3 開元十二年のことであった。 李白は出でて襄漢(じょうかん)に遊んだ。まず南洞庭(どうてい)に行き、西金陵(にしきんりょう)揚(よう)州に至り、さらに汝海(じょかい)に客となった。それから帰って雲夢(うんぽう)に憩った。 この時彼は結婚した。妻は許相公(きょそうこう)の孫娘であった。 数年間同棲した。 さらに開元二十三年、太原(たいげん)方面に悠遊した。 哥舒翰(かじょかん)などと酒を飲んだ。 また郡(しょうぐん)の元参軍(げんさんぐん)などと、美妓を携えて晋祠(しんし)などに遊んだ。 やがて去って斉魯(せいろ)へ行き、任城(にんじょう)という所へ家を持った。孔巣父(こうそうほ)、裴政(はいせい)、張叔明(ちょうしゅくめい)、陶(とうべん)、韓準(かんじゅん)というような人と、徂徠山(そらいざん)に集って酒を飲み、竹渓の六逸と自称したりした。 こうして天宝(てんほう)元年となった。 この時李白四十二歳、詩藻全く熟しきっていた。 会稽(かいけい)の方へ出かけて行った。 中(えんちゅう)に呉(ごいん)という道士がいた。 二人はひどくウマが合った。共同生活をやることにした。 東巖子(とうがんし)に比べると呉の方は、ちょっと俗物の所があった。それだけにその名は喧伝されていた。 時の皇帝は玄宗であった。「中の呉を見たいものだ」 こんなことを侍臣に洩らした。 呉の許へ勅使が立った。 出て行かなければならなかった。「おい、お前も一緒に行きな」「うん、よし来た、一緒に行こう」 李白は早速行くことにした。 やがて二人は長安へ着いた。 長安で賀知章(がちしょう)と懇意になった。 賀知章は李白を一見すると、驚いたようにこう云った。「君は人間なのか仙人なのか?」「どうもね、やはり人間らしい」「仙人が誤って人間になると、君のような風采になるだろう。君は謫(たく)[#ルビの「たく」は底本では「てき」]せられた仙人だよ」「まあさ、見てくれ、謫仙人の詩を」 李白は旧稿を取り出して見せた。 賀知章はすっかり参ってしまった。「素晴らしい物を作りゃアがる。こいつちょっと人間業じゃアねえ。君のような人間に出られると、僕の人気なんかガタ落ちだ。だがマアマア結構なことだ。御世万歳、文運隆盛、大いに友達に紹介しよう」「話せる奴でもいるのかい?」「杜甫という奴がちょっと話せる」「聞かないね、そんな野郎は」「だが会って見な、面白い奴だ。だがちっとばかり神経質だ」「そんな野郎は嫌いだよ」「まあまあそういわずに会って見なよ。君とは話が合うかもしれない。ひょっとかすると好敵手かもしれない」「幾歳(いくつ)ぐらいの野郎だい?」「そうさな、君よりは十二ほど若い」「面白くもねえ、青二才じゃアないか」「止めたり止めたり食わず嫌いはな」「どうも仕方がねえ、会うだけは会おう」 杜甫は名門の出であった。 左伝癖(さでんへき)をもって称された、晋の杜預の後胤であった。曾祖の依芸(いげい)は鞏県(きょうけん)の令、祖父の審言(しんげん)は膳部員外郎であった。審言は一流の大詩人で、沈期(ちんせんき)、宋之門(そうしもん)と名を争い、初唐の詩壇の花形であった。 父の閑(かん)は奉天(ほうてん)の令で、公平の人物として名高かった。 杜甫は随分傲慢であった。弱い癖に豪傑を気取り、不良青年の素質もあった。ひどく愛憎が劇しかった。それに肺病の初期でもあった。立身出世を心掛けた。その顔色は蒼白く、その唇は鉛色であった。いつもその唇を食いしばっていた。人を見る眼が物騒であった。相手の弱点を見透しては、喰い付いて行くぞというような、変に物騒な眼付であった。威嚇的な物の云い方をした。その癖すぐに泣事を云った。 決して感(かんじ)のいい人間ではなかった。 体質から云えば貧血性であったが、気質から云えば多血質であった。 いつも不平ばかり洩らしていた。 だが意外にも義理堅く、他人の恩を強く感じた。 忠義心が深かった。 義理堅いのをのぞきさえすれば、彼は実に完全に、近代芸術家型に嵌まった。 彼の幼時は不明であった。 が、彼の詩を信じてよいなら――又信じてもよいのであるが――七歳頃から詩作したらしい。「往昔十四五、出デテ遊ブ翰墨(かんぼく)場、斯文崔魏(しぶんさいぎ)ノ徒、我ヲ以テ班揚ニ比ス、七齡思ヒ即チ壮、九齡大字ヲ書シ、作有ツテ一襄(のう)ニ満ツ」 すなわちこれが証拠である。「七歳ヨリ綴ル所ノ詩筆、四十載(さい)、向フ矣(い)、約千有余篇」 こんなことも書いてある。 開元十九年二十歳の時、呉越方面へ放浪した。 四年の間を放浪に暮らし、開元二十三年の頃、京兆の貢拳(こうきょ)に応じたものである。 