24[#「24」は縦中横]
一人は上品な老女であった。すなわち他ならぬ浮木であった。
後の四人は武士であった。が風俗は庭師である。その一人は銅兵衛であり、もう一人は三郎太であった。その他の武士は部下らしい。
そうしてこれ等は云う迄もなく、処女造庭境を支配している唐姫という女の家来なのであった。
「民弥という娘を捕らまえて、唐姫様のお言葉を、是非ともお伝えしなければならない」
こう云ったのは浮木である。
「しかしくれぐれも云って置くが、決して手荒くあつかってはいけない。丁寧に親切にあつかわなければならない」
「かしこまりましてございます」
こう云ったのは三郎太である。「丁寧にあつかうでございましょう」
「南蛮寺の裏の貧しい家に、住居をしているということだ」
またも浮木は云い出した。
「で慇懃に訪れて、事情を詳しく話すがいい」
「承知いたしましてございます」こう答えたのは銅兵衛である。
「唐姫様が仰せられた、お前達ばかりをやった日には、人相が悪く荒くれてもいる、恐らく民弥という若い娘は怯えて云うことを聞かないだろうと。で妾も行くことになったが、憎い信長の管理している、京都の町を見ることは、この妾としては好まないのだよ」
「ご尤も千万に存じます」頷いたのは三郎太で「しかし我々が長い年月、心掛けていました南蛮寺の謎が、解かれることでございますから……」
「そうともそうともその通りだよ。だから妾も厭々ながら、京都の町へ行くというものさ。……が民弥という娘ごが、この私達の云うことを、順直に聞いてくれないことには、その謎も解くことは出来ないだろう」
「もし民弥という娘ごが、不在でありましたら如何したもので」不安そうに聞いたのは銅兵衛であった。
「さあそれが心配でね」浮木の声は心配そうである。
「だが大概は大丈夫だろう。若い娘のことであり、父に死なれたということではあり。それにもう今日も夜になった、町など歩いてはいないだろう、大方は家にいるだろう」
で一同は歩いて行く。
どうやら話の様子によれば娘の民弥に用があって、民弥の家へ行くのらしい。
しかし肝心のその民弥が、家にいないことは確かである。桐兵衛という人買の家に、捕らえられている事は確かである。
一同は山を下って行く。ズンズンズンズン歩いて行く。
誰が民弥を手に入れるだろう?
うまく猿若が助け出すかしら?
遠国廻りの人買共が、それより先に買い取るだろうか?
それとも浮木の一団が、民弥の居場所を探し出すかしら?
とにかく一人の民弥を挿んで、三方から三通の人達が、競争をしているのであった。
ところで肝心のその民弥であるが、この頃どうしていただろう。
恐ろしい人買の桐兵衛の家の、真暗な二階の一室に厳重に監禁されていた。
雨戸がビッシリと閉ざされている。出入口も厳重に閉ざされている。逃げ出すことは絶対に出来ない。その上両手は縛られている。開けようとしても開けることが出来ない。
彼女は格闘したのであった。しかし一人に大勢であった。先ず懐刀を奪い取られ、続いて足を攫われた。悲鳴を上げたが駄目であった。
縛られてこの部屋へ入れられたのである。
「ああどうしたらいいだろう?」
民弥はじっと考え込んだ。
人買共の話声が、階下から遠々しく聞こえてくる。
隣部屋から泣声がする。やはり民弥と同じように捕らえられた不幸な娘たちが、監禁されているのだろう。
「ああどうしたらいいだろう」
またも民弥は呟いた。
と、にわかに笑声が、階下の座敷から聞こえてきた。続いて人買の親方の桐兵衛の喋舌り声が聞こえてきた。
「ヨーこいつはいい所へ来た、遠国廻りのお仲間か。さあ上るがいい上るがいい。ちょうど上玉が一人ある。早速売り渡すことにしよう」
――どうやら鴨川から上陸した、遠国廻りの人買が、桐兵衛の家へ着いたらしい。
