周易の名家加藤左伝次
乞食は左右の手を延ばし、左右六個の石を取った。
「ははあ、花だけ残したな」
急に乞食は二個の小石へ、さらに一個の石を加えた。その左右に三個ずつ六個の小石を置き並べた。
「これはほかならぬ河川陣だ」
乞食はまたもや石を崩した。十個の小石を一列に並べた。その中央へ角石を置いた。
「これはほかならぬ閂陣。戸という文字を暗示したものだ。三つを合わせると花川戸。ははあこれは地名だな」
乞食はまたも石を崩した。小石を五個一列に並べた。そうして指で「刻」の字を書いた。
「うん、これは五更という意味だ」老武士は口の中で呟いた。
乞食の石芸はこれで終った。人の往来が劇しくなった。乞食達は袖へ縋り出した。いつの間にか皆見えなくなった。
老武士は悠然と欄干を離れた。橋の袂に駕籠屋がいた。
「駕籠屋」と老武士はさし招いた。「数寄屋橋までやってくれ。うむ、行く先は北町奉行所」
すぐに駕籠は走り出した。
お色は俯向いて歩いていた。顔を上げると屋敷があった。門に看板が上がっていた。地泰天の卦面を上部に描き、周易活断、績善堂、加藤左伝次と記されてあった。
当時易学で名高かったのは、新井白峨と平沢左内、加藤左伝次は左内の高弟、師に譲らずと称されていた。左内の専門は人相であったが、左伝次の専門は易断であった。百発百中と称されていた。
お色は思わず足を止めた。
「あのお方のお心持ち、ちょっと占って貰おうかしら?」
で門内へはいっていった。すぐ溜り場へ通された。五、六人の人が待っていた。一人一人奥へ呼び込まれた。嬉しそうな顔、悲しそうな顔、いろいろの顔をして戻って来た。やがてお色の番が来た。お色は奥の部屋へ行った。部屋の正面に床の間があった。脇床の違い棚に積まれてあるのは、帙入の古書や巻軸であった。白熊の毛皮が敷いてあった。その上に端然と坐っているのは、三十四、五の人物であった。総髪の裾が両肩の上に、ゆるやかに波を打っていた。その顔色は陶器のようで、ひどく冷たくて蒼白かった。眼の形は鮠のようであった。眼尻が長く切れていた。耳髱へまで届きそうであった。その左の目の瞳に近く、ポッツリ星がはいっていた。それが変に気味悪かった。黒塗りの見台が置いてあった。算木、筮竹が載せてあった。その人物が左伝次であった。茶無地の被布を纏っていた。
お色は何がなしにゾッとした。凄気が逼るような気持ちがした。遠く離れて膝を突いた。それからうやうやしく辞儀をした。
と、左伝次は頤をしゃくった。
「恋だな、お娘ご中ったろう?」
「えっ」とお色は度胆を抜かれた。
「もっとお進み、見てあげよう」左伝次の声は乾いていた。枯れ葉が風に鳴るようであった。やはり変に不気味であった。「年は幾歳だ、男の年は?」
「は、はい、年は二十三で」
「妻はあるかな、その男には?」
「いえ、奥様はございません」
「ナニ、奥様? うむそうか。相当家柄の侍だな?」
「旗本衆のご次男様で」つい釣り込まれていってしまった。
「で、何を見るのかな?」
「はい、そのお方のお心持ちが……」赭くなっていい淀んだ。
「変わったか変わらないか見るのであろう?」
「は、はい、さようでございます」
「よし」というと筮竹を握った。「よいか、見る人と見られる人との精神が合盟一致した時、易というものは的中する。で、お前さんも一生懸命におなり」
お色は形を改めた。
「ヤ――ッ」と鋭い掛け声が、左伝次の口から迸り出た。「ヤーッ、ヤーッ、ヤーッ、ヤーッ」ドン底へしみるような声であった。左伝次の額からは汗が流れた。ザラザラザラザラと筮竹が鳴った。
お色は心が恍惚となった。これまでも易は見て貰ったが、こんな凄じい立てかたは、一度も経験したことがなかった。「さすがは名題の加藤先生。ああこの易はきっと中る」お色は突嗟に信じてしまった。
