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血曼陀羅紙帳武士(ちまんだらしちょうぶし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-3 6:56:46  点击:  切换到繁體中文


    老幽鬼出現

(こうここへ俺が気絶してたおれれば、あそこでの出来事を、再現したことになる)
 彼はしばらく寝たままで動かなかった。二十一歳とはいっても、前髪は立てており、それに、氏素姓よく、坊ちゃんとして生長おいたって来た頼母は、顔も姿も初々ういういしくて、女の子のようであり、それが、雲一片ない空から、溢れるように降り注いでいる月光に照らされ、寝ている様子は、無類の美貌と相俟あいまって、なまめかしくさえ見えた。
 と、例の、キリキリという音が、植え込みの方から聞こえて来た。頼母は飛び起きて、音の来る方を睨んだ。昨夜は、雑木林の中から、剣鬼のような男が現われて来たが、今夜は、植え込みの中から、何が現われて来るのだろう? 頼母は、もう刀の柄を握りしめた。おお何んたる奇怪な物象もののかたちが現われて来たことであろう! いざり車が、耳の下まで白髪を垂らした老人を乗せ――老人が自分でいで、忽然と、植え込みの前へ、出て来たではないか! やがて、植え込みの陰影かげから脱け、躄り車は、月光の中へ進み出た。月光ひかりの中へ出て、いよいよ白く見える老人の白髪は、そこへ雪が積もっているかのようであり、洋犬のように長い顔も、白く紙のようであった。顔の一所ひとところに黒い斑点しみが出来ていた。窪んだ眼窩であった。その奥で、炭火おきのように輝いているのは、熱を持った眼であった。老人の体は、これ以上痩せられないというように、痩せていた。枯れ木で人の形を作り、その上へ衣裳を着せたといったら、その姿を、形容することが出来るだろう。左右の手が、二本の棒を持ち、胸と顔との間を、上下に伸縮のびちぢみし、そのつど老人の上半身が、ったりかがんだりした。二本の棒をかいにして、地上を、海のように漕いで、いざり車を、進ませてくるのであった。長方形の箱の左右に附いている、四つの車は、のろく、月光の波を分け、キリキリという音を立てて、廻っていた。と、車は急に止まり、老人の眼が、頼母へ据えられた。
「おお来たか!」
 咽喉のどで押し殺したような声であった。極度の怒りと、恐怖おそれとで、しわがふるえている声でもあった。そう叫んだ老人は、棒を手から放すと、片手を肩の上へ上げ、肩の上へ、背後うしろからはみ出していた刀の柄へかけた。刀を背負しょっていたのである。それが引き抜かれた時、月光が、一時に刀身へ吸い寄せられたかのように、どぎつく光った。刀は青眼に構えられた。
「来たか、来栖勘兵衛! 来るだろうと思っていた! が、この有賀又兵衛、躄者いざりにこそなったれ、やみやみとまだおのれには討たれぬぞ! それに俺の周囲まわりには、いつも警護の者が附いている。今夜もこの屋敷には、六人の腕利きが宿直とのいしている筈だ。勘兵衛、これ、汝に逢ったら、云おう云おうと思っていたのだが、野中の道了での斬り合い、俺は今に怨みに思っておるぞ! 事実をい、俺に濡れぎぬを着せたあげく、俺の股へ斬り付け、躄者になる原因を作ったな。おのれ勘兵衛、もう一度野中の道了で立ち合い、雌雄を決しようと、長い長い間、機会の来るのを待っていたのだ! さあここに野中の道了がある、立ち合おう、刀を抜け!」それから屋敷の方を振り返ったが、「しおりよ、栞よ、勘兵衛が来たぞよ、用心おし、栞よ!」
 と悲痛に叫んだ。
 老人はそう叫びながら、やがて、片手で棒を握り、それで漕いで、躄者車くるまを前へ進め、片手で刀を頭上に振りかぶり、頼母の方へ寄せて来た。頼母は、唖然あぜんとした。しかし、唖然とした中にも、自分が人違いされているということは解った。それで、刀の柄へ手をかけたまま、背後うしろへジリジリと下がり、
「ご老人、人違いでござる。拙者は来栖勘兵衛などという者ではござらぬ。拙者は、伊東頼母と申し、今朝より、ご当家にご厄介になりおる者でござる」と云い云い、つい刀を抜いてしまった。

