銅銭会縁起録
「さよう」といったが曖昧であった。
「まず知っているとして置こう。あの老人は人物だ。徳川家の忠臣だ。しかし一面囚人なのだ。同時に徳川家の客分でもある。捨扶持五千石をくれているはずだ。まずこのくらいにして置こう。書面が出来た。すぐ行ってくれ」
「はい、よろしゅうございます」
書面の面には京師殿と、ただ三文字書かれてあった。
書面を持って飛び出した。ポンと備え付けの駕籠に乗った。
「急いでやれ! 行く先は谷中!」
深夜ゆえに掛け声はない。駕籠は一散に宙を飛んだ。やがて大岡家の表門へ着いた。
トントントンと門を叩いた。「ご門番衆、ご門番衆」四方を憚って小声で呼んだ。
「かかる深夜に何用でござる」門の内から声がした。
「曲淵甲斐守の使者でござる。ただし、私用、潜戸を開けられい」
で、潜戸がギーと開いた。それを潜って玄関へかかった。
「頼む。頼む」と二声呼んだ。
と、小間使いが現われた。
「これを」と書面を差し出した。
一旦小間使いは引っ込んだが、再び現われると慇懃にいった。「さ、お通り遊ばしませ」
十畳の部屋へ通された。間もなく現われたのは老人であった。
「白旗氏のご子息だそうで。弓之助殿と仰せられるかな。……書面の趣き承知致した。しかし談話では意を尽くさぬ。書物があるによってお持ちなされ」
懐中から写本を取り出した。
「愚老、研究、書き止め置いたもの、甲斐守殿へお見せくだされ。……さて次に弓之助殿、昨日は一葉茶屋で会いましたな」
「ご老人、それではご存知で?」
「さて、あの時の茶椀陣、この意味だけは本にはない。よって貴殿にお話し致す。――貴人横奪、槐門周章。丙より壬、一所集合、牙城を屠る。急々如律令。――つまりこういう意味でござった。甲斐守殿へお伝えくだされ」
「して、茶椀陣とおっしゃるは?」
「うむ、茶椀陣か、それはこうだ。銅銭会の会員が、茶椀と土瓶の位置の変化で、互いの意思を伝える法」
「火急の場合、これでご免」
「謹慎の身の上、お見送り致さぬ」
で弓之助は下屋敷を辞した。門を潜ると駕籠へ乗った。
駕籠は一散に宙を飛んだ。
間もなく甲斐守の屋敷へ着いた。門を潜り、玄関を抜け、叔父の部屋へ走り込んだ。
依然肩衣を着けたまま、甲斐守は坐っていた。
「おお弓之助か、どうであった?」
「まずこれを」と書物を出した。
「うむ、銅銭会縁起録」
「他に伝言でございます」
「うむ、そうか、どんなことだ?」
「先ほど、私お話し致しました、上野山下一葉茶屋で、一人の町人の行なった茶椀芸についてでございますが、あれは銅銭会の茶椀陣と申し、茶椀の変化によりまして、会員同士互いの意思を、伝え合うところの方法だそうで、あの時の茶椀陣の意味はといえば、貴人横奪、槐門周章。丙より壬、一所集合、牙城を屠る。急々如律令。……かような由にございます」
「ううむそうか、よく解った」甲斐守はじっと考え込んだ。「……貴人横奪? 貴人横奪? これはこの通りだ間違いない。いかにも貴人が横奪された。槐門周章? 槐門周章? 槐門というのは宰相の別名、当今の宰相は田沼殿、いかにもさよう田沼殿は、非常に周章てておいでになる。だからこれにも間違いはない。丙より壬? 丙より壬? これがちょっと解らない」甲斐守は眼を閉じた。すると弓之助が何気なくいった。
「日柄のことではございませんかな。たしか一昨日が丙の日で」
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「おっ、なるほど、そうかもしれない。うむ、よいことを教えてくれた。いかにもこれは日柄のことだ丙から壬というからには、丙から数えて壬の日まで、すなわち七日間という意味だ。一所集合? 一所集合? これは読んで字のごとく某所へ集まれということだろう? 牙城を屠る? 牙城を屠る? 敵の本陣をつくという意味だ。急々如律令は添え言葉、たいして意味はないらしい……さてこれで字義は解った。貴人を横取りしたために、宰相田沼殿が周章てている。七日の間に某所へ集まり、敵の本陣を突くという意味だ」
甲斐守は沈吟した。
「解ったようで解らない。だがともかくも今度の事件が、銅銭会という秘密結社の、会員どもの所業であることは、どっちみち疑がいはなさそうだ」
「叔父様」と弓之助は窺うように、「貴人とおっしゃるのはどなたのことで?」
甲斐守はジロリと見た。
「これはな、天下の一大事だ。本来ならば話すことは出来ぬ。これが世間へ知れようものなら、忽ち謀叛が起こるだろう。が、お前には功がある。特別をもって話して聞かせる。貴人というのは将軍家のことだ」
「えっ!」と弓之助は眼をった。「それでは上様が何者かに?」
「一昨日の晩、盗み取られた」
「へえ」といったが弓之助は二の句を継ぐことが出来なかった。
時の将軍家は家治であった。九代将軍家重の長子で、この事件の起こった時には、その年齢五十歳、普通の日本の歴史からいえば、暗愚の将となっている。しかしそうばかりでもなかったらしい。ただ余りに女性的で権臣を取って抑えることが出来ず、権臣のいうままになっていたらしい。少しも下情に通じなかった。権臣がそれを遮るからであった。で彼は日本の国は、泰平のものと思っていた。彼は性、画を好んだ。そこで権臣は絵師を進め、彼をしてそれにばかり没頭せしめた。
しかるに最近事件が起こった。近習山村彦太郎が、三河風土記を講読した。すると家治は慨嘆した。「俺は今までこんないい本が、世間にあろうとは思わなかった。もっと彦太郎読んでくれ」
そこで彦太郎は陸続と読んだ。それを怒ったのが権臣であった。すなわち田沼主殿頭であった。すぐ彦太郎を退けてしまった。
しかし将軍家はそれ以来大分心が変わったらしい。やや田沼を疎むようになった。そうして下情に通じようとした。田沼はそれを遮ろうとした。しかし将軍は子供ではなかった。一旦覚えた智恵の味を忘れることは出来なかった。で将軍家と田沼との間が、どうも円滑に行かなくなった。五日ほど以前のことであった。田沼は将軍家をそそのかし、上野へ微行で花見に行った、その帰り路のことであった。本郷の通りへ差しかかった。忽ち小柄が飛んで来た。が、幸い駕籠へ中った。小柄には毒が塗ってあった。そうして柄には彫刻があった。銅銭会と彫られてあった。
こうして一昨日の夜となった。その夜将軍家は近習も連れず、一人後苑を彷徨っていた。と、一人の非常な美人が、突然前へ現われた。見たことのない美人であった。大奥の女でないことは、その女の風俗で知れた。町娘風の振り袖姿、髪は島田に取り上げていた。
女は先に立って歩いて行った。将軍家は後を追った。近習の一人がそれを見付け、すぐ後を追っかけた。御天主台と大奥との間、そこまで行くと二人の姿が――すなわち将軍家と女とが、掻き消すように消えてしまった、爾来消息がないのであった。
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