子供を産む妖怪蜘蛛
五郎蔵は地団駄を踏み、いつか抜いた長脇差しを振り冠り、左門へ走りかかったが、にわかに足を止め、離座敷の方を眺めると、
「蜘蛛が! 大蜘蛛が!」
と喚き、脇差しをダラリと下げてしまった。
畳数枚にもあたる巨大な白蜘蛛が、暗い洞窟の中から這い出すように、今、離座敷の、左門の部屋から、縁側の方へ這い出しつつあった。背を高く円く持ち上げ、四本の足を引き摺るように動かし、やや角ばって見える胴体を、縦に横に動かし――だから、太い、深い皺を全身に作り、それをウネウネと動かし、妖怪蜘蛛は、やがて縁から庭へ下りた。と、離座敷が作っている地上の陰影から、蜘蛛は、月の光の中へ出た。蜘蛛の白い体に、無数に附着いてる斑点は、五味左衛門の腸によって印けられた血の痕であり、その後、左門によって、幾人かの人間が斬られ、その血が飛び散って出来た斑点でもあった。そうして、この巨大な妖怪蜘蛛は、紙帳なのであった。では、四筋の釣り手を切られ、さっきまで、部屋の中に、ベッタリと伏し沈んでいた紙帳が、生命を得、自然と動き出し、歩き出して来たのであろうか? 幾人かの男女が、その内外で、斬られ、殺されて、はずかしめられ、怨みの籠っている紙帳である、それくらいの怪異は現わすかもしれない。
庭を歩いて行く紙帳蜘蛛は、やがて疲労れたかのように、背を低めて地へ伏した。しかしすぐに立ち上がった。背が高く盛り上がった。と、それに引き絞られて、紙帳の四側面が内側へ窪み、切られ残りの釣り手の紐を持った四つの角が、そのためかえって細まり、さながら四本の足かのようになった。窪んだ箇所は黒い陰影を作り、隆起している角は骨のように白く見えた。紙帳蜘蛛は歩いて行く。と、蜘蛛は、地面へ、子供を産み落とした。彼が地面へ伏し沈み、やがて立って歩き出したその後へ、長い、巾の小広い、爬虫類を――蛇を産み落としたのである。しかしそれは、黒繻子と、紫縮緬とを腹合わせにした、女帯であった。女帯は、地上に、とぐろを巻き尻尾にあたる辺を裏返し、その紫の縮緬の腹を見せていた。蜘蛛は、自分の影法師を地に敷きながら、庭を宛なく彷徨って行った。と、また子供を産み落とした。紅裏をつけた、藍の小弁慶の、女物の小袖であった。蜘蛛は、庭の左手の方へ、這って行った。
やがて、母屋と離座敷との間の通路から、この旅籠、武蔵屋の構外へ出ようとした。そうしてまたそこで、地上へ、血溜りのような物を――胴抜きの緋の長襦袢を産み落とした。
三個の死骸を間に挾み、左門と向かい合い、隙があったら斬り込もうと、刀を構えていた頼母も、その背後に、後見でもするように、引き添っていた五郎蔵も、刀を逆ノ脇に構え、頼母と向かい合っていた左門も、その左門を遠巻きにしていた五郎蔵の乾児たちも、そうして、この中庭の騒動に眼を覚まし、母屋の縁や、庭の隅などに集まっていた、無数の泊まり客や、旅籠の婢や番頭たちは、この、紙帳蜘蛛の怪異に胆を奪われ、咳一つ立てず、手足を強張らせ、呼吸を呑んでいた。不意に、左門の口から、呻くような声が迸ったかと思うと、紙帳を追って走り出した。
「遁がすな!」という、五郎蔵の、烈しい声が響いた。瞬間に、乾児たちが、再度、四方から、左門へ斬りかかって行く姿が見えた。しかし左門が振り返りざま、宙へ刀を揮うや、真っ先に進んでいた乾児の一人が、左右へ手を開き、持っていた刀を、氷柱のように落とし、反けざまに斃れた。
