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柳営秘録かつえ蔵(りゅうえいひろくかつえぐら)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-3 7:46:21  点击:  切换到繁體中文




 深編笠の侍は、白刃しらはをダラリと下げたまま、茫然と往来へ立っていた。
「ここだここだ!」と呼ぶ声がした。一軒の家の屋根の上に、鬼小僧は立って笑っていた。
「やいやい侍吃驚びっくりしたか。だが驚くにゃアあたらねえ。飛燕の術というやつさ。日本の武道で云う時はな。……形学けいがくで云うと少し違う。物理の法則にちゃんとあるんだ。教えてやろう『槓桿こうかんの原理』そいつを応用したまでだ。……さあ今度は何にしよう。水鉄砲がいい! うんそうだ!」
 また懐中から何か出した。
「おおおお侍気を附けろよ! ただの水鉄砲たア鉄砲がちがう。水一滴かかったが最後、手前の体は腐るんだからな」
 闇に一条の白蛇を描き、シューッと水がほとばしり出た。
 危険と知ったか侍は、サッと軒下に身を隠した。
「あっ、畜生、こいつア不可いけねえ。あべこべに先方むこうが水遁の術だ。……中止々々! 水鉄砲は中止。……さてこれからどうしたものだ。ともあれ家根やねから飛び下りるとしよう」
 鬼小僧はヒラリと飛び下りた。
 途端に侍が走り出た。
「小僧!」と掛けた血走った声、ザックリ肩先へ切り込んだ。
「どっこい!」という声と共に、辛く身をかわせた鬼小僧、三間ばかり逃げ延びたが、そこでグルリと身を飜えし、ピューッと何か投げ付けた。それが地へあたった一刹那、ドーンと凄じい爆音がした。と、火花がキラキラと散り、煙りが濛々と立ち上った。
「へ、へ、へ、へ、どんなものだ。その煙りを嗅いだが最後、手前の鼻はもげっちまうぜ。気息を抑える発臭剤! 可哀そうだなあ、くたばれ死れ!」
 だが侍は死らなかった。煙りをくぐって走って来た。
「わッ、不可いけねえ、追って来やがった!」
 吾妻橋の方へ逃げかけた時、天運尽きたか鬼小僧は、石につまずいて転がった。得たりと追い付いた侍は、拝み討ちの大上段、
「小僧、今度は遁さぬぞ!」
 切り下ろそうとした途端、にわかに侍はよろめいた。
「お杉様!」とうめくように云った。
 やにわに飛び起きた鬼小僧、侍の様子を窺ったが、
「え、何だって? お杉さんだって? 俺もお杉さんを探しているんだ。赤前垂のお杉さんをな。……お前さんそいつを知ってるのか? 俺にとっちゃアお友達、同じ浅草にいたものだ」
「お杉様!」と侍はまた云った。
貴女あなたは死にかけて居りますね。……恋の一念私にはわかる。……餓えてかつえて死にかけて居られる」
 侍はベタベタと地に坐った。
 驚いたのは鬼小僧で、呼吸いきを呑んで窺った。
「細い細い糸のような声! 私を呼んでおいでなさる。三之丞様! 三之丞様と!」
「お前さん三之丞って云うのかい。……そうしてどこのお杉さんだね?」
 鬼小僧は顔を突き出した。

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