上段、
「小僧、今度は遁さぬぞ!」
切り下ろそうとした途端、にわかに侍はよろめいた。
「お杉様!」とうめくように云った。
やにわに飛び起きた鬼小僧、侍の様子を窺ったが、
「え、何だって? お杉さんだって? 俺もお杉さんを探しているんだ。赤前垂のお杉さんをな。……お前さんそいつを知ってるのか? 俺にとっちゃアお友達、同じ浅草にいたものだ」
「お杉様!」と侍はまた云った。
「貴女は死にかけて居りますね。……恋の一念私には解る。……餓えてかつえて死にかけて居られる」
侍はベタベタと地に坐った。
驚いたのは鬼小僧で、呼吸を呑んで窺った。
「細い細い糸のような声! 私を呼んでおいでなさる。三之丞様! 三之丞様と!」
「お前さん三之丞って云うのかい。……そうしてどこのお杉さんだね?」
鬼小僧は顔を突き出した。
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