弓之助感慨に耽る
甲斐守はこう語った。
弓之助は奇異の思いがした。
「これは陰謀でございますな。狐狸の所業ではありませんな。怪しいのはその女で、何者かの傀儡ではございますまいか?」
「うん俺もそう思う。振り袖姿のその女は、銅銭会の会員だろう」
「申すまでもありません。しかし私は銅銭会より、銅銭会をあやつっているある大きな人物が……」
「これ」と甲斐守は手で抑えた。「お前、田沼殿を疑がっているね」
「勢いそうなるではございませんか」
「が、ここに不思議なことには、今度の事件では田沼殿は、心の底から周章てていられる」
「さては芝居がお上手と見える」
「いやおれの奉行眼から見ても、殿の周章て方は本物だ。そこがおれには腑に落ちないのだ。……さて、よい物が手に入った。銅銭会縁起録、早速これから御殿へまいり、老中方にお眼に掛けよう」
叔父の家を出た弓之助は、寂然と更けた深夜の江戸を屋敷の方へ帰って行った。考えざるを得なかった。
「田沼の所業に相違ない。将軍家に疎んぜられた。そこで将軍家をおびき出し、幽囚したか殺したか、どうかしたに相違ない。悪い奴だ、不忠者め! その上俺の情婦を取り、うまいことをしやがった。
公の讐、私の敵、どうかしてとっちめてやりたいものだ。だが、どうにも証拠がない。是非とも証拠を握らなければならない。銅銭会とは何物だろう? 支那の結社だということだが、どういう性質の結社だろう? だがそいつは縁起録を見たら、容易に知ることが出来るかもしれない。明日もう一度叔父貴を訪ね、縁起録の内容を知らせて貰おう。とまれ田沼めと銅銭会とは、関係があるに相違ない。あるともあるとも大ありだ。銅銭会員を利用して、将軍家誘殺を試みたのだ。無理に将軍家を花見に誘い、毒塗り小柄で討ち取ろうとした。ところがそいつが失敗ったので、会員中の美人を利用し、大奥の庭へ入りこませ好色の将軍家を誘い出したのだ。容易なことでは大奥などへは、地下の女ははいれないが、そこは田沼がついている。忍び込ませたに相違ない。だがしかし不思議だなあ。突然消えたというのだから」
彼はブラブラ歩いて行った。
「田沼にいかに権勢があっても、深夜城門を開くことは、どんなことがあっても出来るものではない。だが城門を開かなかったら、城から外へ出ることは出来ない。それだのに突然消えたという。どうもこいつがわからないなあ」
弓之助には不思議であった。
「もしかすると将軍家には、千代田城内のどの部屋かに、隠されているのではあるまいかな? お城には部屋が沢山ある。秘密の部屋だってあるだろう。どこかに隠されてはいないかな?」
神田を過ぎて下谷へ出た。朧月が空にかかっていた。四辺が白絹でも張ったように、微妙な色に暈かされていた。
「山村彦太郎が将軍家へ、風土記を講読したというが、結講な試みをしたものだ。そのため将軍家の眩まされた眼が、少しでも明いたということは、非常な成功といわなければならない。もっとも今度の大事件の、そもそもの発端というものは、その三河風土記の講読にあることは争われないが、決してそれを責めることは出来ない、聞けば山村彦太郎は、賢人松平越中守様に、私淑しているということだが、ひょっとかすると越中守様の、何んとはなしの指金によりて、そんなことをしたのではあるまいかな」
弓之助の社会観
弓之助は上野へ差しかかった。
