一年後の花園の森
こうして一年の日が経った。
その間に起こった事件といえば、聚楽第の主人の秀次が、高野山で自害をしたことであろう。
木村常陸介をはじめとして、家臣妻妾が死んだことであろう。
石川五右衛門が四條河原で、釜茄にされたことであろう。
で、春が巡って来た。花園の森には松の花が咲き、桜の花が散り出した。そうして、麦の畑では、鶉[#「鶉」は底本では「鵜」]がヒヒ啼きを立てはじめた。
そういう花園の森の中に、三人の男女が坐っていた。香具師姿の男女である。一人はその名を梶右衛門と云って、六十を過ごした老人であり、一人はその名を梶太郎と云って、その老人の子であった。二十三歳の若者である。そうしてもう一人は萩野であった。香具師姿の萩野であった。
「若い者同志は若い者同志、話をするのが面白かろう。どれどれ俺は見廻って来よう。……奴らあんまり騒ぎ過ぎるて」
森の奥に大勢の仲間がいて、陽気にはしゃいでいると見えて賑かな喋舌り声が聞こえていたが、梶右衛門親方は腰をあげると、元気よくそっちへ歩いて行った。
で、軟かい草を敷いて、ここの境地へ残ったのは、梶太郎と萩野と二人だけであった。
昼の日が森へ差し込んでいる。その日に照らされた梶太郎の顔は、流浪の人種の若者などとは、どんなことをしても思われないほどに、上品でもあれば純情でもあった。しかし種族は争われないで、情熱的なところがあった。
じっと萩野を見守っている。烈しい恋の感情が、眼にも口にも漂っている。
梶太郎は事実燃えるがようにも、萩野を恋しているのであった。そうして幾度か打ち明けもした。しかし萩野はそれに対して、ハッキリした返事をしなかった。と云って萩野は衷心において、梶太郎を嫌っていないばかりか、仄かながらも愛していた。とは云えそれよりも一層烈しく、萩野は秋安に恋していた。未練を残していたのである。そうして過ぐる日その本心を、とうとう梶太郎の耳へ入れた。どんなに梶太郎の失望したことか! これが普通の香具師の、兇暴な若者であったならば、自暴自棄の感情の下に、萩野に対して暴力を揮うか、ないしは秋安を殺そうとして、付け狙って姦策を巡らしたであろう。しかし梶太郎は、反対であった。自分の恋を抑え付けて、萩野を故郷へ送り届けて、秋安の手へ渡そうとした。ちょうどその頃香具師の群は、丹波の亀山に居たところから、そこを引き払って一年ぶりに、この京の地へ来たのである。
この花園の森の近くに、秋安の邸はあるのだという。そうして日が暮れて夜が来た時、萩野は香具師の群から別れて、秋安の邸へ行くのだという。――では二人での話し合いは、今が最後と見做さなければならない。
どんなに梶太郎の心持が、暗くて寂しくて悲しいか、云い現わすことさえ出来なかった。
しかし萩野の心持も、同じように寂しく悲しかった。一年前の月の夜に、この森で首をくくろうとして、野宿をしていた梶右衛門のために、あぶないところを助けられて以来、香具師の群の中へ投じて、諸々方々を流浪したが、その間にどれほど梶太郎のために、愛されいたわられ大事がられたことか。云い尽くせないものがあった。その人と別れなければならないのである。同じように寂しく悲しかった。
二人はいつ迄も動かない。
ところで萩野の心の中には、さらに別の不安があった。
「秋安様には薄情な妾を、お許しなすって下さるかしら?――そうしていまだにこの妾を、昔どおりに愛して下さるかしら?」――と云うのが萩野の不安なのであった。
しかるに萩野のそういう不安は、全然別途の趣の下に、以外に解決が付けられることになった。
ああ二組の幸福の夫婦
数人の男女の話し声が、森の一方から聞こえてきたが、次第にこっちへ近寄って来て、間もなく姿を現わした。一人は北畠秋安で引き添うようにして美しい婦人が、――それは他ならぬお紅であったが、侍女を従えて歩いて来た。二人はどう見ても夫婦であった。そうして事実夫婦なのであった。その証拠さえそこにある、侍女が嬰兒を大切そうに、胸の辺りに抱いている。
話しながらゆるゆると歩いて来る。
「今年も松の花が咲くようになった。思い出の多い松の花だ。この森にも思い出が多い。……あれからあの女はどうしたことやら」
感慨にたえないというように、秋安はしめやかに呟いたが、
「どこぞで幸福にくらして居ればよいが」
「萩野様のことでございますか?」
こうお紅は訊き返したが、
