風雨を貫く謡(うたい)の声「オーイ甚内!」と呼ぶ声がした。「しけが来るぞヨー、帆を下ろせヨー」「オーイ」と甚内はすぐ応じた。それから銀之丞へ会釈したが、「しけが来るようでございます。ちょっとご免を被ります」 いい捨てクルリと身を翻(ひるが)えすと、兄の死を痛み悲しんでいた、もう今までの甚内ではない。熟練をした勇敢な、風浪と戦うかこであった。 帆綱を握るとグイと引いた。ギーギーという音がして、左右に帆柱が揺(うご)いたかと思うと、張り切った帆が弛んで来た。「ヨイショヨイショ、ヨイショヨイショ!」 掛け声と共に手繰(たぐ)り下ろした。 星が消えたと見る間もなく、ザーッと雨が落として来た。篠突(しのつ)くような暴雨であった。雨脚(あまあし)が乱れて濛気(もうき)となり、その濛気が船を包み、一寸先も見えなくなった。轟々(ごうごう)という凄じい音は、巻立ち狂う波の音で、キキー、キキーと物悲しい、咽(むせ)ぶような物の音は、船の軋(きし)む音であった。空を仰げば黒雲湧き立ち、電光さえも加わった。凄じい暴風雨となったのであった。「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」 その荒涼たる光景の中から、十数人のかこの声ばかりが、雄々しく勇ましく響いて来た。 乗客は悉く胴の間に隠れ、不安に胸を躍らしていた。ただ一人銀之丞ばかりが、船のへさきに突っ立っていた。「ああいいな。勇ましいな」彼は呟いたものである。「自然の威力に比べては、何んて人間はちっぽけなんだろう? だがいやいやそうでもないな、かこはどうだ! あの姿は!」 銀之丞は武者揮いをした。「自然の威力を突き破ろうと、ぶつかって行くあの力! 恐ろしい運命にヒタと見入り、刃向かって行くあの態度! これが本当の人間だな! ふさぎの虫も糸瓜(へちま)もない! あるものは力ばかりだ! いいな、実にいい、生き甲斐があるな!」 嵐は益吹き募り、雨はいよいよ量を増した。所は名に負う九十九里ヶ浜、日本近海での難場であった。四辺(あたり)は暗く浪は黒く、時々白いものの閃めくのは、砕けた浪の穂頭(ほがしら)であった。「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」 かこどもの呼ぶ掛け声は、益勇敢に響き渡った。しかし人力には限りがあり、自然の暴力は無限であった。 かこは次第に弱って来た。船がグルグルと廻り出した。「もういけねえ! もういけねえ!」 悲鳴の声が聞こえて来た。 真っ黒の大浪がうねりをなし、小山のように寄せたかと思うと、船はキリキリと舞い上がった。「助けてくれえ!」 と叫ぶのは、胴の間にいる乗客達であった。 と、この時、朗々たる、謡(うたい)の声が聞こえて来た。 神か鬼神かこの中にあって、悠々と謡をうたうとは! 暴風暴雨を貫いて、その声は鮮かに聞こえ渡った。「誰だ誰だ謡をうたうのは!」「偉(えれ)えお方だ! 偉えお方だ!」「偉えお方が乗っておいでになる! 船は助かるぞ助かるぞ!」「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」 ふたたびかこの声は盛り返した。その声々に抽(ぬき)んでて、謡の声はなおつづいた。 船が銚子へ着いたのは、その翌日のことであった。 「主知らずの別荘」の別荘番「オイオイ若いの。オイ若いの」かくばかり経高く見ゆる世の中に、羨ましくも澄む月の、出汐をいざや汲もうよ……「オイオイ若いの。オイ若いの」影はずかしき我が姿、忍び車を引く汐の……「うなっては困る。うなっては困る」「誰もうなってはいないではないか」「お前の事だ。