だが旨々(うまうま)落第してしまった。4 彼はすっかり落胆した。 奉天の父の許へ帰って行った。泰山(たいざん)を望んで不平を洩らした。 二年の間ブラブラした。 それから斉(せい)や趙(ちょう)[#ルビの「ちょう」は底本では「しょう」]に遊んだ。 それから長安へ遣って来たのであった。 李白と杜甫との会見は、賀知章が心配したほどにもなく、非常に円滑に行なわれた。 会後李白が賀知章へ云った。「彼は頗(すこぶ)る人間臭い。それが又彼のよい所だ。詩人として当代第一」 また杜甫はこう云った。「なるほどあの人は謫仙人だ。僕はすっかり面喰ってしまった。詩人としては第一流、とても僕など追っ付けそうもない」 互いに推重をしあったのであった。 李適之(りてきし)、汝陽(じょよう)、崔宗之(さいそうし)、蘇晋(そしん)、張旭(ちょうぎょく)、賀知章(がちしょう)、焦遂(しょうすい)、それが杜甫と李白とを入れ、八人の団体が出来上ってしまった。 飲んで飲んで飲み廻った。 いわゆる飲中の八仙人であった。 酒はあんまりやらなかったが、一世の詩宗高適などとも、李白や杜甫は親しくした。 三人で吹台や琴台へ登り、各自(めいめい)感慨に耽ったりした。 ※[#「りっしんべん+更」、662-15]慨するのは杜甫であり、物を云わないのは高適であり、笑ってばかりいるのは李白であった。 高適の年五十歳、李白の年四十四歳、杜甫の年三十二歳であった。 だがこの時代は李太白が、誰よりも詩名が高かった。 玄宗皇帝が会いたいと云った。 で、李白は御前へ召された。 誰が李白を推薦したかは、今日に至っても疑問とされている。 ある人は道士呉[#「」は底本では「※[#「くさかんむり/均」、662-下-1]」]だと云い、ある人は玉真公主だと云い、又ある人は賀知章だと云った。 すべて人間が出世すると、俺が推薦した俺が推薦したと、推薦争いをするものであるが、これも将しくその一例であった。 金鑾(きんらん)殿という立派な御殿で、玄宗は李白を引見した。 帝、食を賜い、羹(あつもの)を調し、詔あり翰林(かんりん)に供奉(ぐぶ)せしむ。――これがその時の光景であった。非常に優待されたことが、寸言の中に窺われるではないか。 彼は翰林供奉となっても、出勤しようとはしなかった。長安の旗亭に酒を飲み、いう所の管ばかりを巻いていた。「李白に会いたいと思ったら、長安中の旗亭を訪ね、一番酔っぱらっている人間に、話しかけるのが手取早い。間違いなくそれが李白なのだからな」 人々は互いにこんなことを云った。 その時唐の朝廷に一大事件が勃発した。 渤海(ぼっかい)国の使者が来て、国書を奉呈したのであった。 国書は渤海語で書かれてあった。満廷読むことが出来なかった。 玄宗皇帝は怒ってしまった。「蕃書を読むことが出来なければ、返事をすることが出来ないではないか。渤海の奴らに笑われるだろう。彼奴(きゃつ)ら兵を起こすかもしれない。国境を犯すに相違ない。誰か読め誰か読め!」 百官戦慄して言なし矣(い)であった。 そこへ遣(や)って来たのが李白であった。 飄々乎(こ)として遣って来た。「おお李白か、いい所へ来た。……お前、渤海語が解(わか)るかな?」「私、日本語でも解ります。まして謂んや渤海語など」「それは有難い。これを読んでくれ」 渤海の国書を突き出した。 李白は一通り眼を通した。「では唐音に訳しましょう」 そこで彼は声高く読んだ。「渤海奇毒(きどく)の書、唐朝官家に達す。爾(なんじ)、高麗(こうらい)を占領せしより、吾国の近辺に迫り、兵屡(しばしば)吾界(さかい)を犯す。おもうに官家の意に出でむ。俺(われ)如今(じょこん)耐(た)うべからず。官を差し来り講じ、高麗一百七十六城を将(もっ)て、俺に讓与せよ。俺好物事あり、相送らむ。太白山の兎、南海の昆布、柵城の鼓、扶余(ふよ)の鹿、鄭頡(ていきつ)の豚、率賓(そつびん)の馬、沃州綿(ようしゅうめん)[#ルビの「ようしゅうめん」は底本では「ようしうめん」]、泌河(びんひつが)の鮒、九都の杏、楽遊(がくゆう)の梨、爾、官家すべて分あり。若(も)し高麗を還(かえ)すことを肯んぜずば、俺、兵を起こし来たって厮殺せむ。且(か)つ那家(いずれ)が勝敗するかを看よ」 皇帝はじめ文武百官は、すっかり顔色を変えてしまった。「いま辺境に騒がせられては、ちょっと防ぐに策はない。一体どうしたらいいだろう」 風流皇帝の顔色には、憂が深く織り込まれた。 誰一人献策する者がなかった。
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