老幽鬼出現
(こうここへ俺が気絶して仆れれば、あそこでの出来事を、再現したことになる)
彼はしばらく寝たままで動かなかった。二十一歳とはいっても、前髪は立てており、それに、氏素姓よく、坊ちゃんとして生長って来た頼母は、顔も姿も初々しくて、女の子のようであり、それが、雲一片ない空から、溢れるように降り注いでいる月光に照らされ、寝ている様子は、無類の美貌と相俟って、艶かしくさえ見えた。
と、例の、キリキリという音が、植え込みの方から聞こえて来た。頼母は飛び起きて、音の来る方を睨んだ。昨夜は、雑木林の中から、剣鬼のような男が現われて来たが、今夜は、植え込みの中から、何が現われて来るのだろう? 頼母は、もう刀の柄を握りしめた。おお何んたる奇怪な物象が現われて来たことであろう! 躄り車が、耳の下まで白髪を垂らした老人を乗せ――老人が自分で漕いで、忽然と、植え込みの前へ、出て来たではないか! やがて、植え込みの陰影から脱け、躄り車は、月光の中へ進み出た。月光の中へ出て、いよいよ白く見える老人の白髪は、そこへ雪が積もっているかのようであり、洋犬のように長い顔も、白く紙のようであった。顔の一所に黒い斑点が出来ていた。窪んだ眼窩であった。その奥で、炭火のように輝いているのは、熱を持った眼であった。老人の体は、これ以上痩せられないというように、痩せていた。枯れ木で人の形を作り、その上へ衣裳を着せたといったら、その姿を、形容することが出来るだろう。左右の手が、二本の棒を持ち、胸と顔との間を、上下に伸縮し、そのつど老人の上半身が、反ったり屈んだりした。二本の棒を櫂にして、地上を、海のように漕いで、躄り車を、進ませてくるのであった。長方形の箱の左右に附いている、四つの車は、鈍く、月光の波を分け、キリキリという音を立てて、廻っていた。と、車は急に止まり、老人の眼が、頼母へ据えられた。
「おお来たか!」
咽喉で押し殺したような声であった。極度の怒りと、恐怖とで、嗄れ顫えている声でもあった。そう叫んだ老人は、棒を手から放すと、片手を肩の上へ上げ、肩の上へ、背後からはみ出していた刀の柄へかけた。刀を背負っていたのである。それが引き抜かれた時、月光が、一時に刀身へ吸い寄せられたかのように、どぎつく光った。刀は青眼に構えられた。
「来たか、来栖勘兵衛! 来るだろうと思っていた! が、この有賀又兵衛、躄者にこそなったれ、やみやみとまだ汝には討たれぬぞ! それに俺の周囲には、いつも警護の者が附いている。今夜もこの屋敷には、六人の腕利きが宿直している筈だ。勘兵衛、これ、汝に逢ったら、云おう云おうと思っていたのだが、野中の道了での斬り合い、俺は今に怨みに思っておるぞ! 事実を誣い、俺に濡れ衣を着せたあげく、俺の股へ斬り付け、躄者になる原因を作ったな。おのれ勘兵衛、もう一度野中の道了で立ち合い、雌雄を決しようと、長い長い間、機会の来るのを待っていたのだ! さあここに野中の道了がある、立ち合おう、刀を抜け!」それから屋敷の方を振り返ったが、「栞よ、栞よ、勘兵衛が来たぞよ、用心おし、栞よ!」
と悲痛に叫んだ。
老人はそう叫びながら、やがて、片手で棒を握り、それで漕いで、躄者車を前へ進め、片手で刀を頭上に振りかぶり、頼母の方へ寄せて来た。頼母は、唖然とした。しかし、唖然とした中にも、自分が人違いされているということは解った。それで、刀の柄へ手をかけたまま、背後へジリジリと下がり、
「ご老人、人違いでござる。拙者は来栖勘兵衛などという者ではござらぬ。拙者は、伊東頼母と申し、今朝より、ご当家にご厄介になりおる者でござる」と云い云い、つい刀を抜いてしまった。
娘の悲哀
すると、その時、屋敷の雨戸の間に、女の姿が現われ、こっちを見たが、急に、悲鳴のような声を上げると、駈け寄って来、
「お父様、何をなさいます。そのお方は、お父様を警護のため、今日、お家へお泊まりくださいました、伊東頼母様と仰せになる、旅のお武家様ではございませんか。おお、お父様お父様、正気づかれてくださいまし!」
と叫び、老人の刀持つ手に取り縋った。栞であった。しかし老人は、
「娘か、用心おし! 来栖勘兵衛が、わしを殺しに来たぞよ! そこに勘兵衛がいる!」
と叫び、尚、車を進めようと、片手の棒で、地上を漕ごうとするのであった。