うなっては困る」「おれは何もうなってはいない」「今までうなっていたじゃないか」おもしろや、馴れても須磨の夕まぐれ、あまの呼び声かすかにて……「あれ、いけねえ、またうなり出した」沖に小さき漁(いさ)り舟の、影幽(かす)かなる月の顔……「やりきれねえなあ、うなっていやがら」仮りの姿や友千鳥、野分(のわき)汐風いずれも実(げ)に、かかる所の秋なりけり、あら心すごの夜すがらやな……「オイオイ若いの。困るじゃねえか」「なんだ貴様。まだいたのか」「お前がうなっているからよ」「解らない奴だ。うなるとは何んだ。これはな謡をうたっているのだ」「ははあ、そいつが謡ってものか」「めったに聞けない名人の謡だ。後学のために謹聴しろ」「あれ、あんなことをいっていやがる。自分で自分を名人だっていやがる」「アッハッハッハッそれが悪いか」「なんと自惚(うぬぼ)れの強いわろだ」「アッハッハッハッ、自惚れに見えるか。……さて、もう一度聞かせてやるかな」「オットオットそいつあいけねえ。勘弁してくんな、おれが叱られる」「おかしな奴だな。誰に叱られる?」「旦那によ、旦那殿によ」「なぜ叱られる。何んの理由で?」「やかましいからよ。うなるのでな」「ははあ、それでは謡のことか」「うん、そうとも、他に何がある」「我がままな奴だな。こういってやれ。ここは銚子獅子ヶ岩、向こうは荒海太平洋だ。あたり近所に人家はない。謡おうとうなろうと勝手だとな。その旦ツクにいってやれ」「うんにゃ、駄目だ。おれが叱られる」「よかろう。勝手に叱られるさ」「おれが困るよ。だから頼む。……第一声が透(とお)り過ぎらあ。洞間声(どうまごえ)[#「洞間声」はママ]っていう奴だからな」「洞間声[#「洞間声」はママ]だって? こいつは助からぬ。アッハッハッハッ、いや面白い」「面白くはねえよ。面白いものか。叱られて何んの面白いものか」「よっぽど解らずやの旦那だな」「フン、何んとでもいうがいいや」「いったい誰だ? お前の旦那は?」「お金持ちだよ。大金持ちだ」「金があっても趣味がなければ、馬や牛と大差ないな」 厳重を極めた別荘普請「だがお前の主人というのは、いったいどこに住んでるのか?」「お前さんそいつを知らねえのか」「知らないとも、知る訳がない」「だが、やしきは知ってる筈だ」「お前の主人のやしきをな?」「うんそうさ、有名だからな」「いいや、おれはちっとも知らない」「そんな筈はねえ、きっと知ってる」「おかしいな。おれは知らないよ」「獅子ヶ岩から半町北だ」「獅子ヶ岩から半町北と?」「近来(ちかごろ)普請に取りかかったやしきだ」「や、それじゃ『主(ぬし)知らずの別荘』か?」「そうれ、ちゃアんと知ってるでねえか」「その別荘なら知ってるとも」「それがおれの主人の巣だ」「ふうん、そうか。やっと解った」「随分有名な邸(やしき)だろうが?」「銚子中で評判の邸だ」「それがおれの主人の邸だ」「そこでお前にきくことがある。何んと思ってあんな普請をした?」「あんな普請とはどんな普請だ?」「まるで砦(とりで)の構えではないか」「…………」「厚い石垣、高い土塀、たとえ大砲を打ちかけても、壊れそうもない厳重な門、海水をたたえた深い堀、上げ下げ自由な鉄の釣り橋、え、オイまるで砦じゃないか」「おれの知ったことじゃねえ」「で、主人はいつ来たのだ?」「うん、主人はずっと以前(まえ)からよ……そうさ今から二月ほど前から、こっそりあそこへ来ているんだ」「ほほう、そうか、それは知らなかった」「ところが他のご家族達も、二、三日中には越して来るのだ」「それで家族は多いのか?」「うん、奥様とお嬢様と、坊様と召使い達だ」「では『主知らずの別荘』が、いよいよ主を迎えた訳だな」「そうかもしれねえ。うん、そうだ」「ところで主人の身分は何んだ?」「主人の身分か? 