さながら人魚
お紅の心は乱れていた。思い乱れているのである。今日一日の出来事が、夢かのように思われてならない。
――秀次公の使者として、不破小四郎がやって来たこと、聚楽第へやるまいと北畠一家が、最初はげしく争ったこと、とうとう聚楽第へ連れて来られて、眼を奪うような華やかさと、胆を冷すに足るような、荒淫な夜遊にぶつかったこと、秀次が自分を抱えたこと、それに対して抗ったこと、でもズルズルと引きずられたこと、その時懐刀の落ちたこと……最後に気絶をしたことなど……
「ここはどういう部屋なのであろう?」
お紅は四辺を見廻して見た。
いつか老婆は立ち去ったと見えて部屋には誰もいなかった。
「まるで異国へでも来たようだよ」
見る物が驚きの種であった。
「正気づいた時にはこの部屋にいた。変なお婆さんが何か云った。一言も妾には解らなかった」
お紅は空腹を感じて来た。人が気絶から醒めた時には、空腹を感じるものである。
「妾に下された食物なのであろう。では妾は遠慮なく食べよう」
で、お紅は手を延ばして、順々に食物を食べて行った。
「ああ妾は咽喉が乾いた。水注の水を飲むことにしよう」
で、咽喉を潤おした。
しかしお紅は知らなかった。それらの食物や水の中に、愛慾をそそる××質が――麝香とか、芫花とか、禹余糧とか陽起石とか、狗背とか、馬兜鈴とか、漏蘆などというそういう××質が、雑ぜられてあるということを。
ただお紅は飲食をしたため、にわかに体が活々となり、元気づいて来たということと、恍惚とした甘い気持が、心に湧いたということを、感ずることが出来たまでであった。
「体が汗にぬれている。妾は風呂へ入ることにしよう」
で、お紅は立ち上ったが、念のために部屋の中を見廻してみた。
が、誰も見ていない。
で、そろそろと帯を解いて。一枚々々衣装を脱ぐ、花の蕾が萼から花弁と、――一枚々々、一枚々々と――だんだんほぐれて行くようである。
と、雌蕊が現われた。処女の肉体が一糸も纏わず、白く艶々とむき出されたのである。
余りに清浄であるがために、たとえ誰かが見ていたとしても、何らの邪心さえ起こさなかったであろう。そんなにもお紅の裸体の姿は、清らかで美しいものであった。そうしてお紅のその裸身が、呂宋織りの垂布を左右にひらいて、浴槽の部屋へ消えた後には、脱ぎ捨られた紅紫の衣装が、散った花のように残されていた。
そうしてその頃にはお紅の裸身は、浴槽の中に埋もれていた。例えることが許されるなら、浴槽の中の緑色の湯は、紺碧をなした潮であり、それに埋もれている裸体のお紅は、若い美しい人魚でもあろうか?
まさしく人魚に相違なかった。乳房から上を、潮から乗り出し、肩の上へ黒髪を懸けいている。快く閉ざした眼の瞼の、上気して薄紅く艶めかしいことは! ポッカリと唇を無心にあけて、前歯の一部分を現わしている。それがやはり艶かしい。
と、お紅は立ち上ったが、浴槽を出ると蹣跚くように、香水管の下まで行って、起立したまま静まった。裸体から滴がしたたり落ちる。裸体を香水の霧が蔽う。斑のない大理石の彫像を、繭から出たばかりの生絹が、眼にも入らない細さをもって、十重に二十重に引っ包み、暈しているのではあるまいかと、そんなようにも見え做される。
だがお紅は知らなかった。浴槽の緑の湯の中に、熏陸、烏薬、水銀郎等の、××質が入れてあったことを。
そうしてさらに知らなかった。管から吹き出している香水の中に、馬牙硝、大腹子、杜仲などの、同じく××的香料が、まぜられてあったということを。
いつまでもお紅は陶然として、香水の霧に巻かれている。
しかしそれから体を拭って、垂布をくぐって前房へ出て、そうしていぜんとして一糸も纏わず、バタビヤ織りの垂布をひらいて、寝部屋の中へよろめき込み、寝台へ体を横仆えて、桃色の薄布を一枚だけ懸けて、ウトウトと眠りに入った頃から、身内の血潮が騒ぎ立ち、…………、…………、追っかけ追っかけ上ぼって行くのを、堪えることが出来なかった。
漁色の動物
「ああ妾はどうしたんだろう? こんな気持になったことは、それこそ産れて初めてだよ」
