その翌朝のことである。
脚絆甲掛菅の笠、行李包を背に背負った、一人の田舎者がヒョッコリと、江戸麹町は平川町、村井長庵の邸から往来側へ下り立ったが、云うまでもなく十兵衛で、小田原提燈を手にさげて、品川の方へ歩いて行く。
程経て同じ長庵邸から、一人の男が現われたが、黒い頭巾で顔を隠し、着流しの一本差、おりから降り出した夜の雨を、蛇目の傘半開き、雨が掛かってパラパラパラ、音のするのを気にしながら、足音を忍んで小走る先はやはり品川の方角である。
暗い夜道を附かず離れず、二人の男は歩いて行く。赤羽を過ぎて三田の三角、札の辻へかかるころから、後の男は足を早めたが、気が付いたように立ち止まると、下駄を脱いで、手拭いで包み、グイと懐中へ捻じ込んだ手で、衣裳の裾の高端折り、夜眼にも著るくヌッと出る脛を、虻が集かったかバンと打ち、掌を返すと顎を擦り、じーっと行手を隙かして見たが、ブッツリ切ったは刀の鯉口、故意と高い足音を立て、十兵衛を先へ追い越そうとする。その足音に気が付いて、振り返った十兵衛の左側を影のように素早く走り抜けたが、小手をハラリと振ったのは提燈の燈を消すためである。
「あ、いけねえ燈が消えたあ」
十兵衛が思わず叫んだとたん、グルリ身を返した村井長庵、言葉も掛けず抜き打ちに斬り付けたのが右手に当り、十兵衛の片腕がブラリと下る。
「あれマア腕が……」と云うところをザックリまたも斬り付ける。冠った菅笠を切り割って頭の鉢へ刃が止まる。
颯と血潮が飛んだであろうが闇夜のことで解らない。
置き捨られた駕籠の主
「ワ――ッ」と云って尻餅をつく。
止まった刀を手許へ引き、一間あまり飛び退ると、長庵は刀を背後へ廻した。及び腰をして覗き込む。
「人殺しだアア、追剥だアアア」
呼ばわる声も次第に細く、片手で泥を掴んでは暗を眼掛けて投げ付けるものの、長庵の身体へは当りそうにもない。
「娘やあイ、お種やあイ」
致死期の声で娘を呼ぶ。と、最期の呼吸細く、
「兄貴! 兄貴! 兄貴やあイ。平河町の兄貴やあイ……」
現在その兄が人殺しとも知らず、綿々たる怨みの声で、こう救助を呼ぶのであった。
しかしその声もやがて絶え、苦しみき蠢いていた、その五体も動かなくなった。
雨が上り雲切れがし、深夜の遅い鎌のような月が、人魂のように現われたが、その光に照らされて、たたまれた襤褸か藁屑かのように、泥に横倒わった十兵衛の死骸、むごたらしさの限りである。
長庵は素早く近寄ったが、足で死骸を確り踏むと、左の耳根から右の耳根までプッツリ止めの刀を差し、刀を持ち替え右手を延ばすと、死骸の懐中から革の財布をズルズルズルと引き出した。
「六十両」とニタリと笑い、ツルツルと懐中へ手繰り込むや、落ち散っている雨傘を死骸の側へポンと蹴った。
さて、スタスタ行き過ぎようとする。
「オイ坊さん、お待ちなねえ」と、仇めいた女の声がした。
ハッと驚いた長庵が、声のする方へ眼をやると、いつ来てそこへ捨られたものか、道の真中に女駕籠が引き戸を閉じたまま置かれてある。
「俺を呼んだはどこのどいつだ」
女駕籠と見て取って、長庵にわかに元気付く。
「ホ、ホ、ホ、ホ」と駕籠の中から、艶かしい笑い声が聞こえたが、
「おまはん余程強そうだねえ」
こう云った声には凄気がある。
「ねえ、おまはん、可愛い人や、坊主色に持ちゃ心から可愛! ホ、ホ、ホ、ホおい坊さん、お城坊主かお寺さんかそれとも殿医奥医師か、そんな事アどうでもいい。そんな事アどうでもいいが、円い頭の手前もあろうに、殺生の事をしたじゃアないか。たかが相手は田舎者。追剥もいいけれど、殺すぶにはあるめえによ。妾ア見ていて総毛立ちいした。殺生なひとでありんすねえ。……それでどれほど儲けなんしたえ?」
「プッ」と長庵それを聞くと、いまいましそうに唾を吐いたが、