主人の身分はな……いやおれは何んにも知らねえ」「ははあ隠(かく)すつもりだな」「おれは何んにも知らねえよ」「で、お嬢様は別嬪(べっぴん)かな?」「おれは何んにも知らねえよ」「いよいよ隠すつもりだな」「おれはちっとばかりしゃべり過ぎたからな」「ところでお前は何者だな?」「おれは何んにも知らねえよ」「ふざけちゃいけない、馬鹿なことをいうな」「ああおれか、別荘番だよ」「うん、そうか、別荘番か。『主知らずの別荘』の別荘番だな」「別荘番の丑松(うしまつ)ってんだ」「噂は以前から聞いていたよ」「おれは銚子では名高いんだからな」「そうだ、お前は名高いよ。『主知らずの別荘』と同じにな」「ところでお前さん、何者だね?」「おれか、おれは能役者だ」「ああ役者か、何んだ詰まらねえ」「口の悪い奴だ。詰まらねえとは何んだ」 駕籠から覗いた美しい女「姓名の儀は何んていうね?」「姓名の儀はとおいでなすったな。姓名は観世銀之丞」「ほほん、銀之丞か。役者らしい名だ。詰めていうと銀公だな。そうじゃアねえ、銀的だ」「口の悪い奴だ。いよいよ口が悪い。が、まあ銀公でも銀的でもいい」「お前さん、この土地へはいつ来たね?」「二十日ほどまえだ。それがどうしたな」「あッ、やっと思い出した。そうそうお前さんはお品(しな)の婿だね」「お品の婿だって。何んのことだ?」「隠したって駄目だ。評判だからな」「そうか、何んにしても有難い」「厭な野郎だな、礼をいっていやがる」「めでたそうな話だからよ」「だってお前さん評判だぜ。お品の所へ江戸の役者が、入(い)り婿(むこ)となって来たってな」「お品の家の離れ座敷を、たしかにおれは借りているよ」「ソーレ見たか、泥を吐きおった」「そうしてお品はいい娘だ」「甘え野郎だ、惚気(のろけ)ていやがる」「銚子小町だということだな」「鼻持ちがならねえ、いろきちげえ!」「だが、銚子の小町娘も、田の草を取ったり網を干したり、野良馬の手綱をひいたりしたでは、こいつどうも色消しだな」「そいつはどうも仕方がねえ。この辺は半農半漁だからな。よっぽどいい所の娘っ子でも、漁にも出れば作もするよ」「それはそうだ、御意(ぎょい)の通りだ。そうして実はお品にしてからが、その網干しの姿とか、ないしは草取りの姿の方が、ちんと澄ました姿より、よっぽど可愛く見えるからな」「おやまたかい。また惚気(のろけ)かい」「どれ、そろそろ帰ろうかな、お品の顔でも見に帰るか」「変な野郎だ。どう考えても変だ」 観世銀之丞と丑松とはこんな塩梅(あんばい)に親しくなった。「銀之丞さま、銀之丞さま!」 お品が往来で呼んでいた。「オイ何んだい、お品さん」「出てごらんなさいよ、通りますよ」 そこで銀之丞は離れ座敷から、往来の方へ出て行った。 お品や、お品の両親や、近所の人達が道側(みちばた)に立って、南の方を眺めていた。 とそっちから行列が、だんだんこっちへ近寄って来た。馬が五頭駕籠が十挺、それから小荷駄を背に負った、十数人の人夫達で、外ならぬ「別荘」の家族連であった。今移転(ひっこ)して来たのであろう。「ねえ、随分大勢じゃないか」「そうさね、随分大勢だね」「荷物だって沢山じゃないか」「そうさ随分沢山だなあ」「どんな人達だか見たいものだね」「お生憎様(あいにくさま)、駕籠が閉じている」「これでマア別荘も賑やかになるね」「化物屋敷でなくなるわけさ」「それにしても妙だったね。十年このかたあの別荘には主人(ぬし)って者がなかったんだからね」「ところが主人(ぬし)が来るとなると、この通り大仰だ」「きっと主人はお金持ちで、あっちにもこっちにも別荘があるので、こんな辺鄙(へんぴ)な別荘なんか、今まで忘れていたのかもしれない」「それにしてもおかしいじゃないか、あの厳重な普請の仕方は」「ちょうど敵にでも攻められるのを、防ぐとでもいったような構えだね」「黙って黙って、ソレお通りだ」 そこへ行列がやって来た。 