「いえいえお父様、あのお方は来栖勘兵衛ではございません。よくご覧なさいまし、お年が違います。勘兵衛より、ずっとお若うございます」
こう云われて老人は、はじめて気づいたように、つくづくと頼母を見たが、
「なるほどのう、年が違う、前髪立ちじゃ。勘兵衛はわしより一つ年上だった筈じゃ。勘兵衛ではない」
落胆したように、また、安心したように、老人は、急に首を垂れ、振り上げていた刀を下げると、弱々しく、子供のように、栞へもたれかかった。赤い布のかかった艶々しい髪の下、栞の肩へ、老人の白髪頭が載っている。白芙蓉のような栞の顔が、頬が、老人の頬へ附いている。秩父絹に、花模様を染め出した衣裳の袖から、細々と白い栞の手が延びて、老人の肩へかかっているのは、車の上の老人を、抱介えているからであった。いつか老人の手から、刀も棒も放され、刀は、車の前の、枯れ草の上に落ちた。何んと老人は眠っているではないか。刀を構え、この様子を眺めていた頼母は、危険はないと思ったか、刀を鞘に納め、二人の方へ寄って行ったが、
「栞殿、そのご老人は?」と、探るように訊いた。
「父でございます」――栞の声は泣いている。
「ご尊父? では、薪左衛門殿で?」
栞は黙って頷いた。
「それに致しても、ご尊父には、ご自身を、有賀又兵衛じゃと仰せられたが?」
「父は乱心いたしおるのでございます」
「ははあ」頼母はやっと胸に落ちたような気がした。狂人ででもなければ、深夜に、躄り車などに乗り、刀を背負い、現われ出で、自分を来栖勘兵衛などと見誤り、ガムシャラに斬ってなどかかる筈はない。(俺は、狂人を相手にしていたのか)頼母は、鼻白むような思いがしたが、
「ご乱心とはお気の毒な。していつ頃から?」
「五年前の、ちょうど今日、府中の火祭りの日でございましたが、松戸の五郎蔵と申す、博徒の頭が参り、父と、密談いたしおりましたが、突然父が、『汝、来栖勘兵衛、執念深くもまだ、この有賀又兵衛を、裏切り者と誣いおるか!』と叫びましたが、その時以来……」
栞は、片袖を眼にあてて泣いた。
屋根ばかりに月光を受けて、水のような色を見せ、窓も雨戸も、一様に黒く、廃屋のように見えている屋敷は、不幸な人々を見守るかのように、庭をへだてて立っていた。
(有賀又兵衛、来栖勘兵衛?)と、頼母は、考え込んだ。頼母は、有賀又兵衛、来栖勘兵衛という、伝説的にさえなっている、二人の人物の噂を、亡き父から聞かされていた。
「浪人組の頭での、傑物であった。わしの家などへも、徒党を率いてやって来て、金などを無心したものじゃ。五味左衛門の屋敷などへも再三出かけて行って、無心したらしい。又兵衛の方は、わけても人物で、仁義なども心得ており、大義名分などにも明らかで、王道を尊び、覇道を憎む議論などを、堂々と述べて、男らしいところを見せたので、ついわしなど、進んで金を出してやったものじゃ」と、父は語った。
しかし、その勘兵衛や又兵衛は、亡父の話によれば、とうの昔に――二十年も以前に、世間から姿を消してしまった筈であった。しかるに、薪左衛門殿が、その有賀又兵衛だという。(何故だろう?)しかし、頼母は、すぐ苦笑した。(相手は狂人なのだ、狂人の云うことなどに、何故も不思議もあるものか)
「栞殿」と、頼母は、塚の方をチラリと見たが、「お訊きいたしたいは、ここに作られてあります古塚、どうやらこれは野中の道了の……」
云われて栞も、眼にあてていた袖の隙から、塚の方を眺めたが、
「は、はい」
「野中の道了の塚を、お屋敷の庭へ作られるとは、何か仔細が……」
道了塚の秘密は
栞の泣き声は高くなり、しばらくは物を云わなかった。肥りざかりの、十七の娘にしては、痩せぎすに過ぎる栞の肩は、泣き声につれて、小刻みに顫えるのであった。
「それもこれも……」と、栞は、やがて、途切れ途切れに云った。「父の心を……正体ない父の心を……少しなりとも慰めてやりたさに……才覚しまして……妾が……」
顔から袖をとり、塚の頂きの碑を眺めた。南無妙法蓮華経という、七字だけが黒く、その周囲の碑の面は、依然、月の光で、鉛色に仄めいて見えていた。
「父は」と、栞は、またも途切れ途切れに云った。「妾、物心つきました頃から、一里の道を、毎日のように、野中の道了様まで参りまして、塚の周囲を廻っては、物思いに耽りましたが……乱心しましてからは、それが一層烈しくなり、日に幾度となく……それですのに、父は躄者になりましてございます」