    娘の悲哀

 すると、その時、屋敷の雨戸の間に、女の姿が現われ、こっちを見たが、急に、悲鳴のような声を上げると、駈け寄って来、
「お父様、何をなさいます。そのお方は、お父様を警護のため、今日、おうちへお泊まりくださいました、伊東頼母様と仰せになる、旅のお武家様ではございませんか。おお、お父様お父様、正気づかれてくださいまし!」
 と叫び、老人の刀持つ手に取り縋った。栞であった。しかし老人は、
「娘か、用心おし! 来栖勘兵衛が、わしを殺しに来たぞよ! そこに勘兵衛がいる!」
 と叫び、尚、車を進めようと、片手の棒で、地上を漕ごうとするのであった。
「いえいえお父様、あのお方は来栖勘兵衛ではございません。よくご覧なさいまし、お年が違います。勘兵衛より、ずっとお若うございます」
 こう云われて老人は、はじめて気づいたように、つくづくと頼母を見たが、
「なるほどのう、年が違う、前髪立ちじゃ。勘兵衛はわしより一つ年上だった筈じゃ。勘兵衛ではない」
 落胆したように、また、安心したように、老人は、急に首を垂れ、振り上げていた刀を下げると、弱々しく、子供のように、栞へもたれかかった。赤い布のかかった艶々つやつやしい髪の下、栞の肩へ、老人の白髪しらが頭が載っている。白芙蓉のような栞の顔が、頬が、老人の頬へ附いている。秩父絹に、花模様を染め出した衣裳の袖から、細々と白い栞の手が延びて、老人の肩へかかっているのは、車の上の老人を、抱介だきかかえているからであった。いつか老人の手から、刀も棒も放され、刀は、車の前の、枯れ草の上に落ちた。何んと老人は眠っているではないか。刀を構え、この様子を眺めていた頼母は、危険はないと思ったか、刀を鞘に納め、二人の方へ寄って行ったが、
「栞殿、そのご老人は?」と、探るように訊いた。
「父でございます」――栞の声は泣いている。
「ご尊父? では、薪左衛門殿で?」
 栞は黙って頷いた。
「それに致しても、ご尊父には、ご自身を、有賀又兵衛じゃと仰せられたが?」
「父は乱心いたしおるのでございます」
「ははあ」頼母はやっと胸に落ちたような気がした。狂人きちがいででもなければ、深夜に、いざり車などに乗り、刀を背負い、現われで、自分を来栖勘兵衛などと見誤り、ガムシャラに斬ってなどかかる筈はない。(俺は、狂人を相手にしていたのか)頼母は、鼻白むような思いがしたが、
「ご乱心とはお気の毒な。していつ頃から?」
「五年前の、ちょうど今日、府中の火祭りの日でございましたが、松戸の五郎蔵と申す、博徒のかしらが参り、父と、密談いたしおりましたが、突然父が、『おのれ、来栖勘兵衛、執念深くもまだ、この有賀又兵衛を、裏切り者といおるか!』と叫びましたが、その時以来……」
 栞は、片袖を眼にあてて泣いた。
 屋根ばかりに月光を受けて、水のような色を見せ、窓も雨戸も、一様に黒く、廃屋のように見えている屋敷は、不幸な人々を見守るかのように、庭をへだてて立っていた。
(有賀又兵衛、来栖勘兵衛?)と、頼母は、考え込んだ。頼母は、有賀又兵衛、来栖勘兵衛という、伝説的にさえなっている、二人の人物の噂を、亡き父から聞かされていた。
「浪人組の頭での、傑物であった。わしの家などへも、徒党をひきいてやって来て、金などを無心したものじゃ。五味左衛門の屋敷などへも再三出かけて行って、無心したらしい。又兵衛の方は、わけても人物で、仁義なども心得ており、大義名分などにも明らかで、王道を尊び、覇道を憎む議論などを、堂々と述べて、男らしいところを見せたので、ついわしなど、進んで金を出してやったものじゃ」と、父は語った。
 しかし、その勘兵衛や又兵衛は、亡父ちちの話によれば、とうの昔に――二十年も以前まえに、世間から姿を消してしまった筈であった。しかるに、薪左衛門殿が、その有賀又兵衛だという。(何故だろう?)しかし、頼母は、すぐ苦笑した。(相手は狂人きちがいなのだ、狂人の云うことなどに、何故も不思議もあるものか)
「栞殿」と、頼母は、塚の方をチラリと見たが、「お訊きいたしたいは、ここに作られてあります古塚、どうやらこれは野中の道了の……」
 云われて栞も、眼にあてていた袖の隙から、塚の方を眺めたが、
「は、はい」
「野中の道了の塚を、お屋敷の庭へ作られるとは、何か仔細が……」