すると三番目の駕籠の戸が、コトンと内から開けられて、美しい女の顔が覗いた。 そそられた銀之丞の心 銀之丞は何気なくそっちを見た。 女の視線と銀之丞の視線が、偶然一つに結ばれた。と、女はどうしたものか、幽(かす)かではあるがニッと笑った。「おや」と銀之丞は思いながらも、その笑いにひき込まれて、思わず彼もニッと笑った。 と、駕籠の戸がポンと閉じ、そのまま行列は行き過ぎた。 はなれへ戻って来た銀之丞は、空想せざるを得なかった。「悪くはないな、笑ってくれたんだ! だがいったいあの女は、おれをまえから知っていたのかしら? そんな訳はない知ってる筈はない。……とにかく非常な別嬪(べっぴん)だった。さて、恋が初まるかな。こんな事から恋が初まる? あり得べからざる事でもない」 その時庭の飛び石を渡り、お品がはなれへ近寄って来た。色は浅黒いが丸顔で、眼は大きく情熱的で、そうして処女らしく清浄な、すべてが初々(ういうい)しい娘であったが、手に茶受けの盆を捧(ささ)げ、にこやかに笑いながら座敷へ上がった。「お茶をお上がりなさいませ」「ああお茶かね、これは有難い。旨(うま)そうなお茶受けがありますな」「土地の名物でございますの」「ふうむ、なるほど、海苔煎餅(のりせんべい)」 お品はいそいそと茶を注いだ。 豪農というのではなかったが、お品の家は裕福であった。主人夫婦も人柄で、しかもなかなか侠気があり、銚子の五郎蔵とも親しくしていた。銀之丞が頼むと快く、すぐにはなれを貸したばかりか、万事親切に世話をした。ひとつは銀之丞が江戸で名高い、観世宗家の一族として、名流の子弟であるからでもあったが、主人嘉介が風流人で、茶の湯活花(いけばな)の心得などもあり、謡の味なども知っていたからであった。 お品は一人子で十九歳、肉体労働をするところから、体は発達していたが、心持ちはほんのねんねえであった。一見銀之丞が好きになり、兄に仕える妹のように、絶えず銀之丞へつきまとった。 そういう家庭に包まれながら、本職の謡を悠々と、研究するということは、彼にとっては理想的であった。それに彼にはこの土地が、ひどく心に叶(かな)っていた。漁師町であり農村であり、且つ港である銚子なる土地は、粗野ではあったが詩的であった。単純の間に複雑があり、「光」と「影」の交錯が、きわめて微妙に行われていた。もちろん、信州追分のような、高原的風光には乏しかったが、名に負う関東大平原の、一角を占めていることであるから、森や林や丘や耕地や、沼や川の風致には、いい尽くせない美があって、それが彼には好もしかった。 それに何より嬉しかったのは、太平洋の荒浪が、岸の巌(いわお)にぶつかって、不断に鼓の音を立てる、その豪快な光景で、それを見るとしみじみと「男性美」の極致を感じるのであった。 そこで彼は毎夜のように、獅子ヶ岩と呼ばれる岩の上へ行って、声の練磨をするのであった。 彼は本来からいう時は、観世の家からは勘当され、また観世流の流派からは、破門をされた身分であった。でもし彼が凡人なら、そういう自家の境遇を、悲観せざるを得なかったろう。しかるに彼は悲観もせず、また絶望もしなかった。それは彼が天才の上に、一個文字通りの近代人だからで、真の芸術には門閥はないと、固く信じているからであった。 とはいえ彼とて人間であり、殊には烈々たる情熱においては、人一倍強い芸術家のことで、父母のことや友人のことは、忘れる暇とてはないのであった。わけても親友の平手造酒の、その後の消息に関しては、絶えず心を配っていた。 それに彼は生まれながら、都会人の素質を持っていて、江戸の華やかな色彩に対しては、あこがれの心を禁じ得なかった。 