蜘蛛の姿は消えていた。
その蜘蛛が、しばらく経って姿をあらわしたのは、武蔵屋から数町離れた、瀬の速い川の岸であった。その岸を紙帳蜘蛛は、よろめきよろめき、喘ぎ喘ぎ、這っていた。でも、とうとう疲労れきったのであろう、四足を縮め、胴体に深い皺を作り、ベタベタと地へ腹這った。円く高く盛り上がっていた背も撓み、全体の相が角張り、蜘蛛というより、やはり、一張りの紙帳が、地面へ捨てられたような姿となった。川面を渡って、烈しく風が吹くからであったが、紙帳は、痙攣を起こしたかのように、顫えつづけた。と、不意に紙帳は寝返りを打った。風が、その内部へ吹き込んだため、紙帳が一方へ傾き、ワングリと口を開けたのである。忽然、紙帳は、一間ほど舞い上がった。もうそれは蜘蛛ではなく、紙鳶であった。巨大な、白地に斑点を持った紙鳶は、蒼々と月の光の漲っている空を飛んで、三間ほどの彼方へ落ちた。でも、また、すぐに、川風に煽られ、舞い上がり、藪や、小丘や、森や、林の点綴られている、そうして、麦畑や野菜畑が打ち続いている平野の方へ、飛んで行った。
怨恨上と下
最初、紙帳の舞い上がった地面に、一人の女が仆れていた。お浦であった。水色の布を腰に纒っているばかりの彼女は、水から上がった人魚のようであった。
彼女は疲労れ果てていた。左門によって気絶させられたところ、頼母に踏まれて正気づいた、そこで彼女は夢中で遁がれようとした。が、彼女を蔽うている紙帳が、彼女にまつわり、中から出ることが出来なかった。冷静に考えて、行動したならば、紙帳から脱出すことなど、何んでもなかったのであろうが、次から次と――部屋の間違い、気絶、斬り合いの叫喚、次から次と起こって来た事件のため、さすがの彼女も心を顛倒させていた。そのため、紙帳を冠ったまま、無二無三に逃げ廻ったのである。体をもがくにつれて、帯や衣裳は脱げて落ちた。
藻屑のように振り乱した髪を背に懸け、長い頸を延びるだけ延ばし、円い肩から、豊かな背の肉を、弓形にくねらせ、片頬を地面へくっ付けたまま、今にも呼吸が切れそうなほどにも、烈しく喘いでいるのであった。
(咽喉が乾く! 水が飲みたい!)
彼女はこればかりを思っていた。
(川があるらしい、水の音がする)
この時までも、小脇に抱いていた天国の刀箱を、依然小脇に抱いたままで、彼女は川縁の方へ這って行った。
一方は宿の家並みで、雨戸をとざした暗い家々が、数町の彼方に立ち並んでおり、反対側は髪川で、速い瀬が、月の光を砕いて、銀箔を敷いたように駛ってい、その対岸に、今を盛りの桜の老樹が、並木をなして立ち並んでい、烈しい風に、吹雪のように花を散らし、花は、川を渡り、お浦の肉体の上へまで降って来た。そうして、その桜並木の遙か彼方の、斜面をなしている丘の上の、諏訪神社の辺りでは、火祭りの松明の火が、数百も列をなし、蜒り、渦巻き、揉みに揉んでいるのが、火龍が荒れまわっているかのように見えた。
お浦は、やっと川縁まで這い寄った。彼女は、崖の縁を越して、前の方へ腕を延ばした。すぐそこに川が流れているものと思ったかららしい。
(水が飲みたい、水を!)
