古屋敷の古浪人
乳母が雇って来た駕籠に乗り、頼母が、娘の家へ行ったのは、それから間もなくのことで、娘の家は、府中から一里ほど離れたところにあった。鋲打ちの門や土塀などに囲まれた、それは広大い屋敷であったが、いかにも古く、住人も少ないかして、森閑としていた。頼母は、古びた衝立ての置いてある玄関から、奥へ通された。
さて、この日が暮れ、夜が更けた時、屋敷の一間から、話し声が聞こえて来た。
畳も古く、襖も古く、広いが取り柄の客間に、一基の燭台が置いてあったが、その灯の下で、四人の武士が、酒を飲み飲み、雑談しているのであった。
「我輩は、ここへ逗留して三日になるが、主人薪左衛門殿の姿を見たことがない。気がかりともいえれば不都合ともいえるな」と云ったのは、頬に刀傷のある、三十五、六の、片岡という武士で、片手を枕にして、寝そべっていた。
「不都合とはどういう訳か」と、怪訝そうに訊いたのは、それと向かい合って、片膝を立て、盃をチビチビ嘗めていた、山口という三十年輩の武士で、「只で泊めて貰い、朝酒、昼酒、晩酌まで振る舞われて、まだ不平なのか」
「そうではない。縁も由縁もない我らを、このように歓待してくれながら、主人が顔を出さぬのは不都合……いや、解せぬというのじゃ」
「それは貴公、世間の噂を知らぬからじゃ」
と云ったのは、膝の前にある皿の肴を、なお未練らしくせせっていた、五十五、六の、頬髯を生やした、望月角右衛門という武士で、「世間の噂によれば、薪左衛門殿は、ここ数年来、誰にも逢わぬということじゃ」
すると、二十五、六の、南京豆のような顔をした、小林紋太郎という武士が、「それは何故でございましょうかな? ご病気なので? それとも……」
「解らぬ」と、角右衛門が云った。「解らぬのじゃ。さよう、病気だとの噂もあれば、いつも不在じゃという噂もある」
「いよいよ変じゃ」と云ったのは、片岡という武士で、「そういう薪左衛門殿が、見ず知らずの浪人でも、訪ねて行きさえすれば、泊めてくれ、ご馳走をしてくれるとは……」
「よいではないか」と、角右衛門が、抑えるような手つきをし、
「主人がどうあろうと、我らにとっては関わぬことじゃ。泊めてくれて、ご馳走してくれて、出立の際には草鞋銭までくれる。いやもう行き届いた待遇。それをただ我らは、受けておればよい。我らにとっては大旦那よ。主人の秘密など、剖かぬこと剖かぬこと」
「そうともそうとも」と合い槌を打ったのは、山口という武士で、「その日その日を食いつなぐだけでも大わらわの我ら、他人の秘密事など、どうでもよかよか。いや全くこの頃の世間、世智辛くなったぞ。百姓や町人めら、なかなか我らの威嚇や弁口に、乗らぬようになったからのう」
「以前はよかった」と感慨深く云ったのは、例の望月角右衛門という武士で、「百姓も町人も、今ほど浪人慣れていず、威嚇などにも乗りやすく、よく金を出してくれたものよ。それに第一、浪人の気組が違っていた。今の田舎稼ぎの浪人など、自分の方からビクビクし、怖々強請りかけているが、以前の浪人とくると、抜き身の槍や薙刀を立て、十人十五人と塊まって、豪農だの、郷士だのの屋敷へ押しかけて行き、多額の金子を、申し受けたものよ」
義兄弟の噂
しばらく話が途絶えた。春とはいっても、夜は小寒かった。各自に出されてある火桶に、炭火は充分にいけられていたが、広い部屋は、それだけでは暖まらないのであろう。
と、横手の襖が開いて、老僕がはいって来、新しい酒を置き無言で立ち去った。浪人たちは、ちょっと居住居を直したが、老僕の姿が消えると、また横になったり、胡坐を掻いたりした。一番年の若い武士が、燗徳利を取ると、仲間の盃へ、次々と注いだ。燭台の皿へ、丁字が立ったらしく、燈火が暗くなった。それを一人が、箸を返して除去った。明るくなった燈に照らされ、床の間に置いてある矢筒の矢羽根が、雪のように白く見えた。
「その時代には、ずば抜けた豪傑もいたものよ」と、角右衛門が、やがて回顧の想いに堪えないかのような声で、しみじみと話し出した。「もっとも、これは噂で聞いただけで、わしは逢ったことはないのだが、来栖勘兵衛、有賀又兵衛という二人でな、義兄弟であったそうな。この者どもとなると、十人十五人は愚か、三十人五十人と隊を組み、槍、薙刀どころか、火縄に点火した鳥銃をさえ携え、豪農富商屋敷へ、白昼推参し、二日でも三日でも居坐り、千両箱の一つぐらいを、必ず持ち去ったものだそうじゃ。ところが、不思議なことには、この二人、甲州の大尽、鴨屋方に推参し、三戸前の土蔵を破り、甲州小判大判取り雑ぜ、数万両、他に、刀剣、名画等を幾何ともなく強奪したのを最後に、世の中から姿を消してしまったそうじゃ」
「召し捕られたので?」
「それが解らぬのじゃ」
この時、庭の方から、轍でも軋るような、キリキリという音が、深夜の静寂に皹でも入れるかのように聞こえて来た。武士たちは顔を見合わせた。この者どもは、永の浪人で、仕官の道はなく、生活の法に困じたあげく、田舎の百姓や博徒の間を巡り歩き、強請や、賭場防ぎをして、生活をしている輩であったが、得体の知れない、この深夜の軋り音には気味が悪いと見え、呼吸を呑んで、ひっそりとなった。軋り音は、左の方へ、徐々に移って行くようであった。不意に角右衛門が立ち上がった。つづいて三人の武士が立ち上がり、揃って廊下へ出、雨戸を開けた。四人の眼へはいったものは、月夜の庭で、まばらの植え込みと、その彼方の土塀とが、人々の眼を遮った。しかし、軋り音の主の姿は見えず、ずっと左手奥に、はみ出して作られてある部屋の向こう側から、音ばかりが聞こえて来た。でも、それも、次第に奥の方へ移って行き、やがて消え、吹いて来た風に、植え込みに雑じって咲いている桜が、一斉に散り、横撲りに、四人の顔へ降りかかった。四人の者は、そっと吐息をし、府中の町が、一里の彼方、打ち開けた田畑の末に、黒く横仆っているのを、漠然と眺めやった。町外れの丘の一所が、火事かのように赤らんでいる。
「そうそう」と角右衛門が云った。「今日から府中は火祭りだったのう。あの火がそうじゃ」
「向こう七日間は祭礼つづき、町はさぞ賑わうことであろう」――これは片岡という武士であった。
「府中の火祭り賭場は有名、関東の親分衆が、駒箱を乾児衆に担がせ、いくらともなく出張って来、掛け小屋で大きな勝負をやる筈。拙者、明日は早々ここを立って、府中へ参るつもりじゃ」これは山口という武士であった。
「わたくしも明日は府中へ参ります所存。この頃中不漁で、生物にもありつかず、やるせのうござれば、親分衆に取り持って貰って……」
と、紋太郎が云った。生物というのは女のことらしい。
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