ところが今日はからずも、江戸めいた美しい女の顔を、駕籠の中に見たばかりか、その女から笑い掛けられたのであった。 彼の心が動揺し、それが態度に現われたのは、やむを得ないことであろう。 紙つぶてに書かれた「あ」の一字「どう遊ばして、銀之丞様」 お品が不足そうに声をかけた。「考え込んでおりますのね」「や、そんなように見えますかな」「お菓子を半分食べかけたまま、手に持っておいでではありませんか」「これはこれは、どうしたことだ」「どうしたことでございますやら」「おおわかった、これはこうだ」テレ隠しにわざと笑い、「あんまりお品さんが可愛いので、それで見とれていた次第さ」「お気の毒様でございますこと」「ナニ気の毒? なぜでござるな?」「なぜと申してもあなた様のお目は、わたしの顔などご覧なされず、さっきからお庭の石燈籠ばかり、ご覧になっているではございませんか」「いや、それには訳がある」「なんの訳などございますものか」「なかなかもってそうでない。すべて燈籠の据え方には、造庭上の故実があって、それがなかなかむずかしい」「おやおや話がそれますこと」「冷(ひや)かしてはいけないまずお聞き、ところでそこにある石燈籠、ちとその据え方が違っている」「オヤさようでございますか」いつかお品はひき込まれてしまった。「茶の湯、活花、造庭術、風雅の道というものは、皆これ仏教から来ているのだ」「まあ、さようでございますか」「ところが中頃その中へ、武術の道が加わって、大分作法がむずかしくなった」「まあ、さようでございますか」お品は益熱心になった。「で、そこにある石燈籠だが、これはこの室(へや)と枝折戸(しおりど)との、真ん中に置くのが本格なのだ」「どういう訳でございましょう?」「門の外から室の様子を、見られまいための防禦物(ぼうぎょぶつ)だからで、横へ逸(そ)れては目的に合わぬ。ところがこれは逸れている。室の様子がまる見えだ」「そういえばまる見えでございますね」 お品はすっかり感心して、銀之丞の話に耳傾けた。 それが銀之丞には面白かった。もちろん彼の説などは、拠(よ)りどころのない駄法螺(だぼら)なので、それをいかにももっともらしく、真顔(まがお)を作って話すというのは、どうやらお品に弱点を握られ、今にもそこへさわられそうなのが、気恥ずかしく思われたからであった。つまりいい加減の出鱈目(でたらめ)をいって、話を逸(そ)らそうとするのであった。「だから」と銀之丞はいよいよ真面目(まじめ)に、「もしもここに敵があって、この部屋の主人を討とうとして、あの枝折戸の向こうから、鉄砲か矢を放したとしたら、ここの主人はひとたまりもなく、討たれてしまうに相違ない。すなわち防禦物の石燈籠が、横へ逸れているからだ」「ほんにさようでございますね」「しかるによって……」 といよいよ図に乗り、喋舌(しゃべ)り続けようとした銀之丞は、にわかにこの時「あッ」と叫び、グイと右手を宙へ上げた。間髪を入れずとんで来たのは、紙を巻いたいしつぶて! さすがは武道にも勝れた彼、危いところで受けとめた。「あれ」 と驚くお品を制し、銀之丞は紙をクルクルと解いた。 と、紙面にはただ一字「あ」という文字が記されてあった。 刎(は)ね橋と開けられた小門 その翌日のことであったが、銀之丞が一人野をあるいていると、どこからともなくいしつぶてが、例のように飛んで来た。受け取って見ると紙が巻いてあった。そうして紙にはただ一字「い」という文字が書いてあった。 最初のつぶてには「あ」と書いてあり、次のつぶてには「い」と書いてあった。二つ合わせると「あい」であった。「ハテ『あい』とはなんだろう?」思案せざるを得なかった。「これを漢字に当て嵌(は)めると『鮎(あい)』ともなれば『哀(あい)』ともなる。『間(あい)』ともなれば『挨(あい)』ともなる。