「もうどうやら貴郎様には、怨みも憎しみもなくなられたようで」
「今では幸福をいのるばかりだ。……これもお前のお蔭なのだよ」
「まあまあ何故でござりましょう?」
「お前が俺と一緒になって、俺を幸福にしてくれたからだ」
「もう愛しても居りませぬので?」
「愛するものはお前ばかりだ」
「いいえ、そうしてこの秋秀も」
こう云ってお紅は笑ましそうに、嬰兒の方へ顔を向けた。
「可愛い坊や、可愛い坊や……妾は幸福でござりますよ」
「自分で幸福でいる時には、他人の幸福も願うものだよ。……萩野が幸福であるように」
「可愛らしい香具師さんが居りますのね」
こう云ってお紅が足を止めたので、秋安もふと足を止めた。
そうして萩野へ眼をやったが、萩野はその前から、深く俯向いていたがために、秋安には顔が見られなかった。そうして姿は香具師風である。萩野であることが何で判ろう。で、ゆるゆると行き過ぎた。
が、お紅は気安そうに、二人の香具師の前まで行った。
「お怒りなすっては困ります。私達は幸福なのでございます。どうぞ貴郎方ご夫婦にも、祝っていただきたいと存じます。粗末な物ではござりますが、私達の志でござります。お受け取りなすって下さいまし」
云い云いお紅は簪を抜いたが、萩野の前へそっと出した。
「はい、有難う存じます」
顔を上げた萩野の眼の中に、あふれる涙が光っていた。
「お美しい貴郎様のお志、いつ迄も忘れはいたしませぬ。……幸福におくらし遊ばすよう、おいのり致すでござりましょう」
「貴郎方ご夫婦もお幸福に……」
施しを快く受けられたので、お紅は喜悦を感じたらしい。ちょっと会釈すると身をひるがえして、行き過ぎた秋安の後を追って灌木の裾を向こうへ廻った。
と、じいいっとその後を、萩野は涙の眼で見送ったが、突然梶太郎の膝の上へ、しっかりと、顔を押しあてた。
「ねえ行きましょうよ、遠い他国へ、流浪しましょうよ、二人で一緒に!」
そうして烈しく咽び泣いた。
「…………」
茫然とした若者の梶太郎には、何故そうもにわかに萩野の心が、一変したかが解らなかった。それは実際解らなかったが、一緒に流浪をしようという、萩野の心は嬉しかった。嬉しい以上に有難かった。
「萩野さん、私はお礼を云うよ。ああ行こう、一緒に行こう。……そうしてお前さんは私のものだ」
「貴郎のものでございますとも! ただ今の若い美しいお方も、祝福をして下さいました。……私達二人を! 夫婦と見做して!」
「私の妻だ!」と抱きかかえた。その梶太郎に抱かれたままで、萩野はうっとりと呟いた。
「あの人達は京都に住む! 賑やかな明るい派手やかな京都に! そうしてそこでお暮らしになる。幸福に、幸福に、幸福に! ……でも私達は林や野や、小さい駅や宿で住む! でもちっとも違いはない。幸福にさえ暮らそうとしたら……きっと幸福にくらすことが出来る!」
「わしは今でも幸福だよ、たった今私は幸福になった。……しかし、お前には、秋安というお方が……」
「何にも有仰って下さいますな。……もう逢ったのでございます。……逢ったも同じなのでございます……」
拭くに由無い満眼の涙! 萩野の眼頭から流れ出たが、頬を伝わって頤まで来た。昔の恋を思い断って、新しい恋に生きようとする、悲しみと喜びの涙なのである。
花園の森は昼の日に明るく、草木と人とを照らしている。その中で桜花が蒸されている。
が、間もなく森の中から、十数人の香具師達が、流浪の人に特有の、軽快な自由な足どりで、笑いさざめきながら現われた。
近江をさして行くらしい。
その先頭に歩いて行くのは、新婿新妻を想わせるところの、梶太郎とそうして萩野であった。
肩と肩とを寄せ合って、つつましやかに歩いて行く。
野には陽炎、小鳥の声々! そうして行手にあるものは、新しい恋と生活とである。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「米+屑」 |
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484-下-13 |
「糸+戊」 |
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510-下-23、513-下-12、515-下-18 |
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