だがその時一枚の雨戸が音もなく戸外からスルスルと開けられ、顔を覗かせた子供があった。
誰なのか、猿若である。
しかしその時階段を上る、人の足音が聞こえてきた。桐兵衛の手下の人買が、民弥を連れに来たのらしい。
25[#「25」は縦中横]
最初に部屋へ入り込んだは、幸いにも猿若少年であったが、こう民弥へ囁いた。
「声を立てちゃあいけませんよ。俺らは怪しい者ではない。お前さんを助けに来たものだ。さあさあ逃げたり、お逃げお逃げ! オッとそうそう縛られていたっけ。これでは逃げるにも逃げられめえ。よしきた俺らが解いてやろう。……いやいやそれでは間に合わない。切ってしまおう切ってしまおう!」
常時懐中に用意している小刀を引き抜くと、バラバラと縄を切り払ったが、「さあさあこっちだ、裏から逃げよう、まごまごしていると取っ捉まる。……お聞きよお聞きよ、足音がする! 人買共の足音だ! 入って来られたら大変だ! 目つけられたら大事になる! ……俺らの身分は後から云う! ……心配はいらない心配はいらない! ……黙って付いて来るがいい」
こうして民弥を裏口から下ろし、自分も裏庭へ飛び下りたとたん、人買共がドヤドヤと、戸口から部屋の中へ入って来た。
「おっ、どうした、居ないではないか!」こう呶鳴ったのは例の一ツ目。
「やっ、裏口が開いていらあ」続いて叫んだのは勘八であったが、直ぐに裏口へ飛んで行った。
「大変だ大変だ。逃げて行く! ……おっ、一人は小僧ッ子だ!」
「どれどれ」と一ツ目も覗いたが、「一人は民弥だ! 一人は猿若!」
「それじゃア猿若が裏から忍んで、助け出したに違いない! とんでもない小僧だ、うっちゃっては置けない」
バタバタと駈け下りた人買共は階下へ下りると叫び立てた。
「親方、やられた、攫われた!」こう云ったのは勘八である。
「何を!」と立ち上ったは柏野の里の桐兵衛、「何だ何だどうしたんだ?」
「何だじゃない、大変だ、あの小僧ッ子の猿若めが、民弥を攫って行ったんだよ!」
「え、ほんとうか、途方もねえ話だ! あんな素晴らしい上玉を、あんな小倅に横取られた日にゃア、俺らの商売は成り立たない! さあさあ皆な追っかけろ!」
「それ!」と云うと人買共は親方の桐兵衛を真先に、裏口から一散に走り出したが、もうこの頃には民弥と猿若は、数町のあなたを走っていた。
「さあさあ民弥さん、お走りお走り! ぐずぐずしていると取っ捉まる。取っ捉まったらもういけない。それこそ酷い目に逢わされる。売られるだろう売られるだろう。それも遠くへ売られるのだ。二度と都へは帰れない。……おやいけない。足音がする。あッいけない追っかけて来る。力一杯逃げたり逃げたり!」
で、二人は走って行く。
この辺りは郊外で人家に乏しく、林や藪が立っている。すなわち小北山の山脈で、道らしい道も出来ていない。たとえ助けを呼んだところで、助けにやって来る人はない。でどうしてもひた走って、町の方へ出なければならないのである。
おりから月夜で物の影が見え、逃げて走るには不便であった。隠れることもむずかしく、横へ反れることもむずかしい。でどこ迄も逃げなければならない。
南へ走れば町へ出られる。東へ走っても町へ出られる。だがもし北の方へ走ろうものなら、南鷹ヶ峰の山地となり、そうして西の方へ走ろうものなら、小北山から衣笠山となり、同じく町へは出られない。
26[#「26」は縦中横]
ところが人買の追手達は、東の方から走って来る。だから東へは逃げられない。どうでも南へ逃げなければならない。ところがそっちへも逃げられなかった。と云うのは人買の追手共が、にわかに同勢を二つに分け、一手が南へ廻ったからである。で二人は残念ながら、西へ西へと逃げることになった。