「越中守はお偉い方だ。ああいう方が廟堂に立ち、政治をとってくだされたなら、日本の国も救われるのだが、そういう事も出来ないかして、いまだに枢機に列せられない。現代政治のとり方は、庚申堂に建ててある、三猿の石碑そっくりだ。見ざる聞かざるいわざるだ。将軍家よ見てはいけない。人民どもよ見てはいけない。将軍家よ聞いてはいけない。人民どもよ聞いてはいけない。将軍家よいってはいけない。人民どもよいってはいけない。一口にいえば上をも下をも木偶坊に仕立てようとしているのだがこいつは非常に危険だ。聞かせまいとすれば聞きたがる。いわせまいとすればいいたがる。見せまいとすれば見たがるものだ。圧迫するということは、いつの場合でもよくはない。圧迫、圧迫、さて圧迫! その次に起こるものは爆発だ。この爆発は恐ろしい。一切の物を破壊しようとする。いっそうそれより処士横議、自由に見させ自由にいわせ、自由に聞かせた方がいいではないか。遙かにその方が安全だ。琉け口を作ってやるのだからな。……ところでここはどこだろう?」
そこは浅草馬道であった。
「お色め、今頃どうしているだろう? まだ妾にはゆくまいな。ちょっと様子を見たいものだ。別れた、女の様子を見る。未練と人はいうだろう。だが幸い人気がない。おりから深夜で月ばかりだ。月に見られたって恥ずかしいものか。しかも春の朧月、被衣を、冠っておいでなさる」
観音堂の方へ歩いて行った。昼は賑やかな境内も、人影一つ見えなかった。家々の戸は閉ざされていた。屋根が水でも浴びたように、銀鼠色に光っていた。巨大な公孫樹が立っていた。その根もとに茶店があった。すなわちお色の住居であった。犬が門を守っていた。と尾を振って走って来た。よく見慣れている弓之助だからで、懐しそうにじゃれついた。「おおよしよし」と頭を撫でた。「犬の方がよっぽど人間らしい。さて何かやりたいが、小判をやってもし方がねえ。その他には何んにもないお気の毒だがくれることは出来ねえ。……お色め、今ごろいい気持ちで、グッスリ眠っているだろう。そう思うといい気持ちはしねえ。間もなく田沼の皺くちゃ爺に、乳房を自由にされるんだろう。こいつは一層いい気持ちがしねえ。だがひょっとするとおれの事を案じて眼覚めているかもしれねえ。こいつはちょっといい気持ちだ。まずなるたけならいい方へ考えた方がよさそうだ。少なくも気休めにはなるからな」
観音堂の裏手へ廻った。花川戸の方へ歩いて行った。どこもかしこも寝静まっていた。家々がまるで廃墟のように見えた。隅田に添って両国の方へ歩いた。一方は大河一方は家並、その家並が一所切れてこんもりとした森があった。社でも祀ってあるらしい。
「どれ、神様でも拝むとするか」森の中へはいって行った。はたして社が祀ってあった。その拝殿へ腰を掛けた。一つ大きく呼吸づいた。もう一度大きく呼吸づこうとした。中途で彼は止めてしまった。
「実際現代は息苦しい。重い石が冠さっている。勇気のある者は憤怒をもって、その重い石を刎ね退けるがいい。勇気のある者は笑ってはいけない! 肉体的にいう時は、笑ったとたんに筋が弛む。精神的にいう時は、笑ったとたんに心が弛む。弛むということは油断ということだ。その油断に付け込んで飛び込んで来るのが、妥協性だ。妥協、うやむや、去勢、萎縮、そこで小粋な姿をして、天下は泰平でございます。浮世は結構でございます。皆さん愉快にやりましょう。粋でげすな。大通でげすな。なあァんて事になってしまう。そうやって謳っているうちに、それよこせやれよこせ、洗いざらい持って行かれる。ヘッヘッヘッヘッヘッこれはこれは、いつの間に貧乏になったんだろう? などと驚いても追っ付かない。だから決して笑ってはいけない。いつもうんと怒っているがいい。……だがこいつは勇士の態度だ。利口者には別の道がある。行儀作法を覚えることよ。お辞儀を上手にすることよ。お太鼓をうまく叩くことよ。お手拍子喝采を習うことよ。それで権勢家に取り入るのよ。そうして重用されるのよ。さてそれからジワジワと、自分の考えは権勢家に伝え、その権勢家の力を藉りて、もって実行に現わすのよ」
また感慨に耽り出した。
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