そうかと思うと『靉(あい)』ともなる。いずれ何かの暗号ではあろうが、さて何んの暗号だろう? そうしていったい何者が、こんな悪戯(いたずら)をするのだろう?」 考えてみれば気味が悪かった。とはいえ大剛(たいごう)の彼にとっては、恐怖の種とはなりそうもなかった。 それはとにかく、銀之丞は、駕籠の中に見た女の俤(おもかげ)を、忘れることが出来なかった。「女は確かに娘らしい。あの『主知らずの別荘」の、家族の一人に相違ない。それも決して女中などではなく、丑松の話したお嬢さんでもあろう」 女色(じょしょく)に淡い彼ではあったが、不思議と心をそそられた。 二度目の暗号を渡された日の、その翌晩のことであったが、彼はフラリと宿を出ると、別荘の方へ足を向けた。それは月影の美しい晩で、そぞろあるきには持って来いであった。少しあるくと町の外(はず)れで、すぐに耕地となっていた。その耕地を左右に見て、一本の野良道を先へ進んだ。土橋を渡るともう荒野で、地層は荒々しい岩石であったが、これは海岸に近いからであった。そういえば波の音がした。 彼はズンズンあるいて行った。間もなく別荘の前へ出た。 廻れば五町はたっぷりあろうか、そういう広大な地所の中に、別荘は寂然(せきぜん)と立っていた。三間巾の海水堀、高い厚い巌畳(がんじょう)な土塀、土塀の内側(うちがわ)の茂った喬木、昼間見てさえなかの様子は、見る事が出来ないといわれていた。 夜はかなり更けていた。堀の水は鉛色に煙り、そとへ突き出した木々の枝葉で、土塀のあちこちには蔭影(かげ)がつき、風が吹くたびにそれが揺(ゆ)れた。前と左右は物寂しい荒野で、そうして背後(うしろ)は岩畳(いわだたみ)を隔てて、海に続いているらしい。 人っ子一人通っていない。市(まち)の燈火(ともしび)は見えていたが、ここからは遙かに隔たっていた。別荘には一点の火光もなく、人のけはいさえしなかった。 それは別荘というよりも、荒野の中の一つ家(や)であり、わすれ去られた古砦であり、人の住居(すまい)というよりも、死の古館(ふるやかた)といった方が、ふさわしいように思われた。すでに刎ね橋はひき上げられていた。「何という寂しい構えだろう」 呟きながら銀之丞は、堀に沿って右手へ廻った。すると意外にも眼の前に、刎ね橋が一筋かかっていた。そこは別荘の側面で、土塀には小門が作られてあったが、それへ通ずる刎ね橋であった。こういう場合おおかたの人は好奇心に捉われるものであった、で、彼も好奇心に駆られ、刎ね橋を向こうへ渡って行った。そうして小門へさわってみた。と、手に連れて音もなく、小門の戸が向こうへ開いた。「おや」とばかり驚きの声を、思わず口から飛び出させたが、さらに一層の好奇心が、彼の心を駆り立てた。 魔法使いの魔法の部屋か 彼は小門をくぐったものである。 あたりを見ると鬱蒼(うっそう)たる木立で、その木立のはるか彼方(あなた)に、一座の建物が立っていた、どうやら、別荘のおも屋らしい。さすがに彼もこれ以上、はいり込むには躊躇(ちゅうちょ)された。「しかし」と彼は思案した。「何んというこれは不用心だ。賊でもはいったらどうするつもりだ。一つ注意をしてやろう」で、彼は進んで行った。やがて建物の戸口へ出た。「ご免」と小声でまず訪(おとな)い、トントンと二つばかり戸を打った。と、何んたることであろう! その戸がまたも内側へ開き、闇の廊下が現われた。「おや」とばかり驚きの声を、また出さざるを得なかった。しかし驚きはそれだけではなく、「おはいり」 というしわがれた声が、廊下の奥から聞こえて来た。 これには銀之丞も度胆を抜かれた。でぼんやり佇(たたず)んでいた。するとまたもや同じ声がした。「待っていたよ、はいるがいい」 度胆を抜かれた銀之丞は、今度は極度の好奇心に、追い立てられざるを得なかった。 