一人は子供で一人は娘、足の弱いのは知れている。とはいえ命がけの場合である。いつもの二倍も走ることが出来る。
一所懸命走って行く。走りながら猿若は喋舌るのである。
「ねえ民弥さん民弥さん、俺らを疑っちゃアいけないよ。安心して俺らに委せるがいい。もっとも俺らも悪いことをした。人形を盗もうとしたんだからなあ。もっともそいつは失敗したが。……ええとそれからもう一つ、もっとよくないこともした。と云うのは民弥さんのお父さんを……どうもこいつだけは云えないなあ。あんまり酷いことをしたんだからなあ。……だってそれだって本心からじゃアない。みんな親方に云い付けられたんだ。そりゃア悪事には相違ないが、だって親方の云い付けなら、厭だと云うことは出来ないからなあ。……オヤオヤ足音が近くなったぞ! どれどれこの辺りで振り返ってみよう……あッいけない追い逼って来た。ナーニ大丈夫だ、逃げ通してみせる。一町とは逼っていないんだからなア。……そりゃア俺らは善人ではない。が、今では善人だよ。悪戯小僧には相違ないが、だって今ではいい子供だ。だからよ民弥さん堪忍しておくれよ。ね、ね、ね、昔の罪はね! ……そりゃアそうとどうもいけない。だんだん足音が近くなって来る」
民弥は無言で走って行く。民弥には全く不思議であった。
何が何だか解らなかった。猿若というこの小供が、何故自分を助けたのか? そうしてどうしてこの小供が、自分の名などを知っているのか? いやいや決してそればかりではない、逝くなった父の弁才坊のことや、そうして人形のことなどを、どうして口へ出すのだろう? ――何も彼も民弥には解らなかった。だがただ一つ解っていることがあった。それは自分のあぶない所を、助けてくれたということである。で民弥は心から、有難く思ってはいるのであったが、口へ出しては云わなかった。と云うのはうっかり声を出して、そのため呼吸でも乱れたら、そのまま倒れてしまうだろうと――こういう不安があったからである。
で、黙ったままひた走る。
だが精力には限りがある。だんだん二人は疲労てきた。足の運びも遅くなり、胸が苦しく呼吸が逸む。
「ああもう妾は走れない」
民弥がこう云って足を止めた時、人買の追手が追い逼った。
すぐに民弥と猿若とを、グルグルと包囲したのである。
「これ」と喚いて進み出たのは、人買の頭の桐兵衛であった。
「民弥、猿若、もう駄目だ! 穏く従いて来るがいい。アッハッハハ飛んでもない奴等だ、そんな小供や小娘に、裏掻かれるような俺達なら、とうの昔に縛られている……さあさあ帰れ従いて来い。……民弥にはおりよく買手が付いた。売るからその意でいるがいい、……ところでチビの猿若だが、呆れた真似をしおったなあ。香具師と人買とは仲間のようなものだ。その仲間を裏切ってよ、仕事の邪魔をやるなんて、交際を知らねえにも程がある。そういう悪い小倅には、それだけの仕置をしなけりゃアならねえ。佐渡か沖の島か遠い所へ、こいつも小僕として売ってやる。……さあお前達!」と云いながら、手下の人買を見廻したが、「こいつら二人を引っ担いで行け!」
「さあ来やアがれ!」と五六人の人買が民弥と猿若とへ飛びかかった。
「何だい何だい悪者め!」こう呶鳴ったのは猿若である。
「来やがれ来やがれ、叩っ切って見せる」
そこで懐刀を振り廻したが、疲労てはいるし敵は大勢、到底勝目はなさそうであった。
民弥に至っては尚更である。立っているさえ苦しい程に、心も休も疲労切っていた。
「何人かお助け下さいまし!」
救いの声を立てながら、ヒョロヒョロ逃げ廻るばかりである。
こうして民弥と猿若とは、せっかくここ迄は逃げて来たが、またもや人買の手にかかり、連れ戻されなければならなかった。
だがその時松火の燈が、手近の森陰から現われて、五人の人影が足を早め、近づいて来たのは何者であろう?
