六
「大金を持っているだろうに、こんな夜道を女一人で、この押詰った師走空を、恐れ気もなく歩くとは、とても度胸は太いものだ。いよいよ並の阿魔ッ子じゃァねえな」
ますます不審が強まって来た。
車坂の方へ歩いて行く。で岡八も、つけて行く。
養善寺のそばから道が別れる。左へ行けば鶯谷、右へ行けば阪本である。
何んと女は昼も物凄い鶯谷の方へ行くではないか、
「こいつはどうも大胆だなあ。こうなると俺も考えなけりゃならねえ」
足をとめたのは、さすがの岡八も、薄っ気味が悪くなったのだろう。
女はズンズンあるいて行く。直と藪蔭に消えてしまった。
「いけねえ、つけよう、どんなことをしても、たかが女だ、大事はあるまい……」
で直に追っかけた。
藪が左右を蔽うている。大木が空を遮っている。昼も薄暗い場所である。今は真の闇で、星さえ見えない。女の足音が遠くでする。
藪の底まで来た時であった。岡八、何かに躓いた。
たじろいた所[#「たじろいた所」はママ]を人間の手が、グイと首根ッ子を抑えつけた。
ギョッとはしたがそこは岡引、スルリと抜けると前へ飛んだ。
「どいつだ」と叫んだものである。
もちろん姿は見えなかった。しかし商売柄感覚でわかる、たしかに五、六人の男がいる。じっと、こちらを狙っている。
「とうとう
こいつえらいことになったぞ」懐中へ手をやるとスルリと十手、引出して頭上へ振上げた――来やがれ、ミッシリ、くらわせてやるから! こう決心をしたのである。
「オイ若いの」しばらくの後だ、闇の中から声がした。「じたばたするな、ついて来い! 悪い所へ連れては行かない。途法もねえいい所へ連れて行く。眼の眩むようないい所へな!」
濁った不快な声である。
岡八返事をしなかった。出で入る気息をじっと調べ、飛び込んで来るのを待っていた。
「来るな」と思った一刹那、果して一人飛びかかって来た。ガンと一つ! 狂いはない! 手練の十手だ、
眉間を撲った。
「むっ」といううめき! 倒れる音! 後はシーンと静かである。
岡八ソロリと位置を変えた。
「鳥渡手強い」とつぶやく声、闇の中から聞えて来た。例の濁った不快の声だ。
と又一人飛び込んで来た。
全く同じ手、ガンと一つ! 岡八、相手の眉間を撲った。
「むっ」といううめき! これも同じだ、ぶっ倒れる音! これも同じだ。「二匹どうやら片づけた
[#「片づけた」は底本では「片ずけた」]らしい」岡八心で呟いた。「幾匹でも来い、退治てやる」
そこでソロリと位置を変えた。
しばらくの間は静かである。
ボソボソと話す声がした。
「何か相談をしているな、一体幾匹いるんだろう?」
じいいッと闇をすかして見た。まだ三、四人はいるらしい。
矢張り感覚、こいつでわかる、その三四人が左右から、どうやら一度にかかるらしい。背後は大藪逃げることは出来ない。いかな岡八でも一人に三、四人、これでは勝目はなさそうであった。
「困ったな、仕方がねえ、勿体ねえが名乗ってやろう」
そこで
叱したものである。
「やい、手前達、途法もねえ馬鹿だ! 俺を誰だと思っている! 皆川町の岡八だぞ!」
果然
[#「果然」は底本では「果燃」]こいつは効果があった。
「えッ」という声が先ず聞え「しまった!」という声がすぐ聞えた。
「お逃げよ!」と続いて女の声がした。
と、バタバタと足音がして、後はシーンだ、静かなものだ。
「よし」というと岡引の岡八、ピタリと地面へ腹這いになった。「根岸の方へ逃げやがった。ふふん」というとヒョイと立った。「いよいよこれで見当がついた」
ジメジメと肌が汗ばんでいる。カッカッと頭が燃えている。胸の動悸も相当高い。
「闇討ちだったから驚いたのさ。……闇討をするものは岡引だと、昔から相場が決まっているのに、今夜はそいつが逆だったからなあ。……さあて、これからどうしたものだ?