薄衣の下で身もだえをした。桃色の薄衣が裸休に準じて、蠱惑的の襞を作っている。胸の辺りが果物のように、両個ムッチリ盛り上っていたが、乳房がその下にあるからであった。下腹部の辺りが円錐形に円く、その上を蔽うている薄衣の面が、ピンと張り切って弛みのないのは、食物を充分に食べたがために、事実お腹が弾力をもって、張り切っているがためであろう。延ばされた左右の脚の間が、少し開らけていると見える。そこへ掛けられた薄衣の面が、深い窪味をこしらえている。薄衣は咽喉までかかっていたが、その薄衣から抽たところの、顔の表情というものは、形容しがたく艶麗であった。と、その顔を抑えようとしてか、薄衣の縁から両腕を延ばし、肘から湾のように丸く曲げたが、直ぐに掌で顔を抑えた。と、脇下の可愛らしい窪味が、きわだって黒く見て取れた。
烈しく喘いでいるらしい。胸から胴から下腹部から、延ばされた二本の脚の方へ、蜒のようなものが伝わって行く。のた打っている爬虫類さながらである。
そういうお紅を載せているところの、天鵞※[#「糸+戊」、513-下-12]張りの異国風の寝椅子は、先刻から絶間のないリズムをもって、上へ下へと揺れている。
お紅の心へ萌したものは、異性恋しさの心持であった。
その異性の対象は、最初は北畠秋安であった。
「妾…………! 妾を…………!」
で、若々しい健康らしい、秋安の肉体を描いてみた。
「妾はあのお方と約束をした。行末夫婦になりましょうと。……おいで下され! おいで下され! そうして妾を愛撫して下され!」
次第に心が恍惚として来る。全身が鞣めされ麻痺されて来る。処女心が失われようとする。
「ああ妾には誰でもいい」
不健全で好色で惨忍な、秀次の顔が浮かんで来た。
と、秀次に…………甦って来た。ちっとも穢わしく思われない。ちっとも厭らしく思われない。今は全く反対であった。…………希っていた。
だがその次に浮かんで来たのは、不破小四郎の姿であった。
「今直ぐ妾へ来て下さるなら、……………!」
美しくはあったが上品ではなかった。――そういう不破小四郎の顔が、お紅には上品に見えさえした。
「ああ妾はあの人にだって…………!」
寝台がリズミカルに揺れている。
お紅の全身は汗ばんで来た。呼吸が…………。薄衣の下の肉体が…………。
で、この寝部屋の寝台の上に、…………裸形の女は、決してお紅ではないのであった。単なる漁色的の動物であった。つつましい清浄なお紅という処女は、ほんの少し前に消えたのである。
しかし漁色の動物は、お紅一人ではないのであった。
あの近東の回教国の、密房に則って作ったところの、この奇形な建物の内には、同じような部屋が幾個かあって、その部屋々々には漁色狂の女が、無数に籠められて居るらしい。その証拠には四方八方から、極めて遠々しくはあったけれど、…………を柱へでも投げつけるらしい、物の音などが聞こえてきた。
みだらな唄声なども聞こえてくる。
だがお紅には聞こえなかった。
掻きむしられるような…………が、身心をメラメラと焼き立てる。その…………を消し止めようと、お紅は夢中で争っている。
しかし絶対に勝ち難かった。次第々々に負けて来た。とうとうお紅は打ちのめされた。
「妾は…………! 最初に来た人へ!」
桃色の薄衣を退けようとする。そうしてお紅は立ち上ろうとした。そうしてお紅は叫ぼうとした。
「お婆さんお婆さん出して下さい! そうでなかったら連れて来て下さい!」
で、お紅は泣き出した。
で、もし誰か異性の一人が、ここの寝部屋へ入り込んだならば、お紅は…………。…………を失うであろう。
そうして今やそういう異性が、奇形な建物の出入口の前へ、ひそかに姿を現わした。
他ならぬ不破小四郎であった。
出入口の前に扉がある。内部が厳重にとざされている。その前に立った小四郎は、四辺を憚ったひそやかな声で、
「姥はいるか、四塚の姥は!」
こう呼びかけて聞き耳を立てた。
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