しかし川は、彼女のいる川縁から、一丈ばかり下の方を流れていた。そうして、川縁から川までの崖は、中窪みに窪んでい、その真下は岩組であった。
その岩組の間に挾まり、腰から下を水に浸し、両手で岩に取り縋り、半死半生になっている男があった。渋江典膳であった。
彼は、この髪川の上流、竹藪の側で、お浦のため短刀で刺された上、川の中へ落とされた。女の力で刺したのと、衣裳の上からだったのとで、傷は浅かった。しかし、川へ落ちた時、後脳を打ち、気絶した。でも、気絶したのは、典膳にとっては幸運だった。水を飲まなかった。その典膳は、ここまで流されて来、ここの岩組の間に挾まり、長い間浮いているうちに蘇生した。蘇生はしたが、衰弱しきっている彼は、川から這い上がることさえ出来なかった。助けを呼ぶにも、声さえ出なかった。彼はただ、岩に取り縋っているだけで精一杯であった。
彼の心は、五郎蔵とお浦とに対する、怒りと怨みとで一杯であった。
(彼奴ら二人に復讐するためばかりにも、生き抜いてやらなけりゃア)
こう思っているのであった。
(昔の同志、同じ浪人組の仲間を、頭分たる彼奴が、女を使って殺そうとしたとは! 卑怯な奴、義理も人情も知らない奴! ……そっちがその気なら、こっちもこっち、彼奴の素姓を発き、その筋へ訴え出てやろう。即座に縛り首だ! 五郎蔵め、思い知るがいい! ……お浦もお浦だ、女の分際で、色仕掛けで俺を騙り、殺そうとは! どうともして引っ捕らえ、嬲り殺しにしてやらなけりゃア!)
川から上がりたい、水から出たいと、彼は縋っている手に力をこめ、岩を這い上がろうとした。しかし、腰から下を浸している水の、何んと粘っこく、黐かのように感じられることか! どうにも水切りすることが出来ないのであった。
と、その時、頭上から、土塊と一緒に、何物か崖を辷って落ちて来、岩に当たり、幽かな音を立て、水へ落ちた。
典膳は、水面を見た。細い長い木箱が、月光で銀箔のように光っている水に浮いて、二、三度漂い廻ったが、やがて下流の方へ流れて行った。
典膳は、崖の上を振り仰いだ。
生々と白く、肥えて円い、女の腕が、長く延びて差し出されてい、指が、何かを求めるように、閉じたり開いたりしていた。
「あ」
と、典膳は、思わず声を上げた。意外だったからである。しかし、次の瞬間には、誰か、女が、この身を助けよう、引き上げようとして、手を差し出してくれたのだと思った。
「お助けくださいまするか、忝けのうござる。生々世々、ご恩に着まするぞ」
と、典膳は、咽喉にこびりついて容易に出ない声を絞って云い、一気に勇気を出し、川から岩の上へ這い上がった。
栞の恋心
腕の主はいうまでもなくお浦で、お浦は、この期になっても、恋しい男の頼母へ渡そうと、抱えていた天国の刀箱を、不覚にも川の中へ落としたので驚き、延ばしている腕を一層延ばし、思わず指を蠢かしたのであった。その時彼女は、崖下から、人声らしいものの、聞こえて来るのを聞いた。彼女は狂喜し、地を摺って進み、肩と胸とを、崖縁からはみ出させ、崩れた髪で、額縁のように包んだ顔を覗かせ、崖下を見下ろし、
「もし、どなたかおいででございますか。刀箱を落としましてございます。その辺にありはしますまいか? ……あ、水が飲みたい! 水を汲んでくださいまし」
典膳は、この時、もう岩の上に坐りこんでいたが、女の声を聞いても、耳に入れようとはせず、ただ、女の腕に縋り、それを手頼りに、崖の上へあがろうと、ひしと女の手を握った。
「お願いでございます。この手を、グッとお引きくださいまし。それを力に、私、崖を上がるでございましょう。ご女中、さ、グッとこの手を……」
お浦は、突然手を握られて、ハッとしたが、咽喉の渇きがいよいよ烈しくなって来たので、握られた手を振り放そうとはせず、