左伝次は筮竹を額へあてた。パチパチパチパチパチ。パチパチパチパチ。力をこめて刎ね上げた。と、算木へ手を掛けた。カタカタと算木が返された。ホーッと一つ呼吸をすると、ザラザラと筮竹を筒の中へ入れた。それから算木を睨み付けた。
お色は思わず呼吸を呑んだ。
死中ただ一活路
「おお、お娘ご、これはいけない」気の毒そうに左伝次はいった。
「あのそれではそのお方の、お心持ちが変わったので?」お色はブルブルと顫え出した。
「いや心は変わっていない。……もっと大変なことがある」
「え、そうして大変とは?」
「死地にはいっておられるのだ」
「まあ」と叫ぶとフラフラと立ったが、すぐベッタリと坐ってしまった。
「では、お命があぶないので?」
「うむ」と左伝次は顔を曇らせ、「しかもそれが冤罪でな」
「どこにおられるのでございましょう?」
「さあ、そこまでは解らない」左伝次はお色を刺すように見た。「だがただ一つ道がある。そうだその人を救う道がな」
「どうぞお聞かせくださいまし」お色はズルズルと膝を進めた。「先生お願いでございます」
「医は肉体の病を癒し、易は精神の病を癒す。いわばどっちも仁術だ。わしの力で出来るだけの事は骨を折ってしてあげよう。その人を救う唯一の道とは、その人と一番親しい人がさらに他の人に正直に事情を話して救いを乞う時、事情を話されたその人が、事件を解決して救うというのだ。易の面に現われている。詳しく分解して話してもよいが専門の言葉で説明しても、お前さんには解るまい。ところでその人と親しい人とは、今の場合お前さんだ。さらに他の人とは誰のことか。これはどうやらわしらしい。そこでお前さんが正直に今度の事情をわしに話したら、あるいはこのわしがその人を、救い出すことが出来るかも知れない。もちろん確実とはいわれないがな」
「はい有難う存じます。それではお話しいたします。どうぞお聞きくださいまし。あの妾は浅草の、銀杏茶屋のお色でございます」
――それから田沼に懇望され、その妾になろうとしたこと、可愛い恋人と切れたこと、妾になることが止めになったこと、今日呼び出しを掛けたところ、恋人が昨日屋敷を出たきり、今に帰って来ないこと――一切合切打ち明けた。
左伝次は黙って聞いていたが、その顔には曖昧な、混乱したものが現われた。
「その人の名は何んというな?」やがて左伝次はこう訊いた。
「白旗弓之助様と申します」
「うむ、お旗本で白旗か……。小左衛門殿のご縁辺かな?」
「そのお方のご次男様で」
「では確か北お町奉行、曲淵様とはご親戚のはずだが」
「はい叔父甥の仲だそうで」
左伝次はじっと考え込んだ。「昨日から行方が不明なのだな?」
「はいさようでございます」
ここで左伝次はまた考えた。
「弓之助殿のご様子は? つまり容貌風采だな」
「色白の細面、中肉中身長でございます」
「うむ、そうして腰の物は?」
「あの細身の蝋鞘の大小……」
「うむ、そうしてご定紋は?」
「はい丸に蔦の葉で」
すると左伝次はヒョイと立った。
「お色殿ちょっとこっちへおいで」
障子を開けると縁へ出た。
午後の陽が中庭にあたっていた。
お色は相手の気勢に引かれ、立ってその後へ従った。
縁は廻廊をなしていた。その外れに離れ座敷があった。不思議なことには、昼だというのに、雨戸がピッタリ閉まっていた。離れ座敷の前までゆくと、左伝次は入り口の戸を開けた。最初の部屋は暗かった。間の襖をサラリと開けた。
その部屋には燈火があった。行燈がボッと点っていた。
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