彼は大胆にはいって行った。三十歩あまりもあるいた時、「ここだ!」という声が聞こえて来た。それは廊下の横からであった。見るとそこに開いた扉(と)があった。で、内(なか)へはいって行った。カッと明るい燈火(ともしび)の光が、真っ先に彼の眼を奪った。そのつぎに見えたのは一人の老人で、部屋の奥の方に腰かけていた。「オイ若いの、戸を締めな」その老人はこういった。 いわれるままに戸を閉じた。それから老人を観察した。身長(たけ)が非常に高かった。五尺七、八寸はあるらしい。肉付きもよく肥えてもいた。皮膚の色は銅色(あかがねいろ)でそれがいかにも健康らしかった。ただし頭髪(かみのけ)は真っ白で、ちょうど盛りの卯の花のようで、それを髷(まげ)に取り上げていた。銀(しろがね)のように輝くのは、明るい燈火(ともしび)の作用であろう。高い広い理智的な額、眼窩(がんか)が深く落ち込んでいるため、蔭影(かげ)を作っている鋭い眼……それは人間の眼というより、鋼鉄細工とでもいった方が、かえって当を得るようだ。美術的高い鼻、強い意志を現わした、固く結ばれた大きな口……顔全体に威厳があった。着ている衣裳も美術的であった。しかしそれは日本服ではなく、阿蘭陀風(オランダふう)の服であった。それも船員の服らしく、袖口と襟とに見るも瞬(まば)ゆい、金モールの飾りがついていた。手には変った特色もない。ただ手首がいかにも太く、そうして指がいかにも長く、船頭の手などに見るような、握力の強そうな手であった。さて最後に足であるが、足は最も特色的であった。というのは右の足が、膝の関節(つけね)からなくなっているので、つまり気の毒な跛足(びっこ)なのであった。でズボンも右の分は、左の分よりは短かかった。 彼は長椅子に腰かけていた。その長椅子も日本の物ではなく、やはりオランダかイスパニヤか、その辺の物に相違なかった。長椅子には毛皮がかけられていた。それは見事な虎の皮で、玻璃製(はりせい)の義眼が燈火に反射し、キラキラ光る有様は、生ける虎の眼そっくりであった。毛皮の上には短銃があった。それとて日本の種子ヶ島ではなく、やはり舶来の品らしかった。 部屋はかなり広かった。そうして老人を囲繞(いにょう)して、珍奇な器具類が飾られてあった。縅(おどし)の糸のやや古びた、源平時代の鎧甲(よろいかぶと)、宝石をちりばめた印度風(インドふう)の太刀、磨ぎ澄ました偃月刀(えんげつとう)、南洋産らしい鸚鵡(おうむ)の剥製、どこかの国の国王が、冠っていたらしい黄金の冠、黒檀の机、紫檀の台、奈良朝時代の雅楽衣裳、同じく太鼓、同じく笛、大飛出(おおとびで)、小飛出、般若(はんにゃ)、俊寛(しゅんかん)、少将、釈迦などの能の面、黄龍を刺繍(ぬい)した清国の国旗、牧溪(ぼくけい)筆らしい放馬の軸、応挙筆らしい大瀑布の屏風、高麗焼きの大花瓶、ゴブラン織の大絨毯、長い象牙に豺(さい)の角、孔雀(くじゃく)の羽根に白熊の毛皮、異国の貨幣を一杯に充たした、漆塗りの長方形の箱、宝石を充たした銀製の箱、さまざまの形の古代仏像、青銅製の大香炉、香を充たした香木の箱、南蛮人の丸木船模型、羅針盤と航海図、この頃珍らしい銀の時計、忍び用の龕燈提灯(がんどうぢょうちん)、忍術用の黒小袖、真鍮製(しんちゅうせい)の大砲模型、籠に入れられた麝香猫(じゃこうねこ)、エジプト産の人間の木乃伊(みいら)、薬を入れた大小黄袋(きぶくろ)、玻璃に載せられた朝鮮人参、オランダ文字の異国の書籍、水盤に入れられた真紅の小魚……もちろんいちいちそれらの物が、一巡見渡した銀之丞の眼に、理解されて映ったのではなかったけれど、しかし決して夢ではなく、まさしく「実在」として映ったのであった。 