「水を! まず、水を! ……その後にお力になりましょう。手をお引きいたすでございましょう。……おお、水を!」
この二人を照らしているものは、練絹で包んだような、朧ろの月であった。
典膳は、やっと、ヒョロヒョロと立ち上がった。お浦の体は、いよいよ崖の方へはみ出した。
二人の顔はヒタと会った。
「…‥……」
「…………」
鵜烏が、川面を斜に翔けながら、啼き声を零した。
こういう事件があってから三日の日が経った。
その三日目の朝、飯塚薪左衛門の娘の栞は、屋敷を出て、郊外を彷徨った。さまよいながらも彼女の眼は、府中の方ばかりを眺めていた。連翹と李の花で囲まれた農家や、その裾を丈低い桃の花木で飾った丘や、朝陽を受けて薄瑪瑙色に輝いている野川や、鶯菜や大根の葉に緑濃く彩色られている畑などの彼方に、一里の距離を置いて、府中の宿が、その黒っぽい家並みを浮き出させていた。
(今日あたり頼母様にはお帰りあそばすかもしれない)
(いいえ、頼母様、是非お帰りあそばしてくださいまし)
山水のように澄んでいる眼には、愛情の熱が燃え、柘榴の蕾のように、謹ましく紅い唇には、思慕の艶が光り、肌理細かに、蒼いまでに白い皮膚には、憧憬の光沢さえ付き、恋を知った処女栞の、おお何んとこの三日の間に、美しさを増し、なまめかしさを加えたことだろう! 彼女は過ぐる夜、屋敷の中庭で、頼母と会って以来、それまで、春をしらずに堅く閉ざしていた花の蕾が、一時に花弁を開き、色や馨りを悩ましいまでに発散すように、栞も、恋心を解放し、にわかに美しさを加えたのであった。
(妾の良人は頼母様の他にはない)
処女の一本気が、恋となった時、行きつくところはここであった。まして栞のように、発狂している父親を看病し、老いたる僕や乳母や、荒々しい旅廻りの寄食浪人などばかりに囲繞かれ、陰欝な屋敷に育って来た者は、型の変った箱入り娘というべきであり、箱入り娘は、最初にぶつかって来た異性に、全生涯を委かそうとするものであるにおいてをや。殊に相手が、若く、凜々しく、頼り甲斐のある、無双の美丈夫であるにおいてをや。
(頼母様、早くお帰りなされてくださりませ)
その頼母は、自分たち飯塚家に、わけても父薪左衛門に仇をする、松戸の五郎蔵という博徒の親分が、何故父親に仇をするのか、五郎蔵の本当の素姓は何か? それを、自分たちのために探り知るべく、出かけて行ってくれたのであった。
(頼母様、お会いしとうございます。早くお帰りなされてくださいまし)
五郎蔵の素姓も、五郎蔵が、何故父親に仇をするのかをも、頼母の口から聞きたくはあったが、しかしそれよりも、狂わしいまでに恋している処女は、ただひたむきに、恋人の顔が見たいのであった。
髪川から、灌漑用に引かれている堰の縁には、菫や、紫雲英や、碇草やが、精巧な織り物を展べたように咲いてい、水面には、水馬が、小皺のような波紋を作って泳いでい、底の泥には、泥鰌の這った痕が、柔らかい紐のように付いていた。ことごとく春酣の景色であった。
「おや」と呟いて、栞は、堰の縁へ、赤緒の草履の足を止めた。水面に、水藻をまとい、目高の群に囲まれながら、天国と箱書きのある刀箱が、浮いていたからである。
名刀天国
(天国といえば、気を狂わせておられるお父様が、狂気の中でも、何彼と仰せられておられた名剣の筈だが……)
それが、こんな堰に浮いているとは不思議だと、栞は、しばらく刀箱を見ていたが、やがて蹲むと、刀箱を引き上げた。箱からしたたるビードロのような滴を切り、彼女は、両手で刀箱を支え、じっと見入った。ゆかしい古代紫の絹の打ち紐で、箱は結えられていた。箱は、柾の細かい、桐の老木で作ったものであり、天国と書かれた書体も、墨色も、古く雅ていた。
(ともかくもお父様へお目にかけて……)