まんが悪いからひっ返すかな? そうして死絵を調べるとするか? ……だがどうもこれじゃァひっ込みがつかねえ。構うものか。行く所まで行こう」
根岸の方へ下ったが、忽ち大難にひっかかってしまった。
七
今日の上根岸、百十八番にあたるあたり、その頃は空地で家などはなかった。
ところが一軒だけ屋敷があった。
黒板塀、忍び返し、昔はさぞかしと思われるような寮構えだが大きな屋敷だ。無住で手入れが届かないと見え、随分あちこち破損している、植込などは荒れている。屋敷の周囲には雑草が生え冬だから狐色に枯れている。うっかり歩くと足にからむ。三尺も
もっとも丈延びている。
これが名高いお縫様屋敷だ。
そこへやって来た男がある。他ならぬ岡引の岡八だ。
星空の下に佇んで、見上げ見下ろしたものである。
それから忍びやかに動き廻った。
岡引の探偵法、今も昔も大差ない。塀へ横ッ面をおっ付けたのは、家内の様子を窺ったのである。地面を克明に探がしたのは、人が歩いたか歩かなかったか、そいつを調べたに相違ない。三度ばかり屋敷をグルグルと廻わった。忍び込む口を目付けたのだろう。
屋敷へ背を向けてヒョイとかがんだ。はてな? 何をする気だろう? 一ツポツリ赤いものが見えた。何ん点だ、つまらない、たばこの火だ。
「界隈の奴等は馬鹿揃いだなあ。何んのこいつが無住なものか、人間二十人も住んでいらあ」岡八呟いたものである。「全く御時世は、なげかわしいよ。こんな大変な悪党どもが、こんなにも一所に集まって、大それたことをしているのに、盲目同様気がつかないんだからなあ」二服目のたばこをふかし出した。「そうはいっても俺だって、トンチキでないとはいわれないよ。今日まで気づかずにいたのだからなあ」
「さてこれからどうしたものだ」たばこを喫い切ると考え込んだ。「用心堅固に構えているなら、かえって安々忍び込めるのだが、彼奴等まるで不用心だ。すっかり世間を甞め切っていやがる。それだけにちょっと物凄いよ」
ポンともう一度煙管を抜き出し、またたばこをすい出した。
「一人で十二人は
あげられねえなあ」岡八またも考え込んだ、「帰って若いのをつれて来るかな?」煙管が地面へ落ちたのさえ、気づかない程に考え込んだ。「とはいえ一応中味も見ずに、食らいつくことも出来ないからなあ。……矢っ張り
[#「矢っ張り」は底本では「失っ張り」]思い切って忍び込んでやれ。……だが俺は先刻名乗ったんだからなあ。彼奴等用心をしているかもしれねえ。……とそこまで取越苦労をしたら仕事なんか出来ねえということになる。……というものの薄ッ気味が悪い! 普通の悪党じゃァないんだからなあ。……などといっていると夜が明ける。……かまうものか、忍び込んでやれ!」
塀にピッタリ体をつけさっと捕縄を忍び返しにかけて
[#「かけて」は底本では「かけた」]スルスルスルスルとよじ上った。と、もう姿が見えなくなった。岡八、屋敷へ忍び込んだのである。
その翌日のことである。
「兄貴家かえ」とやって来たのは、他ならぬ岡引の半九郎であった。
「昨日出たきり帰らないよ」
こういったのは岡八の女房、鳥渡仇めいた女である。
「兄貴としちゃァ珍しいね」
「私も心配しているのさ」
「で、矢っぱりご用でかい?」
「半九郎の奴に鼻あかせてやる、こういいながら出て行ったよ」
すると半九郎笑い出してしまった。
「アッハハハこいつァ面白え。少し兄貴も若
耄碌をしたな」
「なぜさ?」とお
吉――岡八の女房――怒ったようにきき返した。
「ナーニこっちの話でさ。……あそれじゃあ姐御、また来やしょう」
往来へ飛出したが吹出してしまった。
「あの物語りの謎解きをしようと、探ぐりに出たとはどうかしているよ。岡八の兄貴もヤキが廻ったなあ。そんな年でもない癖に」
その翌日のことである、またも半九郎尋ねて来た。
「姐御、兄貴はお家かね?」
「それがさ、半さん、どうしたんだろう、いまだに帰って来ないんだよ」
お吉の顔に憂色がある。
「へえ」といったが半九郎も、眉の間へ皺を寄せた。
「おかしいなあ、何んてえことだ」
「こんなこと
めったにないんだがねえ」
お吉いよいよ心配そうである。
「そうだ実際お上のご用で、遠ッ走りをする時の外は、決して泊って来ねえのが、岡八兄貴のいい所でしたね。……ふうむ、こいつァ変梃
[#「変梃」は底本では「変挺」]だぞ」腕をこまぬいたものである。