    道了塚の秘密は

 栞の泣き声は高くなり、しばらくは物を云わなかった。ふとりざかりの、十七の娘にしては、痩せぎすに過ぎる栞の肩は、泣き声につれて、小刻みに顫えるのであった。
「それもこれも……」と、栞は、やがて、途切れ途切れに云った。「父の心を……正体ない父の心を……少しなりとも慰めてやりたさに……才覚しまして……わたくしが……」
 顔から袖をとり、塚の頂きの碑を眺めた。南無妙法蓮華経という、七字だけが黒く、その周囲の碑の面は、依然、月の光で、鉛色にほのめいて見えていた。
「父は」と、栞は、またも途切れ途切れに云った。「妾、物心つきました頃から、一里の道を、毎日のように、野中の道了様まで参りまして、塚の周囲を廻っては、物思いに耽りましたが……乱心しましてからは、それが一層烈しくなり、日に幾度となく……それですのに、父は躄者いざりになりましてございます」
 嗚咽おえつの声はまた高くなった。娘は、父親を抱き締めたらしい。白髪の頭が、肩から外れて、栞の胸にもたれている。
「父には以前から、股に刀傷がございましたが、弱り目に祟り目とでも申しましょうか、乱心しますと一緒に、悪化わるくなり、とうとう躄者いざりに……」
 草に落ちている抜き身は、氷のように光っている。庭のそちこちに咲いている桜は、微風に散っている。
「躄者になりましても、道了様へは行かねばならぬと……そこは正気でない父、子供のように申してきませぬ。躄車くるまなどに乗せてやりましては、世間への見場悪く、……いっそ、道了様を屋敷内へお遷座うつししたらと……庭師に云い付け、同じ形を作らせましたところ、虚妄うつろごころの父、それを同じ道了様と思い、このように躄車に乗り、朝晩にその周囲まわりを廻り……」
 悲しそうに、また栞は、眠りこけている父親を見やるのであった。
 身につまされて聞いていた頼母は、いつか、栞の前へ腰を下ろし、腕を組んだ。
 急に栞は、怒りの声で云った。
「父を脅かす者は、松戸の五郎蔵なのでございます。父はわたくしに申しました。『五郎蔵が殺しに来る。彼奴きゃつには大勢の乾児こぶんがあるが、わしには乾児など一人もない。味方が欲しい、旅のお侍様などが訪ねて参ったら、泊め置け』と。……」
(そうだったのか)と頼母は思った。(不思議に厚遇されると思ったが、さては、いつの間にか俺は、この屋敷の主人の、警護方にされていたのか)しかし事情が事情だったので、怒りも、笑いも出来なかった。
 更けて行く夜は、次第に寒くなって来た。老人をいつまでも捨てておくことは出来なかった。二人は、躄車くるまを押して、屋敷の方へ行くことにし、頼母は、まず、草に捨ててある刀を拾い取り、老人の背の鞘へ差してやった。それから躄車を押しにかかった。
勿体もったいのうございます」
 栞が周章あわてて止めた。手が触れ合った。
「あっ」
 栞の声が情熱をもって響いた。
「ああ」
 思春期の処女おとめというものは、男性おとこのわずかな行動によって、衝動を受けるものであり、そうしてその処女が、愛と良識とに恵まれている者であったら、衝動を受けた瞬間、相手の男性の善悪を、直観的に識別みわけ、その瞬間に、将来を托すべき良人おっとを――恋人を、認識みとめるものである。狂人の、孤独の父親に仕え、化物ばけもの屋敷のようなすたれた屋敷に住み、荒らくれた浪人者ばかりに接していた、無垢むく純情の栞が、今宵はじめて、名玉のように美しく清い、若い武士と、不幸な一家のことについて語り合ったあげく、偶然手を触れ合ったのであった。その一触が、彼女の魂を、根底から揺り動かし、「叫び」となって、彼女の口から出たのは、無理だとは云えまい。頼母は、栞の叫び声に驚いて、栞を見詰めた。栞の眼に涙が溢れていた。しかしその涙は、さっき、父親や、自分の家の不幸のために泣いた涙とは違い、歓喜と希望と愛情とに充ちた涙であった。栞の頬は夜眼にもしるく赤味していた。頼母は、何が栞をそうまで感動させたのか解らなかった。手と手と触れ合ったことなど、彼は、気がつかなかったほどである。それほど彼は無邪気なのであった。しかし、栞の感動が、自分を愛してのそれであるということは直覚された。このことが今度は彼を感動させた。
(この娘がわしを!)
 その娘は、自分にとっては命の恩人と云えた。この娘の介抱がなかったら、自分は今朝死んでいたかもしれない!
(この娘がわしを!)
 頼母の心へ感謝の念が、新たに強く湧き、それと一緒に、愛情がヒタヒタと寄せて来るのを覚えた。
 立ち尽くし、見詰め合っている二人の頭上には、練り絹に包まれたようなおぼろの月がかかってい、その下辺したべを、帰雁かえるかり一連ひとつらが通っていた。花吹雪が、二人の身を巡った。
「勘兵衛!」と、不意に老人が叫んだ。「天国あまくにの剣を奪ったのもおのれの筈じゃ! それをこの身に!」
(天国?)と、頼母は、ヒヤリとし、恍惚の境いから醒めた。
(この老人も、天国のことを云う!)
 父、忠右衛門が、横死をとげ、自分が復讐の旅へ出るようになったのも、元はといえば、天国の剣の有無の議論からであった。頼母は、天国の名を聞くごとに、ヒヤリとするのであった。
(紙帳から出て来て、俺に体あたりをくれた武士も、天国のことを云ったが、薪左衛門殿も、天国のことを……)
 頼母は、薪左衛門を見た。薪左衛門は眠っていた。眠ったままの言葉だったのである。

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