その裾の辺りへ去年の枯れ草を茂らせ、ところどころ壁土を落とした築地。鋲は錆び、瓦は破損み、久しく開けないために、扉に干割れの見える大門。――こういうものに囲まれた彼女の屋敷は、廃屋の見本のようなものであったが、栞は、その大門の横の潜門をくぐって屋敷の中へはいって行った。
その栞が、しばらく経った時には屋敷の奥の、古びた十畳ばかりの部屋に、父、薪左衛門と向かいあって坐っていた。
栞は、膝の上の刀箱を、父の方へ差し出したが、
「ただ今お話し申し上げました、堰の水に浮いておりました刀箱は、これでございます。ご覧なさりませ、天国と、箱書きしてございます」
と云い、緞子の厚い座布団の上へ坐り、蒔絵の脇息へ倚っている、父親の顔を見た。
薪左衛門は、その卯の花のように白い総髪を、肩の上でユサリと揺り、おちつきなく、キョトキョト動く眼を、グッと据えたが、やっと咽喉から押し出したような嗄れ声で、
「ナニ、天国 ……まことか! ……まことなりやお手柄、我ら助かる! 身の面目になる!」
と云ったが、突然、棚から陶器が転げ落ちるような声で笑い出し、
「贋物であろう、贋物であろう、贋物の天国、鑑定してやろうぞ!」
と、鉤のように曲がっている左右の指で、ムズと箱を掴んだ。紐が解かれ、蓋が開けられた。箱の底に沈んでいたのは、古錦襴の袋に入れられた白鞘の剣であった。やがて鞘は払われ、刀身があらわれた。
薪左衛門は、狂人ながら、さすがは武士、白木の柄を両手に持ち、柄頭を丹田へ付け、鉾子先を、斜に、両眼の間、ずっと彼方に立て、ジッと刀身を見詰めた。立派であった。
それにしても、この奥まった部屋の暗いことは! 年中陽の光が射さないからであった。それで、この部屋にあって、鮮明に見えているものといえば、例の、卯の花のように白い薪左衛門の頭髪と、化粧を施さないでも、天性雪のように白い、栞の顔ばかりであった。
いや、もう一つあった。薪左衛門によって保持たれている天国の剣であった。
おお、この「持つ人の善悪に関わらず、持つ人に福徳を与う」とまで、云い伝えられている、日本最古の刀匠――大宝年中、大和に住していた天国の作の、二尺三寸の刀身の、何んと、部屋の暗さの中に、煌々たる光を放していることか! その刀身の姿は細く、肌は板目で、女性を連想わせるほどに優美であり、錵多く、小乱れのだれ刃も見えていた。そうして、切っ先から、四寸ほど下がった辺りから、両刃になっていた。何より心を搏たれることは、それが兇器の剣でありながら、微塵も殺伐の気のないことで、剣というよりも、名玉を剣の形に延べた、気品の高い、匂うばかりに美しい、一つの物像といわなければならないことであった。
「まあ」と、栞は、思わず感嘆の声を上げ、水仙の茎のような、白い細い頸を差し延べ、眼を見張り、刀身を見詰めた。
それにも増して、刀身へ穴でも穿けるかのように、その刀身を見詰めているのは、燠のように熱を持った薪左衛門の眼であった。
薪左衛門も栞も、時の経つのを忘れているようであった。どこにいるのかも忘れているようであった。
人は往々にして、真の驚異や、真の感激や、真の美意識に遭遇った時、時間と空間とを忘却れるものであるが、この時の二人がまさにそれであった。
名刀の威徳
「栞や」と、不意に、薪左衛門は、優しい穏かな声で云った。
「これは、天国の剣に相違ないよ。私には見覚えがある。遠い昔に――二十年もの昔でもあろうか、五味左衛門という者の屋敷から、天国の剣を強奪……いやナニ、頂戴したことがあるが、それがこの剣なのだよ。……ゆえあってその天国の剣は、今まで行衛不明となり、同志、来栖勘兵衛からは……いやナニ、誰でもよい、同志の一人からは、わしがその剣を隠匿したように誣いられたが……それにしても、栞や、よくそなた、この剣を目付け出してくれたのう」