見て取ったのは民弥である。追い廻す人買を突きのけて、一散にそっちへ走り出した。
「民弥めが逃げるぞ、追っかけろ!」
人買が後を追っかける。
27[#「27」は縦中横]
しかしその時には娘の民弥は、松火をかかげた一団の中へ、身を躍らせて飛び込んでいた。
「これは娘ごどうなされた」
こう云いながら見守ったのは、一人の立派な老女であった。他でもない浮木である。そうして現われたこの一団こそ、例の庭師の一群であった。
「はい」と云うと娘の民弥は、クタクタと土へ崩折れたが、「妾は京の片隅に住む民弥と申す者にござります。人買の手にかかりまして……」
「なに、民弥? ほほう左様か、これは幸、よい所で逢った。実はな、お前さまに逢おうと思うて、わざわざ山から下ったものでござるよ、……と云うのは他でもない、南蛮寺の謎につきましてな、お訊ねしたいことがあるからでござるよ。……がそれは後でお訊ねするとして、大丈夫でござるお助けいたす」
ここで浮木は庭師達を見たが、「あいや方々お聞きの通り、人買共が民弥殿を、誘拐そうと致したそうな。そうでなくてさえ世を乱す悪者、用捨はいらない討って取りなされ!」
「心得てござる」と答えたのは、庭師の一人の銅兵衛である。
「さあ方々」とその銅兵衛は味方の三人を見廻したが、「一度に抜き連れ、叩っ切りましょうぞ!」
声に応じて四本の大刀[#「大刀」はママ]がキラキラと松火に反射した。四人腰の物を抜いたのである。
庭師の扮装はしているが、決して尋常な庭師ではなく、いずれも名ある武夫が何か世を忍ぶ理由があって、そんな姿にやつしているのであろう。構え込んだ態度に隙がなく、素晴らしい手練を示している。
だが人買の連中には、どうやらそんなことは解らないらしい。民弥の後を追っかけて、十人余り走って来たが、「これ汝ら何者だ、娘を返せ、さあ渡せ!」呶鳴ったは親方の桐兵衛である。
嘲笑ったは銅兵衛で、「黙れ! 鼠賊! 何を云うか! 民弥殿は我らが守護いたす、金輪際汝らに渡すことではない、取りたくば腕ずくで取って見ろ! 見れば人買、浮世の毒虫! 根絶やししてくれよう、観念しろ」
ヌッと踏み出した気塊というものは、凄じい迄に高かった。
ギョッとはしたが人買の桐兵衛、こいつも甲斐撫での悪党ではなかった。後へ退がると引き抜いた。「やあ手前達邪魔が入った、邪魔な奴から退治つけて、民弥をこっちへ取り返せ! 多少の腕はあるらしいが、人数は四人だ、知れたものだ、おっ取り囲んで鏖殺にしろ!」
手下に向かって声をかけた。
「云うにゃ及ぶだ」と人買共は一斉に抜き連れ飛びかかった。
「命知らずめ!」と一喝くれ、真っ先立って飛び込んで来た、人買の一人を大袈裟に、一刀にぶっ放した庭師の銅兵衛、「幾人でも来い、さあさあ来い! 一度にかかれ! さあさあかかれ!」
血刀を揮って切込んだ。続いて三人が躍り込む。それを人買がおっ取り巻く。キラキラ! 太刀だ! 月光に映じ、十数本の太刀が閃めいたのである。悲鳴! つづいて仆れる音! 人買が切られて仆れたのであろう。
むこうに一群、こっちに一群、庭師と人買とが切り合っている。バラバラと逃げる一群がある。それを追って行く一群もある。
と、一方では猿若少年が、二三人の人買を相手にして、懐刀を縦横に揮っている。
「しめたぞしめたぞ味方が出た! 敗けっこはない敗けっこはない! さあさあこいつらめ鏖殺だ! まるかって来い、まるかって来い!」
庭師の群が現われて、助太刀をすると見て取ったので、疲労も忘れ勇気も加わり、軽快敏捷に立ち廻るのである。
月光が上から照らしている。地上に捨てられた松火が、焔を上げて照らしている。四辺は荒野! 点々と木立! そういう中での乱闘である。
と、その時意外の事件が、忽然勃発することになった。
浮木の姥の傍に立って、乱闘を見ていた娘の民弥が、何と思ったか身を飜すと、町の方を目掛けて一散に、野草を蹴散らして走り出したのである。
一体どうしたというのだろう? 乱闘に驚いて逃げたのであろうか? それとも何かそれ以外に、逃げて行かなければならないような、大事な理由があるのだろうか?