嗚咽の声はまた高くなった。娘は、父親を抱き締めたらしい。白髪の頭が、肩から外れて、栞の胸にもたれている。
「父には以前から、股に刀傷がございましたが、弱り目に祟り目とでも申しましょうか、乱心しますと一緒に、悪化くなり、とうとう躄者に……」
草に落ちている抜き身は、氷のように光っている。庭のそちこちに咲いている桜は、微風に散っている。
「躄者になりましても、道了様へは行かねばならぬと……そこは正気でない父、子供のように申して諾きませぬ。躄車などに乗せてやりましては、世間への見場悪く、……いっそ、道了様を屋敷内へお遷座ししたらと……庭師に云い付け、同じ形を作らせましたところ、虚妄の父、それを同じ道了様と思い、このように躄車に乗り、朝晩にその周囲を廻り……」
悲しそうに、また栞は、眠りこけている父親を見やるのであった。
身につまされて聞いていた頼母は、いつか、栞の前へ腰を下ろし、腕を組んだ。
急に栞は、怒りの声で云った。
「父を脅かす者は、松戸の五郎蔵なのでございます。父は妾に申しました。『五郎蔵が殺しに来る。彼奴には大勢の乾児があるが、俺には乾児など一人もない。味方が欲しい、旅のお侍様などが訪ねて参ったら、泊め置け』と。……」
(そうだったのか)と頼母は思った。(不思議に厚遇されると思ったが、さては、いつの間にか俺は、この屋敷の主人の、警護方にされていたのか)しかし事情が事情だったので、怒りも、笑いも出来なかった。
更けて行く夜は、次第に寒くなって来た。老人をいつまでも捨てておくことは出来なかった。二人は、躄車を押して、屋敷の方へ行くことにし、頼母は、まず、草に捨ててある刀を拾い取り、老人の背の鞘へ差してやった。それから躄車を押しにかかった。
「勿体のうございます」
栞が周章てて止めた。手が触れ合った。
「あっ」
栞の声が情熱をもって響いた。
「ああ」
思春期の処女というものは、男性のわずかな行動によって、衝動を受けるものであり、そうしてその処女が、愛と良識とに恵まれている者であったら、衝動を受けた瞬間、相手の男性の善悪を、直観的に識別け、その瞬間に、将来を托すべき良人を――恋人を、認識るものである。狂人の、孤独の父親に仕え、化物屋敷のような廃れた屋敷に住み、荒らくれた浪人者ばかりに接していた、無垢純情の栞が、今宵はじめて、名玉のように美しく清い、若い武士と、不幸な一家のことについて語り合ったあげく、偶然手を触れ合ったのであった。その一触が、彼女の魂を、根底から揺り動かし、「叫び」となって、彼女の口から出たのは、無理だとは云えまい。頼母は、栞の叫び声に驚いて、栞を見詰めた。栞の眼に涙が溢れていた。しかしその涙は、さっき、父親や、自分の家の不幸のために泣いた涙とは違い、歓喜と希望と愛情とに充ちた涙であった。栞の頬は夜眼にも著く赤味注していた。頼母は、何が栞をそうまで感動させたのか解らなかった。手と手と触れ合ったことなど、彼は、気がつかなかったほどである。それほど彼は無邪気なのであった。しかし、栞の感動が、自分を愛してのそれであるということは直覚された。このことが今度は彼を感動させた。
(この娘がわしを!)
その娘は、自分にとっては命の恩人と云えた。この娘の介抱がなかったら、自分は今朝死んでいたかもしれない!
(この娘がわしを!)
頼母の心へ感謝の念が、新たに強く湧き、それと一緒に、愛情がヒタヒタと寄せて来るのを覚えた。
立ち尽くし、見詰め合っている二人の頭上には、練り絹に包まれたような朧ろの月がかかってい、その下辺を、帰雁の一連が通っていた。花吹雪が、二人の身を巡った。
「勘兵衛!」と、不意に老人が叫んだ。「天国の剣を奪ったのも汝の筈じゃ! それをこの身に!」
(天国?)と、頼母は、ヒヤリとし、恍惚の境いから醒めた。
(この老人も、天国のことを云う!)
父、忠右衛門が、横死をとげ、自分が復讐の旅へ出るようになったのも、元はといえば、天国の剣の有無の議論からであった。頼母は、天国の名を聞くごとに、ヒヤリとするのであった。
(紙帳から出て来て、俺に体あたりをくれた武士も、天国のことを云ったが、薪左衛門殿も、天国のことを……)
頼母は、薪左衛門を見た。薪左衛門は眠っていた。眠ったままの言葉だったのである。
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