その云い方は、全然、正気の人間の云い方であり、その声音は、これも正気の人間の、五音の調った、清々しい声音であった。
「まあお父様!」と、栞は叫ぶように云い、父親が、正気に返ったらしいのに狂喜し、のめるように膝で進み、薪左衛門の膝へ取り縋った。
「そのお顔は! そのお声は! ……おおおお、お父様、すっかり正気の人間に! ……」
いかさま、ほんのさっきまでは、薪左衛門の顔は、狂人特有の、顰んだ眉、上擦った眼、食いしばった口、蒼白の顔色、そういう顔だったのに、何んと現在の顔は、のびのびとした眉の、沈着いた眼の、穏かに軽く結んだ口の、尋常の人の容貌に返っているではないか。これはどうしたことなのであろう? 奇蹟的事件にぶつかった時、人は往々、濁った気持ちや、狂った精神を、本来の正気に戻すことがあるものであるが、薪左衛門にとっては、天国の剣の出現は、その奇蹟的事件といっていいらしく、そのため、烈しい感動を受け、日頃の狂疾が、一時的に恢復したのかもしれない。
「ナニ正気の人間に?」
と、薪左衛門は、栞の言葉を、不審しそうに聞き咎めた。
「栞や、正気の人間とは?」
「おお、お父様お父様、あなた様は、長らくの間、ご乱心あそばしておいでなされたのでございます」
「乱心?」
「はい、過ぐる年、松戸の五郎蔵という、博徒の親分が参りまして、お父様と、お話しいたしましてございますが、その時、突然お父様には、『汝、来栖勘兵衛、まだこの俺を苦しめるのか!』と叫ばれまして、その時以来、ずっとご乱心……」
「…………」
「そればかりか、お父様には、以前からお持ちの、腰の刀傷が元で、躄者に……」
「ナニ、躄者に?」と、叫んだかと思うと、薪左衛門は、腰を延ばし、ノッと立ち上がった。立てなかった。
「おおおお栞や、わしは躄者じゃ! ……躄者じゃ躄者じゃ、わしは躄者じゃ! ……ワ、わしは、イ、躄者じゃーッ」
時が沈黙のまま経って行った。天井裏で烈しい音がし、悲しそうな鼠の啼き声が聞こえた。こういう古屋敷の天井裏などには、大きな蛇が住んでいるものである。それが梁から落ちて、鼠を呑んだらしい。
時が経って行った。
薪左衛門の顔には、恐怖、悲哀、絶望、苦悶の表情が、深刻に刻まれていた。当然といえよう。乱心していたということだけでさえ、恥ずかしいことだのに、躄者にさえなったという。生まれもつかぬ躄者に。
薪左衛門は眼を閉じた。その瞼が痙攣を起こしているのは、感情を抑えているからであろう。栞の肩を抱いている手が、烈しく顫えているのも、感情を抑えているからであろう。
父の苦悶の顔を、下から見上げている栞の顔にも、恐怖と不安と悲哀とがあった。
(烈しいお父様の苦悶が、お父様を駆って、また乱心に……)
これが栞には恐ろしく悲しいのであった。
やがて薪左衛門は弱々しく眼を開けた。その眼についたのは、右手に捧げている天国の剣であった。剣は、依然として、珠を延べたかのように、気高い、穏かな光を放し、宙に保たれていた。この剣の威徳には、煙りさえも近寄れないのであろうか? と云うのは、少しでもお父様の狂ったお心を静めてあげようと、優しい娘心から、栞は、毎日この部屋で香を焚くのであって、今も床の間に置いてある唐金の香炉から、蒼白い煙りが立ち昇ってい、その一片が、刀の切っ先をクルクルと捲いた。しかし何かに驚いたかのように、煙りの輪は、急に散り、消え、後には、暗い空間に、刀身ばかりが、孤独に厳かに輝いているではないか。
それを見詰めている薪左衛門の眼は、次第に平和になり、顔からも、悲哀や苦悶や絶望の色が消えた。
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