「いや艶めかしい廓言葉と白無垢鉄火の強白、交替に使われちゃどうにも俺ら手が出ねえ。一体お前は何者だね?」
「おや正体が見たいのかえ。見せてやるのはいと易いけれど、おまはんの眼でも潰れてはと、それが気の毒で見せられないよ」
「大きな事を吐きゃアがる。見せられなけりゃ見ねえまでよ。どれ俺らは行くとしよう」
「あれさ、気の早い坊さんだよ、ゆっくりしなんし、夜は深うざます」
「へ、へ、へ、へ、物も云えねえ。俺を止めてどうする気だ?」
「ふてえ分けを置いておいでよ」
「厭と云うたら何とする」
「厭とは云わせぬ手練手管[#「手管」は底本では「手菅」]……」
「ウヘエ、さては女郎だな」
「いやなお客に連れられて、二日がかりの島遊山、一人別れて通し駕籠、更けて恐ろし犬の声、それより恐い雲助に凄い文句で嚇されて、ビクビクガタガタ来かかったは、芝三角札の辻、刃の光に雲助ども、駕籠を飛ばせて逃げればこそ、往来中へおいてけぼり、見まいとしても見えるのは、人形歌舞伎の殺し場よりもっと惨酷い嬲り殺し。あんまり胆を潰したので、かえって今では度胸が据わり、草双紙で見た女賊の張本、瀧夜叉姫の相格を、つい気取っても見たくなり、呼び止めたはとんだ粹興、と云っても一旦止めたものをただで返すは女郎の恥、みんなとは云わぬ半金だけ、妾にくれて行きなましえ」
すっかり時代で嚇しかける。
「一両二両の端た金なら、テラ銭のつもりで置いても行こう、こう思っていた鼻先で、半金よこせは馬鹿な面め、坊主々々と安く見ても、名を明かされたら顫え出そう。もうこうなりゃア一両も厭だ。口惜しかったら腕で来い。それとも白砂へ駆け込むか。気の毒ながら手前だって、明い体じゃよもあるめえ。自繩自縛とは汝がこと、ハイ左様なら俺は行く。二度と呼ぶな返りゃしねえぞ」
尻ひっからげ駆け出す長庵、五間あまり行き過ぎた。
ギーという扉の開く音。ヒラリと刎ねたは駕籠の垂。生白い物の閃めいたは、女の腕に相違ない。
「ワッ」と云う長庵の声。ガックリ膝を泥に突き、手を廻すと脛に立った、小柄をグイと引き抜いたが、
「や、こいつア銀の平打! さては手前は!」と振り返る、その眼の前にスンナリと駕籠に寄り添い立った姿、立兵庫にお裲襠、大籬の太夫職だ。
「ううむ、そうか、女泥棒!」
「あいさ、妾ア花魁泥棒! こう姿を見せたからにゃア、半金では不承だよ」
「何の手前に」と懐中を抑える。
「おや、よこすのが厭なのかえ」
「世に名高けえ泥棒でも、たかが女、滅多にゃ負けねえ」
「おお、そうかえ、ではお止し」
繊手を延ばすと髪へ障わり、
「もう一本見舞おうかね。左の眼かえ右の眼かえ。それとも額の真中かえ」
長庵は黙って突立っている。
突然財布を投げ出した。
「上にゃ上があるものだなあ」
「それでも器用に投げ出したね。命冥加の坊主だよ」
途端に、人影バラバラと物の影から現われたが、
「姐御、駕籠に召しましょう」
ズラリ駕籠を取り巻いた。十五六人の同勢である。
「姐御はお止し、太夫さんだよ」
云い捨て駕籠へポンと乗る。宙に浮く女駕籠。サッサッサッと足並を揃え、深夜の町を掠めるがように、北を指して消えて行く。
記名の傘が死骸の側に、忘れてあったという所から、浪人藤掛道十郎が下手人として認められ、牢問い拷問の劇しさに、牢死したのはその後の事で、それについても物語があり、不思議な花魁泥棒が、十兵衛の娘お種を助け、長庵の悪事を剖くという、義血侠血の物語もあるが、後日を待って語ることとしよう。
とまれ強悪の村井長庵がものした金を又ものされ、手出しもならず口を開き、茫然立ったという所に、この物語の興味はあろうか。
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