奇妙な老人の奇妙な話「いったいこの部屋は何んだろう? この老人は何者だろう?」銀之丞は茫然と、驚き呆れて佇んでいた。 と、老人が声をかけた。「待っていたのだ。よく来てくれた。ところでお前は本人かな? それともお前は代理かな?」 いうまでもなくこの言葉は、銀之丞にはわからなかった。すると老人がまたいった。「本人なら市之丞と呼ぼう。もし代理なら別の名で呼ぼう。黙っていてはわからない」「いや」と銀之丞はようやくいった。「市之丞ではございません。そんな者ではございません。……」「ふん、それなら代理だな。それは困った。代理は困る」「全然話が違います。……刎ね橋が下ろされてありましたので……」「そうさ、お前を迎えるために、わざわざ下ろして置いたのだ」「いえ、それに小門の戸も……」「いうまでもない、開けて置いたよ。それは最初からの約束だからな」「……それでうかうか参りましたので」「ナニうかうか? 不用心な奴だ」「と、いいますのもその不用心を、ご注意しようと存じましてな。……」「うん、それがいい、お互いにな。不用心は禁物だ。……で、お前は代理なのだな? やむを得ない、我慢しよう。……で、お前の名は何んというな?」「さよう、拙者は銀之丞……」「ナニ銀之丞? よく似た名だな。市之丞代理銀之丞か。なるほど、これは代理らしい。よろしい、話を進めよう」「しばらく、しばらく。お待ちください!」「えい、あわてるな! 臆病者め! ははあ、お前は恐れているな。いやそれなら大丈夫だ。家族の者は遠避けてある。そこで話を進めよう。だがその前にいうことがある、なぜお前達は俺を嚇した! あんな手紙を何故よこした! 何故この俺を強迫した!」「俺は知らない!」と銀之丞は、とうとう怒って怒鳴りつけた。「人違いだよ、人違いなのだ」「ナニ人違いだ? 莫迦をいえ! 今さら何んだ! 卑怯な奴だ! だがマアそれは過ぎ去ったことだ。蒸し返しても仕方がない。しかし俺はいっとくがな、以後強迫は一切止めろ! そんな事には驚かないからな。もちろん本当にもしないのさ。だがいうだけはいった方がいい。そう思って返辞はやった。何んのこの俺が決闘を恐れる! アッハハハ、莫迦な話だ。しかし話がつくものなら、そんな厭な血など見ずと、そうだ平和の談笑裡に、話し合った方がいいからな。で、返辞はやったのさ。そうして俺から指定した通り、ちゃんと小門も開けて置いたのさ。それでも感心に時間通りに来たな。よろしい、よろしい、それはよろしい。ふん、やっぱりお前達も、血を見るのは厭だと見える。あたりめえだ、誰だって厭だ。お互い命は大事だからな。粗末にしては勿体(もったい)ないからな。……よろしい、それでは話を進めよう。さて、お前達の要求だが、あれは全然問題にならない。あの要求は暴というものだ。まるっきり筋道が立っていない。いわば場違いというものだ。それに時効にもかかっている。オイ、大将、そうじゃないかな! だからあれは肯(き)くことはならぬ! とこうにべもなくいい切ったでは、お前達にしても納まりがつくまい。俺にしても気の毒だ。今夜の会見も無意味になる。後に怨みが残ろうもしれぬ。それではどうも面白くない。そこで少しく色気をつけよう。といってお前達に怖じ恐れて、妥協すると思うと間違うぞ! なんのお前達を恐れるものか! 昔ながらの九郎右衛門だ」
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柳営秘録かつえ蔵(りゅうえいひろくかつえぐら)村井長庵記名の傘(むらいちょうあんないれのからかさ)岷山の隠士(みんざんのいんし)北斎と幽霊(ほくさいとゆうれい)日置流系図(へきりゅうけいず)二人町奴(ふたりまちやっこ)南蛮秘話森右近丸(なんばんひわもりうこんまる)銅銭会事変(どうせんかいじへん)