大事な理由があったのである。
「山から下って来た庭師風の人達、南蛮寺の謎を解こうとして、妾を尋ねて来たという、ではやっぱり敵なのだ。うかうかしてはいられない。危難を救われた恩はあるが、いつ迄も縋っていようものなら、難題を出されないものでもない。逃げよう逃げよう逃げて行こう!」
で、民弥は逃げ出したのである。
仰天したのは浮木の姥で、「民弥殿、民弥殿、逃げてはいけない。何も恐ろしいことはない。戦いは我らの勝でござる。そうして我らは悪者ではござらぬ。お帰りなされ、お帰りなされ」――で後を追っかけた。
何で民弥が帰るものか。民弥は懸命に走って行く。
木間を潜り、坂道を転び、月光を蹴散らし、町へ町へ! 町の方へと走って行く。
しかし民弥は逃げられなかった。
行手に盛り上った森があり、そこの前まで駈けて行った時、五六十人の同勢に、グルグルと取り囲まれてしまったのである。
28[#「28」は縦中横]
洵に異風な人達であった。
大方の者は赤裸で、茜の下帯をしめている。小玉裏の裏帯を、幾重にも廻して腰に纏い、そこへ両刀を差している。
つかみ乱した頭の髪、それを荒縄で巻いている。黒波の脚絆で脛を鎧い、武者草鞋をしっかりと穿いている。そうして或者は熊手を持ち、そうして或者は鉞を舁ぎ、そうして或者は槌をひっさげ、更に或者は槍を掻い込み、更に或者は斧をたずさえ、龕燈を持っている。
「あっ」と仰天した娘の民弥は、ベッタリ地上へ坐り込んでしまった。
極度に胆を潰したのである。
胆の潰れたのは当然といえよう、一難が去れば一難が来る。そうして新しい災難は、以前の災難よりより以上、恐ろしいものであるのだから。
気丈の民弥も顫え上り、茫然として見守った。
が、それにしてもこの連中は、どういう身分の者だろう?
浮木の姥が走って来て、その連中とぶつかった時、大体身分の見当が付いた。
「おっ、汝らは茨組か!」こう云ったのは浮木である。
「珍らしいの、浮木の姥か」
こう云って進み出た壮漢は、この一党の頭と見え、荒々しい顎鬚を顎に貯え、手に鉄棒をひっさげている。年の頃は四十五六、腹巻で胴を鎧っている。星影左門という人物である。
「唐姫殿はご無事かの?」嘲笑うように訊き返した。
「うむ」と云ったが浮木の姥は、かなり周章た様子であった。「いつ其方達は上洛したぞ?」
「ご覧の通りさ、たった今さ」
「で、何のために上洛したな?」
「京師を掠めようその為さ」
「が、そいつはよくあるまい」浮木はその眼をひそめたが、
「あの信長めが京師を管理し、威令行なわれているからの」
「そんなことには驚かないよ」星影左門は笑ったが「何の検断所の役人どもに、指一本でもささせるものか」
「が、それにして何のために、五六十人ばかりの同勢で、いまごろ上洛して来たな?」
「唐姫殿が欲しいからよ」
「ふふん」と浮木は嘲笑った。「お前のような人間は、唐姫様にはお気に召さぬそうな」
「それは昔から解って居るよ」星影左門も負けてはいない。
「が、腕ずくでも手に入れて見せる」
浮木の姥はまた笑ったが、「我等の勢力を知らぬと見える」
すると左門も笑ったが、「そういうことを云うお姥こそ、我々の勢力を知らぬと見える。……と云うのはここにいる人数こそ、六十人にも不足だが、なお後から続々と、大勢の者が上洛るのだ、のみならず土右衛門も槌之介も、衆をひきいて上洛るのだ。いやいやその上に筑右衛門までが、衆をひきいて来るのだよ」
「ふふん」と云ったものの浮木の姥はいささか胆を奪われたらしい。「よかろうよかろう幾百人でも来い。しかし我等が固めている、処女造庭の境地へは、一歩たりとも入れぬからの」
「入れぬと云っても入ってみせる。がそれは後日の問題だ。今夜はこれで別れよう」
「これ」と浮木は声を強めた。「娘をこちらへ引き渡せ」
すると左門は民弥を見たが「随分美しい娘だの。酌などさせたら面白かろう。……お気の毒だが渡されぬよ」
「是非とも渡せ! 大事な娘だ!」
「ほほうそんなにも大事かな?」
「大事な娘だ、さあさあ渡せ!」
「では」と云うと星影左門は一層意地の悪い顔をしたが、「では尚更渡されぬよ。と云うのはこいつを囮にして、我等の望みを遂げたいからさ」
ここでグルリと手下を見たが、
「さあさあ汝らこの娘をつれて、目的の地へ行くがよい」
もうこうなっては仕方がない、浮木はたった一人である、左門の一党は多勢である。
「娘を渡せ! 娘を渡せ!」
浮木の叫ぶのを意にも介せず、
「どうぞお許し下さいまし、家へ帰らして下さいまし」
こう云う民弥の言葉も聞かず、大盗茨組の一党は、民弥を数人で宙につるし、悠々として山路を下り、京都の町へ入ったが、そのまま行方をくらませてしまった。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] 下一页 尾页